朝の
俺が最前列の端の席に腰を下ろした途端、後ろから江島が身を乗り出すように声を掛けてくる
「なあ、なあっ、石崎。ほんとに水白さんとは付き合って無いのかよ?」
周囲に聞かれまいと潜められた声だったが、その奥には隠しきれない興奮が滲んでいた。
俺は半ば呆れながら、うんざりした気持ちを隠しもせずに答える。
「付き合ってないってば。幼馴染ってだけだよ」
高校生活が始まって三日目の朝。しかしこの遣り取りは、三度目なんてものじゃないほど繰り返された流れだった。
江島だけじゃない、クラスの男子女子みんながこぞって俺に同じ質問を寄越してくる。
理由は単純だ。彼女と俺が同じ村の出身で、しかも毎朝一緒に登校してくるからである。
たった三日で、水白碧依という少女はクラス中の……いや、学年中の視線を集める存在になっていた。
一年C組に、とびきりの美少女がいるらしい。
そんな噂を聞きつけた他クラスの男子たちは、朝や休み時間になるたび教室の前を通りがかり、何気ない顔で中を覗いていく。
その目的が碧依であることは、誰の目にも明らかだった。
そして、その視線は否応なく俺にも向けられる。
あの水白さんと同じ村出身の幼馴染で、毎朝一緒に登校してくる男がいる、と。
「いいなぁ〜、あんな美少女と幼馴染とか、もはや罰当たりだろ」
「そんなんで罰を当てられてたまるか」
「しかも住んでるマンションまで一緒なんて、俺、許せねえよ。モテない者同士、気心知れた仲間だと思ったのにさあ」
「なんだよその不名誉すぎる仲間。……モテないのは事実だけどさあ」
俺と碧依が同じ部屋に住んでいると言うことは、まだ誰にも明かしていなかった。
二人で口裏を合わせて、同じマンションの隣の部屋同士ということにしたのだ。
理由らしい理由は無い。ただ何となく、余計な詮索を呼びすぎる気がした。それだけだ。
それでもクラス中の男子が俺を羨んだ。碧依みたいな美少女と隣部屋なんて、噂話をされるには格好の的だ。
万が一本当のことが知れたら、教室中がひっくり返るだろう。
「じゃあ、水白さんも付き合ってる人はいないんだよな?」
「
さも俺には恋人がいなくて当たり前みたいなセリフに引っかかりを覚えるが、事実なので文句は言えない。
俺の答えを聞いた江島は腕を前に組むと、大袈裟に眉をひそめては低い声を出した。
「まじかぁ。……石崎、これは戦争になるぞ。全男子が水白さんを狙う、間違いない」
「……そんなに夢中になるほどかねぇ」
そう言いながも、内心では江島に同意する。
あいつは本当に美人だ。しかも妙に距離感が近いところがあるせいで、誰に対しても"ワンチャンありそう"と思わせてしまう危うさがある。
村に居た時だって、表立っては誰も言わないが、誰もが碧依に夢中であるのは明らかだったんだ。
……村に居た時は、まだ安心できた。
誰よりも碧依のことを理解して、誰よりも碧依の近くにいたのが俺だったから。
でも、村よりずっと人が多いこの街に出てきた今。
俺なんかより格好いい奴も、話の上手い奴もいくらでもいる。
もし碧依が、そういう誰かに惹かれてしまったら。
そんな想像が頭をよぎるだけで、俺の心ははち切れそうな痛みと苦しみに襲われるのだ。
「やっぱ、チャンスがあるとしたら部活だよな。でも俺は野球部だからなぁ、マネージャーに来てくれないかなぁ」
「ああ、江島はやっぱ野球部志望なんだ」
「おう、幼稚園の頃からクラブにも入ってるんだ」
スポーツ刈りの頭に浅黒く焼けた肌。やたら気さくで明るい感じまで含めて、江島はいかにも野球部らしい雰囲気の男子だった。
そして残念だが、碧依はマネージャーという柄では無い。
大人しそうに見えて、碧依は意外と自ら前線に立ちたがるタイプだ。
「自己紹介の時にも言ってたろ、碧依は水泳部に入るよ。昔から泳ぎは得意だからな」
「ぬわぁ〜! 水泳部の奴ら、ズルすぎる! 水白さんの水着姿を拝み放題かよ」
その言葉に、俺の胸の奥がざわついた。
彼女は無防備なところがあるから、きっと男子たちにイヤらしい視線を向けられても気づきやしないだろう。
……俺だけに、見せてくれればいいのにな。
「で、石崎は? ガタイもいいし、やっぱ運動部だろ?」
「いや、俺は文化系のトコに入るよ。今日は料理部の見学に行くつもり」
「ええ!? 料理? どう見てもそんな繊細な感じには見えないけど」
「つくづく失礼だな、おい。こう見えて料理だけは得意なんだよ」
大柄な俺には似合わないとは自分でも思うが、事情があってあまり激しすぎる運動はできないのだ。
かといって絵を描いたり机に向かったりも不得意なので、部活の選択肢はあまり多くなかった。
今日は各部活動が新入部員を勧誘するために、放課後の時間で見学や体験を行う予定らしかった。
料理部もその中にあるから、一人で覗きに行くつもりだ。入部も半ば決めている。
碧依も水泳部を見に行くと聞いていた。なんなら彼女は今日から入部するつもりらしい。
だから、今日の帰りはそれぞれ別々だ。
もう立派な年齢だというのに、下校中に彼女が隣にいないと言うだけで心細くなりそうな自分に少し情けなくなる。
俺は内心の寂しさを誤魔化すように、江島へ話を続けた。
「きっと、水泳部の人たちはびっくりするぞ。碧依の泳ぎは次元が違うからな」
「はへぇ〜、じゃあ俺も見学に行ってみたり……ああいや、冗談冗談」
俺の冷ややかな目線に江島が苦笑いで応える。野球部の入部希望者は今日から練習があるって自分で言ってただろ。
それでも江島は後ろ髪を引かれるような様子で、水泳部への羨みを零し続けていた。
「いらっしゃーい。……わぁ、キミ、おっきいね」
「……お邪魔します」
放課後、家庭科室で俺を迎えたのは身長の高い垂れ目の女性だった。
首元に飾られた青色のリボンは、彼女が二年生であることを示している。
俺は小さく会釈をしつつも、少しだけ己の選択を後悔していた。
料理部の見学に訪れたその部屋の中には、女性しかいなかったのだ。
三年生が二人に、二年生が三人。顧問の先生が一人。
それが、俺が入ろうとする部活の人数構成だった。予想以上に少なくて少し驚く。
女性だらけのふんわりした雰囲気の中で、たった一人のゴツい男が俺だった。
心なしか、部屋の中にも女性特有の甘い匂いが漂っているような気がする。
思わず身体を縮こませている俺を、出迎えてくれた女子生徒が案内してくれた。
「うちは男子が全然来てくれなくてね、去年卒業した先輩が最後の男子だったんだぁ〜」
「そ、そうなんですね。……その、俺って邪魔だったりしないですか?」
「まさか! 男の子もいてくれた方が作り甲斐があるし、むしろ大歓迎だよ〜」
俺以外の見学者も全員が女子生徒だった。というか俺含めて三人しかいない。
料理部なんて女子の手料理を味わえる最高の環境だというのに、男は誰も来ていなかった。
なんとなく、碧依に釣られて水泳部を見に行った奴らが多いんだろうな、と悟った。
大きなテーブルに案内されて、俺たち一年生が席に着く。
俺たちが並んで座ると、向かいに先輩たちが並んで立った。
そして順番に自己紹介をしてくれる。最後に、俺を出迎えた先輩が喋った。
「
ふわりと笑ったその先輩に、俺は予想外にも、一瞬だけ言葉を失ってしまった。
青いリボンの揺れる制服の上から、白いエプロンを柔らかく纏っている。
緩く波打つ栗色の髪に縁取られた顔立ちは穏やかで、細く垂れた眉と優しげな瞳が、春の日溜まりみたいな空気を作っていた。
すっと通った小ぶりな鼻梁に、よく笑う柔らかな口元。卵形の輪郭はどこか幼さも残しているのに、不思議と包み込むような大人びた色気がある。
萌黄柚鈴という先輩は、柔らかな包容力をそのまま纏ったようなお姉さんだった。
その笑顔は、初対面のはずなのに不思議と気を許してしまう安心感がある。
俺が碧依以外の女性に見惚れてしまったのは、生まれて初めての事だった。
彼女は新入生たちをくるりと見渡すと、優しい笑みを浮かべたまま告げた。
「今日は見学なので、みんなで料理しているところを見てもらおうと思います。もちろん、試食もあるよ」
どうやら料理にはまだ参加させてもらえないらしい。刃物や火を扱うし、正式に加入してないのに参加するのは確かに微妙か。
思えば、母親以外の女性が料理する姿を直接見るのはあまり無かった経験だ。
碧依は料理はからっきしだからな……。せっかくだから勉強させてもらおう。
俺は女性だらけの教室に若干の居心地の悪さを感じつつも、先輩たちがワイワイと料理するのを眺めながら、時折振られる話に混ざったりして見学を楽しんだ。
先輩たちが作ってくれたのは、デミグラスオムライスだった。
深い味わいと優しい甘さが同居する、俺には作れなかった味。美味しくてつい食べ過ぎてしまった。
幸い先輩方は俺の食いっぷりを喜んでくれたし、作り方もだいたい学べた。
見学の時点からこれ以上なく大満足だ。やっぱり来てよかった。
「はい、これ。みんなへのお土産ね。わたしの手作りで申し訳ないけど……」
「いえ、嬉しいです! ありがとうございます。……おお、クッキーだ」
「実はわたし、焼き菓子が一番得意なんだ。よければ感想聞かせてね」
萌黄先輩が俺たち新入生に小さな紙袋を手渡していく。中には可愛らしいクッキーがいくつも入っていた。
持ち手には細いリボンまで飾られていて、先輩の几帳面で細やかな性格が伺える。
日も落ちてきたし、そろそろ終わりの時間だ。片付けの手伝いを申し出たが、気を遣わなくていいと断られてしまった。
そして、先輩たちが並んで俺たちを見渡す。名残惜しそうに別れの挨拶を交わしてくれた。
「それじゃ、今日は本当にありがとうね! もし入部してくれる気になったら、入部届を担任の先生に渡してくれると嬉しいな」
たしか、入部の届出は今週末までが締め切りだったはずだ。まだ余裕はあるし、他の部活も見学したりしてじっくり考えられる。
でも俺は、すでに入部の決意を固めていた。きっと、ここ以外あり得ない。
俺は感謝と尊敬の念を込めて、先輩たちを見つめて伝えた。
「俺、入部します。料理はすごく美味しかったし、勉強になりました。
次は俺の方からも、料理でお返ししたいです」
「ほんとっ!? やった!」
萌黄先輩がぴょこんと跳ねて喜び、他の先輩たちも嬉しそうにはしゃぎ出した。
部屋中に広がる歓迎のムード。なんだか照れくさくて、俺もはにかんでしまう。
興奮した様子の萌黄先輩が近づいてきて、ぱしっと俺の両肩に手を置いて言った。
「よろしくねっ! イサくん!」
「は、はい。よろしくお願いします、萌黄先輩」
「柚鈴でいいよ。……えへへ、先輩って呼ばれるの、憧れてたんだ」
「じゃ、じゃあ……柚鈴先輩。よろしくです……」
イサくんというのは、見学中に勝手に決められた俺の渾名だ。
そんな呼ばれ方をするのは初めてだが、何故かもうすごく馴染んでしまっている気がする。
そして今俺は、急にやたらと距離の近くなった柚鈴先輩に身体を固くしていた。
栗色の髪や長い睫毛の一本一本が分かるほどの距離。なんだかフワリと漂ってくる甘い香り。
控えめに言ってもすごく可愛らしい顔つきの先輩に、どんな反応を返すべきか分からない。
三年生の部長が呆れたように声を掛けた。
「ほら柚鈴、イサくんも困ってるよ。離してあげなさい」
「あっ! ご、ごめんね。つい嬉しくて」
「ああいや、全然平気です。こんなに歓迎してもらえて、俺も嬉しいです」
早速とばかりに入部届を渡される。担任じゃなくて顧問の先生に渡してもいいらしい。
俺はそれに書き込みながら、これからの活動予定や部の決まりごと一つずつ聞いていく。
不思議と、居心地のいい部屋だった。
料理の熱がまだ残っているせいか、それとも先輩たちの穏やかな笑顔のせいか。
そこにいるだけで、心までじんわりと温められていくような気がした。
気づけば、他の新入生の姿はもう無かった。どうやら彼女たちはまだ悩むことにしたらしい。
俺だけ先に入部の意志を示してしまったせいで、気まずい思いをさせていなければいいんだけど。
諸々の手続きや説明を受け終えた頃、手早く片付けを済ませた先輩たちも集まってきた。
「じゃあ、改めて。……イサくん、料理部へようこそ! これからよろしくね!」
「はい、よろしくお願いします。頑張ります」
パチパチと弾んだ拍手が向けられる。みんなすごく嬉しそうで、俺までなんだか胸が熱い。
ここでたくさん修行して、きっと料理の名手になるぞ。
そして——そして、そうだ。
碧依の胃袋をガッチリ掴んで、碧依の笑顔をもっと見たい。
どこまで行っても、俺の行動原理はやっぱり碧依が全てらしい。
これほど女性に囲まれていたって、俺の脳裏にはいつも彼女の姿があった。
先輩方から手を振って見送られた後、俺は校舎を出て夕闇の外へ足を踏み出した。
片手には土産に貰ったクッキーの袋。胸の内には温かな余韻と強い意気込み。
だけど、一人で歩き始めた途端、何だか急に寂しさが湧き上がってきた。
……そうか。俺、一人で帰るの初めてだ。
この街に越して来てから、家や学校の外ではいつだって隣に碧依がいた。
おいおい、子供じゃあるまいし、と自分で自分に呆れてしまうが、心に嘘はつけない。
自然と歩みは遅くなった。校門を出るまでの道すら長く感じる。
碧依は先に帰ったのかな。それともまだ水泳部の見学中?
確かめたいけど方法が無い……と考えたところで、ようやくスマホの存在を思い出した。
村に居た頃は使った事がなかったから、スマホを使う発想に至らなかった。
ポケットから取り出せば、暗い夜道にピコンと画面が浮かぶ。
「ええと、連絡アプリはっと……」
使い慣れない画面の操作に四苦八苦しつつ、碧依の連絡先を見つけたその時だった。
たったったったっ、と駆ける足音。俺の正面、校門のあたりから一つの影が寄ってくる。
それはあっという間に俺の目の前まで辿り着くと、安心したようなため息を漏らした。
「……やっと来た。遅かったね」
「え、碧依? ……もしかして、待ってたのか?」
「…………だって、暗いし」
つい、と目を逸らしつつ答える彼女。校舎前の暗い道ばたで向かい合う俺たち。
じわり、と胸が熱く高鳴るのを自覚した。間違いない、待っててくれたんだ。
だけど何だか照れくさくて、俺はつい彼女を揶揄ってしまう。
「何だよ、夜道が怖いのか? 碧依もけっこうお子ちゃまだなぁ」
「ち、違うよ! 勇雄が迷子になるかもしれないと思っただけ!」
「ええ!? いやいや、方向音痴は碧依の方だろ」
「うるさいっ、いいから帰ろ! お腹も空いた」
暗くて彼女の表情はよく見えない。だけど、俺なら声色だけでもなんとなく分かる。
どうやら碧依は、本当に安心しているようだった。ほんの少しだけ声が震えている。
俺の中に、言語化できない不思議な嬉しさが込み上げた。今すぐ小躍りでもしたい気分だ。
示し合わせたように自然に並んで歩き出す。俺が右で碧依が左。いつもの並び。
俺の心を覆っていたはずの寂しさや心細さは、とっくに跡形もなく消え去っていた。
俺の居場所は、ずっと