「おは〜、随分眠そうね」
「おはよ……ふわぁ」
朝の
あまりの眠気に欠伸を漏らした碧依へ、一人の女子が話しかけてきた。
特徴的な茶色のショートヘアを揺らしながら、不敵な笑みを浮かべて碧依へ問いかけてきた。
「石崎くんも眠そうだよね……もしかして、昨日の夜は彼とエッチでもしてた?」
「ッ!? なッ! ちがッ!」
「あっはは、冗談冗談。真っ赤になっちゃって、可愛いねぇ」
「……っ! っ!」
恥ずかしさと怒りで声も出せずに目で抗議する。他の人に聞こえたらどうするつもりだ。
香奈美は反省する素振りも見せずに話を続けた。
「それにしても、昨日の体験じゃあ大活躍だったね。先輩たちのあんぐり顔、面白かったなぁ」
「……泳ぎだけは、昔から得意だから」
「それに男子たちはすっかり碧依に見惚れちゃって。うち、色々と自信無くすなぁ」
「そ、それは泳ぎを見てただけでしょ。香奈美も上手だったじゃん」
入学初日から仲良くなった香奈美は、碧依にとっては初めてできるタイプの友人だった。
自分にしっかり軸があって、言いにくいこともすっぱり言える強気な女の子。
自己開示が苦手な碧依にとっては、ちょっと強引に歩み寄ってくれる香奈美の態度はむしろ有り難かった。
香奈美は口元を少しだけ悪そうな笑みに歪めた。
「違うね、男たちはみんな碧依に夢中だったよ。……特におっぱいばっかり見てた」
「……それはちょっと、そんな気はしてたけど……全然、嬉しくない」
最初こそ久しぶりの水中が楽しくて爽快だったが、プールサイドにあがったあたりで男子の目線に気がついた。
碧依が顔を向けた瞬間にサッと逸らされるが、誰もが明らかに胸元を見てきている。
少し不快だった。途中からはあまり集中出来なかったくらいだ。
男女揃って群がってくる先輩方に押し切られてその場で入部届も出してしまったが、少しだけ早まったかもしれないという思いもある。
——勇雄に見られるのは、嬉しいのに。
たぶん向こうはバレていないと思っているだろうが、普段から勇雄の視線がちょこちょこ胸に向けられているのにはしっかりと気づいていた。
特に風呂上がりは顕著だ。彼が何か作業していても、碧依が近くをうろつくときは必ず手が止まっている。
それがちょっと楽しくて、最近はわざと彼から見える位置に座ったりもしていた。
同じ視線でも、彼と他とでこんなに違うものなんだ。
碧依は、興味の無い異性から向けられる性的な視線が気分の良いもので無いという事を、昨日初めて思い知ったのである。
今さら入部をやめますなんて言えないし、勇雄も応援してくれてるし、香奈美だって友達になれたばかり。
でも、もう一度あの中に水着姿で向かうのには、少しだけ抵抗感があった。
悩む碧依へ、香奈美が突拍子もないことを言い出す。
「ところで、告白はしないの?」
「へ……? え!?」
「好きなんでしょ? 石崎くんのこと。碧依は美人だし、押せばいけると思うけど」
「へっ、う、なんで、いやちがっ、……っ! っ!」
「わあ、さっきより真っ赤っか」
なんで!? 何にも言ってないのに!
香奈美はさぞ楽しそうに碧依を追い込み続けてくる。
「見過ぎね、石崎くんのこと。授業中はずっと見てるでしょ」
「!!」
そ、そうだろうか。確かに暇なときは彼の背中を眺めたりするけど……。
そういえば、昨日は先生の授業を聞いていなくて、急に当てられた時に困ったりしたっけ。
それで、呆れ顔の香奈美がこっそり助けてくれたのだ。
周囲にもバレバレだったらしい事実にようやく気がついて、碧依はもう人に顔も見せられないほど恥ずかしかった。
思わず机に突っ伏して、腕で口元を隠す。視線だけを上げて香奈美へ抗議した。
「ちょ、ちょっとしか見てないもん」
「あれでちょっとと主張するなら、この世の大抵のことはちょっとで済むね」
「…………」
「うちを睨んだって彼は応えてくれないよ?」
くすくすと楽しそうに揶揄い続けてくる香奈美。
そして、聞き捨てならない事実を碧依へと突きつけてくる。
「石崎くんは料理部に入ったんだってね。あんな立派な体格なのに家庭的な部活だから、意外すぎるって今朝はちょっと噂になってたよ」
「え。勇雄が? 噂?」
「うん。顔も悪くないし、落ち着いた雰囲気と家庭的なギャップにそのうちコロッといっちゃう女子もいるかもしれないね?」
「そんなの……」
否定は出来なかった。村に居た頃も勇雄はみんなから慕われていた。
常に自分が隣に居たからか積極的に言い寄る女の子こそいなかったが、後輩の中に勇雄を好いている子がいるのも知っていた。
どうやら都会の高校でも、彼は女性にそこそこモテるらしい。
「それに料理部は今のとこ他に女子しかいないし。入学早々にハーレムなんて、隅に置けない男だね〜」
「う〜……」
「あ、拗ねちゃった。ごめんごめん、たぶん大丈夫よ」
大丈夫ってなに。そんな保証はどこにも無いもん。
昨日だって、あんなに嬉しそうに見学の話をして、立派なお土産まで貰ってきてた。
……それに、可愛い人はいたのって質問にも、答えてくれなかった。
勇雄のあの顔は、図星を突かれた時の顔だ。絶対いた、間違いない。
それで昨日は寝られなかったのだ。勇雄が自分の隣から居なくなるかもしれない不安でいっぱいだった。
今もなおぐちゃぐちゃな気持ちで、朝からずっと気分が重く沈んでいる。
「うーん、思ったより重症かも。これは面白くなってきたね」
「……他人事みたいに言って、ひどい」
「まあまあ、ここからはうちに任せなって。こんなに楽しい色恋沙汰、手伝わない理由が無いでしょ?」
「……楽しんでるじゃん」
「いいでしょ、うちが助けてあげるんだから。依頼料と思ってよ」
それなら安いかも。香奈美はいかにも街育ちの恋愛強者って感じだ。
勇雄との関係が思った以上に薄い氷の上にあると分かった今、碧依は藁にも縋りたいほどの気持ちだった。
「じゃあまずは石崎くんの好みを知るところからだね。なんか知ってることはある?」
聞かれて初めて気付いた。
勇雄の好みの女性像を、碧依は何一つとして知らない。
彼と恋愛絡みの話をしたことなど、ただの一度もなかったからだ。
きっと無意識に、避けてきたんだ。望まぬ現実を知るのが怖かったから。
碧依は力無く首を振って応えた。香奈美は呆れたように小さく溜息を吐く。
「……先は長そうだね」
「急いで。お願い」
「もう、他力本願なんて感心しないよ?」
「自分で聞くのは恥ずかしいもん」
「子供かっ」
そこで先生が教室に入ってきた。一限の時間だ。
香奈美は手を振って自席へ戻って行った。
教室の前、一番奥の方を見やる。見慣れた広い背中。
まだ誰のものでも無いはずの彼の背中は、ゆったりと前後に揺れていた。
……あ、居眠りしてる。
後ろの席の男子が彼をつついて、驚いたように跳ね起きた。
そういえば勇雄も今日は眠そうだったな。少しだけ目元に隈もできていた。
今朝は不安に覆われていて考えが及ばなかったが、何で彼まで寝不足なんだろう。
——もしかして、勇雄も私の事を考えていた、とか……?
それは予想ではなくただの願望に過ぎないと自覚しつつ、碧依はぼんやりと授業を過ごした。
■
俺は絶えず襲い来る眠気を堪えて、どうにか午後の授業まで乗り越えた。
放課後になって、同じく眠そうな碧依の元へと歩み寄る。
今日は料理部の活動がないから、先に帰ることを伝えておくためだ。
ついでに夕飯のリクエストも聞いておこう。
「おーい、碧依。……大丈夫か?」
「ん……? あ、勇雄」
「随分眠そうだな。水泳部は今日から活動あるんだろ? 水の中で寝ちゃうんじゃないか」
「寝るわけない……けど、今日は部活はやめとく」
「え? 初っ端から休んだりして平気なのか?」
「いい。……香奈美、伝言頼んでもいい?」
碧依は近くにいた女子生徒へそう伝えた。
ええっと、柴崎さん、だっけ?
吊り目と茶髪が特徴的な、ショートヘアの女の子だ。
柴崎さんは意味深な笑みを浮かべて俺たちを見ていた。
そして軽く弾んだ声で碧依に答える。
「おっけー。昨日の体験で疲れたみたいって皐月先生に伝えとく。
……碧依をよろしくね、石崎くん?」
「お、おう……」
何故かその"よろしく"には、他の意味合いも込められているような印象を受けた。
まあ何にせよ、碧依と一緒に帰れるなら俺にとっては好都合だ。
ポヤポヤと眠たげな様子の碧依を連れ立って、教室を出る。
去り際に、随分と楽しそうな柴崎さんの声が届いてきた。
「なんか碧依が寝ちゃいそうだから、手でも繋いであげて〜!」
「え、えぇ?」
「いや、寝なっ! いいから行こ! 香奈美は揶揄ってるだけ!」
眠気も吹っ飛んだらしい碧依が、ズンズンと先に進んでしまう。
俺もその背中を慌てて追いかけつつ、彼女の珍しい慌て姿を楽しんでいた。
どういうつもりか知らないが、柴崎さん、ナイスパス!
つーか碧依のやつ、手を繋ぐって言われただけで照れすぎだろ。
……あ、しまった。
ど、どうしよう。碧依にバレるのだけは何とか避けないと。
「……おーい! 碧依、俺忘れ物したから先に校門で待っててくれ!」
とりあえず江島の元へ行かなければ。
参ったな、こうなる事は全く予想していなかったぞ。
俺は頭を抱えながら、学校の廊下をUターンした。
しばらくして。碧依に追いついた俺は、彼女と一緒に校門を出た。
いつも通りに二人並んで歩く。やっぱり、碧依の隣にいる時が一番しっくり来る気がするな。
だけど、柴崎さんに掛けられた言葉のせいだろうか。少しだけ碧依の耳が赤い。
そんな様子を見た俺も、妙に彼女の腕と自分の腕の距離を意識してしまう。
手を繋ぐと考えただけでやたら恥ずかしくなってしまうのは、どうやら俺も同じだったらしい。
いつもと同じ二人の距離。いつもと違うどこかぎこちない雰囲気。
言葉少なな碧依と並んで、まだ明るい帰り道をゆっくりと歩いていた。
「あれ。それ、なに?」
「あぁっと……その、預かり物っていうか、借り物? 江島からの」
しばらく歩いた頃、気付いた様子で碧依が俺に問い掛けてきた。
彼女の歩く左側とは反対の手に、俺は一つの大きな紙袋をぶら下げていたのだ。
けっこう重いから、持ち手が指に食い込んで痛い。
……だけど、絶対に碧依のいる側の手には持ち替えたくなかった。
碧依は俺の荷物に気付いていない様子だったからこのまま家まで辿り着きたかったけど、流石にこの大きさじゃ気付かれてしまうか。
「? 何借りたの?」
「……漫画、かな」
「何の漫画?」
「ええと、男子に人気のやつらしい。江島にオススメされたんだ」
嘘は付いていない。が、本当の事とも言い切れなかった。
今日の昼休みに江島と交わした会話を思い出す。
『なあちょっと石崎。頼みがあるんだけど』
『お? なんだよ、碧依の紹介をして欲しいってのならお断りだぞ』
『違う違う、お前にしばらく預かってほしい物があるんだよ』
『預かる? 何を?』
一緒に昼飯を食っていた江島が、申し訳なさそうに、でもどこか悪そうな笑みも浮かべて俺にその話を持ち掛けてきた。
何故か小声で、ヒソヒソと秘密の話をするように。
『漫画だよ、二十冊くらい』
『いや多いな。なんで急に? 今日の話?』
『そう、今日。実は卒業した野球部の先輩が部室に隠してたやつなんだけど、今日の練習前に部室を大掃除する事になってさ。
コーチにバレたら大目玉を喰らうってんで引き取り手を探してて、だけど寮生活だったり実家暮らしの奴ばっかりで預かれる人間がいないんだよ』
それで俺に頼ってきたのか。確かに俺は一人暮らしってことになってるし、誰にもバレる心配は無い。
実際には碧依がいるけど、互いの自室には勝手に入らない約束だしな。
ん? でも、漫画って言ったよな。
『ふぅん。別に良いけど、寮でも実家でも漫画なら別に問題ないんじゃ?』
『おいおい、男同士の内緒話で漫画と言えば、エロ漫画に決まってるだろ?』
『え? 部室にエロ漫画隠してんのかよ。そりゃあバレたらヤバいわ』
『そうだろ? 寮では規則で禁止されてるし、実家の親にも見られたくない。だからお前が必要ってわけだ。高校生で一人暮らしなんて滅多にいないしな』
……なるほど。これは絶対に、碧依にはバレる訳にいかないな。
でも今日は水泳部の活動があるはずだから、こっそり持ち帰るのは問題なくいける。
あとは自室の奥に隠しておけば心配ないはずだ。
『事情はわかった。碧依とは別で帰るし、今日なら持ち帰れるよ』
『よしっ助かる! 放課後になったら渡すから、野球部の部室近くまで来てくれよ』
そして、江島はニヤリと笑った。
『もちろん、読んでいいぜ。お前も普段のオカズには困ってるだろ?』
『よ、余計なお世話だよ』
『じゃあ読まないのか?』
『…………読む』
『素直でよろしい。俺も二冊読んだけど、マジで良かったぜ。部室でしか読めないのが玉に瑕だったから、お前が羨ましいよ』
じゃあ頼んだわ、と気障な笑顔でグッとサムズアップを決めてくる江島。
男同士の秘密の共有に、俺も気障な笑みで返したのだった。
(さて、どう誤魔化したものか)
歩きながら頭をフル回転させる。
碧依が不思議そうな表情で俺を見上げていた。俺の態度に疑問を抱いているのは間違いない。
「私も読みたいな。いい?」
「あぁいや、碧依はたぶん好きじゃないよ」
「? どんなストーリーなの」
「それは俺も知らないけど、……そう、ホラー漫画なんだ。それもグロいやつ」
「え……じゃあいい、かも」
エロもある意味ホラーのうちって事で。グロいっていうのもある意味本当……でいいよな。
隠し事をするだけでも罪悪感があるから、できれば碧依に嘘はつきたくなかった。
まぁ、だいぶ無理があるのも自覚している。
「でも気になる。最初のページを見てみるだけならいいかな?」
「いや、表紙の時点でめっちゃ凄かったから、見ないほうがいいよ」
「……そんなに? 勇雄ってホラー好きだったっけ」
「いやぁ、そんなにだけど、江島がやたら勧めてくるからさ」
「ふぅん……」
タイトルとかを聞かれたらマズイ。表紙は見たって言っちゃったしな。
誤魔化しきれなくなる前に、俺は強引に話題を変えようとする。
「何だよ、考え込んで。あ、もしかして怖いのか? 柴崎さんの言った通り、手でも繋ぐか?」
「!? ……むぅ」
雑なからかいを受けた碧依は表情を一変させて、ムッとして俺を見る。
少しだけ膨らませた白いほっぺ、切れ長の瞳は少しだけ鋭く細められていた。
あまり見る機会のない不貞腐れ顔だが、こんな表情も可愛くて俺はつい笑ってしまう。
「ごめんごめん、冗談だって。碧依にも仲の良さそうな友達ができて安心したよ」
「……香奈美は優しいけど、たまに私を揶揄って遊ぶんだ」
「でもそのくらいの方が碧依も接しやすいだろ? お前は口下手だから気を遣われがちだしな」
「それは、そうだけど。……え、私、気を遣われてるの?」
「あぁ悪い意味じゃなくて、そのほら、可愛い子に話しかけるのは緊張するじゃん」
「…………」
あ……失言をカバーしようとして、遠回しに"お前は可愛い"って言ってしまった。
エロ漫画の件もあるせいで、うまく言葉が選べない。
気まずい沈黙が俺たちの間に落ちた。
横目で碧依を窺うと、彼女は少し俯いたまま歩いている。
夕焼けに染まり出した帰路に、妙な静寂だけが横たわっていた。
少しして、碧依がおずおずと顔を上げた。
「勇雄って、どういう女の子が好きなの」
「……え?」
「……やっぱり、料理ができる人?」
「い、いや、料理は自分でやる方が好きだし、関係ないかな……」
急に飛んできた斜め上からの質問に、困惑してしまう。
碧依と恋愛絡みの話をするのは、これがきっと初めてだった。
てっきり彼女は恋愛に一切興味がないとばかり思っていた。
それがまさか、俺の恋愛観に話を振ってくるだなんて。
俺は曖昧な返事しか返せなかったが、碧依は少しだけ安心したような溜息を漏らした。
きっと、気のせいじゃない。表情も僅かに明るくなった……気がする。
「あんまり好みのタイプとか考えた事なかったな。……何で急に?」
「……何となく。女の子ばっかりの部活に入ってるし」
「いやいや、料理部に入ったのは正真正銘、料理のためだよ」
「そっか。ハーレムを作りたいのかと思った」
「え!? そんな風に思われてたのかよ!」
もっと言うなら俺が料理を上達したいのは碧依のためだったが、そこまでは流石に言えない。
だけど、これはチャンスかもしれない。直接言う勇気はないけれど、碧依に俺を意識してもらう絶好の機会。
ほんの少しだけ、本音を曝け出す。
「まあ、強いて言うなら、俺の作った飯を美味そうに食ってくれる人かな」
「…………ふぅん」
まさしく碧依の事だ。だけど、彼女が気付いてくれたかは分からない。
夕暮れの街は、帰り道まで柔らかな茜色に染め上げている。
その静けさに身を委ねるように、俺たちは肩を並べて歩き続けた。
ふと横を見れば、彼女の頬や耳がほのかに赤く染まっている。
それが夕日のせいだけじゃない事を、密かに願った。