ざぱん、と音を立ててプールサイドに上がる。
荒い呼吸を整えながら立ち上がれば、女子マネージャーの先輩がタオルを渡してくれた。
「おつかれ、水白さん。すごいね、新記録だよ」
「はぁ、はぁ。……ありがとうございます」
「ずっと泳ぎっぱなしだし、一旦休もうか。ほら、こっち」
疲労で重たい身体を叱咤して、先輩の後に続く。
安っぽいベンチに腰掛けると、水筒が差し出された。
礼を言って口をつければ、冷えたスポーツドリンクが喉を潤してくれる。
近くでは先輩方が何やらはしゃいでいた。
どうやら碧依の出したタイムに感心しきりらしい。
マネージャーも改めて褒め言葉を渡してくれる。
「いやぁ〜、ほんとすごいよ! 期待の新人とは聞いていたけど、まさかここまでなんて」
「……ありがとうございます」
「集中力も相当だよね。私が声を掛けても気付かない事だってあったし。何かコツでもあるの?」
「えっと、その……」
答えに窮する。集中している自覚なんてこれっぽっちも無かったから。
だって私が考えていたのは、ずっと……。
他の女性先輩も話に入ってくる。
「ほらほら、あんまり質問責めしちゃ可哀想だよ。水白さんも、まだ入部したてなんだし無理はしなくて良いからね」
「……はい」
それを皮切りに女性先輩たちがどんどん碧依の元に寄って来て、あれこれと話しかけてくる。
だけど碧依は上手い返事が出来なくて、泳いでいる時以上に疲労が溜まっていくのを自覚した。
昔から、他人と話すのはあまり得意じゃ無かった。
会話が嫌いな訳じゃないけど、口下手なのはどうにも治せないのだ。
何の遠慮も気後れもなく話せるのは、家族を除けば、たった一人の相手だけ。
彼の声を思い出して、碧依は胸のどこかがキュッと苦しくなった。
「なぁ〜水白ちゃん。ちょっとでいいからさ、コツとか教えてくれね?」
「あ、お、俺もっ! どうやったらあんな綺麗にターンできんの?」
「コラッ! 良い加減にしなって。今は休憩中なんだから」
男子の先輩が話しかけて来たのを境に、他の男たちも積極的に碧依に近付いてこようとする。
それを追っ払ってくれるマネージャーの存在が、碧依にとっては何よりも有り難かった。
昔は、気にならなかった。そもそも気付いていなかった。
でも、今はもうはっきり分かる。
あの男子たちが本当に求めているのは、碧依のアドバイスなんかじゃない。
彼らの目を見れば一目瞭然だ。いつだってその視線には下品な欲望が覗いていて、影からこっそり碧依の胸や脚を眺めている。
(……なんか、プールサイドにいる方が疲れる)
黙って座っているだけでも、己に向けられる視線が途切れることはない。
監視すらされているような心地で、碧依はすっかり気疲れしてきていた。
すると、一人の女子が碧依の身体にタオルをかけて、ベンチのすぐ隣に腰掛けた。
同じクラスの、柴崎香奈美だ。彼女も選手志望で、いまプールから上がって来たらしい。
香奈美は優しげな声と共に、碧依の顔を覗き込んできた。
「……辛くない?」
「え?」
「あの男ども。碧依が大人しいからって好き放題に擦り寄ってきてさ」
「……ちょっと、嫌かも」
「困ったもんだよね。こっちは純粋に水泳を楽しみたいのに」
香奈美はこれみよがしに大きく溜息を吐いた。
何となく、わざと大袈裟にがっかりしてみせているんだと悟った。
碧依の気持ちに寄り添ってくれているのだ。
そんな香奈美の姿勢に少しだけ元気を取り戻して、碧依も努めて明るい声で返した。
「たぶん、仕方ないんだよね……? 男の子だし」
「だめだめ。甘やかしたらつけ上がって、どんどん酷くなっちゃうよ? そんなの怖いでしょ」
「うーん……。怖くは、ないかも」
言われてから気付いた。あの下卑た視線は確かに不快だが、かといって異性への恐怖心のようなものは一切感じた事などなかった。
別に襲われた訳じゃないから当然といえば当然だが、仮に強引に迫られたとしてもきっと怖いとは思わないだろう。
「あれ、そっか。碧依は箱入り娘っぽいし、てっきり怖がりなタイプかと思ってた」
「う、うーん……怖い映画とかは得意じゃないけど……なんでだろう」
今もギラギラした目つきで碧依を盗み見てくる男子たち。
確かに人によっては恐怖すら感じる異様な視線かもしれないが、碧依はやっぱりどうとも思わない。
嫌だなぁってだけ。何でだろう?
碧依は横目で男子たちを観察しながら、少しの間だけ考え込む。
そして、とある事実に気がついた。
「……あ、ちっちゃいからだ」
彼らの水着も、身体にぴっちり貼り付いた競泳水着だ。
だけどその股のあたりには、別に気にするほどの膨らみは存在しない。
……そう、勇雄のアレに比べれば。
きっと彼らが持つものなんて、何の脅威にも感じない。
「えっ。ちっちゃい? な、何が?」
「あ。……そ、その」
香奈美は碧依の口から出た言葉の意味を理解できずに聞き返してくる。
まさかな、とでも言いたげな表情で碧依を見る香奈美。
だが碧依の下手な誤魔化し方で、何を言わんとするか理解してしまったらしい。
「……う、うそ〜。碧依、ソコで判断してたの? き、厳しい事言うね」
「いやっちが!」
「えっ、ていうか比較対象は誰ッ!? お父さん!?」
「……っ! っ!」
ベンチの上で屈み込んで、ジタバタと暴れる碧依。耳にまで熱さを感じる。
香奈美が優しくしてくれたせいで油断したッ! 気が緩んで口を滑らせた。
——だって、今日は。
登校中も、着替え中も、ミーティングも準備運動もタイム計測も。
ずっとずっとずっと、頭の中は勇雄の事でいっぱいだったのだ。
碧依の脳裏にはっきりと焼きついた、彼の持つ恐ろしい凶器の、勃ち姿。
それがどうしても頭から離れなくて、必死に振り払おうと無我夢中で泳いだんだ。
「ちょっと、意外かも。碧依もそういうのに興味あるんだね……」
「な、無いよっ? たまたまそう思っただけっ」
「あっもしかして比較対象って、まさか石崎く……」
「わああ! うるさいうるさいっ!」
思わず肩にかかったタオルを投げつけた。香奈美はそれでもニヤニヤを崩さない。
もう言い訳する隙も見つからなかった。首から上が全部熱い。
「ちょ、ちょっとちょっと。どうしたのっ!? 喧嘩!?」
「ああいえっ、ちょっと碧依とじゃれてただけです。騒いですみません」
「そう……。なら良いけど、あんまり遊んでちゃダメよ? 一応部活中だからね」
「ご、ごめんさない……」
真っ赤になったまま謝る碧依。今すぐにでもプールに飛び込みたい気分だった。
むっ、と香奈美に目で講義する。何故かサムズアップで返された。悔しい。
ピッ! と部屋中に笛の音が響く。また泳ぐ時間だ。
碧依はすっくと立ち上がって、ペチンと軽く頬を叩く。どうにか気持ちを切り替えた。
……はずが、頭の中に彼の声が蘇った。
『いま、見せようか?』
至近距離に迫る大柄な身体。熱い欲望に満ちた視線。
そして目の前に突き出される、大きく高らかに勃ち上がった、彼のズボンの盛り上がり。
昼に見たその光景がフラッシュバックする。
ずくん……。
碧依の下腹部が、じんわりと熱をもった。
もう、何日もこれだ。
あの夜、彼がエッチな本で自分を慰めているのを目撃してから、ずっと。
得体の知れない熱情が、碧依の理性を焦がし続けている。
そしてその熱は日に日に増して、今にも本能のままに身体から飛び出ていきそうだった。
ざぱん、とプールに飛び込んだ。
冷たい水はしかし、碧依の熱を冷ましてはくれなかった。
ねえ勇雄。
私、どんな顔をして帰ればいいんだろう。
どんな声でただいまって言えばいいんだろう。
だって私、あなたの秘密を覗き見る、最低な人間だったんだよ。
そして今日もきっと、私は欲望に逆らえない。
お願い、私が帰る頃にはもう、普段通りの勇雄でいて。
お願い、私が帰った時にまた、あなたの秘密を覗かせて。
じゃないと私、おかしくなっちゃうよ。
カチャ。夕焼けを背に浴びながら、できるだけ静かにドアを開いて中へと滑り込む。
室内はしんと静まっていた。リビングにはオレンジ色の日差しだけが居座っている。
とくん、とくん、と自分の鼓動が聞こえてくる。
それは普段より明らかに早いリズムで、何かを期待するように弾んでいた。
床に荷物をそっと置く。持ち帰ってきた水着のせいか、鞄はずっしりと重い。
足音を殺して、ゆっくりと歩く。向かう先は、リビングに隣り合った一つの部屋。
そう、自分の部屋じゃない。僅かに扉が開いたままの、彼の部屋だ。
一歩、二歩。慎重に近づく。
中から物音は聞こえてこない。電気も点いていない。
……どうか、寝ていますように。ただ休んでいるだけであって欲しい。
……どうか、起きていますように。再びあの秘密の姿を見せて欲しい。
矛盾した思考が身体を前へと進ませる。
早まる鼓動、高まる興奮。息がどうにも荒くなる。
ようやく、扉の目の前に辿り着いて。
開かれた隙間から、中の様子を覗き込む。
そして、水白碧依は、見た。
いつかの夜と同じ、彼の姿を。
机に座って必死に己を慰め続ける、彼の姿を。
横から見ても目立つ、黒くて大きな肉の巨塔。
この距離でも見えるほどに太い血管を浮き上がらせ、今にも爆発しそうに膨らんでいる。
それを夢中で擦り続ける、彼の右手。
透明な液体をまとった指は、にちゃにちゃと水音を立てて上下に動く。
左手には、一冊の漫画。
中身はとっくに知っている。二人の男女が愛し合う姿を描いた、エッチな本だ。
……まるで、彼と私が愛し合っているようにも見える、あの見開き。
彼がじっと見つめているのは、あのページに違いない。なぜかそう確信した。
「はっ、う……ぐ……」
荒々しい彼の息遣いがここにまで届いてくる。
相当に高まってきているのか、眉を顰めて悩ましげに口を引き結んでいた。
十数年間、ずうっと隣にいたはずの碧依さえ、たったの一度も見たことのなかった表情。
それを視界に入れた瞬間、碧依はお腹の奥から熱を垂らした。
食い入るように見つめ続ける。
彼の動きはどんどん早く、荒くなる。
彼の手が太い竿をごしごし擦って、ときどき先っぽの部分を撫で回す。
ガク、ガク、と腰を揺らしながら快感に耽る彼の姿は、碧依が今日ずっと見たかったものだ。
じゅくん、と碧依の胎が震えた。
今すぐ自分の秘裂を触りたい衝動に駆られて、必死に耐え忍ぶ。
代わりに目元に力を入れた。片時たりとも見逃さないように。
そしてついに、彼が限界を迎える時。
あの日の夜も聞いた、彼の呟きが再び。
「イク……! 碧依……ッ! ぐっ!」
——聞き間違いじゃ、なかったんだ。
自分の名前が呼ばれた事実に、碧依の心が高らかに跳ねた。
それは歓喜であり、驚愕であり、感動であり、幸福だった。
前に聞いた時は、空耳かと思った。
彼が自分を想って自慰をしているなんて、簡単に信じられなかった。
でも、本当だったんだ。彼の想像の中では今まさに、私と彼がエッチしているんだ……!
じゅくん……じゅくん……。
もう誤魔化しようもないほどに、碧依の秘裂が熱く濡れる。
理性を打ち砕こうとする欲望。それを堪えるのが辛くて、泣きそうになりながら覗き続けた。
そんな碧依の視界の中で、彼は絶頂を迎えていた。
驚くほどの勢いで、彼の肉棒から白い噴水が飛び出していく。
びゅうう、びゅくく、と何度も脈動するように飛び出てきては、彼が身体を震わせる。
快感の海に浸る彼の表情を見ていると、形容し難いほどの愛おしさが湧き上がってきた。
私とエッチする想像をして、あんなに気持ちよくなってるんだ。
その中では一体、どんな言葉を掛けて、どんな手つきで、私を抱いているんだろう。
(……いいな)
彼の持つエッチな漫画のヒロインに、理不尽な嫉妬心を抱いた。
あんな偽物じゃなくて、私を見てひとりエッチしてくれればいのに。
本当に見せる勇気もないくせに、そんな願望が心に浮かんだ。
「……ふぅ。……あぁ、もうこんな時間か……」
性欲の収まったらしい勇雄が、いきなり冷静な様子で片付けを始め出した。
それを見た瞬間に、碧依も慌ててその場から逃げる。
もう、物音を立てるなんてヘマはしない。
こそこそとリビングを通って、洗面所へと逃げ込んだ。
「…………」
擦り切れた理性で身体に命令し、呼吸を落ち着ける。
だけど本能が今にも暴れ出しそうで、火照った身体はなかなか言う事を聞かなかった。
脚を動かすたび、秘裂にぬちゅりとした感覚を感じる。
ここでぐちゅぐちゅと弄り倒したい衝動を堪えつつ、手を洗った。
さも今帰宅したばかりを装って、リビングへ戻る。
やたら焦った様子の彼が、上擦った声で出迎えた。
「お、おうっ、おかえり。早かったな」
「……うん、ただいま」
なんでも無いかのような会話。
今更、碧依の中に罪悪感が湧き上がって来た。いつもそうだ、手遅れになってから後悔する。
「腹減ってるか? 悪いな、まだ準備できてないんだ」
「少し減って来たけど、大丈夫。私も手伝う」
だけど、きっと私はもう戻れない。
僅かでも機会がある限り、彼の痴態を覗き見てしまうと思う。
「先にシャワー浴びてこいよ、風邪ひくぞ」
「……ありがと」
私、最低だ。
だけど、それでも貴方が大好きなんです。
「……どうした? 元気ないな」
「……何でもないよ、ちょっと疲れただけ」
こんな弱い私をどうか許して。
そして、お詫びになるのかも分からないけど。
「その紙袋、何だ? お菓子?」
「先輩からの差し入れだよ。今日は頑張ったからって、たくさん貰えたの」
あなたが望んでくれるなら。
私の身体も、心も、人生も。
「——全部、勇雄にあげる」
■
「ま、マジでびびったぁ……」
碧依が居ないのをいいことに部屋で自家発電していたが、終わった瞬間に洗面所から音が聞こえて来たのだ。
本当に背骨が飛び出たかと思うほど驚いた。間一髪すぎた。
というかいつの間に帰って来たんだよ。
玄関の音が聞こえるようわざと部屋の扉を少し開けて置いたのに、まるで気付かなかった。
ちょっと夢中になりすぎたかな……。
まぁ、バレなかったなら結果オーライ。スレスレの勝利だぜ。
碧依がシャワーを浴びているうちに、部屋の中をあらためて片付けておこう。
さっきはマジで慌てていたからな。逆にとっ散らかしてしまった。
リビングから自室に戻る。
——その、途中だった。
「……ん?」
俺の部屋の扉の前。リビングの床に、細い何かが落ちている。
それは鮮やかな赤色で、滑らかな素材の布で出来ていた。
「なんだこれ、ゴミじゃな…………え?」
見間違えるはずも、無かった。
それはまごう事なく、うちの高校の制服のリボン。
一年生の女子がシャツの襟元につけるはずの、可愛らしい装飾。
ひとり一つしか持っていないから、絶対に無くせないと碧依が言っていた。
そして碧依は今日の昼。
家を出る時に、確かに襟につけていた筈だ。
気まずい思いをしながらも、確かに俺は見送ったんだ。間違いない。
「まっ、まて、まてよ。……う、うそだよな」
ついさっき、洗面所から出てきた碧依の襟元には、リボンは無かった気がする。
——だったら彼女は、いつ、これを落とした?
「………………」
答えなんて、分かりきっている。
碧依は、洗面所に入る前に、ここにいた。
扉を開いたままだった、俺の部屋の前。
俺が、必死に彼女を想ってオナニーしていた、あの時に。
「………………」
ああ、そうだったのか。
碧依。お前も俺とおんなじだったんだな。
他人のオナニーを、陰からこっそり覗いていたんだ。
——じゃあ、もう。
遠慮なんか、しなくていいよな。