とある男女のハッピーエンド 作:ゆうらぎ
「『ごめん』って。『大切な奴がいるから』って」
その言葉が落ちた瞬間、個室の空気は、鉛のように重くなった。
俺はこの事実をどう受け止めるべきだろう。
ずっと想い続けてきた彼女の恋愛が、終わりを告げたのだ。
「これで自分にもチャンスが回ってきた」と、小躍りして喜ぶべきだったのか。
いやいや、ダメだ、それはダメだろ。
俺は、目の前でくしゃくしゃに顔を歪める彼女を見て、奥歯を噛み締めることしかできなかった。
ーーーー上条当麻は、俺のクラスメイトだ。
補習仲間で、食堂で安飯をつつき合った仲でもある。
不幸体質で、お人好しで、馬鹿みたいに真っ直ぐな奴だということは嫌というほど知っている。
そして彼は、戦闘において目の前の彼女、
能力を無効化できる得体の知れない力を持つ、俺なんかとは違う、彼女の物語の「ヒーロー」の一人なのだろう。
そんなあいつは、その告白に対して誠実だったはずだ。
美琴の想いに真摯に向き合い、その上で苦渋の決断として「選べない」と告げたに違いない。
だから、完全に二人の間で完結した物語だ。
部外者でしかないエキストラの俺にできることなんて、何一つとしてない。
時間を巻き戻すことも、上条の心を書き換えることも、なにもできない。
「……っ……」
思い出したかのように嗚咽を漏らし、震える彼女の肩。
俺が好きだった、あの勝ち気で眩しい笑顔は見る影もない。
俺は大きく息を吐き出すと、冷めきったコーヒーを一気に喉に流し込んだ。
苦味が思考を強制的に覚醒させる。
正解も、気の利いた言葉も分からない。
それでも、今ここで沈黙を守ることだけは最悪の選択肢だと思った。
「……とりあえず」
俺は、意識して声を低く、平坦に保った。
過度な同情も、腫れ物に触るような優しさも、今の彼女には毒になると思ったからだ。
「とりあえず、ミルク飲みなよ。冷めてるかもしれないけどさ。サンドイッチも食ったほうがいい」
手で、どちらも指し示す。
「聞いてほしいことあんなら聞くし、嫌なら黙ってるから。ひとまず休憩しろ」
「……うん」
ミルクに口をつける美琴に合わせて、俺も自分のサンドイッチに手をつけ始めた。
俺が食べていれば美琴も食べやすいだろう。
彼女も少しずつサンドイッチを食べ始める。
俺はその様子をただ静かに見守っていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
美琴がふぅ、と小さく息をついた。
「……ごちそうさま。美味しかった」
その声はまだ微かに震えていたが、先ほどまでの悲痛な響きは若干薄れていた気がした。
「そりゃ良かった。……で、お嬢様は門限、大丈夫なのか?」
「まだ平気。もし危なくなったら黒子に上手く誤魔化してもらうから大丈夫よ」
「いやそれでいいのかよ」
ツッコミを入れつつ、ちょっとした会話ができただけでも俺は少しだけ安堵した。
俯きながらも前髪を整えたり、居住まいを正したりする姿に、僅かでもいつもの「御坂美琴」の輪郭が戻ってきている気がして安堵する。
「……あ、あのさ」
「ん?」
美琴は自身の手を見ながら、遠慮がちに口を開く。
言いたいことがあるのに、言葉にするのを躊躇っている。そんな葛藤が見て取れた。
「……やっぱり今の時期って、忙しい?」
「いや、新曲のプロモーション期間は一区切りついたから、結構暇になってきたけど……それがどうかしたか?」
「そうなんだ……なら、アンタが嫌じゃないならで、いいんだけど……」
美琴は顔を上げ、縋るような、それでいてどこか申し訳なさそうな瞳で俺を見た。
「……その、また……話せる?」
「ん?」
予想外の提案に、俺は動きを止めた。
俺と、振った相手と、また話す?
普通、そういうのは気まずくて避けるものじゃないのか。
まぁ今の状況で言うのもアレだが。
俺の戸惑いをよそに、美琴は言葉を探すように視線を泳がせている。
「また前みたいに、話ができたら……って思って」
「……俺は全然いいけど……。具体的にどうやって? メッセージとか、通話か?」
「あー……そうね。それもいいけど……」
美琴は言い淀んだ。
そして、意を決したように小さな声で付け足す。
「もし……アンタが良ければ、だけど。またこうやって、直接……とか」
「……」
「な、なによ! 変な意味じゃないわよ! アンタは……その、話しやすいし。変に気を遣わないで済むから……」
声がどんどん尻すぼみに小さくなっていく美琴。
言い訳を重ねるほど、挙動が怪しくなっていく。
「……あ! でもよく考えたら無理だわ。アンタいま有名人じゃない。こんな風にうかつに外で会ったりしたら……」
「別にアイドルでもないんだから気にしなくても……フードとマスクでどうにでもなるし」
「…………あのねぇ」
美琴がジトッとした目で、心底呆れたように俺を睨み上げてくる。
「アンタって、会った時から思ってたけど自分を客観視できてなさすぎ。アンタが思っている以上に、周りの評価は高いのよ。デビューした三か月後くらい……最新のアンケートだと女性人気もかなり上がってるんだからね」
「え、そうなの?」
俺が把握してない情報を出されて困惑する。
そもそも失恋を引きずっているのだから、女性人気なんて気にしてられるようなメンタルでもなかったから。
「……ていうか、やけに詳しいな。なんでお前がそんな正確な数字知ってるんだ?」
「っ……! そ、それは……ほら、ネットニュースとかで見たのよ。まとめサイトとか!」
美琴が視線を泳がせながら、早口でまくし立てる。
まあ、確かにネットニュースの片隅くらいには出ているかもしれない。
俺は「ふうん」と納得しかけ、コーヒーを口に運んだ。
だが、続く彼女の言葉が、その思考を強制停止させた。
「まったく……。アンタ、自分のことなんだからもっと関心持ちなさいよ。マネージャーさんのブログにもファンの比率のこと書いてたし、そういうの知っておいたほうがいいんじゃないの?」
「…………ブログ?」
俺の動きが、完全に止まった。
今、何て言った? 『マネージャーのブログ』?
「……おい、待て。それ、マネージャーのブログで間違いないんだよな」
「な、なによ。間違えるわけないじゃない」
待て。落ち着け。
俺は冷静に、かつ慎重に、致命的な事実を確認する。
「その『マネージャーのブログ』って……ついこの間更新されたやつだよな?」
「そうよ。写真付きでアップされてたやつ」
美琴は不思議そうに首を傾げた。
冷汗をかく俺はなぜか静かに息を吸い込み、呼吸を整えて彼女を真っ直ぐに見据えた。
「美琴ち。一つ教えてやろう」
「なによ?」
「あのブログは、無料公開してないものなんだけど」
「…………あ」
美琴の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
表情は固まって、しまったと言わんばかりに口は半開きになっていた。
いや恥ずかしいのはこっちなんですけど?
「あれはファンクラブの、『有料会員限定』のページにログインしないと表示されないんだけど……」
美琴がブログを読めているということは答えはひとつだ。
「……お前まさか、俺のファンクラブに入ってるのか?」
「…………」
「美琴?」
「……わるい?」
美琴が開き直ったように顔を背けた。
顔が見えなくなっても、耳が真っ赤になっている。
「マジかよ……」
いや、まあ、月額500円の『スタンダードプラン』なら、まだ……。
「一応確認だけどブログが更新されたのは昨日だよな」
美琴はこちらに振り返る。そして眉をひそめた。
「ハァ? 昨日じゃないわよ。先週じゃない」
「ぶっっ」
俺は盛大に吹き出した。
「全然スタンダードじゃねえ!? お前、毎月俺に10,000円払ってんの!?」
「どこかの石油王か企業スポンサー向けに作っておきますね」とマネージャーが悪ノリで設置した、完全なネタ枠、だと俺は思っている最上位プランだ。
美琴は口の端がひくついて、またも表情が固まった。
エグゼクティブ・Sではブログの内容、しかも未完成身編集のものを1週間早めに見れるという謎の特典がある。
無論、ブログの内容は修正されたりして完全版になるのが正式な公開日ではあるのだが……というか最速で見に行ってるってこと?
俺は頭を抱える。抱えるしかなかった。
「な、な……」
美琴は唇を震わせながら、ビシッと俺に指をさしてきた。
「なによ! 別にいいじゃない!」
バッと立ち上がり、腕を組んで開き直る美琴。
「入会ページ見たら、『スタンダード(500円)』と『エグゼクティブ(10,000円)』があったのよ? だったら機能制限がない方を選ぶに決まってるじゃない!」
「ノーマルがあったのに、何でそれなんだよ。あっちでも十分すぎるくらいだろ……」
監視とかファンとか以前に、金銭感覚と行動原理がお嬢様すぎる。
「いや、百歩譲ってプランはいい。いやよくはないんだけど、問題は動機だ。……月1万も払って何を見てるんだよ」
「べ、別に深い意味なんてないわよ……私が入りたくて入ったの! お金払ってるんだから別に文句ないでしょ!?」
顔を真っ赤にして、逆ギレ気味に言い放つ美琴。「お客様は神様でしょ!?」と叫びながらグーで殴ってくるタイプの人間だ。厄介すぎる。
「だいたいアンタは得できるんだからいいじゃない! 文句あるわけ!?」
「はぁ……。まあ、ありがたいけどさ……」
俺はため息をつき、ふと、ある恐ろしい予感を覚えた。背筋に冷たいものが走る。まさかそんなわけはないと思いつつも、恐る恐る口を開く。
「お前……会員番号、何番だ?」
美琴は視線を逸らしたまま、蚊の鳴くような声で答えた。
「……『No.0003』」
「ひっ……!」
俺は小さく悲鳴を上げた。No.1はマネージャー。No.2は俺のテストアカウント。
つまり、実質1番。
「おい……嘘だろ……? 学園都市『第3位』の超能力者が、ファンクラブ会員番号も『No.3』って……」
俺は震える手で顔を覆った。
「もうわけがわからないよ……!」
「うっさいわね! たまたまよ、たまたま!」
なんという皮肉。なんという業。熱狂的なファンよりも早く、サーバーが落ちるほどの混雑の中、この『第3位』は画面の前でリロードを連打して俺のファンクラブに最速で入会したのだ。
「……頼むからやめてくれ。振られた相手が最古参のパトロンとか、どういう顔したらいいかわからない……!」
さすがに笑えないよこれは。
「……うるさいわね。グッズだって全部買ってるんだから感謝しなさいよ」
「なんでだよ!? 恥ずかしいから捨ててほしいまであるわ!」
「い、嫌よ!」
バッと腕を抱くように自分をかばう美琴。
それから話題を変えるように、わざとらしく咳払いする。
「とにかく! 黒子ですらアンタの曲は知ってたんだから。自分の知名度とか把握してないと、いつか痛い目見るわよ?」
俺の動きが固まった。あのお嬢様学校の生徒たちが? 俺の陰湿な失恋ソングを?
「ヤメロォォォ」
俺は喉が千切れんばかりの声を上げてテーブルに突っ伏した。脳裏に、優雅なお茶会で俺のドロドロした曲を聴いて涙するお嬢様たちの姿が浮かぶ。
「なんだその公開処刑! 死ぬ! 俺もう死んでいいかな!?」
「なんでそうなるのよ! デビューして半年以上でどういう認識してるのよ……アンタの曲、街中で流れてるじゃない。知らない人のほうが少ない気がするけど」
「意識しないようにしてたんだよ! 自分の知名度がどのくらいあるかなんて案外わからないもんだし!」
俺はゼェゼェと肩で息をしながら、熱くなった顔をテーブルに押し付けた。この店を出るのが、急に怖くなってきた。
嵐のような応酬が終わり、個室に静寂が戻ってくる。
ただ、それは先ほどまでの重苦しい沈黙とは違う、どこか熱を帯びた空気だった。
「……ふ、ふふ」
不意に、頭上から忍び笑いが聞こえた。顔を上げると、美琴が口元を押さえ、肩を震わせていた。
「……何が可笑しいんだよ」
「だって……あんなに泣いて、落ち込んで重いことばかり言ってたのに。……なんか、よかったなって」
「なんだよ良かったって」
俺がジト目で抗議すると、美琴は「あはは」と、今日初めて、年相応の少女らしく声を上げて笑った。
「……あんたと会えて話せて良かったってこと。ありがとね」
ひとしきり笑った後、彼女はふと表情を緩め、温かくなったマグカップを両手で包み込んだ。
「さっきの情けないアンタの悲鳴とか表情を見てたら……なんか、力が抜けちゃった」
彼女は、自分の胸のあたりをトントン、と指先で叩いた。
「ここにあった重苦しいなにかが少しだけ軽くなった気がする。……あんたと会うまで、息をするのも苦しいくらいだったのにね」
そう言って笑う彼女の顔には、まだ悲しみの色は残っている。
けれど、店で見かけたときの「絶望」一色ではない。馬鹿な話で盛り上がって、声を荒らげて、笑って。そうやって感情を動かしたことで、凍りついていた心が少しだけ溶けはじめたようだった。
俺は小さく息を吐き、乱れた前髪をかき上げた。
これ以上、湿っぽい空気には戻さないほうがいいだろう。
「……じゃあ、そろそろ遅くなるし行くか」
「うん」
会計を済ませ店の外に出ると、ナイフのような冷気が頬を撫でた。
見上げれば、分厚い雲が月を隠している。予報通り、今夜は雪になるかもしれない。
「……寒っ」
「ほら、カイロ。余ってるからやるよ」
「あ、ありがと……」
俺たちは並んで、駅への道を歩き出した。
店内での騒がしさが嘘のように、二人の間には静寂が落ちる。だが、それは気まずい沈黙ではなかった。互いに感情をさらけ出し、嵐が過ぎ去った後の凪のような、不思議と心地よい静けさだった。
駅のロータリーの明かりが遠くに見えてきた頃、美琴がふと足を止めた。視線の先には、街灯がポツンと立つだけの、人気のない小さな公園があった。
「……ねえ」
「ん? どうした?」
「ちょっとだけでいいから……少しだけ歌ってくれない?」
「は?」
俺は素っ頓狂な声を上げて周囲を見渡した。
「い、今ここで? 路上で? アカペラで?」
「え!? えっと!…………あ! あっちのベンチなら、人もいないし」
美琴は、ひどく申し訳なさそうに眉を下げた。
「……アンタ、自分の歌のこと『恥ずかしい』とか『吐き気がする』って書いてたじゃない。だから、こんなこと私が頼むのはすごく失礼だってわかってるんだけど……」
「……」
彼女は、祈るように両手を胸の前で握りしめた。
「ただ、元気が欲しいのよ。アンタの歌声を聴いて、湿っぽい自分はもうここに置いて、いつもの私に戻りたいの」
俺の歌を、悲しみに浸るためじゃなく、明日へ進むための切っ掛けにしたいと言ってくれている。
天を仰ぎ、白く濁る空へ深く息を吐いた。
俺にとって、自分の曲は「古傷」だ。
だが、目の前の彼女が前に進むために、俺の声を必要としているなら。
俺の歌が、彼女を笑顔になる切っ掛けになるなら。
「……わかったよ」
俺たちは公園のベンチまで移動し、俺は覚悟を決めてマフラーを少し緩めた。
「え、ほんとに? マジ?」
「どう考えても俺が言うんだからマジだろ。ただし死ぬほど恥ずかしいからワンフレーズだけ。選曲は俺の独断で決めるし、口ずさむ程度だからな? それでもいいなら」
「全然いい! それでいいから!」
「ちょ、圧がすごい! 距離近い! ……少し離れなさい」
俺は照れ隠しにそう言って、夜空を見上げた。白いものが、ちらちらと舞い始めている。
静寂。街灯の下、降り始めた雪が雑音を吸い込んでいく。世界には今、俺と彼女しかいないような錯覚すら覚える。
俺は小さく息を吸い込み、震える唇を開いた。
メロディを紡ぐ。伴奏はない。けれど、俺の喉から放たれた音は、冷え切った夜気に溶けることなく、鮮明な輪郭を持って空気を震わせた。
『ーーーーーーー』
震えることなく紡がれた言葉は、自分でも驚くほど優しく響いた。
隣で聴き入る美琴が、ギュッと自分のマフラーを掴む気配がする。
彼女の身体から力が抜け、張り詰めていた糸がほどけていくのがわかる。
なんて皮肉な巡り合わせだろう。
俺が彼女への「叶わない想い」を嘆いて書いた言葉が、今、彼女がアイツを想う「痛み」に寄り添い、その傷を癒やしている。
俺の失恋が、彼女を救っている。なら、悪くない。
俺という存在がどこまでも彼女の都合のいい「共犯者」であったとしても。
「――じゃあね! 気をつけて帰んなさいよ!」
自動改札の向こう側で、美琴が大きく手を振った。
その顔にはもう、憂いの一欠けらも残っていない。
いつもの、勝気で、自信に満ちた俺のよく知る「御坂美琴」の笑顔だ。
「ああ。お前もな」
「うん」
美琴は短く返事をすると、ひらひらと手を振って踵を返して軽やかに駆けていく。
雑踏の中、その背中が消えていくのを俺は最後まで見送った。
一人になった瞬間、周囲の音が急に戻ってくる。電車の発着音、信号のメロディ、誰かの笑い声。
俺はマフラーに顔を埋め、大きく息を吐き出した。
「……はぁ」
白い呼気が、夜空に昇って消えていく。
喉の奥には、まだ歌った時の熱が残っていた。
俺はポケットに手を突っ込み、雪の積もり始めた歩道を一人、歩き出した。
数分歩いたところで、ポケットの中でスマホが短く震えた。
手元のスマートウォッチが光る。表示された名前は『御坂美琴』。
アイコンは彼女が好きなキャラクター、ゲコ太だ。
画面を見ると、メッセージが一通。
『ありがとう』
最後に、またね!と手を振るゲコ太のスタンプ。
俺は鼻で笑って「門限は守れよ」と雑な返事を送信し、スマホをポケットにねじ込んだ。
まさか「次は」があるなんて、思ってもみなかった。
「……調子いい奴」
独り言が、白く濁って消える。
ふと、雲の切れ間から光が差した気がして、俺は足を止めて空を見上げた。
「……お」
そこには、見事な満月が浮かんでいた。
ついさっきまで厚い雪雲に覆われていたのに。いや、違う。
俺が下ばかり向いていたから、気づかなかっただけか?
「……満月じゃん、でか、すご」
煌々と輝く月が、雪化粧した街を青白く照らしている。
あまりに綺麗で、俺はしばらくその場に立ち尽くした。
月は、満ちては欠ける。
欠けてしまっても、消えてなくなるわけじゃない。
また時間をかけて、静かに満ちていく。
人の心も、たぶん同じだ。
傷ついた心を抱えて、それでも前を向き歩く強さを見せた美琴も。
その傷の理由を作った、あの真っ直ぐなヒーローも。
そして、二人の物語を外側から眺めているだけの俺も。
誰もが等しく、この月の下にいる。勝ったとか負けたとか、主役だとか脇役だとか、そんなものは関係ない。みんな同じ、同じ月の下にいる。
そう思ったら、ずっと張り詰めていた何かが、すっと抜けていくのを感じた。
大通りに出ると、またあの曲が流れていた。街頭ビジョンから流れる、俺の歌う女々しい失恋ソング。
赤信号で立ち止まると、隣にいた学生風のカップルが寒そうに身を寄せ合っていた。
「あ、この曲。最近めっちゃ流れてるよね」
「エモいよね。プレイリスト入れてるわ」
二人は白い息を吐きながら、俺の曲をBGMにして、互いの体温を確かめ合うように笑い合っている。
俺の「孤独」「悲しみ」「愛」を歌った曲が、今は誰かの「幸せ」な時間を彩っている。
美琴にとっても、この見知らぬ恋人たちにとっても。
いつもなら耳を塞ぎたくなる自分の歌声。
不思議と、今はあまり不快だとは思わなくなっていた。
◆
「……寒っ」
一人になった帰り道。
マフラーに顔を埋め、常盤台の寮へと続く道を歩く。
吐く息は白い。
数時間前まで、この冷たい空気が胸の穴を吹き抜けるようで、息をすることさえ苦痛だった。
……アイツに、上条に振られたという事実は、夢でも幻でもない。
胸の奥が、まだズキズキと痛む。
忘れようとして忘れられるものじゃないし、嫌いになろうとしてなれるわけがない。
明日、またアイツと顔を合わせたら、私は今まで通りに笑えるのかわからない。
「普通」でいられるかな。
考えれば考えるほど、答えなんて出なくて、足取りが重くなる。
けれど。
私の耳元では、イヤホンから今も彼の歌声が流れている。
私のボロボロの心を支えるように。千切れそうな糸を繋ぎ止めるように。
私はポケットからスマホを取り出し、画面を見た。
再生中のジャケット写真には、うつむく彼の横顔が映っている。
『女々しい』『気持ち悪い』
彼は自分の歌をそう言って自嘲していたけれど、私はその言葉がひどく悲しかった。
だって、この歌声は言っている。
簡単には消えない「好き」という気持ちも。
捨てれば楽になれるのに、抱え込んでしまうこの痛みも。
情けない自分ともさよならできると分かっているのに、それでも手放せない執着も。
――それも全部、「恋」の形なんだと。
みっともなくてもいい。痛くてもいい。その傷跡すらも愛おしい思い出になる日が来ればいい。そう歌っている。
私は立ち止まり、画面の中のうつむく彼に向かって、人差し指を伸ばした。
ツン、と。
携帯のモニター越しに、そのジャケットの頬のあたりをつつく。
ツン、ツン。
「こんなに優しい曲を作っておいて、気持ち悪い、なんて……言わないでよ」
たくさんの痛みを抱えて、この思い出たちは未来ではどうなっているんだろう。
もし彼の勘違いでないのなら、彼はまだ私のことが好きで……。
不意に曲が終わり、次のトラックが再生される。
『この恋が プロローグのままで幕を閉じたとしても後悔しない』
「……あっ」
聞き慣れたイントロに顔を上げれば、冬の澄んだ夜空に、見事な満月が浮かんでいた。
月明かりが滲んで見える。
……辛いはずだ。すごく、辛いに決まっている。
半年前に私に振られて。今日、また私の失恋話を聞かされて。
ふさがりかけた古傷を、私がまた無理やりこじ開けて、その上に自分の傷を重ねたんだ。
もしそうなら、私は、その気持ちを利用したことになる。
なんて残酷なんだろう。
私はきっと、これから何度もこの夜のことを思い出して、自分を責め続ける。
でも、彼はそれすら許してくれない。
「ずるい自分も全部含めて恋なんだ」と肯定して、ただ私の幸せを願うあいつを思うと胸が苦しくなる。
彼の曲は、ただただいつも詩的で、相手の幸せを常に願っている。
そんなこと、本当に強い人にしかできない。
「……よしっ」
私は両手でパンッ! と自分の頬を叩いた。
何も解決はしていないし、状況は最悪かもしれない。でも、気合を入れる。
色んなことを整理する前に、私がするべきことは一つだ。
一番最初に傷つけてしまった彼と、ちゃんと話したい。
今の今まで、私は何も見ていなかった。
アイツが、彼がどんな人なのか。
なんで、私だったのか。
色んなことを話してみたい。
それ自体が、彼にとっては迷惑なことかもしれない。傷口を広げることかもしれない。
ひどく身勝手で最低で、
それでも……私は彼を、もっと知りたい。
そう決意して、スマホを握りしめた、その時だった。
ブブブブブッ!!
「わっ!?」
掌の中で暴れるスマホ。
心臓が口から飛び出るかと思った。
驚いて取り落としそうになり、空中で慌ててジャグリングのようにお手玉する。
ガシッ、となんとか両手で掴んで画面を見ると、表示された名前は――。
――え?
思考が固まる。再起動。顔が一気に熱くなる。
な、なんで今のタイミングで!?
いや、今だから? まって、心の準備が!
一度深呼吸して、それから落ち着いて……なんて悠長なことを考えている余裕はない。
切れたらどうしよう。
そんな焦りが、理性を追い越した。
「あ、あう、も、もしもし!?」
裏返った声で、私は反射的に通話ボタンを押していた。
ああもう、最悪の第一声!
『……あうってなんだ。よっ。さっきぶり』
「な、なに。どうしたのよ」
心臓が早鐘を打つ。バレてないわよね? バレるわけがないのに何考えてるんだろう私。
『いや……満月、すっごい綺麗だなって思って』
「……は?」
拍子抜けして、私は空を見上げた。
「……確かに、綺麗だけど」
『だろ? ……あと、やり返すの忘れてた』
「なにを?」
『振った相手に恋愛相談するなバカ』
ズキン、と胸が痛む。
その通りだ。返す言葉もない。
「……そ、それは……本当に、悪いと思って――」
『あと、俺はまだ好きだから』
時が、止まった。
「…………えっ、あ、え?」
今、なんて?
思考回路がショートして、意味のある言葉が出てこない。
電話の向こうの彼は、早口で、まるで自分を追い込むように捲し立てる。
『気持ち悪いだろー、女々しいだろー。絡む気なくなるだろー。……あっやばい、効いた自滅しそう』
「す、好きって、え……?」
『美琴って責任感強いから俺を傷つけたって、まだ自分を責めてそうだし。……もし俺の勘違いなら忘れてくれ。じゃないと俺が恥ずかしくて死ぬ』
なにか、なにか喋らないといけないのに。
『言葉にならないくらいキモかった? なら仕返し成功だな。……じゃ、また今度』
「ちが、えっ、ちょ、待っ――――」
プツッ。ツー、ツー、ツー。
「…………」
切れた。
一方的に言いたいことだけ言って、逃げられた。
夜の公園に、私の叫び声の残響だけが吸い込まれていく。
スマホを握りしめたまま、私はその場に立ち尽くした。
顔が熱い。
耳の奥で、彼の最後の言葉がリフレインしている。
『俺はまだ好きだから』
「……なによ、それ」
へなへなと、その場にしゃがみ込みそうになる。
満月が、意地悪なくらい明るく私を照らしていた。
失恋の痛みはもちろん消えていない。
でも、その痛みの隣に、どうしようもなく温かくて、くすぐったい何かが、強引に割り込んできた気がした。
「……ばーか」
私はもう一度、携帯の画面にうつる、あいつの名前を強めに、ツンとつついた。