とある男女のハッピーエンド 作:ゆうらぎ
休日の午前十一時。
同室の黒子は『特別警戒パトロールですの!』と朝早くから出かけてしまい、学生寮の自室に取り残された私は、ベッドの上でスマホの画面を睨みつけながら、もう一時間近くも呻き声を上げていた。
『俺はまだ好きだから』
あんな爆弾発言を一方的に投げつけられ、勝手に電話を切られてから二日。
トーク画面を開いては閉じ、文字を打っては消すという不毛な作業の繰り返しだ。
何か、送らないと。
でも、なんて送ればいい? そもそも送る必要あるのかどうか。ぐるぐると終わりのない思考の迷路から、すっかり抜け出せずにいた。
「あーもうっ! めんどくさい!」
半ばヤケクソになって、スタンプの送信ボタンをタップした。
画面に表示されたのは、壁の陰から半分顔を出してこちらをチラッと覗き込んでいる、おずおずとしたゲコ太のスタンプ。
……あ。やば。なんかちょっと私らしくない、構ってほしい痛い子みたいになってない?
送信取り消し、と慌てて指を伸ばしかけた、その瞬間。
――既読がついた。
はやっ!? ずっと画面見てたの!?
ギョッとしていると、立て続けにメッセージが飛んできた。
『たすけて』
『死ぬ』
『家で作詞できるように何百万も機材買ったのに』
『なんで俺は外の監獄に軟禁されてるの』
『おかしいだろ』
『家かえりたい』
「……ふふっ」
張り詰めていた気が抜けて、思わず吹き出してしまった。
悲痛なSOSなのに、どこか間抜けで、理不尽に振り回されている彼らしい愚痴。
私はベッドから跳ね起きると、クローゼットから指定のコートを引っ張り出しながら、スマホで短いメッセージを打ち込んだ。
『なにか持っていってあげようか?』
数秒後、すぐに既読がつき、返信が来る。
『マジか。いや、さすがに申し訳ないからいいよ。外、寒いし』
遠慮する彼の言葉に、私は鼻を鳴らした。
あの喫茶店で、失恋してボロボロに泣いていた傷心の私に、何も聞かずに温かいホットミルクとサンドイッチを出してくれたくせに。
自分は遠慮するなんて都合が良すぎる。
『この前の、喫茶店の時の借り。返したいから文句言わずに場所教えろ』
『え、なに処される? 処されるの俺』
画面の向こうで縮み上がっている彼の顔が目に浮かんで、また少しだけ笑みがこぼれた。
ピコン、と続けて送られてきたのは、第十五学区にある録音スタジオの位置情報と、思いがけないリクエストだった。
『じゃあ、コンビニの肉まんとお茶を恵んでください』
『は? 肉まん? 売れっ子なんだから、スタッフさんに頼めばいいじゃない』
『それが無理なんだよ。事務所の経費で、毎日無駄に高いお洒落なケータリング弁当ばっかり食わされてて胃が限界。チープなジャンクフードが食いたい』
なるほど。贅沢な悩みだけど、極限状態の時ほど安っぽい味が恋しくなるのは、少しだけわかる気がする。
『わかったわよ。肉まんね』
『ありがと。あと、寮から少し歩いた大通りに、事務所の送迎車向かわせるから。黒の車で、ナンバーは○○-○○。それに乗ってきて』
『……は?』
私はスマホの画面を二度見した。
『え、ちょっと待って。送迎車って、あんたの事務所の?』
『道に迷ったら困るし、外は寒いから。運転手に美琴の特徴伝えてあるから、声かければ開けてくれる』
「……なによ、それ」
ただコンビニの肉まんを届けるだけなのに、黒塗りのVIP車でお迎えだなんて。大袈裟すぎて呆れてしまう。彼、今の自分の立場を都合よく使いすぎじゃないかしら。
やれやれと溜め息をつきながらコートを羽織り、鏡の前で身だしなみを整える。
ふと、鏡に映る自分の顔を見て、足が止まった。
……もし、外で偶然あいつ(上条)に会ってしまったら?
一瞬、胸の奥がギュッと締め付けられる。
今の私に、あいつと普通に話せる自信なんて、これっぽっちもない。また惨めな顔をして、泣きたくなって、逃げ出してしまうかもしれない。
けれど、迎えの車に乗ってしまえば、誰とも顔を合わせずに彼のいるスタジオまで直行できる。それが、今の私には酷くありがたかった。
このまま誰もいない部屋に一人で閉じこもっていたら、それこそ悪いことばかり考えて、ずっとベッドで泣き続けるだけの最悪な冬休みになってしまう。
それに、彼なら。私と同じように失恋して、お高い弁当より肉まんを欲しがるような不器用な彼になら……今のこの格好悪い私を見られても、変に気を遣わなくて済む気がした。
……振ってしまったのは私なんだけど。
「……そうよ。これはサンドイッチの恩返し。ただの暇つぶし」
完璧な自己正当化を済ませた私は、スマホをポケットに突っ込み、指定された大通りへと足早に向かった。
◆
大通りの路肩には、彼の言う通り、スモークガラスで中の見えない真っ黒なワンボックスカーがハザードを点滅させて停まっていた。
恐る恐る近づくと、自動でドアが開き、パリッとしたスーツ姿の運転手さんが「御坂様ですね。お待ちしておりました」と恭しく頭を下げた。
「……なんか、大袈裟すぎて帰りたい気分なんですけど……」
私は小さくため息をつきながら、広すぎる革張りの後部座席へと乗り込んだ。
「……あの、運転手さん。すみませんけど、そこの角のコンビニに寄ってもらえますか?」
「畏まりました」
黒塗りの高級車を大衆コンビニの駐車場に駐めさせ、制服姿の中学生が肉まんを買って戻ってくる。
あまりのシュールさに、一人でいたたまれなくなって溜め息をついた。
車内に充満する肉まんの匂いと、高級な芳香剤の香り。
……彼、本当に遠い世界に行っちゃったんだな。
膝の上のビニール袋の温もりを感じながら、少しだけ胸の奥がチクッとした。
車は第十五学区の大通りから一本外れた、路地裏に滑り込んだ。
停まったのは、看板一つ出ていない、コンクリート打ちっぱなしの無機質なデザイナーズビルの裏手だった。
一見するとただの怪しい倉庫にしか見えないけれど、ファンの出待ちを防ぐためには、これくらい徹底的に気配を消す必要があるのだろう。
車を降り、『着いた』とメッセージを送る。
数分後、重厚なガラス扉の内側に、見慣れたパーカー姿が現れた。
「マジでわざわざ申し訳ない……」
内側から鍵を開けてくれた彼の顔を見て、私は息を呑んだ。
目の下にはひどいクマ。
顔色は青白く、まるで白昼堂々現れた幽霊だ。遠い世界どころか、三途の川に半分くらい足を踏み入れている。
「ちょっと、大丈夫なの……? ていうか、いつから起きてるのよ」
「わかんない。もうゲシュタルト崩壊して、時計の針が読めない……。あ、中入って。外、寒いだろ」
「えっ、い、いいの? 私なんかが入って」
「いいよ。マネージャーいわく俺、いま日本で一番売れているアーティストらしいから、このくらいなんてことないっしょ」
自嘲気味に笑って、彼は重厚な金属の取っ手を押し下げた。
プシュッ、と気圧の抜けるような鈍い音がして、厚さ十センチはありそうな防音扉が開く。
「……なに、ここ」
促されるまま足を踏み入れた私は、思わず声を漏らした。
外の光が一切入らない薄暗い室内。
正面には無数のツマミが光る巨大な機材の壁があり、ガラス窓の向こうにはマイクが一本だけ置かれた密室が見える。
まるで漫画や映画に出てくる宇宙船みたいだ。
機材の熱とコーヒーの匂いが充満する空間は、自分の足音すら不自然に吸い込まれていく感覚がして、ひどく落ち着かない。
そして、その奥。
レザーソファには、高そうなオーダーメイドのスーツを着崩した綺麗な大人の女性が、毛布にくるまって死んだように眠っていた。
……綺麗な人だけど、なんだろう。
無防備に寝ているはずなのに、常盤台の舎監やアンチスキルの先生たちよりも隙がないというか。
妙にヒリヒリした威圧感を放っている。
そんな私の戸惑いなど露知らず、彼はパイプ椅子にドサッと腰掛けると、「はぁー……」と地を這うようなため息をついた。
「はい、これ。リクエスト通り肉まんと、温かいお茶」
「おお……っ! 美琴さんマジ女神、お前マジで一生大切にする……」
「っ!? サラッとそういうこと言うのやめなさいよ!」
「へぁ? ああ、悪い。なんだっけ? 眠すぎて何も考えずに喋ってるわ
」
「あんた本当にいい性格してるわね……」
彼は肉まんを両手で大事そうに包み込み、ハムッ、と大きな口を開けてかじりついた。
そして今まで見たこともないくらい、無防備で幸せそうに顔を綻ばせる。もぐもぐと口を動かしながら、温かいお茶を流し込んで、深く息を吐き出した。
黒塗りの高級車に乗せられた時は、本当に『遠い世界』に行っちゃったんだと少し寂しくもなったけれど。
数千万は下らない機材に囲まれた要塞みたいな部屋で、百円ちょっとの肉まんを頬張って感動しているこのバカは、昔ファミレスで笑い合っていた頃から何一つ変わっていない。
その幸せそうな無防備な顔を見ていたら、なんだか肩の力が抜けて自然と笑みがこぼれてしまった。
「あー……生き返った。胃袋に染みる……」
最後の一口を飲み込んだ彼は、ふぅ、と深く息を吐いて立ち上がった。
そして、暗いガラスの向こうのボーカルブースをジッと見つめ――不意に振り返った。
「……よし。帰ろう」
「えっ? いや、あんたまだ仕事中なんでしょ?」
「もう限界。脳がストライキ起こしてる。せっかくお前が来てくれたのに、こんな息の詰まる場所にいられるか」
そう言って、彼はラウンジの机からペンと付箋を取り出した。
サラサラと『帰りますおつかれさまです』と書き殴り、あろうことか、あの威圧感を放って眠る美人マネージャーの綺麗なおでこに、ペチッと雑に貼り付けたのだ。
「ちょっ、それ雑すぎるでしょ大丈夫なの!?」
「平気平気。ほら、行くぞ」
全く悪びれる様子もなく私の背中を押して、彼は重い防音扉を開けた。
「あー……シャバの空気だ」
無機質なビルから抜け出し、眩しい冬の日差しの中に出るなり、彼は大きく伸びをした。
「あ、そうだ。俺の家行こう。渡すものあるし」
不意に振り返って言われた言葉に、私は思わずたじろいだ。
「…………は?」
「俺の家を経由してもらって、そのまま寮の近くまで送ってもらいなよ。そのほうが楽だし」
「うっ……」
満身創痍のくせに、ドストレートに誘ってくるその目に少しだけドキッとしてしまう。
……まあ、お昼だし。彼に限って変なことなんてあり得ないし。
そもそも私たち、全然そういう関係じゃないし。
必死に自分に言い訳をして、私は大人しく彼と一緒に、待たせていたあの黒塗りの車へと乗り込んだ。
車内は芳香剤の香りに満たされ、分厚いドアが閉まると、外の喧騒はまったく聞こえなくなった。
隣に座る彼は、ふかふかの革張りのシートに深く背中を預け、今にも目を閉じそうになっている。
「……ごめんな。せっかくの冬休みなのに、呼び出して」
ふらふらと船を漕ぎながら、彼がポツリとこぼした。
「本当よ。こっちは寮で年越しの準備とか色々やってたっていうのに」
本当はベッドの上で未練をタラタラと引きずっていたり、彼にメッセージを送るかどうかで悩んでいたなんて死んでも言えない。
私は誤魔化すように少しだけ声を張った。
「そっか。邪魔してごめん。でも、マジで助かったわ。あの要塞にずっといたら、頭おかしくなりそうだったから」
「あんたの仕事場でしょ。……っていうか、あんた引っ越したのね? 前はもっと普通の……あいつの寮の近くに住んでなかったっけ?」
私が尋ねると、彼は少しだけ目を伏せて、自嘲気味に笑った。
「ああ、数ヶ月前にな。家で曲作りから録音まで、全部完結させられる環境が作りたくてさ。わざわざ防音のマンション借りたんだよ」
「……ふーん」
「金かけて、完璧な引きこもり要塞を作ったのにな……。結局、『家だと電源も入れずに寝るでしょ! 信用できません!』ってクレーム入れられて、いつも事務所の監獄スタジオに呼び出されて軟禁されるんだよ。マジで意味わからん。あのマネージャー、絶対俺を過労死させる気だ……労基どこいったんだ」
「……あんたの普段の行いのせいでしょ」
「まちがいない」
彼はあっさりと認めてふはっ、と力なく笑い、革張りのシートにずるずると深く沈み込んだ。
「あーあ……マジで、過労で倒れるだけの最悪な年末になると思ってたのにな」
「……少しはマシになったわけ?」
「マシどころか、最高」
私が呆れたように言うと、彼は半分閉じた目のまま、ふにゃりと口角を上げた。
「ほんと……だって、美琴がわざわざ肉まん持ってきてくれたし……俺、もう今日だけで大満足だわ……」
「は……っ!?」
急に放り込まれたストレートな言葉に、心臓が跳ねる。思わず横を向いて文句を言おうとしたけれど。
「すぅ……」
「…………寝るの早すぎでしょ」
言い逃げするように眠りについた彼の頭は、完全にシートのヘッドレストに傾き、規則正しい寝息を立て始めていた。
……目の下のクマ、本当にひどい。
なんだか怒る気も失せてしまって、私は流れる冬の景色を見つめながら、隣でこっくりこっくりと揺れる彼の横顔を少しだけ盗み見た。
さっきまでのスタジオでの息の詰まるような空気とは違う、ゆったりとした時間が流れていく。
スモークガラス越しに流れる冬の街並みに視線を落とした。
街頭の大型ビジョンには、たった今、彼の新曲のMVが映し出され、道ゆく人々が足を止めて見上げている。
画面の中の遠い存在と、私の隣で口を半開きにして爆睡している彼。
そのあまりのギャップに、私は小さく息を吐いた。
やがて車は、常盤台の学生寮がある落ち着いたエリアとは全く違う、天を衝くような巨大なガラス張りのタワーマンションの地下へと滑り込んだ。
停まったのは、VIP仕様の高級車ばかりが整然と並ぶ、チリ一つ落ちていない白光りの地下駐車場だ。
「……ちょっと、着いたわよ。起きなさい」
「んぅ……あ、わりぃ。爆睡してた」
肩を揺さぶると、彼は目を擦りながらのそりと起き上がった。
運転手さんに待っていてもらうように伝え、私たちは車を降りる。
マンションの内部は、私の想像以上に常軌を逸していた。
専用のキーがないと開かない重厚なエントランス。大理石が敷き詰められたロビーは天井が馬鹿みたいに高く、高級ホテルのようなコンシェルジュのカウンターまである。
常盤台の寮もそれなりに立派だけれど、あっちはあくまで『由緒正しき学生寮』だ。ここは完全に『成功した大人のための要塞』だった。
部外者を一切寄せ付けない厳重すぎるセキュリティゲートをいくつも抜け、彼の生体認証でしか動かない静音エレベーターに乗り込む。
耳がキーンとなるほどの速度で、あっという間に最上階に近い高層フロアへ。足音すら不自然に吸い込まれるふかふかの絨毯が敷かれた廊下を歩き、ようやく彼の部屋の前に辿り着いた。
ピピッ、と電子音が鳴り、重厚な扉が開く。
途端に、ひんやりとした冷たい空気が頬を撫でた。何日も帰っていなかったせいか、暖房の切れた室内は、冬の外気と大して変わらないくらいに冷え切っている。
「……適当に、上がって。スリッパ、そのへんの使っていいから」
彼は靴を脱ぐ動作すら億劫そうにしながら、ふらふらと壁のスイッチを押し、パチ、パチ、と無機質なダウンライトを点けていく。
「お邪魔しま……えっ」
促されるまま足を踏み入れた私は、思わず息を呑んだ。
巨大な窓から冬の澄んだ青空と学園都市の街並みが一望できる、バカみたいに広いリビング。壁には分厚い防音材が張られ、部屋の半分を占領するように、さっきのスタジオと同じような数百万は下らない機材の山がそびえ立っている。何台ものモニター、見たこともない巨大なスピーカー、這い回る太いケーブル。
だけど、それ以外が異常だった。
広すぎる部屋の真ん中にあるソファにはクッションのひとつもなく、ガラステーブルの上にはリモコンだけ。キッチンの方を見ても、食器棚は空っぽで、生活の匂いが、一ミリも感じられない。
「……わりぃ、なんか散らかってて」
「どこがよ。散らかるようなモノすら、何もないじゃない」
私が呆れたように言うと、彼は「あー、確かに」と力なく笑った。
「寝に帰るだけだったからな。最近はそれすらできてなかったけど。ちょっと座ってて。水、持ってくる」
フラフラとした足取りで、彼はアイランドキッチンへと向かっていく。
成功者の証。このタワーマンションは、一人で住むにはあまりにも広すぎて冷たい。
冷蔵庫を開ける彼の背中が、巨大な窓から差し込む冬の日差しの中で、なんだかひどく小さく見えた。
やがて、キッチンからミネラルウォーターを持ってきた彼が、落ち着いたモスグリーンの包み紙に細いシルバーのリボンがかけられた、センスの良いラッピングの箱をポンッとテーブルに置いた。
「プレゼント。……前から用意してたんだけど、色々あって渡すタイミング逃した。クリスマス、過ぎちゃったけど」
促されるままに、シルバーの細いリボンに指をかける。
するりと結び目が解け、落ち着いたモスグリーンの包み紙をそっと開くと、中から現れたのは、手触りのひどく滑らかな深緑色のカシミヤのマフラーだった。
一見すると、常盤台の制服にも合いそうなシックで上質なデザインだけれど。
「……端っこ。よく見てみ」
言われてマフラーの端を広げてみる。そこに、生地と同色系の糸で、目を凝らさないと気づかないくらいひっそりと刺繍されていたのは――。
「……っ、ゲコ太!?」
おずおずと顔を出しているゲコ太だった。わかる人には絶対にわかる、完璧なステルス仕様。
いや、それよりも。この見覚えのあるタグのブランド名と、ゲコ太のマーク。これってまさか。
「ちょ、ちょっと待って! これ、夏にネットの抽選販売だけで出た、超高級ブランドとゲコ太のシークレットコラボのやつじゃない!? サイトのサーバーが開始三秒で落ちて、ファンの間じゃ幻のアイテムって言われてる……っ!」
「さすがよくご存じで」
「なんであんたがこれ持ってるのよ!?」
私が思わず身を乗り出して尋ねると、彼はバツが悪そうにポリポリと頬を掻いた。
「いや……うちの事務所の衣装提供してくれてるアパレルの伝手で、マネージャーにお願いしてみたら手に入った。まぁちょっとしたズルだな」
あっけらかんと言う彼の言葉に、私は絶句した。
「……もらうわけにいかないわよ」
「いいから、受け取って」
箱ごと突き返そうとした私の手を、彼の静かな声が遮った。
「俺からプレゼント渡されても、重いのは分かってるけどさ。俺が持ってても、このゲコ太がタンスの肥やしになって可哀想なだけだし」
彼は申し訳なさそうに私の顔色をうかがうと、自嘲するようにスッと目を逸らした。
「喜んでお迎えしてもらえる人のところに行くのが一番だろ。だからダチからの貢ぎ物ってことで、遠慮しないで使ってやって」
「…………そこまで言うなら、ありがとう」
自分の感情をわざとらしいくらい『友人』の枠に押し込めて、これ以上私に負担をかけまいとしている。その不器用で残酷な優しさが、痛いほど伝わってきた。
「あー、あとこの前、電話で困らせるようなこと言って悪い。忘れてくれ。それでマフラーはよければ使ってやって」
「……わ、わかったわよ」
私がマフラーをぎゅっと胸に抱きしめると、彼は「よかった」と、今日一番の、心底ホッとしたような笑顔を見せて――。
「……じゃ、俺はもう、限界……おやすみぃ……」
ドサッ。
「……え?」
鈍い音が響いた。
まるで、今まですべてを支えていた一本の糸がプツンと切れた操り人形のように。彼はそのまま、リビングのラグの上に力なく倒れ込んでしまったのだ。
「ちょ、ちょっと! こんなとこで寝たら風邪引くでしょ!」
慌ててマフラーをテーブルに置き、彼の腕を掴んで引っ張り上げようとするが、ぴくりとも動かない。完全に意識を手放している。
「起きて! ほら、せめてベッドまで歩いて!」
冷たい頬をペチペチと叩いて揺さぶると、彼は「んぅ……ベッド、いく……」と、虚ろな目のままフラフラと立ち上がった。
私は慌てて彼の腕を自分の肩に回し、その腰をしっかりと支える。
肩にのしかかる、ズシッとした男の子の体重と、服越しに伝わってくる体温。バカみたいに広い冷たい部屋の中で、不格好な二人三脚みたいにして、なんとか部屋の奥にある巨大なベッドまで辿り着いた、その瞬間だった。
「……ぁ、」
「わっ!?」
ベッドの縁に差し掛かったところで、彼の膝から完全に力が抜けた。
全体重を預けられていた私の足も、ラグの毛足に引っかかる。体勢を立て直す余裕なんて、一秒もなかった。
私たちはもつれ合うようにして、そのままベッドへと倒れ込んだ。
ボフッ、とシーツが深く沈み込む鈍い音がして、視界が激しく反転する。
「…………っ!!」
仰向けに倒れ込んだ彼の胸の上に、私が完全に乗り上げる形で折り重なっていた。
至近距離にある顔。彼の体の熱が、服越しに伝わってくる。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の音が、うるさい。早く退かないと。
そう思って腕に力を込めようとした瞬間。
ポン、と。
私の肩に、そっと手が置かれた。それは、触れたら崩れてしまいそうなガラス細工を扱うような、ひどく臆病で、優しい手だった。
「……しんどいよな」
泣いている子供をあやすように、トントン、と優しく肩を叩かれる。
「その傷はすぐには癒えない。きっと心臓を直接引き千切られたみたいに痛くて……マジで、この世の終わりだって本気で思うくらいに辛い」
彼が言う「この世の終わり」を味わわせた張本人は、私だ。
そして今、彼の体温に触れながら私の脳裏を支配しているのは……あいつに拒絶された瞬間の、あの絶望だった。
最低だ。私は、なんて最低なんだろう。
こうして自分を責め続けるのも、もう何十回目になるかわからない。
こんなにも優しく私を気遣ってくれている人の上で、別の人のことを考えて泣きそうになっている。
こんな醜い私を、突き飛ばして軽蔑してくれればいいのに。
「……しんどい、けど」
肩を優しく叩く手が、少しだけ止まる。
「嫌だけど、辛いことも全部含めて、恋なんじゃないかな」
「ぜんぶ……」
「そう、全部」
「……っ」
「俺は叶わなかった。でも今、俺の好きな子がベッドまで介抱してくれて……これはただの事故だけど、こんな近くにいてくれる」
ふにゃり、と。彼は無防備な顔で笑った。
「すげー幸せだ……」
「っ……あ、あんた、何を……」
「だからさ、美琴。これは世界の終わりじゃない」
私の肩に置かれていた彼の手から、ふっと力が抜けた。
そのまま力なくするりと滑り落ち、シーツの上に投げ出される。
私を縛るものは何もない。腕に力を込めれば、今すぐこの熱から逃げられるはずなのに。
なぜか身体が鉛のように重くて、彼の胸の上からどうしても退くことができなかった。
「恋愛に……正解とかないし……」
途切れ途切れの、掠れた声。
半分閉じた瞳が、最後に私を真っ直ぐに捉えた。
「上条のこと、どうするにしても……」
「……っ」
「後悔しないように」
「……俺は、ヒーローになれなかったな」
その言葉を最後に、彼の瞳がゆっくりと閉じられ、今度こそ本当に静かに、深い寝息を立て始めた。
「…………ぁ、」
彼の胸に顔を埋めた体勢のまま、私は声にならない息を吐き出す。
至近距離から伝わってくる、規則正しい鼓動。
視界が、急激に歪んでいく。ポタッ、と。彼のパーカーの胸元に、透明な雫が落ちて染みを作った。
ずるくて、醜くて、身勝手な私。
あいつへの未練を全部見透かした上で、彼はそれを肯定してくれた。
諦めても、諦めなくてもいいと。ただ、後悔しないようにと。
罪悪感で押しつぶされそうだった。
でもそれ以上に、私に向けられた底なしの愛情が、熱くて、痛くて、どうしようもなかった。
失恋の絶望で凍りついていた私の心臓が、彼の不器用な体温によって無理やり溶かされて、脈を打たされている。
「……バカ……」
私は袖口で乱暴に涙を拭い、彼の体温から逃げるように、弾かれたようにベッドから降りた。
荒れ狂う鼓動をなんとか抑え込みながら、振り返る。
巨大なベッドに横たわる彼は、穏やかな寝息を立てていた。
その無防備な寝顔を少しだけ見つめ、私は小さく熱い息を吐き出す。
毛布を肩口までかけてやり、テーブルに置かれた箱を大事に胸に抱え込んで、そっと、この広くて冷たい部屋を後にした。
待機していてくれた運転手さんに歩いて帰りますと伝え、短く頭を下げた。
冬の冷たい風に当たって、今のこの熱くて、息苦しくて、でも少しだけ温かい感情を、ちゃんと冷まして整理したかったから。
箱から取り出した深緑色のマフラーを両手で持ち、私は立ち止まった。
本当にひどい奴だ。
一番助けてほしい時、そばにいてほしい時に現れて。
私の目に見えるもの、聞こえるもの、その全部をあんなに鮮やかに色付けたくせに。
他の誰かを好きになるなんて。
こっちの気持ちも考えてほしい――そんな理不尽な怒りを、ここにいないあいつにぶつけてしまう。
私が勝手に好きになって、恋をして、告白して、フラれたんだ。
フラれた絶望も、心臓を引き千切られるようなこの痛みも、綺麗サッパリ忘れることなんてきっと一生できない。
それも恋だとわかっていても辛くて。
そう思って、心は冷たい暗闇の中でずっとうずくまっていたはずなのに。
『――――俺は、ヒーローになれなかったな』
脳裏に蘇ったのは、自嘲するように笑った彼の掠れた声だった。
そんなことない。きっと、誰だってヒーローになれる。
絶望して、どうしようもなく惨めだった私の肩に優しく触れて、「世界の終わりじゃない」と励ましてくれた彼のように。
覚悟を決めろ、私。
痛いなら、痛いままでいい。無理に忘れようとしなくていい。
だけど、いつまでも「フラれて可哀想な私」のままで、泣いて立ち止まっているのは今日で終わりにしよう。
きっとそう決心してもすぐには無理で、でも『後悔しないように』と背中を押してくれた、不器用なヒーローの優しさを裏切らないために。
潤んだ目を袖口で乱暴に拭い、私は深緑色のカシミヤをそっと自分の首元に巻きつけた。
滑らかな温もりと、端っこでとぼけた顔をしているゲコ太。
「……大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
はっきりしない未練も痛みも悲しみも全部抱えたままで。
私は私の足で、力強く前に進むんだ。
大通りへと歩き出すと、駅前の大型ビジョンから聴き慣れたメロディが降ってきた。
ふと見上げると、彼の新曲のMVが流れている。
洗練された光の中で、どこか遠くを見つめて歌う姿。
信号待ちをしている周りの人たちが、その歌声に惹きつけられるように見入っていた。
「……お返し、どうしようかな」
小さく呟いて、無意識に笑ってしまう。
冷たい冬の風が吹き抜けても、首元だけは嘘みたいにポカポカと温かい。
澄み切った冬の青空の下を、私はさっきよりもずっと力強い足取りで、真っ直ぐに前を向いて歩き始めた。