とある男女のハッピーエンド 作:ゆうらぎ
昨夜から続く曲作りの熱は、朝を迎えても一向に冷める気配がなかった。
次々と新しいメロディやフレーズが頭の中に湧き上がってくるのだが、いつもと同じ自室の景色では、どうにも思考が酸欠を起こしそうだった。
ただ単に、外の冷たい空気を吸いながらノートを広げたかっただけだ。
ちょうどスタジオが機材トラブルで潰れ、奇跡みたいな丸一日オフだ。
美琴に『一日オフ、ありがたい』と送ったら、『たまにはちゃんと休みなさいよ』と、気遣いと小言が五分五分で混在している返信。
まあ、あいつらしいといえばあいつらしい。
俺は苦笑して、ノートを鞄に突っ込んだ。
少し離れたエリアまで足を伸ばして、路地裏で見つけたアンティーク調のカフェに入った。
扉を開けた瞬間、暖かい空気が顔に当たった。外が冬の乾いた冷気だったせいで、その温度差がやけに体に染みる。
コーヒーと、バターと、かすかに甘い何かの匂い。落ち着いた照明。静かなBGM。窓から差し込む冬の日差しが、木製のテーブルの上で柔らかく散っている。
天井には年季の入ったシャンデリアがぶら下がっていて、その光がカップの縁でちかちかと揺れていた。客足もまばらで、悪くない。むしろとてもよい。
ソファに腰を下ろしてコーヒーを頼み、目深に被っていたパーカーのフードを外し、ノートを広げてペンをとった。
どれくらい時間が経っただろうか。コーヒーのおかわりを頼もうとして――。
カラン、カラン、カランッ。
立て続けに店のドアベルが鳴ったかと思うと、どっと客がなだれ込んできたのだ。
常盤台の制服。常盤台の制服。どこを見ても常盤台の制服。
(……マジですか)
しまった。ここは常盤台の生徒たちの穴場カフェか何かだったのか。
休日の午後を楽しむお嬢様たちのテリトリーに、黒いパーカーの野郎が一人、完璧に迷い込んでいた。
華やかな笑い声と甘い香水の匂いが漂う空間で、俺だけが明らかに浮いている。
逃げるようにノートへ視線を落とす。
こっそりと周りの様子を窺うと、空いた皿を下げに来た店員が俺の顔を驚いたように二度見し、そそくさと奥へ引っ込んでいった。
直後、カウンターの陰から複数の店員が顔を出しこちらに視線を送ってくる。
気まずい。かなり気まずい。
油断してフードを外したことを後悔した。俺の見通しが圧倒的に甘かったらしい。
有名人の自覚を持てというのは正論だが、半年前まで一般人だった人間にそれを求めるのは酷というものだ。……ただの言い訳なのは痛いほどわかっているけれど。
下手に動くのは悪手だ。表情を無にして、気配を殺して、ひたすらやり過ごす。
運ばれてきたコーヒーを一口飲む。うん苦い。でもこの苦さが頭をさらに覚醒させてくれる。
しばらくそうして縮こまってちびちびとコーヒーを飲んでいると、ふと、周囲の様子がなにかおかしいことに気づく。
ざわめきが、潮が引くみたいに消えていた。
周りを見渡すと、奇妙な光景が広がっていた。
他の席は全部埋まっているのに、俺の周りだけぽっかりと空白地帯ができあがっていた。さっきまで隣のテーブルで談笑していたお嬢様たちが、いつの間にかいなくなっている。
(なんだこれ?)
ふと、上品な香りが鼻をかすめた。
ベルガモットと、アイビー。甘くて気品があり、それでいて静かに落ち着いた匂い。
「あのぅ……突然お声がけしてしまって、ごめんなさいませぇ。プライベートなお時間に、少しお邪魔してもよろしいかしらぁ?」
顔を上げた。
蜂蜜色の長い巻き髪が、カフェの照明を受けてやわらかく輝いている。
蜘蛛の巣柄のレースの手袋に包まれた両手は、小さな可愛らしいバッグの持ち手をきゅっと握りしめていた。
そして、瞳。星を散らしたような、吸い込まれそうなほど複雑な虹彩。
光の射し方で万華鏡のように色を変えるその目は、どこか現実味がない。
一見すれば、近寄ることすら躊躇われるほどの気品を纏ったお嬢様――なのだが。
ほんのり朱に染まった頬と、胸の前で祈るように組まれた指先が、完璧な令嬢の鎧の隙間から『めちゃくちゃ緊張してます』という雰囲気をだだ漏れにさせていた。
こういう、計算なのか素なのか分からないギャップは反則だと思う。
俺の感想なんて、どうでもいい話だが。
「もしかして、歌手の——様、でしょうか?」
「……一応、そうですけど」
「あっ……!」
花が咲くように、顔が輝く。
「やっぱり……! 私、あなた様がデビューする前の、一番最初の動画からのずぅっと大ファンですわぁ!」
興奮気味に一歩身を乗り出してきた彼女のバッグに、見覚えのあるチャームが揺れていた。
公式ファンクラブの、会員番号一桁台限定の品。美琴も持っている、ファンクラブ開設当初の限定グッズだ。
そんな昔から聴いてくれていたのか。
「応援してくれてありがとう。――それと、そのチャーム」
「えっ?」
「初期の限定グッズだよね。そんな前からずっと聴いてくれてたんだ。本当にありがとう」
俺がお礼を言うと彼女は「っ……!」と小さく息を呑んで、みるみるうちに顔を赤くした。
耳の先まで染まって、純白のレースの指先がバッグのチャームをそっと包み込む。
「き、気づいていただけたんですかぁ!? 嬉しいですわぁ……ふふっ、ありがとうございますっ。私の宝物ですの☆」
愛おしそうにチャームへそっと触れてから、流れるような優雅な所作で向かいの席の背もたれに手を添えた。
「お行儀が悪いこと、重々承知しておりますのよぉ……。本来なら、こうして不躾にお声をかけるなんて、淑女にあるまじき振る舞いですわぁ。盛り上がってしまって、申し訳ありません……」
そこで一度言葉を切り、彼女はバッグの持ち手を指先が白くなるほどぎゅっと握りしめた。
「ただ! 今日というこの奇跡を前にして、素通りして帰るなんて……私には、どうしてもできませんの。ですからほんの少し、コーヒーが冷めるまでの間だけでも、相席させていただいてもよろしいかしらぁ?」
その瞳はキラキラと輝き、全身からは「もし断られたらその場で泣き崩れるのではないか」と思わせるほどの、逃げ場のない切実なオーラが漂っている。
「あ,ああ。もちろん、構わないけど」
「っ……! ふふっ、ありがとうございますっ☆」
ふわりと、向かいの席に腰を下ろす。
スカートの裾を整えて、バッグを膝の上に置いて、小さく深呼吸をして。
やがて顔を上げた彼女は、熱狂的なファンの顔から少しだけ表情を和らげ、気品のある淑やかな笑みを浮かべた。
「申し遅れましたわぁ。私、常盤台中学の食蜂操祈と申します」
ふわりと片手を頬に添え、完璧な角度で小首をかしげる。
その一挙手一投足が、計算し尽くされた舞台演劇のように優雅で、それでいて天然の華やかさに満ちていた。
「—―――です。改めてよろしく」
俺が名乗ると、彼女はうっとりとした表情で、弾かれたように目を細めた。
「歌声はもちろん、こうして向けられる話し声も……まるで心の奥底を優しく撫でられているみたいで、不思議な響きがありますのねぇ。こんなに素敵な声を独り占めしてお話しできるなんて……ふふっ。もしファンクラブの令嬢たちがこの光景を知ってしまったら、街中で暴動が起きてしまいますわぁ☆」
クスクスと笑う。カフェの照明の下で、蜂蜜色の髪がふわりと揺れた。
どう返したものか分からなくて、俺は曖昧な苦笑を浮かべることしかできない。
自分という人間そのものに向けられた真っ直ぐな褒め言葉への「正しい返し方」を、俺はいまだに習得できていなかった。
感謝を伝えるべきか、謙遜すべきか。迷っている間に、いつも機を逃して気まずい沈黙を作ってしまう。
たぶんこの先も、一生身につかないスキルなのだろう。
――その、沈黙のさなかだった。
俺は彼女の瞳から、目が離せなくなった。
蜂蜜色のキャンバスに、星の輝きを閉じ込めたような特異な虹彩。
光の射し方や瞬きのたびに、万華鏡のように複雑な表情を組み替えていく。
見つめていると、自分の思考がその色彩の奥底に、ゆっくりと、けれど抗いようもなく引っ張られていくような錯覚に陥った。
気づいたら、テーブルから身を乗り出していた。
「!!……あ、あの。な、何か……?」
息がかかるほどの距離に、彼女の声から余裕がすっと消える。胸元のリボンをギュッと握りしめている。
でも今の俺には、それを気にする余裕がなかった。
「……すごい」
「えっ?」
目尻を指先でトントンと叩きながら、ぽつりとこぼす。
「万華鏡みたいだ.瞬きするたびに、色んな感情の欠片がポロポロと形を変えていくみたいで。光を反射して、すごく綺麗で」
でも……。
「なんでだろ。すごく悲しそうに見える」
ピタリ、と彼女の動きが止まった。
ほんの一瞬だけ、瞳の奥の光が揺れた気がした。けれど彼女は取り乱すこともなく、ただ静かに伏し目がちになって、ふうっと小さく息を吐く。
「……ふふっ。すごいですわねぇ、あなた様は本当にすごい」
するりと核心を躱すような、静かで、どこか優しい声だった。
その静かな微笑みでハッと我に返った瞬間――自分がたった今口走ったセリフが、客観的な音声として脳内で再生された。
(万華鏡? 悲しそう?)
……痛い。痛すぎる。
秒で自分の顔面からサーッと血の気が引いていくのが分かった。
「あ、死にたい」
初対面の人間に何言ってんだ俺は。
ずっと一人でばかり曲作りをしてきたせいで、インスピレーションが湧いた時に思考を声に出す癖があることを、今日この瞬間まで完全に失念していた。
脳内に浮かんだポエムをそのまま人に向かって垂れ流した。
自分でやっておいてなんだが、客観的に見てライン超えの最高にキモい不審者ムーブだ。
どこかに打ち上げボタンがあればいい。
いっそそれを目の前の彼女に押してもらって座席ごと空に放り出され、成層圏を抜ける前に潔く爆散したい。
「……驚くほど自分が気持ち悪かったから、記憶を消して自己紹介のところからやり直してもいい?」
「……」
返事がない。恐る恐る顔を上げると、食蜂さんは両手で顔を覆っていた。
指の隙間から覗く耳が、じわじわと赤くなっていく。
肩が、小さく震えている。
笑っているのか泣いているのか――どっちか分からなくて、俺は固まった。
「……ふふっ」
くぐもった、嬉しそうな笑い声。
「無理ですわぁ……。あなたのその声で、しっかり私のこの耳に刻み込まれてしまいましたからぁ」
指の隙間からこちらを窺う目が、潤んでいた。
「それに……気持ち悪いだなんて、とんでもない」
両手を下ろして、真っ直ぐに俺を見る。笑顔だけど、さっきの完璧な笑顔とは少し違う。もう少し、素顔に近い。
「私、とても驚いたんですの。能力も何も使わずに、ただ瞳を見ただけで、視線を交わしただけで……私の心の一番奥まで、全部見透かされてしまったみたいで」
窓の外で、風が枯れ葉を転がしていく。
乾いた冬の音が、ガラス一枚隔てた向こうから聞こえてくる。
人の本質を見抜く。
……それは買い被りもいいところだ。
もし俺にそんな便利なスキルが本当に備わっているなら、日頃からあいつ――美琴が何を考えているのかだって、もっと上手く察してやれる。
そんな自嘲と気まずさを誤魔化すように、俺はコホンと咳払いをして周囲へと視線を彷徨わせた。
そういえば。
俺たちの周囲だけ、不自然なほど静かだ。
他の席は全部埋まっているのに、近くのテーブルには誰も座っていない。さっきからずっとそうだったのに、食蜂さんと話している間は全く気にならなかった。
「どうかされましたのぉ?」
「……混んでるのに、なんで近くに誰も座らないんだろう」
俺が視線を向けると、通路や壁際で様子を窺っていた常盤台生たちがビクッと肩を揺らした。
「ああ、それは私の派閥の子たちにお願いして、少しだけお手伝いをしていただきましたのよ。あなた様との時間を、誰にも邪魔されたくなかったですし☆」
ただ俺と二人きりで話すために生徒たちを動かしてカフェの一角を占拠する。
スケールが大きすぎて呆れるより先に感心してしまう。
ただこれ、他のお客さんにめちゃくちゃ迷惑じゃないか……?
あと女の子たちに、俺なんかのためにずっと気を遣わせているのも申し訳ない。
俺はひとまず、遠巻きにこちらを囲む生徒たちを見渡した。
すると少し離れた席で周囲を見守っていたツインテールの少女と、バッチリ目が合ってしまう。
謝罪の意味を込めてペコッと頭を下げると――彼女はビクッと固まった。
『わ、わたしですか?』とでも言いたげなジェスチャーで周囲を見渡してから、隣の子の袖を引っ張って何やら焦ったように話しかけている。
二人は恐る恐るこちらへ視線を向けてきたので俺はもう一度、軽く会釈をした。
すると二人は顔を見合わせ、胸元で遠慮がちにちょこんと手を振ってくる。
それに応えるように俺も控えめに手を振り返してみる。
その瞬間。
「〜〜〜っ!?」
声にならない悲鳴を上げて、二人同時に顔を赤くし、お互いにしがみつくようにしてクルッと背中を向けると、肩を寄せ合ってわちゃわちゃと身悶えし始める。
えっ、なにこのやりとり、すごく恥ずかしい。
俺が顔を覆って小さく身を縮めていると、食蜂さんのくすくすという笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ。あの子たちには、とっても良い思い出になったと思いますわぁ」
「……だったらいいけど。柄にもないことして変な汗かいてきたよ」
「自己評価が低すぎますのよぉ。ここにいる子たち、みーんなあなた様のファンなんですから。中には『いつかお会いしたい』と、ずっと心待ちにしていた子もたくさんいますのよ?」
「心待ちにって……」
ざっと見渡しただけでも、広い店内には二十人以上の常盤台生がいる。
呆れられるかもしれないが、画面越しの無機質な再生数やコメントではなく、これだけの『生身の人間』が俺という存在を認知し、熱を向けてくれているという事実を半年前までただの一般人だった俺の脳は、まだ上手く処理しきれていないのだ。
「そういえば、俺がここにいるってどうやって分かったの?」
「ふふっ。推しのためなら情報網も労力も惜しみませんのよ☆ つまりは監視を――というのは冗談で、たまたまこのお店であなたを見かけた派閥の子から連絡があったんです」
「連絡網まであるのか……」
「ええ。……知らせを聞いて急いで車を手配したのですけれど、年末で道が混んでいまして。お店を出てしまう前にどうしても一目お会いしたくて、最後は自分の足で走ってきましたのよ」
「えっ、走ってきたの?」
「慣れない寒空の下を急いだのですから、本当に疲れましたわぁ……。息は上がるし、足は縺れるし、私、運動なんて普段から全然し――っ、こ、こほん!」
ハッとして口元を手で覆う。何か変なことを言ったのだろうかと首をかしげる。
彼女は頬を赤くしてプイッとそっぽを向いた。
「い、今のは聞かなかったことにしてくださいませっ! ……と、とにかく、少しお茶でもして落ち着きましょうか」
やがて店員が運んできたのは、優雅なティーセットと小ぶりな季節のフルーツタルトだった。
先ほどの気まずい空気をふわりと上書きするように、食蜂さんは「ここのケーキ、ずっと気になっていたんですの」と微笑み、上品な手つきでフォークを取る。
「ほ、本当はカロリーを気にしないといけないのですけれど……今日はあなた様にお会いできた、特別中の特別な記念日ですからっ☆」
自分に言い訳をするように言ってから、一口サイズに切り分け、ゆっくりと口に運ぶ。
フォークの持ち方ひとつとっても、ため息が出るほど綺麗で優雅だ。
何をするにしても指先の所作が洗練されている。だが――。
「んっ……ふふっ」
彼女の頬がふっと緩み、幸せそうにとろんと目を細めた。
近寄りがたい女王のような気品を纏っている彼女。
でも今はただ美味しいケーキを食べて喜んでいる、年相応の女の子の素顔がそこにあった。
食蜂さんはカップを両手で包むようにして持ちながら、湯気の立ち上る紅茶をぼんやりと眺めていた。
窓の外では冬の日差しが白く街に降り注いでいて、店の中の温かさとガラス一枚でくっきりと分かれていた。
「まさか、こんな風に直接お話しできる日が来るなんて」
カップを見つめる彼女の声は、さっきまでとは違う静かな温度を持っていた。
「俺も、まさかこんな熱心なファンとお茶することになるなんて思ってなかったよ」
「ふふっ……あのぅ、ファンとして、一つだけお聞きしてもよろしいかしらぁ?」
「ん? なに?」
「いつか……ライブをする予定などはありますかぁ? あなた様の生の歌声を聴ける日は、来るのかしらぁ……って」
カップを持ったまま、期待と不安が入り交じったような上目遣いでこちらを窺ってくる。
俺は少しだけ考える素振りをしてから、素直な気持ちを口にした。
「実は、今夜に告知を出す予定なんだけど……来年の春にやるよ」
言ってから、あ、と内心で口を押さえた。
まだ関係者以外には秘匿されている情報だ。
いくら目の前の彼女が熱心なファンだからといって、未発表の予定をポロリと漏らしてよかったのだろうか。
そんな俺の不安を余所に。
カチャンッ!
勢いよくティーカップがソーサーに置かれ、食蜂さんがガタッと身を乗り出してきた。
「本当ですのぉ!? ば、場所はどちらで……!?」
「第十五学区の大型アリーナだよ。……でも正直、顔出しするだけでも今から胃が痛いのに、何万人もの前で生歌とか……プレッシャーで胃が死にそう」
俺がげっそりと息を吐くと、彼女はぶんぶんと力強く首を振った。
「あなた様の歌声は、たくさんの人を救いますわぁ! ですから、どうかご自身にもっと自信を持ってくださいませっ」
とても真剣に真っ直ぐな瞳で励まされて、俺は思わず照れくさくなり苦笑した。
「ありがとう。期待に応えられるように頑張るよ。だから食蜂さんも来れたら来てね?」
「もちろんですっ……!」
「できれば最前列とかで。俺から見える範囲の席を全部知り合いで埋められたら、少しは緊張が和らぐかもしれないんだけどなぁ」
冗談と本気半々。
最前列を見知らぬ人間ではなく『顔見知り』で物理的にバリケードしてしまえば、俺の致死量のプレッシャーがいくらかマシになるんじゃないかという、ひたすらに浅ましい計算から出た本音だった。
なんてライブを想像しただけで、プレッシャーで口から魂が抜け出そうになる。
だが、そんな俺の情けない内心など知る由もない食蜂さんは――。
「何がなんでも最前列のチケットを手に入れて、全力で応援させていただきますわねぇ☆」
ガタッ! と椅子を鳴らし、テーブルに身を乗り出すほどの勢いだった。
だが直後、静かなアンティークカフェの中に、自分の大きな声が響いてしまったことにハッとしたのだろう。
「あ……」
両手で口元を覆い、みるみるうちに耳の先まで真っ赤に染め上げる。
「こ、こほん……っ。淑女らしからぬ大声を、失礼いたしましたわぁ……」
そそくさと元の姿勢で椅子に座り直し、ワタワタと照れ隠しのように残りのタルトをゆっくりと口に運ぶ。
完璧な令嬢の仮面をすっ飛ばして慌てふためいたその姿が、なんとも年相応の女の子らしくて、俺は思わず微笑ましく目を細めた。
テーブルに伏せていたスマホが『ブブブブッ』と短く連続で振動した。
画面を裏返すと、美琴からのメッセージ通知がロック画面をびっしりと埋め尽くしている。
どうやら会話に夢中で、今まで届いていた通知を完全に見過ごしていたらしい。
過去の未読メッセージを見る。
『ちゃんと休んでる?』
『もしよかったら放課後少し会わない?』
え、可愛い。会える。いますぐに返信しないと。
だが――その数十分後に届いていたメッセージから、明らかに画面の温度が絶対零度まで急低下していた。
『いまどこ?』
『会えないの?』
『そっち行ってみるね』
そっちってなんだ。なんでわかったんだ。
そして今この瞬間、目の前で画面が震え、新たなメッセージが連続でポップアップする。
『ずいぶん楽しそうね』
背筋がゾクッとした直後、さらにリアルタイムのメッセージが画面上部からスッと降りてきた。
『右』
なんだよ右ってホラー映画かよ。
恐る恐る、本当に恐る恐る、首だけをゆっくりと右へ向けると――
窓の向こうで、美琴がガラスに両手をぴたりと押し当てて、こちらを覗き込んでいた。
愛らしい満面の笑みなのに、目が全く笑っていない。
周囲に青白い火花が見えた気がした。
暖かなはずの店内が一瞬で凍りつくような錯覚を覚える。
(待て待て待て、なんであんなにブチギレてるんだ?)
思考がフル回転する。
お誘いのメッセージを未読スルーしたからか?
それとも、知らない女の子と二人きりで良い雰囲気でお茶しているように見えるからか?
後者か、マズイ。いや、だが待てよ冷静になれ俺。
これはただ熱心なファンに声を掛けられて、成り行きで相席しているだけだ。
やましいことは何一つない。
ちゃんと事情を説明すれば、あいつも分かってくれるはずだ。
そうだ、論理的に話せばすぐに解決する問題じゃないか。
焦るな俺、落ち着け。
必死に自分に言い聞かせる。
だが、窓の向こうの美琴の口角が、深く、底の見えない角度まで上がっていく。目が全く笑っていない。
彼女はにこやかな笑顔のまま、ガラス越しにゆっくりと口を動かした。
お話ししようか?
冷や汗がどっと吹き出し、全身が石のように固まった、その時。
「……あのぅ、どうかされましたのぉ?」
ハッとして視線を戻すと、食蜂さんがフォークを止めて、小首を傾げてこちらを心配そうに窺っていた。
彼女の席からは窓の外が完全に死角になっているらしく、恐ろしい雷神の存在にまったく気づいていない。
「急にお顔色が悪くなりましたけれど……もしかして、どこかお加減でもお悪いのかしらぁ?」
純粋な気遣いに満ちた、甘くて優しい声。
俺は引きつった顔で、なんとか声のトーンだけを取り繕った。
「い、いや。大丈夫。ちょっと、寒いかなって」
「寒気……? まぁ大変。それはお風邪の引き始めかもしれませんわねぇ……」
食蜂さんが心配そうに眉を下げて、俺の顔を覗き込んでくる。
「せっかくお会いできて名残惜しいですけどぉ……無理をするのは絶対にダメなんだゾ☆」
「ありがとう。でも本当に大丈夫だから。ちょっと冷えただけだし」
「本当ですのぉ? ご無理は絶対にいけませんわよぉ?」
俺が必死に頷くと、食蜂さんは少しだけホッとしたように、そしてパッと花が咲くように顔を輝かせた。
「……でしたら、お言葉に甘えてもう少しだけお話を……」
俺の体調を気遣いつつも、嬉しそうに次の話題を振ってくる。
天使かこの子は。
「あ、ああ……そうだね……」
俺が引きつった笑顔でなんとか相槌を打つと、食蜂さんは「ふふっ」と嬉しそうに微笑み、再びタルトにフォークを伸ばした。
カチャリ、と銀のフォークが皿に触れる上品な音がして。
直後。
――カラン、カラン、カランッ。
背後の入り口から、死刑宣告のようなドアベルの音が、高らかと店内に響き渡った。