とある男女のハッピーエンド 作:ゆうらぎ
第七学区の冬の風は、逃げ出した私の頬を容赦なく叩いた。
カフェの扉を抜け、冷たい空気に触れた瞬間にようやく、肺の奥まで酸素が届いたような気がした。
「食蜂派閥」という強固な集団の頂点に立つ私にとって、学園都市の路上は常に視線に晒されるステージでしかない。
喧騒の中、少し離れた席から私を見守っていた派閥の少女たちが、慌ててカフェを飛び出し、私の元へ駆け寄ってきた。
先頭を走ってきたのは、見慣れた縦ロールの髪を揺らす少女――帆風だった。
派閥のナンバーツーであり、誰よりも私の些細な変化に気づいてしまう彼女に追いつかれたのは、今の私にとって一番痛いことかもしれない。
「女王、お待ちになって……!」
息を切らした帆風は、私の顔を覗き込んで小さく息を呑んだ。
遠巻きに見ていたとはいえ、あのただならぬ空気は伝わっていたのだろう。
私の青ざめた顔を見ると、彼女は野暮な詮索を一切呑み込み、背後から追いついてくる少女たちの視線を遮るように、さりげなく私の前へ半歩だけ出た。
それから、背後の子たちには聞こえないほどのひそやかな声で、そっと私の手を取る。
「女王……。もしお辛いのでしたら、わたくしが皆を遠ざけます。すぐにお車の手配もいたしますから……どうか、ご無理だけはなさいませんよう」
それは、自己嫌悪で息も絶え絶えになっている私に、これ以上『女王の仮面』を被らせまいとする、彼女なりの全力の庇護だった。
だが、帆風が私のために逃げ道を作ろうとしてくれたにもかかわらず、事情を知らない他の派閥の子たちが、恋バナに花を咲かせるような弾んだ声で追いついてきてしまう。
「あ、あのっ……! 女王が自らお声を掛けに行かれたの、やっぱり今話題のアーティスト様ですよねっ!? 遠目からでもお二人がすごく素敵な雰囲気に見えて、私たちまでドキドキしてしまって……!」
「それに途中で御坂様がすごい剣幕で入っていかれたので、女王のせっかくの甘い時間を邪魔されたのではとヒヤヒヤしてしまって……! 御坂様、お帰りになられたのですか?」
期待、羨望、そして的外れなロマンスへの好奇心。
私が彼と結ばれることなど簡単ではないと、ついさっき誰よりも思い知らされたばかりだというのに。
(……本当に、笑ってしまうわねぇ)
外から見れば、私たちはそんなふうに見えていたらしい。
あと少し前の私なら、その勘違いさえ心地よく受け入れていたのかもしれない。
私は、肺を焼くような動悸を押し殺し、震える手で帆風の手をそっと握り返すと、指先ひとつ震わせることなく完璧な角度で微笑んでみせた。
「ええ、とっても素敵な方でしたわぁ。御坂さんとも偶然お会いして、少しご挨拶しただけだから。邪魔されたなんてことはなくてよ」
無邪気な好奇心を優雅な声色でふわりと躱し、私は帆風へと視線を移す。
「ただ、少し店内の空調に当てられてしまったみたい。……ごめんなさいねぇ、帆風。お言葉に甘えて、少し休ませてもらうわ。残った子たちにもよろしく伝えてくださる? 今日はこれで解散にしましょう」
それは、長年かけて磨き上げた、決して綻ぶことのない「女王・食蜂操祈」の仮面。
誰一人として、私が今、自分の醜い独占欲と自己嫌悪で死にたくなっていることなど気づきもしない。
一人になりたい。
その一心で迎えの車を強引に断り、困惑する少女たちを背に、私は凍てつく街角へと姿を消した。
人通りの少ない路地に入った瞬間、背筋を伸ばしていた力がふっと抜ける。
彼がいると聞いて慌てて羽織っただけのコートの襟元から、マフラーも巻かずに飛び出した報いというのかしら。
ほんの少し小走りで逃げただけで、肺がヒューヒューと情けない音を立てて痛みを訴えている。
凍えるほど寒いのに、右手のひらだけが、じりじりと熱い。
つい数十分前。
あのカフェのテーブルで起きた惨めな結末が、脳裏にこびりついて離れない。
【数十分前 ―― 第七学区、某カフェ】
彼と二人きりでテーブルに向かい合い、その温かな眼差しと声を独占する。
誰にも邪魔されることなく、私だけに向けられる穏やかな時間。
カラン、と無情に響いたドアベルの音。
不機嫌そうに足早に店へ入ってきた彼女を見た瞬間、私の甘い空間は音を立てて崩れ去った。
乱入してきた彼女の視線は私ではなく、真っ直ぐに目の前の『彼』だけを射抜いていた。
ずかずかと遠慮なく彼の隣に立ち、不機嫌そうに唇を尖らせる御坂さん。
さすがの私も面白くなくて、チクリと牽制の言葉を投げてみる。
「あらぁ、御坂さん。人のティータイムに割り込んでくるなんて、ずいぶんと無作法なんじゃないかしらぁ?」
私の言葉に、彼女は嫌な顔ひとつ見せず、「あぁ、食蜂さん。こんにちは」と軽く挨拶を返しただけで流してしまった。
そしてすぐに彼へ向き直り、連絡がつかなかった文句を口にする。
困ったように謝る彼と、ポンポンと弾む気のおけない自然体なやり取り。
彼は会話から外れてしまった私を気遣うように、もしかして二人は知り合いなのかと不思議そうに話を振ってくれたけれど。
私は愛想笑いを必死に返すことしかできなかった。
困ったように笑う彼の顔を見て、彼女の刺々しかった表情がふわりと柔らかいものへと解けていく。
そのあまりにも無防備な変化を見せつけられて。
(……どういうこと?)
理屈として状況を整理するだけなら、一秒もかからなかった。
だからこそ、胸の奥が気持ち悪いほど冷えた。
もし彼らが、私の入り込む隙間もないほど親密な関係なのだとしたら。
彼が他の女の子と、それもこの私と二人きりでお茶をしている現場に遭遇したのだ。
今までの不器用な彼女なら、言葉にしなくてももっと露骨に嫌な顔をしたり、彼を問い詰めたりしたはずじゃない。
なのに、どうしてそんなに柔らかく笑いかけられるの。
まるで、私という存在なんてこれっぽっちも脅威に感じていないかのように。
彼との間にある何かを、自分では意識すらしていないほど当然のものとして信じ切っているように。
誰の目にも明らかな、二人の間にだけ通じ合う親密な空気。
本人は隠しているつもりなのかもしれないけれど。
他人の感情に敏い私から見れば、その無防備な距離感は、彼に特別な感情を向ける『女の子』のそれ以外の何物でもなかった。
(――まさか。あなたが今、想いを寄せている相手って)
予備知識などなくても、彼女のその表情が意味するものを察するには十分すぎた。
目の前で突きつけられた圧倒的な事実に、私のちっぽけなプライドは簡単に悲鳴を上げたのだ。
――どうして、そんな瞳で『彼』のことを見つめられるの。
あんなにも深く傷ついていたはずなのに。
あなたがずっと一途に追いかけていたのは、あの人だったはずじゃない。
(……また、御坂さんなのね)
胸の奥から湧いた幼稚な感情に、自分で呆れそうになる。
第三位。
私とは性格も能力も生き方も何もかも違うくせに、どうして欲しいもののすぐそばには、いつも御坂さんがいるのかしら。
そうだ。
『あの人』の隣の席は、すでに別の誰かで埋まっている。
御坂さんが想いを伝え、それでもあの人に選ばれなかったことも、常盤台最大派閥の耳に入ってくる断片的な噂と、彼女自身の様子を見ていれば嫌でも察することはできた。
気の毒だとは思う。
けれど、それと同時に。
ちゃんと想いをぶつけて、ちゃんと傷ついて、泣けた彼女が羨ましくて仕方がなかった。
私には、そのスタートラインすら残されていない。
どれだけ近づいても。
どれだけ同じ時間を過ごしても。
あの人の中から、私だけが零れ落ちる。
だからこそ、許せなかった。
真正面からぶつかって、ちゃんと失恋できたはずの彼女が。
私がようやく見つけた、たった一つの『聖域』に当たり前のように踏み込んで、今、彼の隣に自然に立っていることが。
浅ましいのは私の方なのに。
奪われる恐怖に耐えられなくなった私は、咄嗟に一番卑劣な言葉を刃にして振り下ろしてしまった。
『彼を、あの人の「代用品」扱いになんてしていないでしょうね?』
カフェで冷たく放たれた、私の言葉。
醜い嫉妬と自己防衛が暴走して、思わず口を突いて出た最低な一撃。
御坂さんに対しても、そして何より彼に対しても、絶対にぶつけてはいけない残酷な言葉だったと、口にした直後に私自身がハッとして息を呑んだ。
空気が凍りつく。
横目で盗み見た彼は――私の口から『代用品』なんて酷い言葉を突き付けられて、傷ついた顔ひとつ見せない。
まるで自分には怒る権利すらないとでも思っているような、不思議なほど凪いだ瞳で私たちのやり取りを聞いているだけだった。
御坂さんは、一瞬だけひどく苦しそうな顔をした。
それでも、安っぽい正論で自分を飾り立てることはしなかった。
彼女は私からゆっくりと視線を外し、隣に立つ彼を真っ直ぐに見上げた。
『……いっぱい傷つけて、今さら都合よく私の気持ちを伝えるなんて、傲慢で自分勝手だってわかってる』
それは、私への反論ではなく。
ただ目の前の彼だけに向けられた、懺悔のような言葉だった。
『でも、これだけは信じて。今の私は……他の誰でもない、あんた自身を見ているから』
そう力強く言い切った。
それで十分だった。
言い訳もせず彼だけを見つめ返す瞳には、かつての面影を追うような迷いよりも、今そこにいる『彼自身』を求める感情の方が、ずっと強く浮かんでいた。
これ以上、言葉を並べる必要なんてない。
彼女のその視線そのものが、他の誰でもない彼へ向けられているという、何よりの証明だったから。
(――あぁ、なんて惨めなのだろう)
『代用品扱いになんてしていないでしょうね?』だなんて。
そこで、ようやく気づいてしまった。
御坂さんへ投げつけた言葉が、そのまま自分の胸に刺さっている。
――代用品。
「……っ」
笑えない。
一体、どの口が偉そうに彼女を糾弾したというのか。
あの人の温もりが欲しかった。
認識されたかった。
昨日から今日へ、今日から明日へ。
当たり前のように自分の存在を繋いでほしかった。
でも、それが叶わないから。
私は彼に縋り、彼の中に『あの人なら与えてくれたはずのもの』を無意識に求めて、都合のいい虚像を勝手に重ねていただけではないのか。
本当に彼を都合のいい『代用品』に仕立て上げようとしていたのは、他の誰でもない、私自身だったというのに。
自分の浅ましさと、逃げ場のない自己嫌悪に耐えきれず――。
(息が、吸えない……っ)
呼吸が乱れる。
酸素をいくら取り込んでも足りない。
自分の吐き出した醜い言葉と罪悪感に押し潰され、胸の内側が急速に狭くなっていく。
ここから逃げなければ、本当に息ができなくなる。
ただそれだけしか考えられなかった。
私は自分の本性を暴かれた恐怖で、すがるようにカフェのドアへと震える手を伸ばした。
(苦しい。誰か、助けて)
ここから逃げ出したいという一心で、もはや二人の顔を見ることすらできない。
背後から、
「ちょっと、顔色悪いけど大丈夫なの……?」
という御坂さんの戸惑ったような声が遠く聞こえる。
あんなにも冷酷に彼女を糾弾し、土足でその心を掻き乱したというのに。
そんな最低な私に、彼女はどうして、そんなにも真っ当な心配なんて向けてこられるのか。
罵倒されるよりも。
激昂されるよりも。
その純粋すぎる優しさが、今の私には何よりも惨めで、耐えがたかった。
『食蜂さん』
宙を掻くように伸ばした私の右腕に、不意に、力強い温もりが触れた。
逃がさないと告げるような確かな重みと、決して傷つけることのない慎重さを伴った指先が、私の手首をしっかりと掴み取る。
ぐい、と。
引き寄せられる力に導かれ、遠のきかけていた意識が一気に現実へと引き戻された。
凍えきっていた私をその場に繋ぎ止める、火傷しそうなほどの手の熱。
ハッとして振り向くと、すぐそこに、私を軽蔑するどころか、とても心配そうに覗き込む彼の瞳があった。
思わず目を伏せた。
嘘のない彼の、黒すぎて綺麗な青い瞳を見ていられなかった。
だって、怖かったから。
さっきみたいに、また何かを見つけられてしまうかもしれない。
今の私のぐちゃぐちゃな気持ちも。
隠しておきたい嫉妬も。
自分で気づいてしまった、吐き気がするほど醜い本音も。
彼が本当にどこまで気づいていたのかなんて、分からない。
分からないのに。
あの瞳で見つめられると、全部知られてしまうような気がした。
それは、あまりにも怖い。
自分の心臓が、誰の目にも触れられないほど汚れていることを暴かれるのが、とてつもなく怖かった。
立ち尽くし、拒絶するように震える私の両手を、彼はそっと包み込んだ。
ひんやりと冷え切っていた私の指先に、彼の力強い、生きた体温が流れ込んでくる。
震える私を引き上げ、まるで子供と交わす約束のように、彼は繋いだ手を優しく、控えめにぶんぶんと上下に振った。
『今度のライブ、よければ……いや、絶対に遊びに来てよ。来てくれるなら、最前列を用意して招待するから。……待ってる』
そう言ってパッと私の手を離すと、彼は無邪気に笑い、私に向けて控えめにグッと親指を立ててみせた。
『引き止めてごめん。体調、お大事に』
短い一方的なお願い。
ひだまりみたいな声。
呼吸の乱れが、少しずつ落ち着いていく。
――待ってる。
ほんの何気ない言葉だったのだろう。
彼にとっては、春に予定されているライブへ来てほしい。
たぶん、それだけ。
なのに私には、その言葉がどうしようもなく重かった。
来年の春。
まだ数か月も先の未来。
彼は何でもないことのように、その未来の中へ『私』を置いた。
その日になっても、私が私のままで彼の前に現れることを当然のように信じて。
『待ってる』と。
あの人とは、どうしても持つことのできなかったもの。
昨日から今日へ続いて、その先の未来まで繋がっている、当たり前の約束。
そんなものを、彼はいとも簡単に私へ差し出してしまう。
彼が本当にどこまで私の中身に気づいていたのかは分からない。
けれど、私の瞳を覗き込んで、ぽつりとこぼしたあの言葉だけは、今も頭から離れてくれなかった。
『万華鏡みたいだ。瞬きするたびに、色んな感情の欠片がポロポロと形を変えていくみたいで。光を反射して、すごく綺麗で……でもなんでだろ。すごく悲しそうに見える』
私の瞳の奥に広がる、自分でも制御できない感情の色彩。
その一端を、彼は確かに見つけた。
だから怖い。
だからこそ、分からない。
なのにどうして、そんなに優しく笑ってくれるのか。
(……なんて残酷な人)
あの火傷しそうなほどの温度が、今も右手から消えてくれない。
【常盤台中学 学生寮 ―― 自室】
私は、明かりも点けていない薄暗い部屋のベッドに、コートも脱がずに力なく倒れ込んでいた。
床に転がったバッグを拾う気力すらない。
バッグの持ち手で揺れる古いチャームに、そっと指先を這わせた。
彼がデビューしてファンクラブが設立された直後、『一桁台』の会員番号を手に入れた時は、心から喜んだ。
すがりつくようにスマートフォンを引き寄せ、画面をタップする。
静寂の部屋に、彼の切ない歌声が流れ始める。
『あの人』の記憶から永遠に弾かれ続け、奇跡を信じることにも疲れ果てていた。
まるで心を殺したように空っぽだった私をすくい上げてくれたのは、たまたま立ち寄ったカフェで偶然耳にした、話題になり始めたばかりの彼の曲だった。
曲名は『ハッピーエンド』。
耳を惹くテンポの良い明るいギターの音色と、圧倒的な歌唱力。
紡がれる言葉はどうしようもなく切なくて。
失恋の辛さと自分の弱さを嘆きながらも、決して相手を責めず、どうか幸せになってほしいと祈るその歌は――私の人生を変えてしまうほどの衝撃だった。
音楽を聴いて泣いたことなんて、それまで一度もなかったのに。
ボロボロと溢れる涙を拭うことすら忘れながら、私は音楽の持つ力と、それに気づかせてくれた名もなき彼に、深い感謝と敬意を抱いた。
あの日からずっと、彼だけを追いかけてきた。
すべての曲を擦り切れるほど聴き返し、全曲の歌詞を暗記するくらい夢中になった。
……それが、癒えない痛みからの『逃避』だったとしても。
行き場をなくして傷だらけになった心に寄り添い、祈るような声で肯定してくれた彼の存在は、私にとって間違いなく唯一の救済だった。
彼の歌は、私の傷を消してくれたわけではない。
あの人に忘れられる痛みも。
何度積み重ねても、私だけがあの人の中から零れ落ちていく虚しさも。
何一つなくなってはいない。
ただ。
『痛いままでも、ここにいていい』
そんなふうに、隣へ座ってくれている気がした。
あの頃の私には、それだけで十分だった。
『これが最後の失恋だと』
『もう二度と、誰も愛さないと』
『そう誓うほどに、痛かったはずなのに』
スマートフォンのスピーカーからそのフレーズが届いた瞬間、瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
あの人に永遠に自分を覚えてもらえないどころか、想い人がいた。
絶望に打ちひしがれ、もう二度と、誰かを好きになることなんてない。
そう言い切れるほど、心臓が引き千切られるように苦しかったのに。
(本当に……どうして)
たった一度の奇跡を、永遠に待ち続けると誓ったはずだったのに。
あっさりと別の温もりに縋って、新しい恋に落ちてしまうなんて。
なんて薄情で、滑稽で、みっともない女だろうと自分でも思う。
今の私は、嫉妬に狂って、御坂さんが想いを寄せている相手へみっともなく手を伸ばそうとしている、ただの浅ましい女だ。
『常に余裕のある気高い女王』だと、盲目的に私を慕う外野の顔を想像すると、思わず自嘲気味な笑みがこぼれてしまう。
「一途じゃない」と笑いたければ笑えばいい。
安全な場所から見ているだけなら、いつまでも一人の人を想い続ける姿は、きっと綺麗に見えるのだろう。
『想い続ける姿が美しい』
『いつか奇跡が起きて報われてほしい』
そんなふうに、無責任に同情することだってできる。
でも。
じゃあ、私のこの痛みは?
この息も絶え絶えの悲しさは、一体いつまで続ければいい?
それを、外から見ている分には綺麗で。
なにかの物語として私を眺めるのなら、一人の男だけを永遠に想い続ける女は、さぞ美しくロマンチックに映るのだろう。
私だって、ずっとそうあれたらよかったと思う。
でも、現実の私はそんなに綺麗じゃない。
誰かにわかったような顔で私の心を語られたくない。
自分のことすら、よくわからないのに。
それでも、起きてしまった。
永遠を誓ったはずなのに、あっさりと別の温もりに絆されてしまった。
(本当は、ただただ私を覚えていてほしかった。一緒に過ごした時間を知って、わかって……消えてしまわない記憶の中で、当たり前に名前を呼んでほしかった……っ)
私の記憶だけが抜け落ちてしまうあの人の脳裏には、私がどんな人間で、どんな時間を共に過ごしたのか、何一つ刻まれることはない。
明日になれば。
いや、私の姿が視界から消えただけで、私はまた『初めましての誰か』にリセットされてしまう。
昨日から今日へと続く時間の中で、当たり前のように私の名前を呼んでほしかった。
私は、愛に殉じる気高い悲劇のヒロインなんかじゃなかった。
息が止まるほど冷たい水底で、『誰かに見つけてほしかった』だけの、どこにでもいる弱い女の子だったのだ。
だからこそ。
心臓が完全に凍りついて死んでしまう寸前に、私のことを見つけて、名前を呼んで、息ができる場所まで引っ張り上げてくれた彼に――抗えるはずがなかった。
この恋もまた、御坂さんが隣にいる以上、どうしようもなく分が悪くて、傷つかずには済まないのだろう。
御坂さんが想いを寄せている相手へ割り込むなんて、女王としてのプライドが許すはずもない、みっともない真似だ。
それでも。
これがどれだけ見苦しい執着であろうと、諦めきれない。
私は静かに目を閉じ、彼に包み込まれた自分の両手を、祈るように胸の前で重ね合わせた。
手にはあの温かくて、私よりずっと大きくて、ごつごつとした男の人らしい質感が、狂おしいほど鮮明に焼き付いている。
その残像を確かめるように、重ねた手をそっと自分の唇へ這わせる。
じくり、と。
胸の奥から、今まで味わったことのない甘く切ない疼きが込み上げてくる。
(どうしよう……。自分の身体なのに私、どうやってこの熱を抑えればいいのか、わからない……)
少しの間、優しく手を握られただけなのに。
それだけで身体の芯が熱を持ち、息苦しくて。
どうにかして落ち着こうとシーツを掴む指先へ力を込め、何度寝返りを打っても、胸の奥に居座る衝動は一向に引いてくれない。
能力を自分自身へ向ければ、この情動を多少は鈍らせることだってできるのかもしれない。
けれど。
不思議なことに、それを試そうとは思わなかった。
この苦しさまで消してしまったら、今日彼と出会って、手を握られて、未来の約束をもらったことまで偽物になってしまうような気がしたから。
どうしようもない恋情が、能力者として何もかも制御したがる私の理性を、少しずつ押し退けていく。
私は熱に浮かされたような息を吐き出し、部屋を満たす愛おしい彼の歌声に身を委ねた。
胸元へ手を添え、先ほどまで彼に包まれていた自分の指を強く握り込む。
目を閉じれば、あの大きな手の感触が何度でも蘇る。
シーツへ顔を埋め、彼の声と、彼が残した体温だけへ意識を沈めていく。
――まるで、叶わなかった恋を、あの人の記憶を、一秒でも遠ざけるように。
ふと、思考の端を微かな違和感が掠めた。
(……あれ)
私はずっと彼の歌を追いかけて、彼の言葉に救われて、今こうして理性を失うほど彼に恋い焦がれているというのに。
今日、あんなに近くで見つめ合って、言葉を交わしたというのに。
(私……今日、一度でも彼の名前を呼んだかしら?)
彼の名前を思い浮かべようとした瞬間の思考そのものが、ぽっかりと黒く抜け落ちているような――。
それは、他人の精神を掌握する能力者としての本能が告げる、あり得ないはずの認知の『空白』
一瞬、得体の知れないなにかが背筋を撫で上――――
(――――あれ? 私、今、何を考えて……?)
ぽっかりと空いた不気味な深淵は、濃密な快楽によって何事もなかったかのようにトロリと甘く塞がれてしまった。
心地よい麻痺だけが、そこにある。
私は重く淀んだ溜息を吐き出し、抗うことを完全に放棄して。
ただ、彼という沼の中へと、ひたすらに堕ちていった。