万事屋のソファーの上で、裸の女が揺れていた。
背もたれに銀さんを押し付け、膝の上にまたがっている。
両手で頭を抱き抱え、
犬が水を飲むような水音が聞こえていた。
見えなくても何をさせているのかが分かるような卑猥な音だった。
女は嬌声を上げ、逃がすまいと銀さんを強くかき抱いている。
目が覚める。相変わらず酷い夢だった。
すっかり日は落ちたようで部屋は暗く、布団に寝かされているのが分かった。
「起きたか?」
気配に気付いた銀さんが声をかけてくる。
すぐ近くに座っていてくれたようだった。
「うん、ごめん。電気点けてもらっていい?」
暗い事が怖い。銀さんの顔が見えていないことが怖い。
怖いことだらけだった。
電気を点け戻ってきた銀さんが、枕元にあぐらをかいて座った。
私も身を起こし固まった身体をほぐす。
着物は整えられ帯が見慣れぬ締め方をされていた。銀さんが締め直してくれたのだろう。思い起こして恥ずかしくなる。
「どうだ?」
「うん、ごめん。さっきは混乱してたみたい。色々聞いてもいい?」
「ああ」
我が儘を言ったのだろうという自覚はある。あれも嫌、これも嫌、駄々っ子のように全てを拒絶していた。
『お前、限界だぞ』という銀さんの判断は正しかった。感情だけで全てを処理しようとしていた。
「
「ない。開発中らしいが、まだ時間は掛かりそうって話だ」
「そっか。願いが叶わない人。例えば死んだ奥さんに会いたいとかそういう願いを持ってる人はどうしたらいいの?」
「全員がって訳じゃねぇが、墓前に手を合わせたり、新しい人を見つけたりでもいいらしい」
「じゃあ、私のもそういう手段で解決できる可能性はあるんだね」
私ならば銀さん以外と? 生理的嫌悪が先に立つ。
けれど、それであの姿を銀さんに見せずに済むのなら、それでいいんじゃないのかと囁く自分もいる。
即座に否定する。それをするぐらいなら、腹を掻っ捌いてでも、死ぬべきだろう。
「そんなに俺は信用ねぇか?」
銀さんがぽつりと零した。
「そんなことは……ないんだけど」
喋れないのは、銀さんを信用してないからという訳ではない。
それなのに躊躇してしまうのはなぜだろうか。
見栄……なのだろうか。化粧を剥がした素顔が見られたくないというプライドのようなものだろうか。
くだらないと一蹴する気持ちとは裏腹に――けれど怖くて。
何がそんなに怖いのだろう。
綺麗なものだけを銀さんに渡したい。それが叶わないことだろうか。
「なあ、キリ。例えば俺が酷い痔で、う◯こするたびに血便撒き散らしてたとしてもお前は嫌いになんないだろ?」
「そうだけど。それはそれで怖いから一緒に肛門科行こうね」
「例えだつーの。でもお前がそうなら俺だってそうだよ。お前がう◯こするたび血便撒き散らしてんなら、一緒に病院行ってやるよ。そんぐらいの気概はあんだよ」
「ありがたいけど、でも、その時はちょっと一人で行かせて欲しい」
「銀さんの気遣いが分かんねぇやつだな」
「私の羞恥心も分かってほしい」
どちらからともなく、くすくすと笑いが漏れる。なんだか一人で悩んでいたのが馬鹿らしくなる。
人間なのだ。痔にもなれば血便だって撒き散らす。理想に押し込んで綺麗なままでなんていられない。
「夢の話だって前提で少し聞いてくれる? あくまで『ただの夢の話』だってことで」
「『ただの夢の話』としてな」
恥ずかしいのは代わりないのだけれど、そう置いてくれるだけで気分は少し楽になった。
「夢の中で、その……銀さんを使ってそーいう行為をしてて。最初は欲求不満なのかな? って自分でも試してみたんだけど全然解決できなくて、それどころかますます酷くなって。銀さんに触れたり喋ったりしても同じで。銀さんにそーいうことをするのが夢の中でも嫌で、眠るのも嫌で……」
「ストップ」
言葉の途中で、強く遮られた。
どうにか内容を薄めようと言葉を継ぎ足していくが、上手くまとまらない。
恥ずかしくて、顔を
銀さんなんて見ていられなかった。
「ごめん」
「そういう意味じゃなくて……。いや、いい」
何かを説明しようとして、説明しきれず、銀さんはそこで言葉を切った。
ちらりと見ると、口元を手で覆ったまま横を向いていた。気難しげに眉が寄っている。
勢いで言わなくていいことを言った気がする。
「『ただの夢の話』だよ?」
自分でも苦しいことは分かっていたが、言い訳せずにはいられなかった。
「……ああ」
どこか心あらずという感じの声だった。
「引いた……?」
突然そんな話を聞かされて気持ち悪がられていたらどうしよう。
そんなことないとは思うも、頷かれたら泣いてしまうかもしれない。
「違う。そうじゃねぇ……。けど、ちょっと今忙しいからタンマ」
言いながら銀さんは両手で顔を覆ってしまった。
くぐもった声には、私を気遣う響きと、戸惑いが滲んでいた。
言われて素直に待つ。
しばらくすると、何かを整理し終えたのか、こちらに向き直り銀さんは口を開く。
「あー……それで、さっきの続きだが、夢の中でそーいう事をするのが嫌っていうのは、俺に触れられるのが嫌ってことか?」
「そうじゃなくて、なんというか。夢の中で私は銀さんを全然見てなくて、ただ欲求を解消するために使ってて。それがすごく嫌で……。言えた義理じゃないんだけど、本当にごめん」
ただただ道具のように使っていた。夢の中とはいえ、本人の許可なくだ。
「なんつーか……別に謝る必要ないだろう? お前が気にしてるのも分からなくはねぇけどさ」
「だって、こんな酷い」
「ケーキを丸ごと一個食べてぇって思ってても、現実には誰かと分け合って食べるだろ? 願望ってのはそーいうもんだろ。どっか極端に切り出してそれが全部だなんて言ってたら、そりゃ人間浅ましくもなるさ」
「そうかな」
「現にお前はこうやって悩んでんだし、それが証明にはならないか?」
恐る恐る顔をあげると、頭を撫でられた。
困った奴だというように、銀さんは優しく笑っていた。
「ありがとう。ごめん、一人で問題を難しくしていたのかもしれない」
「まぁ、お前にそういう目的で使われたところで、俺は何も困りゃあしねぇけどな」
意味を理解した途端、今度はどんな顔をして銀さんを見ればいいのか分からなくなった。
銀さんはからかうようににやりと笑っていた。
「そういうのは駄目だと思う……よ」
消え入りそうな声で否定する。
倫理観とかその……色々と。
もし、銀さんが一方的に私をそういう目的に使ったら……きっと私はとても困ってしまう。
想像したことを後悔し、本当に消えてしまいたくなる。
膝を抱え込んでしまった私を銀さんは笑いながら見ていた。
「酷い」
「酷くねぇよ、部屋の中で倒れてるお前見た時の俺の気持ち考えろよ。そんぐらい仕返しさせてくれてもいいだろ」
思い返して、銀さんは拗ねたような顔をする。
冗談で済まそうとしているのだと思う。愚痴であろうとそれを漏らすことが珍しいのだ。
怖かっただろうなと簡単に想像がつく。
失うことに慣れすぎているが故に、失えない人間なのだ。
「それはごめん、謝る」
短い謝罪に、言葉にできないものまで込めた。
「それで、お前、どうする?」
急に話を振られ固まる。
いや、そういう話をしていたのではあるのだけれど。
「どうとは……いや、わかるんだけど。ちょっと待って」
緊急警報が脳内で鳴り響く。
深夜、二人きりで布団も敷いてある。環境要因は問題ない。
感情面の問題では、夢の中で銀さんに触れられることも、触れることも嫌ではなかった。むしろあれが願望なら求めてさえいるのだろう。認めたくないのだが。
病気の治療には願いを叶える必要があって――。思考は空転する。
「また別の日に考えよう?」
「そりゃいいけどよ……。限界迎えて、なし崩し的にというのだけは勘弁な」
眉を下げて、銀さんは困った顔をする。
私のことを良く分かっていらっしゃる。可能性について否定できない。
それに改めて場を整えて……? 私から誘うの? 想像するだけで喉が張り付いて、言葉が出なくなる。
ならば、後回しにせずに今の方が……と考えるが、今? 今、銀さんと?
頭では分かっているはずなのに、現実の出来事として考えようとすると、途端に何も考えられなくなる。
「汗かいちゃったから、とりあえずシャワー浴びてきてもいい?」
時間の先延ばしを依頼した。
タイルに水が跳ねる音がする。いつもより入念に身体を洗ってしまうのは、時間を延ばしたいからか、そうじゃないからなのか。
トリートメントがワンプッシュいつもより多いのはなぜだろうか。
非現実的で、何もわからない。どこまでやりたいのか、どうしたいのか。
夢の中の私は触ってもらって、触って満足していた。
夢だからか、銀さんについては随分曖昧だったけど、触れてもみたいのだろう。
どこまでを――顔が赤いのはシャワーの所為だけではない気がする。
迷い、寝間着代わりの浴衣をつけて部屋に戻る。
「銀さんも使う?」
どういう意味になるかを意識の外に放り出し、そう聞いた。
「そうだな、借りるよ」
ただのシャワーの貸し借りなのに、なぜその一言で心臓が暴れるのだろうか。
新しいタオルを渡すため、遅れて脱衣室まで銀さんを追う。押し付けるように渡し、逃げるように部屋へ戻った。
ドアの外から聞く水音をドライヤーの音で消しながら、思考の整理を続ける。
「あがったよ」
そう言って銀さんが出てきたのは予想よりも早かった。
男性はこんなものなのかと思うと同時に、濡れた銀さんの姿が目に入り、否応なく現実へ引き戻される。
着流しは丸めて抱え、帯とベルトも一緒くたにされていた。
ジャージだけの姿で、首からタオルを下げて立っていた。
天然パーマの髪が濡れて額や頬に張り付いている。
暑いのか、いつもより上着のチャックが大きく開いていた。首筋を伝った水滴が胸元へ流れ落ちるのを見てしまった。
これ以上見ていると妙なことを考えそうで、視線を引き剥がす。
「髪、乾かしてあげる。座って」
銀さんを呼ぶと、素直にこちらへやってきた。
地味に時間を引き延ばす行為のようにも思えるが、まだ考えはまとまってなかった。
まとまってないというか覚悟が決まってないというか。
きっとそこだろうという着地点は見えてるのだが、着地方法と、ダイブする勇気が決まってないというか。
壁に直接コンセントを刺し、コードを伸ばしたドライヤーの前に銀さんを座らせる。
床に座った銀さんの背後に膝立ちになりながら、風を当てていく。
トリートメントを使わなかったのだろう。少しゴワついた髪を手ぐしで梳かしながら乾かす。
「銀さん、ごめん……その、多分というか、きっと最後までは無理だと思う」
「気にしちゃいねーよ。これは治療だ。そう思えば少しは気が楽になるか?」
「治療のためだけに銀さんとそーいうことしたくない」
「我が儘だな」
「銀さんがしたくて、私もしたくて。そうしたい」
「なら、そんな肩肘張らずに、気楽にいこーぜ。俺もお前が欲しいし、お前も俺が欲しい、それだけだろ?」
まるで一つのケーキを分け合うような気軽さだった。
そう思えばよいのかもしれない。銀さんがしたいことと、私がしたいこと。その重なったところだけを、二人で分け合えばいいのだろう。
十分に乾いた髪をひとなでしてドライヤーを切って床に置く。
誘い方なんて分からずに、ただ名前を呼んだ。
「銀さん」
銀さんは立ち上がり、布団まで私の手を引いた。
そのまま腰を下ろすと、足を広げその間に向かい合わせで私を座らせる。
触れるだけのキスをする。
「どこまでだ?」
顔を見つめながら銀さんが聞いてくる。
「どこまで?」
「どこまでしていいのか聞いてんの。こう見えて銀さん余裕ないからね。先に聞いとかないと……多分事故る」
眉尻を下げ、いかにも不本意そうに告白する銀さんに、ふっと息が漏れてしまった。
「笑うなよ」
「だって、余裕そうに見えてたから」
「ねぇよそんなもん。心臓ばくばくいってるぞ」
視線を斜めにずらし、むくれるような表情を浮かべている。
銀さんも緊張しているんだ。そう思うと少し気が楽になる。
「私も、心臓飛び出しそう。飛び出したら拾ってくれる?」
笑って頬に触れると、手を重ねられる。
「幾らでも拾ってやるよ」
眉尻を下げて銀さんも笑う。
どこまで――銀さんはそう聞いていた。
ゆっくりと言葉を選びながら、間違えないように伝える。
「ねぇ、銀さん。全部触って。私も銀さんを全部触りたい」
素直になることに勇気は必要だったが、欲しがることもそう悪くないと思った。
銀さんの目が細まり、重なった手に力が籠もった。
「いいのか?」
確かめるように聞きながらも、目元には隠しきれない喜色が浮かんでいた。
それが酷く恥ずかしい。
「夢の中の銀さんはそうしてくれたよ」
「別の男の話してんじゃねーよ」
「……違うよ。銀さんにそうして欲しいって話だよ」
「煽んな」
再び唇が重ねられる。