半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
物語の時は流れ——現在の魔界。
家族で過ごす私室のテーブルに、見慣れない小さな帳面が置いてあった。
魔界の公爵であるルシエルは、何気なくそれを手に取った。
妻であるリーザの文字が並んでいる。
丁寧で、優しい筆跡。
ルシエルのほうが達筆だが、彼の字はどこかピリピリと尖っていて、自分ではあまり好きではなかった。
リーザの温かみのある文字のほうが、ずっと好きだった。
少し読んでみると、リーザが書いた童話であることが判った。
彼らの息子のセオドア——テオが産まれてから、時々なにか書き物していることは知っていた。
物語では、小さな男の子の主人公が、もの知りで賢い女の子と友達になり、ちいさな眷属をつれて、いっしょに冒険の旅にでる。
乗り込んだ小さな帆船は遭難し、ドラゴンの棲み処である孤島へ流れ着く。
そこで、小さな千年ドラゴンの仔と出会う。
読んでみると、面白い。
「俺の妻は、美しいだけでなく、なかなかに文才があるな」
まだ途中だが、最後のページには、リーザの書いた挿絵が入っていた。
大きな羽の生えた——
ぷっと吹き出してしまう。
なかなかに、酷い出来だった。
恐ろしく、冷酷な魔王と恐れられるルシエルだが、こんなひどい絵を見てしまっては、笑いを堪えることが出来なかった。
若いとは言え、すでに二百年を越える人生のなかで目にした、いちばん“愛嬌のある”ドラゴンの絵だった。
夫がげらげらと笑っているのを聞きつけて、憤然とした様子のリーザが現れた。
ぱっと、彼の手から帳面を取り上げようとするのを、高く掲げて遮った。
「確かに、上手な出来ではないけれど、そんなに笑うなんてひどいわ」
「いやいや、俺の妻に不得意なことがあるなんて、それが意外だった。
このドラゴンは、本当にひどい。
おい、ナサニエル。ちょっとこれを見てくれ。我が妻の力作だ」
面白がって、彼の従者にまで声をかけた。
ナサニエルは、しばらくじっとその挿絵を見ていたが、いつもの毒舌はいったん納めてリーザに尋ねた。
「あー、マイレディ。
率直にお伺いして、これは一体全体……なにを表現しておられるのですか?」
「千年ドラゴンよ!」
むきになってリーザが答える。
「だ、そうです、
俺の忠義は、偽りなき本心にありますが、さすがの俺もこの絵には、言葉を失いました」
ナサニエルはくるっと向き直って、そそくさと逃げて行った。
リーザはまぁと憤慨し、ルシエルはまだ笑っている。
「ああ、面白い。
あの毒舌のナサニエルですら言葉を失うとは、リーザ画伯の絵は、これはこれで味があるな。
よく見たら、なかなか可愛いかもしれん。
千年トカゲの話にしたほうが、説得力があるかもしれないが」
「そんなに笑うなんて、よっぽど貴方は絵が上手なんでしょうね、ルシエル」
帳面と、ペンを押しつけられた。
「さあ、描いてみて!」
そんなことになるとは思わなかったが、ルシエルは渡されたペンを握って、帳面の空白を見つめた。
ルシエルが最後に何かを描いたのは、彼の少年時代、あの飼っていた黒猫のノワの眠っている姿を描き写した時だった。
そしてあれから、魔界においてはもう何十年もの……月日が流れていた。
その間、ルシエルは一度も、何かを描いたことも、描こうとしたこともなかった。
自分が、あの時、どういう気持ちでノワの姿を描いたのかすらも、完全に忘れていた。
あのころの自分の、唯一家族と言える存在だった、ノワの温かさを思い出した。
それは、ルシエルが妻にさえ明かしたことのない、彼が背負い続けてきた罪の、その物語の一部だった。
ペン先が、わずかに震えた。
リーザが、不思議そうに彼の顔を見つめている。
もう一度、帳面のスペースを見て、ペンをそっと置いた。
「笑ってすまなかった。……俺だって、絵なんか描けない」
静かに笑って、リーザに帳面ごと手渡した。
「もう、描けないんだ」
リーザは、何かを読み取ったのかもしれないが、それ以上は何も言わなかった。
「いいのよ、ルシエル。物語もまだ途中なの。私の挿絵だって、これからどんどん上達するはずよ」
優しく、彼女の夫を抱き寄せた。
「それにもしかしたら、将来、あの子が……テオが描いてくれるかもしれない。それなら、私は作家に専念できるわ」
「お前の物語は面白かった。また、続きを読みたい」
「まだ、考え中なの。
思いついたら、すぐに書いてしまわないと消えてしまうわ。
だから、いつも貴方に邪魔されてるのよ、ルシエル」
「俺が、邪魔を?」
全く、心当たりはなかった。
「ええ、どんなにいいアイディアを思いついても、貴方とねたら全部忘れてしまってる。
朝になったら、綺麗さっぱり消えてしまうわ。あなたはアイディア泥棒よ、作家の敵だわ」
リーザはいつも優しかった。
その明るさと、思いやりのある言葉にいつも救われて、自分は日々を生きていた。
今ここにある幸せに、胸が痛くなるほどだった。
リーザと結ばれてからは、あの
——もう、必要ないと信じたかった。
今のルシエルには確かに、彼を愛してくれる
「またいつか、絵が描けるようになったら、お前とテオを描きたい。お前に、俺の絵をみてほしい」
楽しみだわ、とリーザは優しく言ってくれた。
彼の妻を、その温かい心ごと抱き寄せた。
ルシエルの心は、決して癒えることはなかったが、確かに今、温かさの意味を知ることは出来ていた。
【 了 】