半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
広間は、息を呑むほどの静寂に包まれていた。
蒼白い
諸侯たちは玉座の周囲に控え、誰も一歩も動かず、ただ上席の玉座に腰掛ける帝王サタンの嫡男、アスモデールの次の言葉を待つ。
アスモデールは報告書の羊皮紙を指先でゆっくりとなぞり、赤い瞳を細める。
「……ルシエル公爵」
声は穏やかで、しかし底に氷のような棘を隠している。
「ここには、
彼はわざと間を置いて、ルシエルの顔を覗き込むように視線を落とす。
「これは、三百二十八ではないかな?」
羊皮紙の該当行が、魔力で赤く発光し始める。
数字の「7」が、まるで傷口のように脈打っている。
ルシエルは唇を固く結んだまま、微動だにしない。
(くそっ、この男の前で
第一従者であるレジナルドを、人間界へ派遣した影響が、こんなつまらない”
レジナルドがいれば、このような初歩的な誤字は絶対に防げたはずだ。
陰日向に、献身的に支えてくれていたレジナルド不在の穴が、こんなところで痛いほどに響いている。
アスモデールはくすりと笑う。
「確認不足、か。いやいや、卿はまだ若い。公爵位を継いで何年になるか……まだ百年にも満たないのであったな?」
諸侯の間で、微かな衣擦れの音がする。
誰も口を開かない。
「年若なれど、卿はこれまでよくやってきた。
その卿のこれまでの仕事ぶりから見れば、これは非常に珍しい”些細な”ミスだな」
アスモデールは羊皮紙を指で軽く弾き、ゆっくりと宙に浮かべる。
「とはいえ……だ。
ただ一度でも、こういうものを一つ間違えるだけで、報告全体の信憑性が揺らぐのではないか。
これまでの報告が完璧であれば、完璧であり続ける必要がある。
辺境の領民が『公爵閣下の報告は信用できない』と不満を漏らすやもしれぬ。
そうなれば……父上、サタン陛下のお耳にも入ることになるのではないか?」
ルシエルは沈黙する。
「いたって無表情だな。私の話は退屈かね?」
「殿下のお言葉、肝に銘じております。
今後はこのような失態を繰り返さぬよう、より一層、注意を払う所存です」
「それとも……卿は『数字など些細なこと』と考えておるのか?
それとも、卿の公爵としての責任感は、そんなものなのか?
隠居された父君、先代のハデス公も、これでは内心落ち着かないだろう。」
ルシエルの瞳が、わずかに揺れる。
アスモデールはさらに畳みかけた。
千載一遇の
「ルシエル公爵。
領地の管理、魔獣討伐の効率、報告書の形式……。
すべてにおいて、完璧なようで卿がまだ未熟であることが、この報告書一枚からも判った。
若い才能は磨かねば錆びる……」
アスモデールは羊皮紙を指で叩きながら、ゆっくりと続ける。
「卿も、公爵として諸侯の前に立つなら、もう少ししっかりせねば、だ。
でないと、私のような年長者が……いつまでも心配せねばならなくなってしまうではないか」
大広間は凍りついていた。
「それにしても……あまりにも初歩的な誤字、だ。
こんなものを
”有能な部下は、美しき妻よりも得がたい”というが、私はその点、”妻”にも部下にも恵まれていて幸いだ」
ルシエルの指先が、わずかに震える。
アスモデールは妻、とわざと口に出したのだ。
彼は、その動揺を見逃さない。
「妻と言えば、ルシエル卿はまだ一人身だが、そちらのほうも、はやく身を固めた方がよいな。
女がいないと、
そして
手のひらを下に向け、ぐらぐらと"
彼はゆっくりと報告書を閉じ、玉座に深く腰を沈める。
「ルシエル公爵――私は卿をまるで”弟”のように思っているからこそ、厳しく言うのだよ。
卿の姉上であるベアトリチェ姫は、私の
もし彼女が生きていれば……卿は今頃、私の義弟だったろう。
一緒に酒を酌み交わし、魔界の未来を語り合っていたかもしれない。
……本当に、惜しいな」
大広間の空気が、さらに重くなる。
「あの美しさ、賢さ、気高さ――ほんとうに素晴らしい
私たちは、本当に、かけがえのない女性を
ルシエルは、静かに、しかしはっきりと答える。
「……心から、そう思います、殿下」
広間には、ただ気まずい沈黙だけが流れた。
「今日はここまでとしよう。以後、気を付けるように」
ルシエルは一礼し、無言で大広間を後にする。
背中で、諸侯の視線が刺さる。誰も口を開かない。
誰かがくすりと笑いを漏らし、すぐに咳払いでごまかすのがわかった。