※この作品はR-18です。

半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~   作:古弥須 凱

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20話 ねちねち

 

【挿絵表示】

 

 

 

広間は、息を呑むほどの静寂に包まれていた。

 

蒼白い魔力結晶(ダーククリスタル)の光が、黒大理石の床に冷たく落ちる。

 

諸侯たちは玉座の周囲に控え、誰も一歩も動かず、ただ上席の玉座に腰掛ける帝王サタンの嫡男、アスモデールの次の言葉を待つ。

 

アスモデールは報告書の羊皮紙を指先でゆっくりとなぞり、赤い瞳を細める。

 

「……ルシエル公爵」

 

声は穏やかで、しかし底に氷のような棘を隠している。

 

「ここには、黒焔狼(エボニーウルフ)の討伐数、計三百二十七……とあるが」

 

彼はわざと間を置いて、ルシエルの顔を覗き込むように視線を落とす。

 

「これは、三百二十八ではないかな?」

 

羊皮紙の該当行が、魔力で赤く発光し始める。

 

数字の「7」が、まるで傷口のように脈打っている。

 

ルシエルは唇を固く結んだまま、微動だにしない。

 

(くそっ、この男の前で失敗(しくじ)るとは――)

 

第一従者であるレジナルドを、人間界へ派遣した影響が、こんなつまらない”凡庸な失態(イージーミス)”に繋がっているのは明らかだった。

 

レジナルドがいれば、このような初歩的な誤字は絶対に防げたはずだ。

 

陰日向に、献身的に支えてくれていたレジナルド不在の穴が、こんなところで痛いほどに響いている。

 

アスモデールはくすりと笑う。

 

「確認不足、か。いやいや、卿はまだ若い。公爵位を継いで何年になるか……まだ百年にも満たないのであったな?」

 

諸侯の間で、微かな衣擦れの音がする。

 

誰も口を開かない。

 

「年若なれど、卿はこれまでよくやってきた。

 

その卿のこれまでの仕事ぶりから見れば、これは非常に珍しい”些細な”ミスだな」

 

アスモデールは羊皮紙を指で軽く弾き、ゆっくりと宙に浮かべる。

 

「とはいえ……だ。

 

ただ一度でも、こういうものを一つ間違えるだけで、報告全体の信憑性が揺らぐのではないか。

 

これまでの報告が完璧であれば、完璧であり続ける必要がある。

 

辺境の領民が『公爵閣下の報告は信用できない』と不満を漏らすやもしれぬ。

 

そうなれば……父上、サタン陛下のお耳にも入ることになるのではないか?」

 

ルシエルは沈黙する。

 

「いたって無表情だな。私の話は退屈かね?」

 

「殿下のお言葉、肝に銘じております。

 

今後はこのような失態を繰り返さぬよう、より一層、注意を払う所存です」

 

「それとも……卿は『数字など些細なこと』と考えておるのか?

 

それとも、卿の公爵としての責任感は、そんなものなのか?

 

隠居された父君、先代のハデス公も、これでは内心落ち着かないだろう。」

 

ルシエルの瞳が、わずかに揺れる。

 

アスモデールはさらに畳みかけた。

 

千載一遇の機会(チャンス)とばかり、目の前のルシエルを嬲るよろこびに暗く眼を光らせている――

 

「ルシエル公爵。

 

領地の管理、魔獣討伐の効率、報告書の形式……。

 

すべてにおいて、完璧なようで卿がまだ未熟であることが、この報告書一枚からも判った。

 

若い才能は磨かねば錆びる……」

 

アスモデールは羊皮紙を指で叩きながら、ゆっくりと続ける。

 

「卿も、公爵として諸侯の前に立つなら、もう少ししっかりせねば、だ。

 

でないと、私のような年長者が……いつまでも心配せねばならなくなってしまうではないか」

 

大広間は凍りついていた。

 

「それにしても……あまりにも初歩的な誤字、だ。

 

こんなものをサタン陛下(ちちうえ)にお目にかけるわけにはいかないから、後で私の書記官に書き直させよう。

 

”有能な部下は、美しき妻よりも得がたい”というが、私はその点、”妻”にも部下にも恵まれていて幸いだ」

 

ルシエルの指先が、わずかに震える。

 

アスモデールは妻、とわざと口に出したのだ。

 

彼は、その動揺を見逃さない。

 

「妻と言えば、ルシエル卿はまだ一人身だが、そちらのほうも、はやく身を固めた方がよいな。

 

女がいないと、家門(いえ)が安定しない。

 

そして家門(いえ)がぐらつくと、政務(しごと)にも影響が出る――」

 

手のひらを下に向け、ぐらぐらと"公爵家(ルシエルけ)"が揺れる様子を模して見せた。

 

彼はゆっくりと報告書を閉じ、玉座に深く腰を沈める。

 

「ルシエル公爵――私は卿をまるで”弟”のように思っているからこそ、厳しく言うのだよ。

 

卿の姉上であるベアトリチェ姫は、私の婚約者(フィアンセ)だった。

 

もし彼女が生きていれば……卿は今頃、私の義弟だったろう。

 

一緒に酒を酌み交わし、魔界の未来を語り合っていたかもしれない。

 

……本当に、惜しいな」

 

大広間の空気が、さらに重くなる。

 

「あの美しさ、賢さ、気高さ――ほんとうに素晴らしい令嬢(ひと)だった。

 

私たちは、本当に、かけがえのない女性を喪失(なく)したものだ。そう思わないか?」

 

ルシエルは、静かに、しかしはっきりと答える。

 

「……心から、そう思います、殿下」

 

広間には、ただ気まずい沈黙だけが流れた。

 

「今日はここまでとしよう。以後、気を付けるように」

 

ルシエルは一礼し、無言で大広間を後にする。

 

背中で、諸侯の視線が刺さる。誰も口を開かない。

 

誰かがくすりと笑いを漏らし、すぐに咳払いでごまかすのがわかった。

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