半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
転移魔法の陣を切り開いてルシエルがたどり着いた森は、ほんの少しの間に、まったく様相を変えていた。
静かすぎるほどに、変わり果てていた。
そこには、穴だらけになった
親鳥の巨体は、無数の
子鳥も同様に体を貫かれ、小さな体が地面に叩きつけられたように横たわっていた。
その小さな翼は折れ曲がり、羽は焦げ、首は不自然にねじれ、まだ幼い瞳は虚ろに空を映していた。
ルシエルは周囲を見回した。
焼けこげて、まだぶすぶすと燻っている樹の下に、見知らぬ魔族の少年が倒れている。
一見、どこかの若い従者か小姓といった風情で、花嫁狩りの参加者には見えない。
何かの偶然で、不運にも戦闘に巻き込まれたのか――彼も全身に
レジナルドとリリアの姿は、見当たらなかった。
地面には、高位魔術の痕跡が残っている。
小隕石の軌跡は精密に制御されており、下級悪魔であることを条件づけられた"花嫁狩り"競争の参加者で、扱えるような術ではない。
明らかに高位の魔術者による、意図的な襲撃だった。
サタンの嫡子であるアスモデールが臨席すると知って、
サバト会場である古城から、ルシエルは何とかもう一度、リリアの肉体に意識を飛ばそうとした。
しかし、リリアの肉体は主の精神波を受け入れなかった。
いや――すでに受け入れる器を失っていた。
接続は、完全に切断されていた。
そして、再び森に立ち、リーザの馬車のすぐ近くに倒れているリリアを見下ろして、彼はその理由をはっきりと知った。
無慈悲に額を撃ち抜かれた
「リリア……」
可愛らしい顔の半分だけを残して、リリアの瞳はぼんやりと遠く、はるか天を仰ぎ見ていた。
レジナルドは――リリアをかばおうとしたのだろう、彼女に片腕を掛けたまま、うつぶせに倒れていた。
背中から太ももまで連続して貫通した
彼の肌は、すでに青白く変わっていた。夥しい出血。
しかし、レジナルドには、まだかろうじて……息があった。
「しっかりしろ、レジナルド! 何があった……!」
ルシエルは歯を食いしばり、必死で彼を抱き起す。
レジナルドの腹から、どくどくと鮮血が溢れだす。これでは動かせない。
眼鏡はひび割れ、蔓が外れて片方の耳にかかっているだけだった。
治癒魔法で止血を試みるが、出血量に治癒速度が追い付かない。これではもう、助からない……
「レジナルド……!!」
血を絡めた、苦しい呼吸を漏らしながら、レジナルドが片目だけを見開いて、ルシエルを見た。
「……あきません……俺、死にますわ……」
薄く微笑みを浮かべて、言った。
「肉体のほろぶ時が来ました……これで閣下との盟約、終わらしてもらいます……」
「馬鹿を言うな、必ず助ける……!」
忠実な第一従者はじっと、その薄い灰色の瞳でルシエルを見つめた。
その眼差しは、危なっかしい弟を見守る"兄"のそれのように、ただひたすらに優しかった。
「閣下のお傍に……最後までおれませんでした……。中途半端になってもて……すんませんでした……」
涙をにじませたレジナルドの
双子たちに続いて、彼までもが、ルシエルの元から去ろうとしている。
人間であるレジナルドを、彼の能力を見込んで
それでも今、死にゆくレジナルドをかき抱いて、ルシエルはその命を諦めることができなかった。
「駄目だ! 死ぬな、レジナルド!死なないでくれ……!!」
彼の頭を抱いて、ルシエルはその耳元で叫んだ。
レジナルドだけは死なせないと、彼を"花嫁狩り"に出す時に、固く自分に誓っていた。
次の瞬間、ルシエルは
激痛と共に、口の中に熱い体液が溢れだす。
自分の喉に溢れ落ちる魔族の血――レジナルドの顔を両手で掴み、必死に口移しでそれを飲ませた。
レジナルドの中に、舌を深く差し入れ、必死に念話で呼びかける。
(吸え! 俺の血を吸え、レジナルド!)
レジナルドは応えなかった。
(吸え! 吸うんだ!)
ルシエルの口の中で、かすかにレジナルドが反応を返した。
力なく、彼の舌を吸った。
(そうだ、吸え! 強く、もっと!)
ルシエルは、恋人を抱くように強く、そして固く彼の従者を抱いた。
レジナルドに彼の生命を分け与えようと、血にまみれた舌を絡めながら、必死に生温かい血を注ぎ込む。
彼の父であるハデス公が、ほんの数日の延命のために、人間である母に飲ませたという魔族の血――
たとえわずかな時間であっても、人間であるレジナルドの命を繋ぐことが出来れば、まだ希望はある。
ただ、そう信じたかった。
ごぶっと音を立てて、レジナルドが呑み切れなくなった血を吐いた。
喉元まで血で濡らして、がくりと頭を倒している。
これ以上は入らない――しかし、治癒魔法が少しずつ、効果を表し始めているのが判った。
今なら、まだ間に合うかもしれない――。
魔界で待機させている、
彼女はルシエルの幼少期から世話を焼き、彼が信頼を置く、数少ない中位魔術の使い手だった。
そして、ルシエルの
「ミス・アルマ!」
ルシエルは、必死で魔界に呼び掛けた。
(ルシエル様、聞こえますわ。ご指示を!)
「レジナルドが死にかけている! これから陣を張って、彼だけをそちらへ転移させる!
まだ生きているが、出血がひどくて、治癒魔法でなんとかもたせている状態なんだ。頼む、……彼を助けてくれ!!
俺は、レジナルドを失いたくない!!」
パリパリと音を立てて、ルシエルの前に弾ける電光とともに、複雑な文様が回転しながら転移の陣を刻む。
「ミス・アルマ! 受け止めてくれ、いま送る……!!」
魔界と人間界。二つの世界を繋ぎ、術を切る――
瞬間、空間をゆがめながら円陣が滑り、血まみれのレジナルドを小さな粒子に変えながら削り取った。
レジナルドの存在していた場所には、ただどす黒い彼の大量の血痕だけが残っている。
彼を貫き、地面にめり込んだ
「ミス・アルマ!」
反応がない。
(……ルシエル様、ご安心ください。彼を”
酷いわ、顔も真っ青で穴だらけ。でも、かならず生かします。
……双子たちは無事ですか? もし彼女たちも――)
「いや、双子は送らない……。ありがとう、ミス・アルマ。……レジナルドを頼む」
ルシエルは、静かにそれだけ言って、念話を切った。
ルシエルは、リリアの小さな体がゆっくりと透明になり、粒子のように散りゆくのを、ただ見つめていた。
彼女のまだ形をとどめている片側の頬に触れると、そこにはまだ、少女らしい肌の柔らかさを残していた。
だが、もう二度と、その瞳が彼を映すことはない。
「お前には、さよならも言えなかったな、リリア。――お前は、いつも俺を思いやってくれた」
声は低く、乾いていた。
感情を押し殺すように、言葉だけが零れる。
「お前は、俺の傍にいてくれるのが当たり前だった。
俺がどれだけ冷たくしても、どれだけ突き放しても、お前はただ、そこにいてくれた。
俺の醜い部分を全部見て、黙って受け止めてくれた。」
せめて
――胸が締め付けられて、息が出来ない。
しかし、リーザはすでに、フォルネウス男爵に確保されている。
リーザがこれから迎える運命――
魔界全土に張り巡らされた
サタン帝王の嫡子、アスモデール殿下の手によって犯され、蹂躙され尽くされ、生贄として残酷に屠られるその刻が、リーザ姫に迫っていた。
だからこそ、ルシエルには双子たちのために涙を流す、わずかな時間すら許されなかった。
そして、そうわかってはいても、ルシエルは嗚咽を止めることが出来ない。
声を上げることなく、彼は肩を震わせて泣いた。
*
司会者の甲高い声がマイクを通じて、何度も興奮で裏返りながら響き渡る。
「さぁ皆様! 美しきプリンセス・ルイーゼが到着しました!!
さぁ今こそ!!無惨に散りゆく
歓声と口笛が、爆発的に沸き起こる。
巨大スクリーンに映し出されるのは、生贄台に引きずり出されたリーザの姿だった。
鎖で繋がれた両手は力なく垂れ下がり、雪のような白い肌が無防備に晒されている。
金色の髪は乱れ、頰や首筋には赤く腫れた打撲痕が痛々しく残り、汗と涙で濡れた顔は、完全に意識を失っている。
会場はすでに熱狂の渦に包まれていた。
数千の悪魔たちが、階級も種族も超えて詰めかけ、生贄台を取り囲むように立ち並び、興奮と欲望に濁った目でリーザを見つめている。
興奮と殺意に満ちた目という目が、リーザの裸体を貪るように舐め回す。
アスモデール殿下がゆっくりとステージに上がり、冷たい笑みを浮かべながらリーザの顎を掴んで顔を上げる。
気を失っているリーザの唇を親指でなぞり、ゆっくりと囁くように声を落とす。
「さぁ、はじめようか……美しい姫君」
その声は低く、甘く、しかし底知れぬ冷たさを帯びていた。
「まだ眠ったままでいい。お前の体は、もう私のものだ。この会場にいる全ての者が、お前の処女を奪われる瞬間を待ち望んでいる……」
片方の手でリーザの胸元をゆっくりと撫で下ろす。
「ほら……お前の体が、どれだけ正直に反応するか……みんなに見せてあげよう」
会場が一瞬静まり返り、次の瞬間、狂乱の歓声が天井を突き破るように爆発した。
「さぁ、始めよう!――この生贄の、甘い悲鳴を、全魔界に響かせてやる!」
サバトは、今、異様な熱狂の