半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
アスモデールは、ゆっくりとリーザを生贄台に横たえ直した。
彼女の白い腹部は、注がれた魔精の熱をかすかに残し、薄く火照っている。
アスモデールは冷たい微笑みを浮かべ、尖った爪を掲げた。
その爪先が、ゆっくりと彼女の下腹に近づく。
「今こそ……俺の名を、永遠に刻もう」
厳かなる署名――悪魔の刻印。
魔界の古い儀式に従い、アスモデールが爪を沈めようとしたその瞬間。
ドンッ!という鈍い音をたてて、電光のような黒い閃光が、血の海から迸った。
ルシエルの残った右手から放たれた最後の魔弾が、アスモデールの手首を正確に捉え、肉と骨を粉砕しながら吹き飛ばす。
鮮血が飛び散り、爪が宙を舞う。
「…………くすぐったい」
アスモデールは眉一つ動かさず、即座に肉体を再生させた。
吹き飛んだ手首から黒い魔力が渦を巻き、瞬時に元の形に戻る。
彼は嘲るようにルシエルを見下ろした。
「最後のあがきか、
だが――その言葉が終わらないうちに、流れ弾だったはずの黒い電光が、奇妙に増幅し始めた。
一発、二発……いや、数十発。
ルシエルの周囲で、次々と生まれる黒い閃光が、サバト会場の悪魔たちを無差別に貫き、焼き、引き裂く。
悲鳴が上がり、絶叫が響く。
貴賓席の令嬢たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、観客席の魔族たちが次々と倒れ、血と肉片が飛び散る。
古城の塔が、黒い電光の衝撃で傾き、崩落する石塊が下にいた悪魔たちを押し潰す。
轟音と粉塵がホール全体を覆い、ルシエルの放った黒い雷鳴は、
「なんだと……?」
アスモデールが初めて、声に苛立ちを滲ませた。
彼の視線の先……血の海から、ゆっくりとルシエルは生まれ変わった。
崩れた古城の瓦礫と、魔族たちの断末魔が響く中、彼の体は赤黒い血の膜に包まれながら浮き上がる。
濡れた髪が頰に張り付き、長い睫毛に血の雫が光る。
紫の瞳は、黒い炎を宿しながらも、かつての優美な輝きを失っていない。
唇は血に染まって深紅に濡れ、完璧な輪郭の顔立ちは、痛みと憎しみでわずかに歪みながら、それでも息を呑むほど妖艶だった。
まるで血を吸い上げて咲いた薔薇のように、暗闇から生まれた者の持つ美しさが、そのまま残虐さを増幅させている。
その背中から、巨大な大鴉の翼が生えていた。
黒い羽は濡れたように艶めき、光を吸い込む深い闇色が、血の滴を弾きながらゆっくりと広がる。
翼の先端は鋭く、羽の一枚一枚が、血の膜を切り裂くように震え、闇の風を巻き起こす。
体は人間の形をほぼ保ち、白い肌に血の筋が走り、再生した左腕は黒く脈打つ血管が浮き出ているが、変化は異様に大きな大鴉の翼だけだった。
それが逆に恐ろしく魅惑的で、濡羽色の貴公子は、血の海から這い上がった堕ちた天使のように見える。
ルシエルは静かに浮遊し、美しい顔がゆっくりとアスモデールに向く。
長い睫毛が血の雫を振り落とし、紫の瞳が黒い炎を燃やしながら、冷たく見据える。
唇が、かすかに開く。声は低く、かすれながらもはっきりと響いた。
「俺はいま、人間の母から受けた、血と涙を流し尽くしたぞ、アスモデール。俺は……純血でも半血でもない。ただの憎しみそのものだ」
その一言で、黒い翼が一閃し、濡れた羽が空気を切り裂き、黒い風が会場を吹き荒れる。
彼は、まさに……何かに生まれ変わっていた。
そして彼自身も、それが何なのかを理解しないまま、怒りに燃え、復讐に猛っていた。
崩れた瓦礫が舞い上がり、魔族たちの悲鳴がさらに高まる。
ルシエルの黒い髪が風に乱れ、血に濡れた頰を伝う雫が、ゆっくりと落ちる。
美しい顔に浮かぶのは、復讐の微笑みとも、絶望の涙ともつかない。
アスモデールは、再生した手首を握りしめ、初めて……本気の苛立ちを瞳に宿した。
「こいつ……!何様のつもりだ!」
ルシエルは答えない。ただ、大鴉の翼をゆっくりと広げ、濡れ羽色の羽が、血の光を反射して妖しく輝く。
紫の瞳が、黒炎を宿したまま、アスモデールを貫くように見つめる。
アスモデールもまた、彼が持って生まれたもの――空間そのものを歪めるほどの魔力を爆発させた。
「半血の残滓が……よくも俺のサバトを汚したな!」
虚空が裂け、純血の魔王の血が呼び起こす無数の黒い槍が、ルシエルに向かって雨のように降り注ぐ。
ルシエルは動かない。ただ、ゆっくりと大鴉の翼を広げた。
濡れ羽色の羽が一瞬、黒い炎のように揺らめき――次の瞬間、翼が一閃し、黒い風が渦を巻き、虚空の槍をすべて弾き返す。
槍は逆にアスモデールに向かって跳ね返り、彼の肩を浅く抉った。鮮血が飛び散る。
「くっ……!」
アスモデールが初めて後退する。
彼は両手を広げ、空間を握り潰すようにして「散じよ」の呪文を重ねる。
空気が凝縮し、ルシエルの体を内側から爆散させようとする圧力が襲う。
だが――ルシエルはもう二度と、同じ手は喰わなかった。
紫の瞳が黒炎を噴き上げ、大鴉の翼が一気に羽ばたく。
黒い風が圧力を切り裂き、ルシエルは瞬時にアスモデールの眼前に迫った。
再生した左腕が、黒く脈打つ爪となってアスモデールの喉に触れる。
わずか数ミリの距離で止まる。
アスモデールの瞳に、初めての恐怖がちらついた。
ルシエルは美しい顔を近づけ、低く囁いた。
「……殿下の
濡れ羽色の翼がゆっくりと広がり、血の光を反射して妖しく輝く。
――復讐の微笑みが、唇に浮かぶ。
その瞬間――虚空が裂ける音が響き、上空から一本の
「がぁっ……!」
黒い血が噴き出し、ルシエルの翼が激しく痙攣する。
美しい大鴉の貴公子は、虚空の槍ごと、そのまま地面に串刺しにされていた。
槍は魔力の鎖となって彼の体を拘束し、翼を広げることすら許さない。
紫の瞳が痛みに歪み、血に濡れた唇からかすかな呻きが漏れる。
アスモデールの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「……これは誰が……?」
アスモデールは、再生した手で自分の胸を押さえ、上空を見上げた。
そこには何者かが
アスモデールの声に、初めての混乱が混じる。
自分以外で、
その時――雷鳴が轟き、夜の闇を赤い影が切り裂いた。
深い海のような藍色の瞳に、凄まじい怒気を孕んだ美しい
長い銀青色の髪が風に舞い、王族の威厳を纏った赤い薄絹のドレスが、血の海の上で優雅に翻る。
「なぜ……なぜ貴女が……?」
「サバトの夜に魔性同士で血を流す愚か者ども。これはどういう騒ぎだ、アスモデール」
その声色は、少女らしく愛らしい高さではあったが、しかし絶対的な威圧を帯びていた。
空気が一瞬で凍りつく。
魔族たちの悲鳴が、ぴたりと止まる。
アスモデールの瞳が、大きく見開かれた。
「……ナイメリア伯母上……!」
サタンの前妃にして、いまはサタンの「王妹」の称号を持ち、広大な領地を治める大領主である――ナイメリア女公主その人だった。
彼の声は震えていた。初めての、明確な動揺と混乱が顔に浮かぶ。
ナイメリアはアスモデールの言葉に一切応じず、ただ静かに呟いた。
「……うるさいわね。この羽虫のような音を、止めなさい」
彼女の藍色の瞳が、ゆっくりと会場全体をなぞるように動いた。
一瞬の静寂の後――
すべての
無数のドローン魔獣が空中で硬直し、次々と墜落していく。
金属と魔力結晶の破片が雨のように降り注ぎ、けたたましい音を立てた。
巨大スクリーン、個人端末、魔界全土の視聴回線が一斉にブラックアウトする。
配信音声が途切れ、魔界中に「ネットワーク接続エラー」の文字だけが浮かんでいた。
ナイメリアは小さく首を傾げ、独り言のように続けた。
「さて、アスモデール」
ナイメリアは、ゆっくりと義理の甥を見下ろした。
藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。
「お前は、このサバトの主としてサタン帝王の嫡子として招かれたはず。
この……みっともない状況は一体どういう事なのか、きちんと説明なさい」
彼女の声は静かだった。
しかし、その静けさは、嵐の前の静寂そのものだった。
空気が重く沈み、古城全体が息を潜める。
アスモデールは喉を鳴らす。
「……伯母上。これは……サバトの儀式です。
そこにあるルシエル公爵が、私のサバトを汚そうとしたものを、正しく処断しようとしております」
ナイメリアの藍色の瞳が、細くなる。
「処断?
私があの槍で、きれいな顔の大鴉を射止めなければ、お前は首級を取られていたわ、アスモデール。
仮にもサタンの嫡子が、たかが魔王の一人に殺されたなんて……兄上の名を貶める一族の恥になるところだった」
彼女は「
表面上、数百年近くにわたり友好的な「兄妹」関係を保ち続けているが、彼女の機嫌を損ねれば、サタン帝王の耳にどんな形で届くかわからない。
アスモデールはそれを、誰よりもよく理解していた。
一瞬の沈黙が流れる中、ナイメリアの視線が、串刺しのルシエルからアスモデールの腹心アギーレへ移った。
「それはそうと……花嫁狩りの場で、私の小姓を殺した者がいる。
生贄の姫を捕らえた森で
あの子を殺したのは、お前の部下か、アスモデール」
ルシエルがリリアとレジナルドを探し、焼け焦げた森の中で見た、死んだ魔族の少年のことだった。
アスモデールの顔が青ざめる。
アギーレが無表情で跪いたまま、わずかに身を震わせる。
「伯母上……それは……俺は知りませんでした!アギーレ、お前か……?」
ナイメリアの声が、低く響く。
「知らなかった?だから何だと言うの。……処断なさい、アスモデール」
アスモデールは、喉を鳴らし、迷うことなく手を掲げた。
「散じよ」
空間が歪み、アギーレの体が内側から爆散する。
一言で、無残な断末魔すら上げられず、腹心の部下は血と肉片となって血の海に溶け落ちた。
ナイメリアは冷たく、その肉塊を見据えただけだった。
ナイメリアは、ゆっくりと串刺しにされたルシエルに近づいた。
血の海が、彼女の赤い薄絹のドレスを濡らし、裾を重く染めていく。
しかし、彼女は気にも留めず、優雅な足取りで歩を進めた。
うつくしい藍色の瞳が、痛みに歪むルシエルの美しい顔を、静かに見下ろす。
「ごきげんよう、公爵。今宵の宴は、楽しまれたかしら」
その声は、少女のように愛らしく、しかし底知れぬ冷たさを帯びていた。
空気がさらに重く沈み、魔族たちの息遣いが止まる。
ルシエルは、槍に貫かれた胴から黒い血を滴らせながら、ゆっくりと顔を上げた。
濡れ羽色の髪が血に張り付き、長い睫毛に赤い雫が光る。
唇から血の筋が一筋、ゆっくりと伝い落ちる。
それでも、彼の紫の瞳は、黒い炎を宿したまま、決して揺らがない。
「……そうでもありません、女公主殿下」
声はかすれ、血に濡れて低く響いた。
痛みで息を詰まらせながらも、王妹に対する礼儀を崩さず、静かに、しかし毅然と応える。
ナイメリアの瞳に、ただ冷徹な興味を湛えた光が浮かぶ。
「ええ、きっとそうでしょうね」
彼女はゆっくりと手を伸ばし、ルシエルに突き刺さった槍に触れた。
キィィン……と金属が砕けるような音を立てて槍が消滅し、ルシエルはそのまま地面に投げ出された。
黒い血がさらに広がり、濡れ羽色の翼が弱々しく震える。
ナイメリアは、その視線をアスモデールに移した。
「サバトは終わりよ、アスモデール。これ以上、王家の恥を上塗りすることは許さない。
こんな大騒ぎになったら、天界だって見逃さないでしょう」
アスモデールは、膝をついたまま、額に冷たい汗を浮かべる。
「……は、申し訳ありません、伯母上」
ナイメリアは、ゆっくりとアスモデールを見下ろした。
藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。
「魔界には魔界の品位というものがある。お前のやり方は少々……下品よ、アスモデール。サバトひとつ治められずに」
サタン帝王の嫡子は、唇を噛んだ。
膝をついた姿勢のまま、肩がわずかに震えていた。
ナイメリアは、視線を犠牲台の上に倒れたままのリーザ姫に移した。
藍色の瞳が、慈愛めいた哀れみを帯びてリーザを捉える。
リーザの細い金髪が血と白濁にまみれ、傷だらけの白い肌が赤く火照っている。
「生贄のむすめは、私の預かりとして持ち帰るわ。
サバトの生贄は――最も高位の悪魔に捧げられるもの。つまり、私がこのサバトの主だということになる。
もし誰か異論があるならば、今すぐおっしゃい」
会場は、息を呑んだまま沈黙した。
誰も口を開かない。
ただ、血の海が静かに波打ち、赤黒い燭台の炎だけが、ぱちぱちと音を立てて揺れる。
ナイメリアは、満足げに小さく顎を動かした。
藍色の瞳が、再びルシエルに向く。
「ルシエル公爵。貴方は、この娘の所有者だとアスモデールに宣言したそうね。
みたところ……彼女に盟約は入っていない。つまり貴方のものではないわ。
ありもしない所有権を主張して、私の甥のサバトを汚したのであれば……、それ相応の処分を受けるべきでしょうね」
ルシエルは、地面に膝をついたまま、血に濡れた唇をゆっくりと動かした。
声はかすれ、しかし貴族としての礼を崩さない。
「……彼女とは、幼き日に結婚の約束をいたしました。女公主殿下」
ナイメリアの唇に、冷たい微笑みが浮かぶ。
「とてもロマンチックなお話ではあるけれども、それはいわゆる”盟約”とは言えないわね、公爵。
貴方が今後、そのような所有権を主張することは許しません。
このむすめは、私が預かるわ。以後、私のものとして取り扱います」
ルシエルの紫の瞳が、わずかに揺れる。
血に濡れた美しい顔に――まだ消えない執念が交錯する。
「……承知いたしました、女公主殿下」
「まだ何か言いたいことありそうに見えるわ、ルシエル公爵。
ただ……まずは貴方の処分が済むまで、当面のあいだ謹慎しておくことね」
ナイメリアに付き従う臣下たちが、リーザを手早くマントに包み、抱きかかえて連れ去った。
リーザの金髪が、臣下の肩に垂れ、血の滴を残しながら闇の奥へ消えていく。
ナイメリアは、ルシエルとアスモデールの両者をそれぞれ見やってから、ゆっくりと踵を返した。
赤い薄絹のドレスが血を滴らせながら、彼女は優雅に立ち去っていった。
――サバトの夜は、静かに明け始めていた。
血に濡れた地面に、夜明けの薄い光が落ち、ルシエルの紫の瞳に、淡く反射する。
リーザの姿はすでに闇の彼方へ消え、会場の喧騒は、風に散って遠ざかっていた。
血と殺戮と凌辱にまみれて、サバトは終わった――。
だが、ルシエルの胸に灯る執念は、今も闇の中にあって、静かに燃え続けていた。