※この作品はR-18です。

半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~   作:古弥須 凱

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44話 饗宴<サバト> 下

 

【挿絵表示】

 

 

 

アスモデールは、ゆっくりとリーザを生贄台に横たえ直した。

 

彼女の白い腹部は、注がれた魔精の熱をかすかに残し、薄く火照っている。

 

アスモデールは冷たい微笑みを浮かべ、尖った爪を掲げた。

 

その爪先が、ゆっくりと彼女の下腹に近づく。

 

「今こそ……俺の名を、永遠に刻もう」

 

厳かなる署名――悪魔の刻印。

 

魔界の古い儀式に従い、アスモデールが爪を沈めようとしたその瞬間。

 

ドンッ!という鈍い音をたてて、電光のような黒い閃光が、血の海から迸った。

 

ルシエルの残った右手から放たれた最後の魔弾が、アスモデールの手首を正確に捉え、肉と骨を粉砕しながら吹き飛ばす。

 

鮮血が飛び散り、爪が宙を舞う。

 

「…………くすぐったい」

 

アスモデールは眉一つ動かさず、即座に肉体を再生させた。

 

吹き飛んだ手首から黒い魔力が渦を巻き、瞬時に元の形に戻る。

 

彼は嘲るようにルシエルを見下ろした。

 

「最後のあがきか、半血(ハーフブラッド)。……可愛いものだな」

 

だが――その言葉が終わらないうちに、流れ弾だったはずの黒い電光が、奇妙に増幅し始めた。

 

一発、二発……いや、数十発。

 

ルシエルの周囲で、次々と生まれる黒い閃光が、サバト会場の悪魔たちを無差別に貫き、焼き、引き裂く。

 

悲鳴が上がり、絶叫が響く。

 

貴賓席の令嬢たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、観客席の魔族たちが次々と倒れ、血と肉片が飛び散る。

 

古城の塔が、黒い電光の衝撃で傾き、崩落する石塊が下にいた悪魔たちを押し潰す。

 

轟音と粉塵がホール全体を覆い、ルシエルの放った黒い雷鳴は、不吉な魂(バンシー)のようにサバト会場を咆哮する。

 

「なんだと……?」

 

アスモデールが初めて、声に苛立ちを滲ませた。

 

彼の視線の先……血の海から、ゆっくりとルシエルは生まれ変わった。

 

崩れた古城の瓦礫と、魔族たちの断末魔が響く中、彼の体は赤黒い血の膜に包まれながら浮き上がる。

 

濡れた髪が頰に張り付き、長い睫毛に血の雫が光る。

 

紫の瞳は、黒い炎を宿しながらも、かつての優美な輝きを失っていない。

 

唇は血に染まって深紅に濡れ、完璧な輪郭の顔立ちは、痛みと憎しみでわずかに歪みながら、それでも息を呑むほど妖艶だった。

 

まるで血を吸い上げて咲いた薔薇のように、暗闇から生まれた者の持つ美しさが、そのまま残虐さを増幅させている。

 

その背中から、巨大な大鴉の翼が生えていた。

 

黒い羽は濡れたように艶めき、光を吸い込む深い闇色が、血の滴を弾きながらゆっくりと広がる。

 

翼の先端は鋭く、羽の一枚一枚が、血の膜を切り裂くように震え、闇の風を巻き起こす。

 

体は人間の形をほぼ保ち、白い肌に血の筋が走り、再生した左腕は黒く脈打つ血管が浮き出ているが、変化は異様に大きな大鴉の翼だけだった。

 

それが逆に恐ろしく魅惑的で、濡羽色の貴公子は、血の海から這い上がった堕ちた天使のように見える。

 

ルシエルは静かに浮遊し、美しい顔がゆっくりとアスモデールに向く。

 

長い睫毛が血の雫を振り落とし、紫の瞳が黒い炎を燃やしながら、冷たく見据える。

 

唇が、かすかに開く。声は低く、かすれながらもはっきりと響いた。

 

「俺はいま、人間の母から受けた、血と涙を流し尽くしたぞ、アスモデール。俺は……純血でも半血でもない。ただの憎しみそのものだ」

 

その一言で、黒い翼が一閃し、濡れた羽が空気を切り裂き、黒い風が会場を吹き荒れる。

 

彼は、まさに……何かに生まれ変わっていた。

 

そして彼自身も、それが何なのかを理解しないまま、怒りに燃え、復讐に猛っていた。

 

崩れた瓦礫が舞い上がり、魔族たちの悲鳴がさらに高まる。

 

ルシエルの黒い髪が風に乱れ、血に濡れた頰を伝う雫が、ゆっくりと落ちる。

 

美しい顔に浮かぶのは、復讐の微笑みとも、絶望の涙ともつかない。

 

アスモデールは、再生した手首を握りしめ、初めて……本気の苛立ちを瞳に宿した。

 

「こいつ……!何様のつもりだ!」

 

ルシエルは答えない。ただ、大鴉の翼をゆっくりと広げ、濡れ羽色の羽が、血の光を反射して妖しく輝く。

 

紫の瞳が、黒炎を宿したまま、アスモデールを貫くように見つめる。

 

アスモデールもまた、彼が持って生まれたもの――空間そのものを歪めるほどの魔力を爆発させた。

 

「半血の残滓が……よくも俺のサバトを汚したな!」

 

虚空が裂け、純血の魔王の血が呼び起こす無数の黒い槍が、ルシエルに向かって雨のように降り注ぐ。

 

虚空の槍(ヴォイド・ランス)は、凄まじい速度を保ちながら、ルシエルの心臓をただ一点狙い撃ちする。

 

ルシエルは動かない。ただ、ゆっくりと大鴉の翼を広げた。

 

濡れ羽色の羽が一瞬、黒い炎のように揺らめき――次の瞬間、翼が一閃し、黒い風が渦を巻き、虚空の槍をすべて弾き返す。

 

槍は逆にアスモデールに向かって跳ね返り、彼の肩を浅く抉った。鮮血が飛び散る。

 

「くっ……!」

 

アスモデールが初めて後退する。

 

彼は両手を広げ、空間を握り潰すようにして「散じよ」の呪文を重ねる。

 

空気が凝縮し、ルシエルの体を内側から爆散させようとする圧力が襲う。

 

だが――ルシエルはもう二度と、同じ手は喰わなかった。

 

紫の瞳が黒炎を噴き上げ、大鴉の翼が一気に羽ばたく。

 

黒い風が圧力を切り裂き、ルシエルは瞬時にアスモデールの眼前に迫った。

 

再生した左腕が、黒く脈打つ爪となってアスモデールの喉に触れる。

 

わずか数ミリの距離で止まる。

 

アスモデールの瞳に、初めての恐怖がちらついた。

 

ルシエルは美しい顔を近づけ、低く囁いた。

 

「……殿下の首級(くび)は、俺が頂戴しましょう。お覚悟は、もうよろしいですか?」

 

濡れ羽色の翼がゆっくりと広がり、血の光を反射して妖しく輝く。

 

――復讐の微笑みが、唇に浮かぶ。

 

その瞬間――虚空が裂ける音が響き、上空から一本の虚空の槍(ヴォイド・ランス)が、音もなくルシエルの胴を正確に狙い、一瞬で貫いた。

 

「がぁっ……!」

 

黒い血が噴き出し、ルシエルの翼が激しく痙攣する。

 

美しい大鴉の貴公子は、虚空の槍ごと、そのまま地面に串刺しにされていた。

 

槍は魔力の鎖となって彼の体を拘束し、翼を広げることすら許さない。

 

紫の瞳が痛みに歪み、血に濡れた唇からかすかな呻きが漏れる。

 

アスモデールの瞳が、一瞬だけ揺れた。

 

「……これは誰が……?」

 

アスモデールは、再生した手で自分の胸を押さえ、上空を見上げた。

 

そこには何者かが虚空の槍(ヴォイド・ランス)を放った魔力の残滓が、赤く薄く残っている。

 

アスモデールの声に、初めての混乱が混じる。

 

自分以外で、虚空の槍(ヴォイド・ランス)を使いこなす魔族など見たことがない。

 

その時――雷鳴が轟き、夜の闇を赤い影が切り裂いた。

 

深い海のような藍色の瞳に、凄まじい怒気を孕んだ美しい女性(ひと)――いや、幼さを残した年若い少女が、まるで赤い叢雲のように上空から舞い降りて来る。

 

長い銀青色の髪が風に舞い、王族の威厳を纏った赤い薄絹のドレスが、血の海の上で優雅に翻る。

 

「なぜ……なぜ貴女が……?」

 

「サバトの夜に魔性同士で血を流す愚か者ども。これはどういう騒ぎだ、アスモデール」

 

その声色は、少女らしく愛らしい高さではあったが、しかし絶対的な威圧を帯びていた。

 

空気が一瞬で凍りつく。

 

魔族たちの悲鳴が、ぴたりと止まる。

 

アスモデールの瞳が、大きく見開かれた。

 

「……ナイメリア伯母上……!」

 

サタンの前妃にして、いまはサタンの「王妹」の称号を持ち、広大な領地を治める大領主である――ナイメリア女公主その人だった。

 

彼の声は震えていた。初めての、明確な動揺と混乱が顔に浮かぶ。

 

ナイメリアはアスモデールの言葉に一切応じず、ただ静かに呟いた。

 

「……うるさいわね。この羽虫のような音を、止めなさい」

 

彼女の藍色の瞳が、ゆっくりと会場全体をなぞるように動いた。

 

一瞬の静寂の後――

 

すべての魔力電網(ネットワーク)が根こそぎ断ち切られた。

 

無数のドローン魔獣が空中で硬直し、次々と墜落していく。

 

金属と魔力結晶の破片が雨のように降り注ぎ、けたたましい音を立てた。

 

巨大スクリーン、個人端末、魔界全土の視聴回線が一斉にブラックアウトする。

 

配信音声が途切れ、魔界中に「ネットワーク接続エラー」の文字だけが浮かんでいた。

 

ナイメリアは小さく首を傾げ、独り言のように続けた。

 

「さて、アスモデール」

 

ナイメリアは、ゆっくりと義理の甥を見下ろした。

 

藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。

 

「お前は、このサバトの主としてサタン帝王の嫡子として招かれたはず。

 

この……みっともない状況は一体どういう事なのか、きちんと説明なさい」

 

彼女の声は静かだった。

 

しかし、その静けさは、嵐の前の静寂そのものだった。

 

空気が重く沈み、古城全体が息を潜める。

 

アスモデールは喉を鳴らす。

 

「……伯母上。これは……サバトの儀式です。

 

そこにあるルシエル公爵が、私のサバトを汚そうとしたものを、正しく処断しようとしております」

 

ナイメリアの藍色の瞳が、細くなる。

 

「処断?

私があの槍で、きれいな顔の大鴉を射止めなければ、お前は首級を取られていたわ、アスモデール。

 

仮にもサタンの嫡子が、たかが魔王の一人に殺されたなんて……兄上の名を貶める一族の恥になるところだった」

 

彼女は「兄上(あに)」と呼ぶものの、ナイメリアはすでにサタンの離婚済みの元王妃だった。

 

表面上、数百年近くにわたり友好的な「兄妹」関係を保ち続けているが、彼女の機嫌を損ねれば、サタン帝王の耳にどんな形で届くかわからない。

 

アスモデールはそれを、誰よりもよく理解していた。

 

一瞬の沈黙が流れる中、ナイメリアの視線が、串刺しのルシエルからアスモデールの腹心アギーレへ移った。

 

「それはそうと……花嫁狩りの場で、私の小姓を殺した者がいる。

 

生贄の姫を捕らえた森で小隕石(メテオ)に打たれて死んでいた。

 

あの子を殺したのは、お前の部下か、アスモデール」

 

ルシエルがリリアとレジナルドを探し、焼け焦げた森の中で見た、死んだ魔族の少年のことだった。

 

アスモデールの顔が青ざめる。

 

アギーレが無表情で跪いたまま、わずかに身を震わせる。

 

「伯母上……それは……俺は知りませんでした!アギーレ、お前か……?」

 

ナイメリアの声が、低く響く。

 

「知らなかった?だから何だと言うの。……処断なさい、アスモデール」

 

アスモデールは、喉を鳴らし、迷うことなく手を掲げた。

 

「散じよ」

 

空間が歪み、アギーレの体が内側から爆散する。

 

一言で、無残な断末魔すら上げられず、腹心の部下は血と肉片となって血の海に溶け落ちた。

 

ナイメリアは冷たく、その肉塊を見据えただけだった。

 

ナイメリアは、ゆっくりと串刺しにされたルシエルに近づいた。

 

血の海が、彼女の赤い薄絹のドレスを濡らし、裾を重く染めていく。

 

しかし、彼女は気にも留めず、優雅な足取りで歩を進めた。

 

うつくしい藍色の瞳が、痛みに歪むルシエルの美しい顔を、静かに見下ろす。

 

「ごきげんよう、公爵。今宵の宴は、楽しまれたかしら」

 

その声は、少女のように愛らしく、しかし底知れぬ冷たさを帯びていた。

 

空気がさらに重く沈み、魔族たちの息遣いが止まる。

 

ルシエルは、槍に貫かれた胴から黒い血を滴らせながら、ゆっくりと顔を上げた。

 

濡れ羽色の髪が血に張り付き、長い睫毛に赤い雫が光る。

 

唇から血の筋が一筋、ゆっくりと伝い落ちる。

 

それでも、彼の紫の瞳は、黒い炎を宿したまま、決して揺らがない。

 

「……そうでもありません、女公主殿下」

 

声はかすれ、血に濡れて低く響いた。

 

痛みで息を詰まらせながらも、王妹に対する礼儀を崩さず、静かに、しかし毅然と応える。

 

ナイメリアの瞳に、ただ冷徹な興味を湛えた光が浮かぶ。

 

「ええ、きっとそうでしょうね」

 

彼女はゆっくりと手を伸ばし、ルシエルに突き刺さった槍に触れた。

 

キィィン……と金属が砕けるような音を立てて槍が消滅し、ルシエルはそのまま地面に投げ出された。

 

黒い血がさらに広がり、濡れ羽色の翼が弱々しく震える。

 

ナイメリアは、その視線をアスモデールに移した。

 

「サバトは終わりよ、アスモデール。これ以上、王家の恥を上塗りすることは許さない。

 

こんな大騒ぎになったら、天界だって見逃さないでしょう」

 

アスモデールは、膝をついたまま、額に冷たい汗を浮かべる。

 

「……は、申し訳ありません、伯母上」

 

ナイメリアは、ゆっくりとアスモデールを見下ろした。

 

藍色の瞳に、冷酷な光が宿る。

 

「魔界には魔界の品位というものがある。お前のやり方は少々……下品よ、アスモデール。サバトひとつ治められずに」

 

サタン帝王の嫡子は、唇を噛んだ。

 

膝をついた姿勢のまま、肩がわずかに震えていた。

 

ナイメリアは、視線を犠牲台の上に倒れたままのリーザ姫に移した。

 

藍色の瞳が、慈愛めいた哀れみを帯びてリーザを捉える。

  

リーザの細い金髪が血と白濁にまみれ、傷だらけの白い肌が赤く火照っている。

 

「生贄のむすめは、私の預かりとして持ち帰るわ。

 

サバトの生贄は――最も高位の悪魔に捧げられるもの。つまり、私がこのサバトの主だということになる。

 

もし誰か異論があるならば、今すぐおっしゃい」

 

会場は、息を呑んだまま沈黙した。

 

誰も口を開かない。

 

ただ、血の海が静かに波打ち、赤黒い燭台の炎だけが、ぱちぱちと音を立てて揺れる。

 

ナイメリアは、満足げに小さく顎を動かした。

 

藍色の瞳が、再びルシエルに向く。

 

「ルシエル公爵。貴方は、この娘の所有者だとアスモデールに宣言したそうね。

 

みたところ……彼女に盟約は入っていない。つまり貴方のものではないわ。

 

ありもしない所有権を主張して、私の甥のサバトを汚したのであれば……、それ相応の処分を受けるべきでしょうね」

 

ルシエルは、地面に膝をついたまま、血に濡れた唇をゆっくりと動かした。

 

声はかすれ、しかし貴族としての礼を崩さない。

 

「……彼女とは、幼き日に結婚の約束をいたしました。女公主殿下」

 

ナイメリアの唇に、冷たい微笑みが浮かぶ。

 

「とてもロマンチックなお話ではあるけれども、それはいわゆる”盟約”とは言えないわね、公爵。

 

貴方が今後、そのような所有権を主張することは許しません。

 

このむすめは、私が預かるわ。以後、私のものとして取り扱います」

 

ルシエルの紫の瞳が、わずかに揺れる。

 

血に濡れた美しい顔に――まだ消えない執念が交錯する。

 

「……承知いたしました、女公主殿下」

 

「まだ何か言いたいことありそうに見えるわ、ルシエル公爵。

 

ただ……まずは貴方の処分が済むまで、当面のあいだ謹慎しておくことね」

 

ナイメリアに付き従う臣下たちが、リーザを手早くマントに包み、抱きかかえて連れ去った。

 

リーザの金髪が、臣下の肩に垂れ、血の滴を残しながら闇の奥へ消えていく。

 

ナイメリアは、ルシエルとアスモデールの両者をそれぞれ見やってから、ゆっくりと踵を返した。

 

赤い薄絹のドレスが血を滴らせながら、彼女は優雅に立ち去っていった。

 

――サバトの夜は、静かに明け始めていた。

 

血に濡れた地面に、夜明けの薄い光が落ち、ルシエルの紫の瞳に、淡く反射する。

 

リーザの姿はすでに闇の彼方へ消え、会場の喧騒は、風に散って遠ざかっていた。

 

血と殺戮と凌辱にまみれて、サバトは終わった――。

 

だが、ルシエルの胸に灯る執念は、今も闇の中にあって、静かに燃え続けていた。

 

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