※この作品はR-18です。

半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~   作:古弥須 凱

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48話 白紙委任の森 前編

 

【挿絵表示】

 

 

 

「白紙委任の森」は、いつまでも静かだった。

 

「リーザちゃんは疲れてるんだから……ここで、ゆっくり休むといいわ♡」

 

ナイメリアはそう言って、この美しい場所をリーザに貸し出してくれた。

 

ここでは約束も契約も、魔力も地位も、すべてが無効になる。

 

高位の悪魔ほど、この森を恐れる――彼らにとって最も重要な「契約」が失われるからだ、とナイメリアは教えてくれた。

 

そのロマンチックな名は、何ひとつ保証してくれない場所であることを、静かに示していた。

 

「何も考えなくていーのよ♡ この森の中では、あなたは人間でも王女でもない。ただのリーザよ」

 

幼い少女の姿のナイメリアは、年の離れた姉のように優しく、温かかった。

 

その深い海のような藍色の瞳で、リーザを見守り、傷ついたリーザの心を優しく抱き止めてくれた。

 

「本を読んで、風景を眺めて、お菓子を焼いたり、お茶を飲んだり……好きなことをしたらいいわ」

 

 

*

 

 

魔界にこんな静寂の世界があるなんて、不思議なくらいだった。

 

森の近くにある小さな屋敷では、目に見えない召使たちが静かに動き回っている。

 

その気配を感じると、時折「おはようございます、リーザ様」と小さな声で挨拶する。

 

リーザが接するのは彼女らだけで、ナイメリアも近頃は姿を見せない。

 

古いが瀟洒な屋敷には、大きな書架に本がずらりと並ぶ。

 

お茶を飲み、本を読み、夜明けの森を散歩する。

 

リーザの好きな花――縹竜胆(アズールゲンチアナ)が群生する野原に分け入り、水鳥が眠るのを眺めた。

 

王宮に囚われていた日々が嘘のように、目に映る世界の美しさに癒された。

 

「白紙委任の森」はうっそうと繁り、結界で完全に外部から閉ざされている。

 

だからこそ、ナイメリアはこの場所を「最も安全な牢獄」と呼んでいた。

 

同じ牢獄であっても、リーザには初めて、心の自由があるように思えた。

 

誰にも縛られず、誰にも監視されずに。

 

ルシエルとの夢を見ることもなくなった。

 

現実のこの世界が、まるで夢のように静かで、美しかった。

 

リーザの心は、まだ癒えてはいなかった。

 

それでも、少しずつ、落ち着きを取り戻し始めていた。

 

 

*

 

 

湖のほとりに建つ東屋は、蔦に覆われ、名も知らぬ淡い花がいくつも垂れ下がっていた。

 

リーザはいつものように、白い木製の椅子に腰を下ろし、膝の上に本を開いていた。

 

視線は文字ではなく、湖面に落ちる陽光の欠片を追っている。

 

風がそっと髪を揺らし、金色の糸が頰を撫でた。

 

――ルシエルが、またこの森に来ている。

 

ナイメリアが彼に、この「白紙委任の森」への立ち入りを許可したことは、聞かされていた。

 

領主である女公主が許した以上、リーザに拒む権利はない。

 

しかし、ナイメリアは深刻ぶることなく、軽くリーザに告げた。

 

「彼もこの森に入れば、魔王でも公爵でもないのよ。ただの黒い髪の男の子……まぁ特別きれいな顔の子ではあるけどね♡」

 

十二夜の夢が途絶えてから、ルシエルと最後に言葉を交わしたのはいつだったか、思い出せなかった。

 

あの優しい夢も、激しい夢も、あの恐ろしいサバトの夜以降は、すべて消えていた。

 

もう、ルシエルと会うことはない。

 

それはリーザ自身が望んだはずだったのに、胸の奥にぽっかりと空いた穴が、夜ごとに冷たく広がっていくようだった。

 

再び彼の紫の瞳を見て、また同じように「俺のものになれ」と言われたら……。

 

また「自由でありたい」と拒み、彼を傷つけ、自分も傷つき、同じ場所をぐるぐると回り続けるだけなのではないか。

 

だからこそ、ルシエルがこの森に現れることが、怖かった。

 

――しかし今、遠い木々の隙間に、ルシエルはただ立っていた。

 

黒いマントを纏い、枝葉に身を隠すようにして、彼女の姿を遠くから見つめている。

 

リーザは彼を見ないようにしていたのに、吸い寄せられるように視線がゆっくりと動いた。

 

息が、わずかに止まる。

 

彼女は立ち上がらなかった。

 

ただ、椅子に座ったまま、ゆっくりと顔を上げ、彼の方を見た。

 

視線が、木々の間を越えて届く。

 

ルシエルもまた、動かなかった。

 

紫の瞳が、彼女を静かに捉えていた。

 

近づくことも、声をかけようともせず、ただそこに立っている。

 

マントの裾が風に揺れていた。

 

彼は静かに目を伏せ、ゆっくりと踵を返した。

 

黒い影は、リーザを振り返ることなく、静かに森の中へ消えていった。

 

 

*

 

 

ルシエル公爵は、彼の執務の合間を縫って、何日かに一度、ナイメリアの領地である「白紙委任の森」を訪れるようになった。

 

魔界の公爵邸では書類の山が減ることはなく、レジナルドの不在が残した空白を埋めるため、彼は自ら筆を執り、裁可を下す。

 

それでも、心のどこかに空いた穴は埋まらない。

 

その穴を、少しでも埋められる場所は、この不思議な空間――「白紙委任の森」しかなかった。

 

森の入り口でマントの裾を払い、静かに歩を進める。

 

この森は、ルシエルにとっても不思議と心地よかった。

 

森の結界を潜り抜けると、魔界の公爵としての重圧がするりと溶け落ちるようだった。

 

彼を包む魔力が消え、家門への責任や、王宮での立場、さまざまなプレッシャーが消え、彼はただのルシエルという、一人の男になる。

 

木々の間を抜けると、湖の水面が陽光を砕いてきらめき、蔦の花が淡く香る。

 

東屋のいつもと同じ位置に、彼のかつての恋人……リーザは座っていた。

 

蔦の隙間から、白い椅子の背もたれが見える。

 

彼女がルシエルに気づいたら、その場を立ち去ると決めていた。

 

一秒でも長く彼女を見つめていたかったが、彼女が振り返る瞬間を待ちわびてもいる自分を知っていた。

 

リーザは微笑まないが、その美しい瞳は決して彼を拒んでいるようには見えなかった。

 

離れていても、同じ場所にいる――それがルシエルにとっての救いだった。

 

夜を徹して執務をこなしたあと、彼は木陰にもたれ眠ってしまったことすらあった。

 

夢うつつに、冷たい手が彼に触れたような気がした。

 

ルシエルが目を覚ました時、東屋はもう空っぽで、リーザの気配はどこにも残っていなかった。

 

指先が、いましがたの幻を追いかけるように、虚空をなぞる。

 

ルシエルは立ち上がり、マントの埃を軽く払った。

 

彼は振り返らず、ゆっくりと森の奥へ歩を進めた。

 

黒いマントが木漏れ日に溶け、足音はすぐに消えた。

 

森は、再び静寂に包まれた。

 

 

*

 

 

昨日、リーザは偶然、彼の姿を見つけた。

 

木陰にもたれ、疲れ果てて、深く眠っているルシエル。

 

この「白紙委任の森」の中で、ルシエルからは魔王の威厳も、公爵の誇りも、すべて失われていた。

 

それはリーザの愛した人の……かつての恋人の寝顔だった。

 

彼は、眠っていても美しかった。

 

黒いマントに包まれ、子供のように自分の膝を抱いて眠っている。

 

そっと近づき、震える指先で、彼の頰に触れてみた。

 

ほのかに温かく、なめらかな肌。

 

現実の彼に、初めて触れた瞬間だった。

 

あの夢の中では何度も抱き合ったのに、現実では一度も触れたことがなかった。

 

その温もりに、胸の奥が激しく疼いた。

 

そして今――ルシエルが、またこの森に来ているのがわかっていた。

 

遠い木々の隙間にルシエルが立っているのに気づき、リーザは見ないようにしていたのに、なぜか吸い寄せられるように視線を動かしていた。

 

息が、わずかに止まる。

 

リーザは静かに、しかしまっすぐと……ルシエルを見た。

 

*

 

ルシエルは、木々の陰から湖のほとりを見ていた。

 

東屋に、彼女が座っている。

 

蔦に覆われた白い椅子、金色の髪が風に揺れる。

 

本を開いているが、視線は湖面に落ちる陽光を追っているようだった。

 

――彼女が、気づいた。

 

湖面が陽光を砕き、きらめきを散らす中、二人は離れて、ただ見つめ合った。

 

彼女は、変わらず美しかった。

 

ああ立ち去らなければ、とルシエルは思う。

 

もし彼女を好きにならなければ――、こんな気持ちにならずに済んだのかもしれなかった。

 

なぜか今日に限って、いつものように踵を返すことが出来なかった。

 

リーザがゆっくり立ち上がる。

 

そして東屋の入り口に近づき、静かに片手を差し伸べるようなそぶりを見せた。

 

――招く仕草。

 

ルシエルは一瞬、息を飲んだ。

 

紫の瞳が揺れる。

 

驚きと、信じられない喜びと、恐れが混じり合って、胸を締めつけた。

 

これまで、彼女はいつも拒絶し、遠ざけ、傷つけてきた。

 

それなのに、今、彼女は自分を招いている。

 

ゆっくりと木の陰から踏み出した。

 

落ち葉を踏むかすかな音とともに、静かに東屋に向かう。

 

リーザは彼を迎え入れず、ただ席に戻った。

 

黙ったまま、小さなティーセットに手を伸ばす。

 

湯を注ぎ、茶葉を入れ、ゆっくりとカップに注ぐ。

 

二つのカップ。

 

一つを、自分の隣に、静かに置いた。

 

ルシエルは東屋の入り口で立ち止まり、彼女から少し離れた椅子に腰を下ろした。

 

向かい合うこともなく、ただ同じ空間に、座る。

 

湖の水音と、風が蔦を揺らす音だけが響く。

 

カップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。

 

温かい茶が喉を通る。

 

優しく、ほのかに甘い。

 

彼女が選んだ茶葉の味だった。

 

リーザは目を合わせない。

 

彼女は視線を湖面に落とし、指先でカップの縁をなぞっている。

 

自分もまた、直視はしない。

 

ただ、横顔を視界の端に捉える。

 

(彼女の近くに、いる……)

 

これまで、現実でこれほど近くに対面するのは、ほぼ初めてだった。

 

十二夜の夢では、いつも体を重ね、激しく求め合い、傷つけ合っていた。

 

だが、現実では、いつも拒絶され、遠ざけられ、血の海で這いつくばっていた。

 

今、こうして、ただ彼女の近くに座り、共にお茶を飲んでいる。

 

静かに、穏やかに、ゆっくりと息を吐いた。

 

ルシエルはこの森に入る時、彼の生来の激しい執着も、リーザを得られないことによる愛憎も、すべて置き去ってきたのかもしれなかった。

 

ただ心が、温かかった。

 

ルシエルはカップを置き、静かに立ち上がった。

 

去り際に、視線を落とす。

 

彼女の膝の上に置かれた本の表紙に、目が止まった。

 

古い革装の詩集。

 

その題名をそっと目で追った。タイトルは、銀の箔押しで、かすかに光っている。

 

彼女が今、どんな言葉を求めているのか、どんな想いを抱いているのか。

 

ただ、それを知りたかった。

 

静かに、ルシエルは東屋を後にした。

 

足音は、落ち葉を踏むかすかな音だけで湖の水音にかき消され、すぐに聞こえなくなった。

 

*

 

何日間か、彼らの無言のお茶会が続いていた。

 

東屋の椅子に、少しはなれて、並んで座る二人は、湖の水音と風のささやきだけを共有する。

 

リーザは膝の上に開いた詩集を、ゆっくりと指でなぞる。

 

ページは進まない。

 

ただ、文字の上を指が滑るように、時折止まる。

 

ルシエルは、少し離れた隣の椅子に腰を下ろし、カップを手に持ちながら、彼女の横顔を静かに見つめている。

 

言葉はない。

 

森のルールが、すべてを無効にしている。

 

だからこそ、この静けさが、初めての「穏やかな時間」になっていた。

 

今日も、リーザは詩集に目を落としていた。

 

彼女の指先が、特定のページで止まる。

 

そこに、短い一節。

 

「焔は守り、灰は還る。 失われたものは、決して戻らない。

 

 だが、灰の中から、新たな火種が生まれることもある。」

 

ルシエルは、彼女の指の動きを追っていた。

 

そして、静かに、念話で語りかけた。

 

(……俺も、同じ本を探して読んだ)

 

声は、直接耳に届くのではなく、心の奥に響く。

 

穏やかで、控えめで、これまでの彼らしくない、柔らかな響き。

 

リーザの指先が、ぴくりと止まった。

 

彼女はゆっくりと顔を上げ、ルシエルを見た。

 

紫の瞳が、静かに彼女を捉えている。

 

驚きが、彼女の瞳に一瞬だけ浮かんだ。

 

これまで彼は、いつも「俺のものだ」とか「妻になれ」とか、所有の言葉を繰り返していた。

 

それなのに、今はただ、本の話。

 

(……あなたも、読んだの?)

 

リーザの心は、わずかに震えていた。

 

だが、拒絶ではない。

 

ただ、戸惑いと、かすかな好奇心だった。

 

ルシエルは、ゆっくりと頷いた。

 

(お前が、何をよんでいるのか知りたかった)

 

リーザは、詩集を膝に抱きしめるようにした。

 

視線は湖面に落ちるが、声は心に届く。

 

(この詩集は、ナイメリア様にお借りしたわ。読んでいると、いまの私の気持ちに寄り添ってくれるみたいで、すごく気持ちが落ち着くの)

 

ルシエルは、カップを置いた。

 

静かに、念話で続ける。

 

(お前が、穏やかでいてくれて良かった)

 

リーザの指先が、詩集の表紙をそっと撫でた。

 

彼女は、目を合わせないまま、念話で答えた。

 

(あなたが、……そんな優しい言葉をかけてくれるとは思わなかった)

 

ルシエルに、どこか満足したような、穏やかな表情が浮かぶ。

 

彼はゆっくりと立ち上がった。

 

マントの裾を風に揺らしながら、静かに去っていく。

 

彼女は、静かに目を閉じた。

 

胸の奥で、かすかな火種が、温かく灯っていた。

 

 

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