半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
「白紙委任の森」は、いつまでも静かだった。
「リーザちゃんは疲れてるんだから……ここで、ゆっくり休むといいわ♡」
ナイメリアはそう言って、この美しい場所をリーザに貸し出してくれた。
ここでは約束も契約も、魔力も地位も、すべてが無効になる。
高位の悪魔ほど、この森を恐れる――彼らにとって最も重要な「契約」が失われるからだ、とナイメリアは教えてくれた。
そのロマンチックな名は、何ひとつ保証してくれない場所であることを、静かに示していた。
「何も考えなくていーのよ♡ この森の中では、あなたは人間でも王女でもない。ただのリーザよ」
幼い少女の姿のナイメリアは、年の離れた姉のように優しく、温かかった。
その深い海のような藍色の瞳で、リーザを見守り、傷ついたリーザの心を優しく抱き止めてくれた。
「本を読んで、風景を眺めて、お菓子を焼いたり、お茶を飲んだり……好きなことをしたらいいわ」
*
魔界にこんな静寂の世界があるなんて、不思議なくらいだった。
森の近くにある小さな屋敷では、目に見えない召使たちが静かに動き回っている。
その気配を感じると、時折「おはようございます、リーザ様」と小さな声で挨拶する。
リーザが接するのは彼女らだけで、ナイメリアも近頃は姿を見せない。
古いが瀟洒な屋敷には、大きな書架に本がずらりと並ぶ。
お茶を飲み、本を読み、夜明けの森を散歩する。
リーザの好きな花――
王宮に囚われていた日々が嘘のように、目に映る世界の美しさに癒された。
「白紙委任の森」はうっそうと繁り、結界で完全に外部から閉ざされている。
だからこそ、ナイメリアはこの場所を「最も安全な牢獄」と呼んでいた。
同じ牢獄であっても、リーザには初めて、心の自由があるように思えた。
誰にも縛られず、誰にも監視されずに。
ルシエルとの夢を見ることもなくなった。
現実のこの世界が、まるで夢のように静かで、美しかった。
リーザの心は、まだ癒えてはいなかった。
それでも、少しずつ、落ち着きを取り戻し始めていた。
*
湖のほとりに建つ東屋は、蔦に覆われ、名も知らぬ淡い花がいくつも垂れ下がっていた。
リーザはいつものように、白い木製の椅子に腰を下ろし、膝の上に本を開いていた。
視線は文字ではなく、湖面に落ちる陽光の欠片を追っている。
風がそっと髪を揺らし、金色の糸が頰を撫でた。
――ルシエルが、またこの森に来ている。
ナイメリアが彼に、この「白紙委任の森」への立ち入りを許可したことは、聞かされていた。
領主である女公主が許した以上、リーザに拒む権利はない。
しかし、ナイメリアは深刻ぶることなく、軽くリーザに告げた。
「彼もこの森に入れば、魔王でも公爵でもないのよ。ただの黒い髪の男の子……まぁ特別きれいな顔の子ではあるけどね♡」
十二夜の夢が途絶えてから、ルシエルと最後に言葉を交わしたのはいつだったか、思い出せなかった。
あの優しい夢も、激しい夢も、あの恐ろしいサバトの夜以降は、すべて消えていた。
もう、ルシエルと会うことはない。
それはリーザ自身が望んだはずだったのに、胸の奥にぽっかりと空いた穴が、夜ごとに冷たく広がっていくようだった。
再び彼の紫の瞳を見て、また同じように「俺のものになれ」と言われたら……。
また「自由でありたい」と拒み、彼を傷つけ、自分も傷つき、同じ場所をぐるぐると回り続けるだけなのではないか。
だからこそ、ルシエルがこの森に現れることが、怖かった。
――しかし今、遠い木々の隙間に、ルシエルはただ立っていた。
黒いマントを纏い、枝葉に身を隠すようにして、彼女の姿を遠くから見つめている。
リーザは彼を見ないようにしていたのに、吸い寄せられるように視線がゆっくりと動いた。
息が、わずかに止まる。
彼女は立ち上がらなかった。
ただ、椅子に座ったまま、ゆっくりと顔を上げ、彼の方を見た。
視線が、木々の間を越えて届く。
ルシエルもまた、動かなかった。
紫の瞳が、彼女を静かに捉えていた。
近づくことも、声をかけようともせず、ただそこに立っている。
マントの裾が風に揺れていた。
彼は静かに目を伏せ、ゆっくりと踵を返した。
黒い影は、リーザを振り返ることなく、静かに森の中へ消えていった。
*
ルシエル公爵は、彼の執務の合間を縫って、何日かに一度、ナイメリアの領地である「白紙委任の森」を訪れるようになった。
魔界の公爵邸では書類の山が減ることはなく、レジナルドの不在が残した空白を埋めるため、彼は自ら筆を執り、裁可を下す。
それでも、心のどこかに空いた穴は埋まらない。
その穴を、少しでも埋められる場所は、この不思議な空間――「白紙委任の森」しかなかった。
森の入り口でマントの裾を払い、静かに歩を進める。
この森は、ルシエルにとっても不思議と心地よかった。
森の結界を潜り抜けると、魔界の公爵としての重圧がするりと溶け落ちるようだった。
彼を包む魔力が消え、家門への責任や、王宮での立場、さまざまなプレッシャーが消え、彼はただのルシエルという、一人の男になる。
木々の間を抜けると、湖の水面が陽光を砕いてきらめき、蔦の花が淡く香る。
東屋のいつもと同じ位置に、彼のかつての恋人……リーザは座っていた。
蔦の隙間から、白い椅子の背もたれが見える。
彼女がルシエルに気づいたら、その場を立ち去ると決めていた。
一秒でも長く彼女を見つめていたかったが、彼女が振り返る瞬間を待ちわびてもいる自分を知っていた。
リーザは微笑まないが、その美しい瞳は決して彼を拒んでいるようには見えなかった。
離れていても、同じ場所にいる――それがルシエルにとっての救いだった。
夜を徹して執務をこなしたあと、彼は木陰にもたれ眠ってしまったことすらあった。
夢うつつに、冷たい手が彼に触れたような気がした。
ルシエルが目を覚ました時、東屋はもう空っぽで、リーザの気配はどこにも残っていなかった。
指先が、いましがたの幻を追いかけるように、虚空をなぞる。
ルシエルは立ち上がり、マントの埃を軽く払った。
彼は振り返らず、ゆっくりと森の奥へ歩を進めた。
黒いマントが木漏れ日に溶け、足音はすぐに消えた。
森は、再び静寂に包まれた。
*
昨日、リーザは偶然、彼の姿を見つけた。
木陰にもたれ、疲れ果てて、深く眠っているルシエル。
この「白紙委任の森」の中で、ルシエルからは魔王の威厳も、公爵の誇りも、すべて失われていた。
それはリーザの愛した人の……かつての恋人の寝顔だった。
彼は、眠っていても美しかった。
黒いマントに包まれ、子供のように自分の膝を抱いて眠っている。
そっと近づき、震える指先で、彼の頰に触れてみた。
ほのかに温かく、なめらかな肌。
現実の彼に、初めて触れた瞬間だった。
あの夢の中では何度も抱き合ったのに、現実では一度も触れたことがなかった。
その温もりに、胸の奥が激しく疼いた。
そして今――ルシエルが、またこの森に来ているのがわかっていた。
遠い木々の隙間にルシエルが立っているのに気づき、リーザは見ないようにしていたのに、なぜか吸い寄せられるように視線を動かしていた。
息が、わずかに止まる。
リーザは静かに、しかしまっすぐと……ルシエルを見た。
*
ルシエルは、木々の陰から湖のほとりを見ていた。
東屋に、彼女が座っている。
蔦に覆われた白い椅子、金色の髪が風に揺れる。
本を開いているが、視線は湖面に落ちる陽光を追っているようだった。
――彼女が、気づいた。
湖面が陽光を砕き、きらめきを散らす中、二人は離れて、ただ見つめ合った。
彼女は、変わらず美しかった。
ああ立ち去らなければ、とルシエルは思う。
もし彼女を好きにならなければ――、こんな気持ちにならずに済んだのかもしれなかった。
なぜか今日に限って、いつものように踵を返すことが出来なかった。
リーザがゆっくり立ち上がる。
そして東屋の入り口に近づき、静かに片手を差し伸べるようなそぶりを見せた。
――招く仕草。
ルシエルは一瞬、息を飲んだ。
紫の瞳が揺れる。
驚きと、信じられない喜びと、恐れが混じり合って、胸を締めつけた。
これまで、彼女はいつも拒絶し、遠ざけ、傷つけてきた。
それなのに、今、彼女は自分を招いている。
ゆっくりと木の陰から踏み出した。
落ち葉を踏むかすかな音とともに、静かに東屋に向かう。
リーザは彼を迎え入れず、ただ席に戻った。
黙ったまま、小さなティーセットに手を伸ばす。
湯を注ぎ、茶葉を入れ、ゆっくりとカップに注ぐ。
二つのカップ。
一つを、自分の隣に、静かに置いた。
ルシエルは東屋の入り口で立ち止まり、彼女から少し離れた椅子に腰を下ろした。
向かい合うこともなく、ただ同じ空間に、座る。
湖の水音と、風が蔦を揺らす音だけが響く。
カップを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。
温かい茶が喉を通る。
優しく、ほのかに甘い。
彼女が選んだ茶葉の味だった。
リーザは目を合わせない。
彼女は視線を湖面に落とし、指先でカップの縁をなぞっている。
自分もまた、直視はしない。
ただ、横顔を視界の端に捉える。
(彼女の近くに、いる……)
これまで、現実でこれほど近くに対面するのは、ほぼ初めてだった。
十二夜の夢では、いつも体を重ね、激しく求め合い、傷つけ合っていた。
だが、現実では、いつも拒絶され、遠ざけられ、血の海で這いつくばっていた。
今、こうして、ただ彼女の近くに座り、共にお茶を飲んでいる。
静かに、穏やかに、ゆっくりと息を吐いた。
ルシエルはこの森に入る時、彼の生来の激しい執着も、リーザを得られないことによる愛憎も、すべて置き去ってきたのかもしれなかった。
ただ心が、温かかった。
ルシエルはカップを置き、静かに立ち上がった。
去り際に、視線を落とす。
彼女の膝の上に置かれた本の表紙に、目が止まった。
古い革装の詩集。
その題名をそっと目で追った。タイトルは、銀の箔押しで、かすかに光っている。
彼女が今、どんな言葉を求めているのか、どんな想いを抱いているのか。
ただ、それを知りたかった。
静かに、ルシエルは東屋を後にした。
足音は、落ち葉を踏むかすかな音だけで湖の水音にかき消され、すぐに聞こえなくなった。
*
何日間か、彼らの無言のお茶会が続いていた。
東屋の椅子に、少しはなれて、並んで座る二人は、湖の水音と風のささやきだけを共有する。
リーザは膝の上に開いた詩集を、ゆっくりと指でなぞる。
ページは進まない。
ただ、文字の上を指が滑るように、時折止まる。
ルシエルは、少し離れた隣の椅子に腰を下ろし、カップを手に持ちながら、彼女の横顔を静かに見つめている。
言葉はない。
森のルールが、すべてを無効にしている。
だからこそ、この静けさが、初めての「穏やかな時間」になっていた。
今日も、リーザは詩集に目を落としていた。
彼女の指先が、特定のページで止まる。
そこに、短い一節。
「焔は守り、灰は還る。 失われたものは、決して戻らない。
だが、灰の中から、新たな火種が生まれることもある。」
ルシエルは、彼女の指の動きを追っていた。
そして、静かに、念話で語りかけた。
(……俺も、同じ本を探して読んだ)
声は、直接耳に届くのではなく、心の奥に響く。
穏やかで、控えめで、これまでの彼らしくない、柔らかな響き。
リーザの指先が、ぴくりと止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、ルシエルを見た。
紫の瞳が、静かに彼女を捉えている。
驚きが、彼女の瞳に一瞬だけ浮かんだ。
これまで彼は、いつも「俺のものだ」とか「妻になれ」とか、所有の言葉を繰り返していた。
それなのに、今はただ、本の話。
(……あなたも、読んだの?)
リーザの心は、わずかに震えていた。
だが、拒絶ではない。
ただ、戸惑いと、かすかな好奇心だった。
ルシエルは、ゆっくりと頷いた。
(お前が、何をよんでいるのか知りたかった)
リーザは、詩集を膝に抱きしめるようにした。
視線は湖面に落ちるが、声は心に届く。
(この詩集は、ナイメリア様にお借りしたわ。読んでいると、いまの私の気持ちに寄り添ってくれるみたいで、すごく気持ちが落ち着くの)
ルシエルは、カップを置いた。
静かに、念話で続ける。
(お前が、穏やかでいてくれて良かった)
リーザの指先が、詩集の表紙をそっと撫でた。
彼女は、目を合わせないまま、念話で答えた。
(あなたが、……そんな優しい言葉をかけてくれるとは思わなかった)
ルシエルに、どこか満足したような、穏やかな表情が浮かぶ。
彼はゆっくりと立ち上がった。
マントの裾を風に揺らしながら、静かに去っていく。
彼女は、静かに目を閉じた。
胸の奥で、かすかな火種が、温かく灯っていた。