※この作品はR-18です。

半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~   作:古弥須 凱

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49話 白紙委任の森 後編

 

【挿絵表示】

 

 

 

ルシエルは、いつものように「白紙委任の森」の入り口でマントの裾を払い、静かに歩を進めた。

 

森の結界を潜り抜けると、彼を包む魔界での公爵としての重圧(プレッシャー)が、するりと溶け落ちる感覚がする。

 

なにも持たず、すべての契約が消え失せ、ただの”ルシエル”になって歩き始める。

 

湖の水面が陽光を砕き、きらめきを散らしている。

 

東屋を巻き取ろうとする蔦の隙間から、白い椅子の背もたれが見える。

 

しかし――今日、そこに彼女の姿はなかった。

 

リーザは来ていない。

 

あるいは、今日は来ないのかもしれなかった。

 

ルシエルは静かに東屋に近づき、彼女がいつも座っている白い椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。

 

彼女がいつも眺めている風景を、自分もなぞって眺めていた。

 

彼女がここで感じていた静けさ――。それを、ルシエルは初めて自分の視界で味わった。

 

目を閉じ、ゆっくり息を吐く。

 

どれだけ待っても、今日の彼女は来ない。

 

それでも、ルシエルは立ち去ろうとしなかった。

 

ただ、彼女がいつも座っていた場所に座り、彼女がいつも眺めていた風景を、静かに眺め続けた。

 

「白紙委任の森」は、今日も静かだった。

 

――彼は幸福を感じた。

 

そこには、確かにあった日々が、温かく残っている。

 

リーザがいなくなったとしても、あの十二夜の夢も、激しく乱れた夜も、お茶を囲んだ静かな時間も、すべて彼にとっての現実だった。

 

リーザが人間の短い寿命を終え、灰のように還ったとしても、彼はきっと、この椅子に座って、同じ風景を眺め続けるだろう。

 

彼女の金色の髪が風に揺れた日々、彼女がルシエルの額に落とした優しい口づけのすべて。

 

リーザがここにいなくても、彼は幸福だった。

 

(……お前は、確かにいた。だから、俺は孤独じゃない)

 

彼は、長い間、そこに座っていた。

 

立ち去るときは、いつもより少しだけ、心が軽かった。

 

マントの裾が風に翻り、木々の影に溶けていく。

 

東屋は、再び静かになった。

 

ルシエルにとって、リーザの不在の椅子に座って風景を眺めたあの時間が、すべてだった。

 

たとえ彼女がいなくても、幸福は消えないと知った瞬間が、彼をようやく自由にした。

 

 

*

 

 

リーザは、森の小道をゆっくり歩いていた。

 

今日も東屋に行くつもりだった。

 

湖の水音が近づき、蔦の香りが漂う頃、彼女は足を止めた。

 

東屋に、誰かが座っていた。

 

いつも自分が座る白い椅子に、黒いマントを纏った背中。

 

ルシエルだった。

 

彼は彼女のいない東屋に、静かに腰を下ろしていた。

 

膝に何も置かず、ただ湖の向こうを眺めている。

 

肩は少し落ち、首筋がわずかに傾き、孤独な後ろ姿が陽光に透けて見えた。

 

風がマントの裾を揺らしている。彼は動かない。

 

ただ、彼女が毎日見ていた風景を、静かに、じっと、なぞるように眺めている。

 

リーザは木の陰に身を寄せ、息を潜めた。

 

胸が、締め付けられるように痛んだ。

 

いつも自分が座る場所に、彼が座っている。彼女の目線で、同じ風景を見ている。

 

言葉もなく、触れ合うこともなく、ただそこにいる。

 

それなのに、その孤独な背中が、こんなにも胸を刺す。

 

十二夜の夢では、彼はいつも激しく求め、所有しようとした。

 

血の海で這いつくばりながらも、彼女を奪おうとした。

 

なのに、今はただ、静かに座っている。

 

彼女のいない場所で、彼女の目線を借りて、風景を眺めている。

 

ルシエルは、長い間、そこにいた。

 

しばらくして、彼はゆっくり立ち上がった。

 

そしてまるで、彼女がそこにいるかのように、自分が座っていた椅子をもう一度見た。

 

黒いマントを翻し、ルシエルは静かに木々の影に消えていった。

 

リーザは、木の陰から、彼の背中を遠くから見送った。

 

視線は湖面を越え、木々の隙間を越え、彼の姿が完全に消えるまで、追いかけた。

 

胸の痛みは、消えなかった。

 

 

*

 

 

ルシエルが東屋に歩いてくるのを、リーザは静かに認めた。

 

湖の水音が近づく足音にかき消され、蔦の隙間から黒いマントが現れる。

 

彼はいつものように、ゆっくり入り口に立ち、彼女の視線を感じ取って少し微笑んだ。

 

リーザは、無言でティーセットに手を伸ばす。

 

湯を注ぎ、茶葉を入れ、二つのカップに静かに注ぐ。

 

一つを、いつも彼が座る少し離れた椅子の上に置いた。

 

ルシエルは、静かにその椅子に腰を下ろした。

 

カップを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。

 

言葉はない。

 

ただ、湖の水音と、風が蔦を揺らす音だけが、二人の間に流れる。

 

リーザは膝の上の詩集をそっと閉じ、立ち上がった。

 

迷うことなく彼の隣の椅子に近づき、静かに腰を下ろした。

 

驚きが紫の瞳に一瞬だけ浮かぶ。だが、彼はすぐにそれを抑えた。

 

リーザの胸の奥で、何かが静かに広がった。

 

驚きと戸惑いと、そして、嬉しいという感情。

 

ルシエルの肩が視界の端に捉えられ、彼の息遣いがかすかに伝わってくる。

 

彼女は目を伏せ、詩集を膝に戻す。

 

指先が表紙をなぞる。

 

ルシエルは、隣に座った彼女を視線でそっと追った。

 

(……今日は、隣に座ってくれた)

 

リーザはページをめくる仕草を止め、念話で返す。

 

(……そうね)

 

短い言葉。それだけだが、その一言に、彼女の心の揺らめきが込められている。

 

ルシエルは彼女の膝の上の詩集に視線を落とした。

 

隣から、彼女の体温がわずかに伝わってくる。

 

(こうして一緒にいられることが、嬉しい)

 

リーザの指先がページの上で止まった。

 

彼女は目を伏せたまま、念話で返す。

 

(……私も、嬉しいわ)

 

短い言葉。だが、二人の間に静かな共鳴が生まれる。

 

湖の水音が、優しくそれを包む。

 

ルシエルはカップを置き、ゆっくり立ち上がった。彼女の隣で一瞬だけ立ち止まり、視線を落とす。

 

(……また、来る)

 

リーザは頷くように指先で本を撫でた。

 

ルシエルは静かに東屋を後にした。

 

マントが風に翻り、木々の影に溶けていく。

 

リーザは、隣の空の椅子を静かに見つめた。

 

膝の上の詩集をそっと開き、指先がページをなぞる。

 

胸の奥で、火種が、かすかに、温かく灯り続けていた。

 

 

*

 

 

リーザは、膝の上の詩集をゆっくり開いた。

 

今日も東屋の椅子に並んで座る二人は、湖の水音を背景に、静かに本を共有していた。

 

リーザはページをめくり、指で一節を指し示す。

 

念話ではなく、静かに、声に出して朗読を始めた。

 

「灰は還る。 失われたものは、決して戻らない。

 

 だが、灰の中から、新たな火種が生まれることもある……」

 

彼女の声は静かに、そして穏やかで、湖面に落ちる陽光のように柔らかかった。

 

ルシエルは隣からその声を聞き、静かにページをめくった。

 

次のページに指を置き、今度は彼が朗読する。

 

「火種は、風に吹かれ、 時に消えかけることもある。

 

だが、灰の下で、静かに息を潜め、再び燃え上がる瞬間を待っている……」

 

交互にページをめくり、声を重ねる。

 

言葉は詩集のものだけ。二人の声が湖の水音に溶け、蔦の香りに混じり、静かに響き合う。

 

リーザの指がページをなぞり、ルシエルの指が次の行を指す。息遣いが、かすかに伝わる。

 

ふと、ページをめくる瞬間。

 

彼女の指先が、わずかにルシエルの指に触れた。

 

二人はぴたりと止まった。

 

リーザの指が、彼の指の上に重なる。

 

温かい、現実の温もり。

 

十二夜の夢では、何度も体を重ね、激しく求め合った。

 

だが、現実で触れ合うと、どうしていいかわからず、二人は止まる。

 

息が、わずかに乱れた。

 

湖の水音だけが、静かに続く。リーザは迷うことなく、ルシエルの手をそっと取った。

 

指を絡め、手のひらを重ねる。

 

引き寄せられるように、二人は顔を近づけた。

 

紫の瞳と、茶色がかった瞳が静かに交わり、唇が触れ合う。

 

リーザとルシエルが交わす、初めての接吻。

 

優しく、穏やかで、十二夜の激しさも、所有の渇望もない、ただの接吻だった。

 

唇が触れ、離れ、また触れ、静かに深くなる。

 

息が混じり、温もりが伝わる。

 

やがて、二人はゆっくりと離れた。

 

ルシエルは彼女の手を握ったまま、静かに念話で語りかけた。

 

(……明日も、来る。ここで、お前と一緒にいたい)

 

リーザの指がわずかに震えた。彼女は目を伏せ、念話で返す。

 

(……約束は、ここでは意味をなさないのよ)

 

森のルールを知っている。

 

ここでは、どんな言葉も、約束も、無効になる。だからこそ、今のこの瞬間だけが、本物だった。

 

リーザは戸惑ったように首を振った。声に出して、かすかに呟く。

 

「……わからない」

 

ルシエルは彼女の手をそっと握りしめた。紫の瞳が静かに彼女を見つめる。

 

「……それでいい。わからないままで、いい。俺も、わからない……」

 

リーザは目を閉じた。

 

胸の奥で、火種が、かすかに、温かく灯り続けていた。

 

湖面に陽光が落ちる。二人は、静かに、手を繋いだまま、座っていた。

 

 

*

 

 

リーザは、東屋の白い椅子にルシエルと並んで座っていた。

 

ルシエルが静かに手を伸ばす。

 

リーザの指をそっと絡めた。

 

彼女は抵抗せずに、その手を握り返した。

 

二人の指が、静かに、深く絡み合う。

 

やがて、リーザはゆっくり体を傾け、ルシエルの肩にもたれかかった。

 

金色の髪が、彼の胸に柔らかく広がる。

 

ルシエルは動かず、ただ彼女の重みを静かに受け止めた。

 

二人は互いに首をもたせかけ、湖の水面を眺めていた。

 

言葉はない。

 

息遣いだけが、静かに重なる。

 

ルシエルはゆっくり顔を傾け、彼女の額に唇を寄せた。

 

優しく、穏やかに、長い口づけを落とす。

 

リーザのまぶたが、かすかに震えた。

 

彼女は目を閉じたまま、彼の胸に頰を寄せ、静かに身を委ねた。

 

二人は、ただ寄り添ったまま、長い時間を過ごした。

 

言葉は必要なかった。

 

ここでは、約束も誓いも、所有の言葉も、すべてが無効だった。

 

だからこそ、今のこの温もりだけが、本物の愛情だった。

 

 

*

 

 

二人は、東屋の白い椅子に寄り添っていた。

 

夜になっても、離れようとしなかった。

 

ルシエルが腕を回し、リーザを優しく抱き寄せる。

 

リーザは抵抗せずに体を預け、彼の胸に頰を寄せた。

 

互いの体温が、ゆっくりと混じり合う。

 

(……俺はこれまで、お前を沢山傷つけてきた。それでも……今はただ、こうして触れていたい)

 

夢の中の激しさとは違う、ただ静かに寄り添う温もり。

 

湖の水音が、遠くで優しく続く。

 

リーザは、ルシエルの胸に額を預けたまま、静かに目を閉じた。

 

やがて、小さな声で呟くように言った。

 

「……私は人間だから、いつか寿命が来てしまう。あなたよりずっと早く、灰になってしまうかもしれない」

 

ルシエルは、わずかに息を止めた。彼女の髪を撫でる手が、一瞬だけ止まる。

 

だが、彼はすぐに穏やかな声で答えた。

 

「……知っている」

 

リーザは目を閉じたまま、続ける。

 

「この森では、どんな約束も意味をなさない。だから……明日も、来年も、永遠に一緒にいるとか、そういう言葉は、ここでは言えない。

 

でも……今、ここにいる。あなたと一緒に、この風景を見ている。

 

それだけで、いいんじゃないかって、思うようになった」

 

彼女の声は、湖面に落ちる月光のように柔らかく、静かだった。

 

「人間として死ぬ日が来ても、あの十二夜の夢も、お茶を囲んだ時間も、指が触れ合った瞬間も、全部、消えない。

 

あなたが、私の椅子に座って、私の風景を眺めてくれたように……私も、あなたの中に残る。

 

だから、今を一緒に生きたい」

 

ルシエルは彼女をより強く、優しく抱きしめた。

 

こみ上げる想いに胸が締め付けられ、こらえきれなかった。

 

「この森の力で、すべて無効になっても、約束として果たされなくても構わない。

 

俺はお前を愛してる――今だけでなく、ずっと一緒にいたい。

 

リーザ、俺の妻になってくれないか。

 

お前が選んでくれるなら、俺はお前のものになる。……ただお前のそばにいたい」

 

リーザは、真に愛する人の顔を見た。

 

彼は魔王でも、魔界の公爵でもなかった。

 

ルシエルという、リーザにとってただ一人の、かけがえのない存在だった。

 

「私も、あなたと一緒にいたい。

 

あなたの妻になって、あなたの子供を産みたい。――あなたを幸せにしたいの」

 

二人は見つめ合い、それ以上は言葉を重ねず、ただ寄り添った。

 

ルシエルが約束のかわりに、彼女を抱き寄せ、その額に固く接吻した。

 

胸の鼓動が、ゆっくりと響き合う。

 

二人の間に、ただ湖の水音と、かすかな温もりだけが、穏やかに広がっていた。

 

 

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