半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
ルシエルとリーザが魔界での正式な結婚式を終え、ハネムーンへ旅立った後――。
公爵家から正式に退職したレジナルドは、最後の奉公としてナイメリア邸を訪れていた。
銀縁の眼鏡をかけ直した彼は、いつもの第一従者そのものの姿だった。
手にはルシエルとリーザの連名による丁寧な封書があり、中には二人が旅立つ前に書いたお礼状が入っている。
ナイメリアの私室は、いつものように薄暗く、甘い香油の匂いが漂っていた。
幼い少女の姿の彼女は豪奢な椅子に腰を下ろし、ワイングラスを片手にレジナルドを見上げた。
「うふふっ……最後のご挨拶に来たってわけね、レジナルド♡」
レジナルドは深く一礼し、封書を差し出した。
「殿下。ルシエル公爵閣下およびリーザ様より、感謝のお手紙をお預かりいたしました。
また、私自身も本日をもって魔界での職務を終え、人間界へ帰る所存です」
ナイメリアはグラスを傾け、にっこりと微笑んだ。
「あら~そうなのね♡ お前、いまさら人間界に帰って、どうするつもりなの?」
彼女の声は甘く、しかしどこか寂しげに響いた。
レジナルドは静かに目を伏せ、穏やかな声で続けた。
「人間界には、私の子を身ごもった女がおりまして……いまさらですが彼女を探して、口説いて……できれば所帯を持ちたいと考えております」
ナイメリアは、面白がるような瞳のままで言った。
「女を扱うのは、お前の得意分野でしょう、レジナルド。いまさらしくじるはずもないわ。幸せになりなさい。私も、お前にはずいぶん楽しませてもらったわ♡」
レジナルドは深く頭を下げた。
「ナイメリア様には、主従ともども大変お世話になりました。サバトではルシエル様の命を救い、ご領地ではリーザ様を保護してくださった。ただ深く、感謝申し上げます」
ナイメリアはグラスを置き、幼い顔を少し傾けた。
「あの子たちはよく頑張った……自分たちの力で幸せをつかんだわ。
私はちょっぴり、そのお手伝いをしただけよ。
でも――そばにいてあげられて、良かったわ」
深い海のような藍色の瞳を少し潤ませ、ナイメリアは感情を隠すようにぷいと横を向いた。
レジナルドは沈黙した。
ずっと心の中にあって、誰にも告げずに魔界を去ろうとしていたことを、今ここで言うべきか迷っていた。
「私は……」
ナイメリアが彼のほうを向き直った。すでに、彼の心を読んでいた。
「言葉にするのを止めたほうがいいわ、レジナルド。黙って人間界へお帰りなさい」
「いいえ、……やはり申し上げます。
殿下、私はずっと、ナイメリア様がルシエル閣下をお気に召して、様々に援助いただいているものだと思っていました。
でもずっと、なぜだか判らない……違和感のようなものがありました」
片肘をついて半分顔を隠しながら、ナイメリアは黙っていた。
「花嫁狩りの日、リーザ様を乗せた馬車を走らせていた私は、一人の魔族の少年に助けられました。
彼は、森の出口を教えてくれました。
一度立ち去りましたが、私たちが襲撃者におそわれたとき、彼は私たちを庇って戦い、
彼は……ナイメリア様のお小姓だった。
かつて、私があなた様の"忠犬"としてこちらの屋敷で飼われていた時、与えられたものと同じ従者の装服を彼は着ていました。」
「そうよ、あの子はアスモデールの腹心に殺された。可愛がっていた子だった」
「あなた様は最初から、リーザ様を狙う、花嫁狩りを監視していた」
「そうとも言うわね。興味はあったわ」
「私はリーザ様……ルイーゼ姫について、かなり徹底的に事前調査をしたことがあります。
ありとあらゆる資料を漁り、さまざまな
それでも一つだけ、全く判明しないことがあった。
それは――リーザ姫の母とされる名前のない王妃のことです」
彼女の藍色の瞳に、ほんの一瞬だけ、鋭い光がよぎった。
レジナルドがルシエルに提出した、リーザに関する報告書には、家族関係はこう記されていた。
父:故・前国王(エドワード・ディノクタス・オルヴェス、病没)
母:故・王妃(詳細不明)
「一国の王妃の詳細が、何一つ記録として残っていない……。そんなことはありえない。
顔の描かれていない、未完成の肖像画がひとつあるだけ。
誰も名前を覚えておらず、どんな女性かもわからない。ただ、『美しかった』とだけ。
なんらかの魔力が働き、記録も記憶も一切合切消し去らなければ、こんなことは起こりえないはずです」
レジナルドは静かに続けた。
「上級悪魔であっても、そんな大規模な記憶・記録の抹消は極めて難しい。
たとえルシエル様の魔力をもってしても、不可能に近いでしょう。
上級悪魔が、天界の監視を潜り抜けて、人間界に長期滞在することは難しい。よほど巧妙にやらなければ……。
しかし、それができる魔族の女性がいるとしたら――それは、あなた様以外に考えられない。
あなたはルシエル様を庇っているのではなく、リーザ様を守ろうとなさっていた。
ナイメリア様、そうではありませんか?」
彼女はゆっくりと、グラスを置いた。
幼い少女の姿のまま、彼女の表情だけが確かに変わっていた。
「レジナルド」
静かな声で、彼女は言った。
「そうよ。私が――リーザの母親よ。
オルヴェス王国では、ノーマ王妃と名乗っていたわ。
最初は遊びのつもりだった。人間の姫君になりきって、あの子の父親……エドワードと結ばれた。
すっごく頑固で、信念を持った、やさしくて立派な王子だった。リーザの性格は、あの人にそっくりよ。
でも、ほんの1年ほどしかいなかった。あの子を産んで……すぐに魔界へ戻ったわ。天界に目をつけられたからよ」
彼女は静かに、しかしはっきりと呟いた。
「そのことは、私とごく身近な側近たちしか知らないことよ。
そして……
部屋に、重い静寂が落ちた。
レジナルドの中で、すべてがようやく繋がった瞬間だった。
ナイメリアの閨に出入りする愛人の一人となり、彼女の「本当の姿」を見たからこそ、この事実にたどり着けた。
そうでなければ、この幼い少女の体をもつナイメリア女公主の見かけから、彼女がリーザ姫の母親だとは、誰も思いつくはずがなかった。
そしてこの事実を、リーザ本人はもちろん、彼女の夫となったルシエルも知らない。
……魔界を今まさに去ろうとしている、ただの人間にすぎないレジナルドだけが、このあまりにも「重大な秘密」を知ってしまった。
ナイメリアは、ふぅと短く息をついた。
いつもの楽観主義が、彼女の中に戻ってきていた。
「困ったわね、レジナルド。お前は頭がよすぎる。
いまお前が知ってしまった、”ちょっとした真実”が……この魔界にどんな影響を及ぼすか、お前の頭の中でぐるぐる回っているはずよ」
レジナルドは震える声で、訛りを隠しきれずに一気にまくし立てた。
「ええ、ナイメリア様。ちょっとどころやない……これは大変なことですわ。
リーザ様が、あなた様の娘であるということは……
彼女は魔界において、あなた様の正当な
サタン帝王の前妃であり、今は陛下に『妹』として正式に認められ、王妹の称号を持つ……あなた様の――」
ナイメリアは、くすりと笑って言葉を遮った。
「そうよ。ルシエル公爵が結婚したのは、ただの人間の姫じゃないの。
リーザちゃんは、私の娘♡
サタンが私に与えたすべての領地、そして私が由緒正しい魔族旧家の女当主として持っている、全ての資産の正当な後継者であり、いずれは『ルイーゼ女公主』となる立場の子よ。
そうなったら、たとえサタンの嫡子たるアスモデールだって、もうルシエル公爵に手出しは出来ない。
ルシエルはいまや、私の娘婿なんだから♡」
彼女はグラスを軽く回しながら、楽しげに付け加えた。
「魔界のパワーバランスは、一気にひっくり返るわね」
レジナルドは息を飲んだ。
「それは……いやちょっと待ってください。理解がおいつかへん……。
つまりルシエル様は、ご自身の公爵位だけでなく、リーザ様の王配殿下にもなられる……」
「まぁそーなるわね♡ おちぶれ系没落公爵のルシエルが、いきなりサタン王家の姫君の王配殿下って夢があるわー♡
つまりルシエル公爵は、リーザが私から引き継ぐ広大な魔界領地の共同統治者になるという事よ。」
先代ハデス公の隠居後、経済的に苦境にあった、ルシエル公爵家に嫁いできた人間の姫君。
そのリーザ姫は、想像もできないような“莫大な持参金”を持った、由緒ただしい魔界の姫君だったということになる。
(ありえへん……これはルシエル様にとって、超ド級の"
そもそも――リーザ姫は、100%の人間ではない。
「そうよ、レジナルド。彼女はルシエルと同じ……
いまのところ、彼女はほとんど魔力を発動させていない。
わずかに命の火を見ることが出来ること……強いて言えば、十二夜の夢も彼女の能力のひとつかも知れないわ」
ナイメリアの瞳が、じっとレジナルドを見つめた。
「彼女は自分を人間だと信じて疑っていないわ。
でも彼女の寿命は、ルシエルと同じように人間のそれではない可能性があるのよ。
いまのところほとんど魔力を発動させていないけど……
強大な力が眠っていて、まだ表れていないだけかもしれないわ。
わたしの初孫が産まれたら、その子は魔界を揺るがすような、とんでもない
レジナルドは言葉を失っていた。
「怖い? レジナルド。わたしはワクワクしてるわよ♡
だってあの子たち、そんな事とは全然関係なしに、自分たちで苦しんで、傷つけあって、それでも愛しあって……お互いを理解して結婚したのよ。
リーザの限られた命を受け入れ、彼女を死ぬまで幸せにすると、ルシエルは覚悟を決めてプロポーズした。
だから私的には、こんな"ちょっとした裏話"はべつに、まだ言わなくていっか♡って思ってるのよね。
今のあの子たちが幸せだったら、そんなこと、今はどうでもいい話よ」
彼女は軽く肩をすくめた。
「お節介はあとにして、わたしも今は自分らしく遊んじゃお♡って思ってるの。
だからお前も、もうルシエルのお守りを止めて人間界に帰る、いいタイミングだったのかもしれないわね」
レジナルドは銀縁の眼鏡の下で、灰色の瞳を少し緩めた。
「今おもえば――わたしをルシエル様から引き離したのは、ナイメリア様の作戦だったのですね。
ルシエル様がただひとりで、きちんとリーザ様と向き合うために」
ナイメリアはクスクスと笑った。
「お前が、ルシエル公爵のお世話を焼きすぎてたのは事実ね。
でも勿論、それだけじゃないわ。
わたしは純粋に、お前のモノを試したかっただけよ♡
お前は、最高によかったわ。レジナルド」
レジナルドは苦笑した。
「……恐縮です、女公主殿下。そろそろお暇いたします」
ナイメリアはグラスを置いて、優しく手を振った。
「ええ、元気でね。レジナルド――もう会うことはないでしょう。遠くから、あの子たちの幸せを祈ってあげて」
レジナルドは、黙って深く頭を下げた。
そして彼は今静かに、すべての事実を受け止めていた。
今は、この「大きな秘密」を彼の胸にしまったまま、魔界を去るべき時だった。
ナイメリアはグラスを軽く回しながら、幼い顔にいつもの悪戯っぽい笑みを浮かべたが、その藍色の瞳には、ほんの少しだけ、名残惜しさが滲んでいた。
「じゃあ、本当にさようならね、レジナルド。人間界で、素敵な家族を作って、幸せに暮らすのよ♡……あの子たちも、きっとそうするわ」
レジナルドは、もう一度だけ、静かに微笑んだ。
「はい。……ありがとうございます、ナイメリア様」
彼は背を向け、扉を開けた。
足音が廊下に響き、ゆっくりと遠ざかっていく。
ひとり部屋に残ったナイメリア女公主は、ふと窓の外を見上げた。
「……月が、きれいね」
魔界の夜に、十二夜の月が、静かに欠け始めていた。
*
――数年後。人間界、オルヴェス王国の辺境にある小さな村。
レジナルドは土で汚れた膝をついて、畑の世話をしていた。
銀縁の眼鏡はもうしていなかった。
だが、淡い灰色の瞳は、昔と変わらず穏やかだった。
「お父ちゃん! 見てー! ルルなぁ、また虫さん捕まえてん!」
小さな女の子が得意そうに何かを掲げ、レジナルドのもとに駆けてくる。
明るい茶色の髪を、ゆるく三つ編みにしてひとつに結び、頰に土をつけた彼の娘、ルルだ。
その後ろから、もう一人の女の子がルルのあとを付いてくる。
切り揃えた肩までの髪を揺らして、ハァハァと可愛らしく息を切っている、もう一人の彼の娘――ニコラだ。
二人は、そっくりな双子だった。
どちらも、母方の顔立ちに似て優しい目元をし、父方の血を引いて少しだけ意志の強そうな眉を持っていた。
レジナルドは一度立ち上がったが、駆け寄る双子たちを抱き寄せるようにして、また視線を合わせるために屈んだ。
「あかんあかん、ルル。そんな持ち方したら、虫さんが可哀そうや、はよ逃がしたりぃ」
「えー!いややぁ、二コラにくっつけて遊ぶねん。ほら!」
ルルは、ひぃっと顔をこわばらせている姉の二コラに、捕まえた昆虫を押し付けようとする。
「いややーん、おとうしゃん。ルルがいっつも意地悪するぅ」
泣き虫で怖がりの二コラは、もう半泣きになっている。
「なんでお前らいっつも喧嘩しよんねん。
「ニコラがいっつも、どんくさいねん!ウチは悪くあらへんもん!」
「おとうしゃん、ルルがいっつもニコラをいじめんねん。いややー」
双子たちはキィキィと言い争っている。レジナルドの目が細くなる。
「あーあー、もう仲直りのちゅー♡して帰るでぇ」
小さな双子を両手で抱き寄せると、レジナルドはその両方の頬にちゅっちゅとキスをしてやった。
「ほら、お父ちゃんにも、ちゅー♡してくれや」
二コラもルルも、きゃっきゃと笑って父親の頬にキスをする。
「お父ちゃんすきすき♡ちゅー!」
「おとうしゃーん♡だいすき」
「そやなー。俺も二コラとルルのこと、大好きやでー、いつでも好き好きちゅー♡したるわ」
そのまま、大きな手にそれぞれニコラとルルの手をひきながら、レジナルドは家路を急ぐ。
遠く、彼の妻が玄関で手を振っているのが見えた。
「ほな帰ろぅなあ。
今日のごはんはなんやろなぁ。お母ちゃんお腹おっきなってきたから、いろいろ手伝ったらなあかんなぁ。
産まれるのは、お前らの弟か、妹かどっちやろうなぁ」
「ルルわぁ~弟がええなぁ!ほんで戦いごっこして、ボコボコにしばくねん!」
「二コラは妹がいいー♡いっしょにお人形ごっこしてあそびたいわぁ」
レジナルドは、小さく微笑んだ。
「そやなぁ、どっちやろなぁ。
どっちでもええけどなぁ。まぁ、なるようになるからなぁ」
そんな独り言をいいながら、レジナルドは双子たちを連れ、ゆっくりと花咲く丘を下りていった。
(了)