半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
サタン王宮――紅蓮の宴会場は、アスモデール殿下主催の"魔獣狩り"行事の熱気がまだ冷めやらぬまま、血と酒の匂いで充満していた。
中央の黒い玉座に、サタン帝王の嫡子であるアスモデール殿下が腰掛け、周囲の円卓に公爵・侯爵級の貴族たちが並ぶ。
天井から垂れる赤い
ルシエルは上座の円卓に座らされ、銀の狩猟剣を傍に置いて静かに杯を傾けていた。
椅子のすぐ後ろに、彼の新しい
前任の第一従者――人間の身でありながら、ルシエルに忠義を尽くしてくれたレジナルドが、彼の許しを得て魔界を去るときに、「彼ならば」と推薦していった魔族の若者だった。
ナサニエルは、初めて訪れたサタン王宮内で、自分よりも年上の他の貴族の従者たちと並んでいても、全く気後れせず、堂々としていた。
きちんと目を配り、時々ルシエルの杯にさっと
(こちらを見ていますね)
ナサニエルは
アスモデールが、玉座からルシエルをじっと見据え、赤い唇を舐めている。
(知っている。ニヤニヤと俺を見て、嘲っている。くだらない男だ)
ナサニエルは、
彼は下級悪魔として生まれ、あまり恵まれない環境から、独学で魔法術を身につけていた。
中位魔法までには至らないが、その年齢には十分な複数の術式を操ることが出来、いざという時にはリーザの護衛を務めることも可能だった。
短く刈り込んだ、栗色の髪をした
レジナルドが推薦するだけあって、気難しく扱いにくい
「彼は……まだ若く、正直、閣下の
屋敷を去る前に、レジナルドは自分の後任者であるナサニエルの人物について、彼の思うところを述べた。
「私が彼を推薦するのは、彼が非常に正直な人物だからです。
私は誠心誠意、閣下のために……この身を捧げておりました。
そのことに対して、私は一片の後ろ暗い思いはございませんが、真に閣下に"正直"であったかと省みるに、私は……」
レジナルドは薄い灰色の瞳で、ルシエルをじっと見据えて、続けた。
「真の意味で……あなた様に心をさらけ出す勇気が、私にはなかったのだと思います」
常に身近にあって、兄のように、ルシエルを献身的に支えてくれたレジナルド。
彼は、自分の後任に据えるナサニエルには、自分には足りなかった、真の"正直さ"がある、と言った。
これまでのレジナルドの献身を知るルシエルからすれば、彼のこの言葉の、本当の意味を慮ることは難しかった。
彼は常に、ルシエルの心に寄り添い、彼の誇りをもって、誠心誠意、忠義を尽くしてくれた。
ただ、あえて彼がそう"言葉にする意味"を汲み、ルシエルは黙っていた。
そして実際、この後任の
ナサニエルは、魔界の公爵たるルシエルの傍で卒なく仕事をこなしながら、彼のもつ美点である"正直さ"で、重く塞がりがちなルシエルの内心を、よく助けてくれた。
彼、ナサニエルは、とにかく――めちゃくちゃに口が悪かった。
(
ルシエルは、ブッと小さくワインを吹きこぼしそうになり、慌てた。
(とつぜん突飛なことを言うな、ナサニエル。危うく晩餐衣にまで、含んだ酒を吹きかけるところだったぞ)
ルシエルの立場――年若い公爵として、宴席での落ち着いた振る舞いを崩さなかったが、彼は口元に浮かぶ小さな笑みを抑えきれなかった。
死にかけのハリネズミ、などという新種の
レジナルドの置き土産は、とにかく何を言い出すかわからない。
ただ、サタン王宮内で常に緊張感に晒され、ささくれ立っているルシエルの内心を、ナサニエルの遠慮のない言葉がときほぐしてくれたのは確かだった。
アスモデールは杯を掲げ、ゆっくりと声を上げる。
「ルシエル卿、今日の狩りは見事だったな。あの
声は穏やかだが、底に棘がある。
周囲の貴族たちがざわつき、視線がルシエルに集まる。
ルシエルは静かに杯を置き、頭を下げる。
「殿下のお言葉、恐縮に存じます」
冷静に、年若い公爵として振る舞うことが出来た。
アスモデールは笑みを深め、杯を傾ける。
赤い液体が唇を伝い、顎を伝って首筋へ落ちる。
「結局のところ、ルシエル卿がいつも通り、みな良いところを持って行ってしまった。彼はまさに良いとこどりの黒き貴公子だな。その美貌、才知、魔力……サタン帝王の子である私ですら、妬ましくなることがある」
赤い眼にまた薄い憎悪の光をぎらつかせて、アスモデールはルシエルを見やった。
「アスモデール殿下、お戯れを」
「いや、ルシエル卿は、すべて持って行ってしまう。
巻狩りの獲物も、「女」もだ。ルシエル卿の妻……麗しのリーザ姫などは、まさにあのサバトの夜に、私の手からするりと持ち去られてしまった。
今頃どうしているのだろうな。荒々しい狩り事から戻る夫をまちきれず、あの白い体を熱くほてらせている頃だろうか?」
しん……と宴が静まり返った。
(こいつ、殺しましょう)
と、ナサニエルが念話で言った。
(やめておけ。俺も一度、アスモデールを殺そうとしたが、死にかけた)
ルシエルは沈黙し、卓の上に目をやったままだった。
(だが、いつか殺す。それはもう決めている)
ルシエルの瞳に、黒い炎が一瞬宿った。
「アスモデール殿下……そのようなお言葉は」
声は静かだが、抑えきれない怒りが滲む。
アスモデールは小さく笑い、玉座から身を乗り出す。
「言葉を控えろと? 公爵閣下が、サタン帝王の嫡子である私に、そう”ご命令”なさるなら仕方ない。よろしい、以後は慎むようにしよう。
あのサバトの夜、私が卿の妻……リーザ姫の柔らかい肉襞を味わったことも、あの甘い喘ぎ声に酔ったことも……みな言葉にするのは控えよう。
ルシエル卿の、繊細な”お心”を傷つけては大変だ」
まるでリーザの感触を思い出すかのように、指で自分の唇をなぞり、ルシエルの視線を絡め取る。
「そういえばまだ祝いを述べてなかったな、ルシエル卿。
めでたく奥方のリーザ姫が懐妊されたとか。ハネムーン・ベイビーを一発で命中させるとは、それも卿の”狩りの腕”の確かさのひとつだ」
ルシエルは、言葉を失った――。
待ち望んだ、リーザの妊娠。
彼自身が、その吉報をリーザから打ち明けられて、まだ3日しか経っていない。
屋敷内でも厳重な情報管理を徹底させ、ごくわずかな者が知る、ルシエル公爵家の
邸内にスパイがいるとは思えないが、アスモデールの監視の眼はどこにでも光っている。
いったい誰が、どんな
そして、アスモデールがどういう意図で、この秘密を暴露したのかを考え出すと、動悸と動揺が止まらなくなった。
ルシエルの顔面から血の気が引き、思考が止まる。
(――
ナサニエルの声がした。
(負け犬は、
*
ナサニエルは、正直すぎる従者だった。
そして真の意味で、容赦のない正直さを持っていた。
魔界でも恵まれない下層の階級から、努力で這い上がって来たナサニエルは、きちんとした従者口調と振る舞いを身に着け、ルシエルの傍らにあって何の遜色もなくその勤めを果たしている。
その上で――ルシエルとの個人的な念話の中だけでは、なんの隠し事もなく、本音で会話した。
魔界の公爵であり、七十二柱の魔王の一柱であるルシエルに対して、ここまで容赦なくあけすけに言葉にできる者がいるとは、ルシエル自身も接してみるまで思いもよらなかった。
彼の人生のなかで、はじめての経験ではあった。
(
ルシエルの魔力で霧の中をすべるように走る馬車は、御者を必要としないが、彼が王宮へ出仕するときには
ナサニエルはそこから、主人であるルシエルに念話で話しかけてきた。
(……判ってるなら、黙ってろ)
(いや、黙ってられませんよ。
だってマイロード、あの
(…………俺も、内心煮えくり返っている)
(そりゃ、そうっしょ。
マイロードはリーザ様を「自分のもの」って言い続けてるけど、結局サバトの夜、リーザ様がアスモデールに犯られてんのを見てただけって
(アスモデールよりも、お前を先に殺したほうがよさそうだ)
(マイロードがその気なら、俺なんて秒殺でミンチなんですから、そんな予告は不要っすわ。
今夜のマイロードの怒りは「リーザ様の名誉を傷つけられた」ってより、「自分の所有物が汚された事実」のほうが大事って感じでしたねぇ。
それってなんか、優先順位がちがってるように、俺には思えました)
(……ナサニエル)
(あ、怒りました? でも本当のことでしょう?
マイロードは今も、リーザ様のお心より自分の支配欲を優先してる。
それで……リーザ様はいま本当に幸せなんですかね?
マイロードの「愛」って、ただの支配欲の、別の名前じゃないですか?)
ルシエルは、馬車の中で黙り込む。瞳に黒い憤怒の炎が揺れる。……が、思い直した。
(……お前はレジナルドとは違うな)
(そりゃ、違いますよ。レジナルドさんは完璧すぎて、あの人は本音を言わなかった。
俺は未熟だからこそ、全部言っちゃうんです。
母は……まぁもうとっくに死にましたけど、俺の正直すぎるところが危ないと言いました。
ただ、言う人を間違えなければ良いとも教えてくれました。
お前の言葉をちゃんと受け止めてくれる人にだけ、本音で話しなさいってね)
(面白い考え方だ)
(このお屋敷にきて、まぁみんないい人でしたけど、俺はずっと黙ってました。これまでのお屋敷でもそうしてきたからです。
でもレジナルドさんが声をかけてくれて……なんでかわかんねぇすけど、可愛がってくれたんすよね。――あの人とは本音でしゃべりました)
ルシエルは、馬車の窓から夜空を見上げた。
レジナルドが魔界を去ってから、そう長くは経っていないのに、もうすでに懐かしかった。
(俺は、レジナルドがどういう人間だったのかを、あまり知らない。
あんなにずっと一緒にいたのに、あいつのもう一つの
(あの人はね――異常でしたね。
俺は人間界行ったことないし、レジナルドさんしか人間ってのを知りませんけど。
朝から晩までマイロードのお世話で走り回って、書類を整えて、スケジュール管理して。
使用人部屋でみんなで昼飯くってる時だって、ずっと調べものしたり、本を読んでる。
ガチでいつ寝てんだよって感じでしたね。実際2、3時間しか寝てないこともあったと思いますよ?
眠気覚ましってんで、時々、森ん中で煙草すぱすぱ吸ってましたしね。
俺にも分けてくれたんで、二人でちょっとした話なんかしてました。
あの人疲れた顔して、さすがに俺もやってれんわーって笑ってました)
(つづけてくれ、彼のことを知りたかった。あいつは何も、自分の事を見せなかった)
(自分の仕事だけでクッソほど忙しいのに、まーたマメなんすよ。
若い従僕なんかが手順を忘れてパニクってたら、さりげなく手助けしてくれる。
急な来客があって
メイドが重い荷物を持ってたら、もう秒っすよ、サッと代わりに運んでやって。
ルシエルは、馬車のなかで思わず噴き出した。
(あいつ、そんなに女にモテてたのか)
(あの人が退職する前、もうメイドの若い
周りは気づいてなかったすけど、ミス・アルマとも何かあやしい雰囲気でしたね。あれは最後に一発、ぜったいヤってたっすわ)
ルシエルは、笑いが止まらなかった。
彼の前で、徹底的に冷徹な仮面を被りとおしたレジナルドを思い出して、今夜の苛立ちが、少しだけ溶けていった。