半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
リーザが原因不明の昏睡状態に陥ったのは、ルシエルが屋敷の警戒のために領地から戻った、その翌朝のことだった。
それから2ヶ月が経っても、リーザは目覚めず、胎内の子も自らの成長を止めていた。
リーザの魔界での後見人である、王妹ナイメリアが派遣した、高名な魔道医師を持ってしても、その病名すらわからなかった。
公爵邸の寝室は、昼夜問わず薄暗いランプの灯りだけが揺れている。
カーテンは常に閉め切られ、魔力で温度と湿度を厳密に管理した空気が、静かに淀んでいた。
リーザの腹は、4ヶ月目の膨らみで止まったまま。
胎児の成長は完全に停止し、魔道医師の診断では「胎児の成長に必要な魔力枯渇と外部からの干渉」が原因であろうという、至極曖昧な見立てしか得られなかった。
胎児の鼓動はまだ微かに感じられるが、日を追うごとに弱くなり、いつ止まってもおかしくない。
ルシエルはリーザの昏睡を知った日以降も、彼に課せられた公務を一切止めなかった。
いや、止めるわけにはいかなかった。
アスモデールは今、隙を狙っている。
結界の食い破り痕跡が奴の仕業だと確信した以上、公爵として領地の運営を放置すれば、即座に「ルシエルは妻のことで動けなくなった」と噂が広がるのは自明だった。
さらに、リーザと子を狙う次の手を打たれる危険すらある。
だから彼は、無理を押して、転移魔法を酷使し続けた。
朝、領地の北端で魔獣の群れを焼き払い、血と焦げ臭にまみれたまま転移。
公爵邸の寝室に現れ、リーザの額に手を置き、「今日も無事だったか」と呟いてから、すぐに次の領地へ飛び、村と村の小競り合いを鎮め、地方領主の不満を抑え込む。
昼、魔獣討伐の指揮を執り、剣を振るうたびにリーザの寝顔が脳裏をよぎる。
討伐が終わると即座に転移。寝室で彼女の手を握り、胎児に念話を送る。
(……お前は、俺の子だ。お前が母を守ってくれ……)
返事はない。
微かな鼓動だけが、冷たく響く。
夕方、小議会でアスモデールの動きを牽制し、報告を聞きながら、頭の中はリーザのことだけ。
会議が終わると転移。寝室でリーザを抱き寄せ、「今日も……無事だった」と確認する。
夜、魔獣の巣窟を焼き払い、最後の転移で戻る。
側衛やナサニエルに「少しだけ」と言い残し、扉を閉めて一人になる。
ベッドの横に膝をつき、リーザの腹に手を置く。
温もりはまだある。
だが、胎児からの反応はない。
(……お前は、俺の子だろ)
ルシエルは念話で、そっと語りかける。
紫の瞳が、腹部に注がれる。
(父の声が聞こえているなら、返事をしろ。動け。母を起こせ。お前がいるから、俺はまだ耐えていられるんだ……)
沈黙。
鼓動は微かに脈打つだけ。
胎児は、ルシエルの念話を無視するように、ただ静かに羊水の中を漂い続けている。
ルシエルは唇を噛んだ。
指先が震える。
腹に押しつけた手が、ゆっくりと力を込める。
(聞こえているはずだ。お前は俺の子だ。俺の血を引いている。なら、……なぜ返事をしない)
再び、念話。
(……お前が目覚めないなら、母も目覚めない。それでもいいのか?俺を一人にする気か?)
無反応。
ルシエルは額をリーザの腹に押しつけ、低く呻いた。
(俺は、お前の母を愛している。……そしてお前のことも――)
その瞬間、頭の中に初めての「声」が響いた。
(……うるさいな)
ただ一言だけ。
幼く、冷たく、はっきりとした拒絶を、胎児が示した。
ルシエルは体を硬直させた。
掌が震え、腹に押しつけた手が汗ばむ。
(……お前……)
返事は、もうなかった。
胎児はそれきり黙り込み、微かな鼓動だけが、静かに、冷たく、響いていた。
ルシエルはゆっくりと手を離し、リーザの寝顔を見たまま、長い間、動けなかった。