半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
リーザの胎内、羊水に包まれた温かな闇の中――。
ルシエルとリーザの子……まだ生まれてこない胎児の意識は、ぼんやりと広がっていた。
自我は朦朧として、言葉も感情もまだ曖昧だった。
だが、魔界の血筋が宿す力は、普通の人間の胎児では考えられないほど早く、思考の欠片や声を形作ることを許していた。
そこは物理的には、ただの母の胎内。
けれど胎児にとっては、誰にも侵されぬ、静かで柔らかな内側の世界――
自分と母だけが存在する、唯一の領域だった。
そんな羊水の揺らぎの中に、ふと、よそ者の声が響く。
「おい、起きろ」と、白い髪の少年が話しかけてきた。
「……」
胎児は無視した。
答える義務がないことに、彼は応じないことにしているからだ。
「お前は死んでいるのか。それとも待っていれば死ぬのか」
カチンとくる言い方だ、と胎児は思った。
「悪いが、
白い髪の少年は、頼んでいるのか、命令なのかよくわからない言い方をする。
「お前がいると、母上の中でうまく夢が作れない」
胎児は口を開いた。
「……俺のせいじゃない。お前が下手なだけだ」
白い髪の少年は、そう反論されて考え込んだ。
「確かに、俺はまだ上手に夢が作れない。お前なら出来るのか」
「さあ、わからない。それは母上の
白い髪の少年と胎児は、謎めいた会話を続ける。
「お前が母上のなかで何かするから、俺はもう大きくなれない。
俺の父は大騒ぎし、俺に起きろとか、どうにかしろと泣きついてくる。うるさくてたまらないんだ。」
胎児がぶつぶつ愚痴るのを、少年は薄笑いで聞いていた。
「俺の父は立派な男だが、お前の父はどうにも”小さい”な」
赤い血のような瞳を光らせて、白い髪の少年があざけり、胎児は沈黙した。
「お前が成長するよりも先に、俺が母上のなかで夢の世界を大きくするつもりだったが、どうにも上手くいかない。
母上は悲しんでばかりだ……俺の父を愛してはくれない」
「母上は、俺の父を愛しているからな」と、胎児が答える。
「だが、夢の中では、母上はお前のことなど忘れている。俺だけを愛してくださる」
少年は、まるで勝ち誇っているかのような口調だった。
「いつも俺の名前を呼んで、抱きしめてくれる。イフ、お前を愛してるわ、と」
「現実では、お前など
胎児は冷たく言い放った。
「母上は優しい方だ。たとえ幻のような存在でも、お前という偶然の産物を憐れんでくださる。ただそれだけだ」
そう言われて、白い髪の少年――イフは、片肘をついて考え込んだ。
胎児は、彼の弟だった。
正確には、イフと胎児は、同じ母……リーザを持つ、異父兄弟だと言える。
白い髪の少年――イフは、肉体を持たない。
彼の父・アスモデールと母・リーザがサバトの夜に交わった時、イフの魂が先に生まれた。
サバトの
その儀式の最後の盟約として、母の下腹に契約の名が刻まれる直前。
――ルシエルは最後の力を振り絞って、その運命が成就することを阻止した。
様々な偶然が、魔界帝王の嫡流として生まれるはずだった、皇嗣イフの運命を狂わせ、とうとう彼の肉体は生まれなかった。
イフは、誰からも忘れられた魂だけの存在として、ただ
そして、同じ母を持つ弟の存在に引き寄せられ、結界を喰い破ってここに現れたのだ。
イフは、母であるリーザの精神に巣食い、そこに夢の世界を築いてた――。
そして時々、退屈しのぎに弟である胎児のもとに現れるのだった。
「俺も、お前のように
半分だけでもいいから、俺にくれないか。
お前の半分は、母上の血肉だ。俺にだって合うはずだ」
胎児は、反論する。
「残りの半分は、
――こっちが厄介だ。俺だって今から怖い。とにかく抑えきるしかないが……
見ている限りは、俺だって苦労しそうだ。まぁ、おすすめはしないな」
胎児――彼の
なかなか難しいもんだな、とイフは思った。
「弟よ、お前の名前はもうあるのか」
ふと思いついて、イフは聞いてみた。
「俺の父は、なんだか色々考えているようだ。
セオドアだか、マッテオだか、テオドルトだか……
まぁ偉そうな、貴族っぽいやつだ。
母上は、俺のことを
本当の名前ではなさそうだが――」
「母上は、お前のことを女の子だと思っているのか?」
「いや……母上が持っていたすべてを引き換えに、手に入れた宝という意味の呼び名らしい。
母上は……
俺の父には、そんなこと全く見えていないがな」
「宝物か……いいな。俺も、母上にそんな風に思ってもらいたかった」
イフが、ぽつりと呟いた。
「俺も、母上に産んでもらいたかった」
イフの瞳が赤く燃えているのを、まだ眼も開けられない胎児は感じ取る。
ぴん、と警戒の針を立てた。
「弟よ――お前が死ねば、母上は俺だけを、愛してくださる。俺を真珠だと言ってくれる」
「イフ。ここから出ていけ」
弟はもう、この侵入者を"兄"とは呼ばなかった。
まだ片手に包まれるほどの大きさしかない胎児は、すでにその身に紫黒い怒りのオーラを纏っている。
「母上は、俺のものだ」
あまりにも強大な魔力を持つ