半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
ルシエルは馬車の座席に深く沈み込み、窓の外をぼんやりと眺めていた。
魔獣討伐の帰路はいつもより長く感じられ、身体の芯まで疲労が染みついている。
今朝から三度、転移魔法を酷使したせいか、魔力の脈動が鈍く、頭の奥に鈍い痛みが響いていた。
もう一日に何度も屋敷と往復する余力は残っていない。
それでも、リーザと子のことが頭から離れない。
昏睡の母と、成長を止めた胎児。
あの微かな鼓動が、今日も止まっていないことを祈るしかない。
馬車の車輪が石畳を噛む音が、単調に響く。
外はすでに薄闇に包まれ、魔界の蒼い月が雲間から冷たく顔を覗かせていた。
御者席から、ナサニエルの声が念話で届いた。
(
どうしましょう……もし、お疲れでなければ……てか、もうヘロヘロでしょうけど。
お屋敷でないところへご案内してよろしければ、そちらへ向かうこともできます)
ルシエルは小さく息を吐き、憮然として窓枠に額を預けた。
(どういう意味だ、ナサニエル。屋敷で、妻と子が待っている)
ナサニエルの声はいつも通り、遠慮がない。
(昨日のマイロード、めちゃくちゃ
(お前は本当に、良く見ているな。――レジナルドの後任でなければ殺してる)
(声かけんのかなぁって思ってましたけど、なんもなかった風でしたね)
(この状況でどうやったら声が掛けられるんだ。俺だってそこまで馬鹿じゃない。リーザを裏切るわけにいかない)
(じゃあどうすんすか。これすか)
御者席で、ナサニエルが何かあけすけな動作をしているのは伝わった。
(選択肢は、他にないだろう。信頼できる、口の堅い、幼なじみに頼るようなものだ)
(公爵様のご身分ともなると、
ま、そうなると――
俺の馴染みの
いまのマイロードは、そんなんじゃとてもご満足いただけそうにないんで。
この話は、聞かなかったことにしてください。このまま、屋敷に戻ります)
ナサニエルはどこまでも裏表なく、ずけずけと、まるで気軽な友人のように踏み込んでくる。
それが腹立たしくもあり、内心を打ち明ける友をあまり持たないルシエルにとって、わずかに心地いい。
(ミス・アルマはめちゃくちゃ美人さんですけど、マイロードにはずいぶん年上のお相手に見えますねえ。
包容力っつーか、彼女の母性的なところを求めちゃうんでしょうね)
(お前の精神分析はいらんぞ、ナサニエル。ミス・アルマは優しいが……俺はもう夫の立場だ。妻以外には頼らん)
(その割には、めちゃくちゃミス・アルマのお尻見てたじゃないすか。まぁ確かに綺麗な尻ですわ、ムチムチして)
(おい、いやらしい眼でアルマを見るな。大事な
ルシエルは、この不毛な会話にくすりと小さく笑った。
疲労で固まった口元が、ほんの少しだけ緩む。
(……くだらない話だな。おまえと話していると楽しい。
ただ最近、なにもかも嫌になることがある。
肉体の疲れと、……欲求不満と、幸せだったはずの未来が消えてしまうような不安とで、このところ、あまりよく眠れない。いやな夢ばかりみて飛び起きる)
(マイロードのご判断も、最近はだいぶ無茶苦茶すわ。
一日にあんなに空間転移を連発してたら、いくら魔王だって死んじまいますよ。
リーザ様とお子様が待ってるのに、父上がぶっ倒れてたら洒落ならねえっすわ)
ルシエルは目を閉じた。
ナサニエルの言葉は辛辣さに満ちているが、根底には彼を思いやる心情が滲んでいた。
(……お前は、やさしいな)
(まぁ、どうでしょう。俺はあんまり”売り”がないっすからね。
レジナルドさんみたく、完璧な従者なんてとてもなれない。
俺は未熟だからこそ、全部さらけだして言っちゃうんです。
それがマイロードのためになるなら、遠慮なく言います。
まぁ、我慢できなくなったら、殺してください。今日だけでマイロードに5回も殺すって言われてんですから)
馬車が緩やかに減速し、結界の淡い光が窓から差し込んできた。
公爵邸が近づいている。そのまま門をくぐり、静かに停まった。
ナサニエルが御者席から降り、扉を開ける。
冷たい夜風が車内に流れ込み、ルシエルの黒髪を揺らした。
「さあ、
ルシエルはゆっくりと立ち上がり、ナサニエルの肩を軽く叩いた。
言葉はない。
ただ、その一瞬の仕草に、感謝と信頼が込められていた。
二人は闇の中、公爵邸の灯りへと歩を進めた。
*
ルシエルはリーザに腕枕をして眠っていた……確かに眠っていた。
しかし、彼らの寝室のなかで、小さく諍う不思議な気配がある。
夢ではない――二人が寄り添うベッドの上、柔らかなシーツの感触と、リーザの体温は現実の証だった。
だが、体は鉛のように重く、指一本動かせない。
金縛りに遭ったように、意識だけが浮遊している。
目だけは開いていた。
薄暗い寝室のランプが揺れ、リーザの穏やかな寝顔を照らしている。
その腹の上——膨らみの頂点、臍の辺りから、異様な光景が広がっていた。
見知らぬ、白い髪の男児がそこにいた。
幼い体躯で、リーザの腹に膝立ちになり、細い指先を臍の上からゆっくりと沈めている。
指はまるで水面に溶けるように、皮膚を透かし、子宮の奥へと吸い込まれていく。
リーザの腹は静かに上下するだけで眠ったまま、何も感じていない。
腹の中から、小さな抵抗の閃光がぱちぱちと弾ける。
(やめろ、俺にさわるな……!ばか!……あっちいけ!)
ルシエルに「うるさいな」とだけ言った、あの子の声だった。
まだ未熟な、紫がかった小さな光が、羊水の中で逃げ惑う。
白い髪の少年の指が、リーザの胎内を泳ぐように追いかけ、つかもうとする。
「おい、逃げるなよ。大人しくしろ…って」
胎内からルシエルの子が放つ、静電気のような閃光が散るたび、少年の動きがわずかに弱まる。
「
ルシエルは、目の前で行われている状況が理解できない。
この少年は何者なのかすら――
白い髪の少年――イフが、ルシエルの視線に気づいた。赤い瞳を光らせ、ニヤリと笑った。
「おい、お前の父が見ているぞ」と、胎児に声をかけた。
その瞬間、ルシエルの頭の中に、必死で訴えかける胎児の念話が突き刺さって来た。
(父上、たすけて!)
あの拒絶の冷たい言葉とは一転して、必死の声で父に訴えかけてくる。
(イフが、俺を殺そうとしてる!)
(イフ?この……白い奴がイフなのか?お前を殺そうとしているのか?)
身動き一つとれないルシエルだが、念話だけは出来た。
白い髪の少年――胎児がイフと呼ぶ男の子は、赤い瞳をむけて、にやにやとルシエルを嘲り笑っていた。
その表情は、どこかで見た……誰か思い出せない人物に、確かに似ていた。
「公爵、邪魔しないでくれ。子供のケンカに親がでるなんて、みっともないだろ」
ルシエルの子は、リーザの中でまだパチパチとあえかな抵抗を続けている。
(たすけて!つかまってしまう!……
目の前で、自分の子が、自分の妻の胎内から引きずり出されようとしている。
ルシエルが声を出そうとしても、喉は動かない。
体が動かない。
ただ、見ているだけだ。
(なんだよ、……父上の役立たず!)
胎児は憤慨して、自力でなんとかしようと思いなおしたのか、ぱちぱちという頼りない静電気のような光が、突然激しい一閃の雷撃となってリーザの胎内から迸った。
額にまともに一撃を食らって、イフが弾き飛ばされた。
イフが倒れた瞬間、知らぬ間にルシエルの体を縛っていた魔力拘束が緩んだ。
ルシエルは跳ね起き、咄嗟に張った防御陣を二面、重ねてリーザの周囲に引き起こした。
「おい、うじ虫。どこから入って来た」
ルシエルの冷たい声が、身を起こそうとしている少年に向けられる。
「おれの子を虐めるとは、いい度胸だな。子供でも容赦せん」
手のひらをイフに向けて開き、滅せよ、と念じた。
空間が歪み、イフの身体を粉々に砕くはずの奔流が渦巻き――そして何も起きなかった。
「ああ残念。俺には滅するカラダがないんだよ、公爵。あんたのせいだ」
今度はイフが返した。小さな手のひらをルシエルに対して開き――
その声が響く前に、ルシエルは寝室の壁に叩きつけられた。
「ああ、だめだ。全然足りない」
がっかりして、イフは自分の手をみた。
「父上なら、一撃でころせるのに。俺は弱い」
(やめろ、イフ!――父上をいじめるな!ばか!)
父の張った防御陣の向こうに隠れて、胎児は怒っている。
イフも次の雷撃を食らうまいぞと警戒しながら、遠巻きにルシエルの張った陣に近づいた。
触れるまでもなく、高位術式の強固な防御陣とわかる。
公爵家のみに伝わるという、
それが二枚重ねとなれば、いまのイフでは、肉体はなくとも触るだけでダメージを受けそうだ。
もう、胎児には触れない……。
父親の張った安全地帯の中から、ほっとまずは安心したのか、胎児は勝ち誇ったように、ばか!ばか!とイフに悪口雑言をなげてくる。
(イフ、俺の父上は本当は強いんだ。それに俺のことを守ってくれる)
胎児は少しばかり、調子に乗りすぎていた。
(……お前なんか、だれも助けてくれない)
イフの赤い瞳が、暗闇の中で激しい憎悪の焔で燃えた。
胎児を掴みだすことは出来なくても、イフにはまだ復讐の方法があった。
激しい衝撃を受けて叩きつけられ、まだ意識がもうろうとしているルシエルを見下ろし、イフは呟いた。
「ルシエル公爵、お前の息子は礼儀を知らない。
それは、お前が礼を知らず、破廉恥で、クズ野郎だから、その子もそうなのだ。
お前は、母上にふさわしい男ではない。
生きていていい存在でもないんだよ、公爵。
惨めな負け犬として死ぬべきだった――あのサバトの晩に」
イフは、うつろな瞳を開いたルシエルの額に指を這わせ、そのまま自分の掌で掴んだ。
片手ごとゆっくりと浸し、ルシエルの思念の中へ指先を潜らせていく。
「おい、やめろ……」
「夢のなかへおいで、公爵」と、イフは冷たく言った。
「そこで母上が待っている。……俺の父・アスモデールに抱かれ、その子である俺を、深く愛してくれている」
赤い瞳がはっきりとした侮蔑の光を帯びて輝いた。
「そこが本来あるべき世界だった。――お前がみんな壊した」