半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
ルシエルが、重い瞼を閉じた瞬間、再びあの闇に落ち込んだ。
リーザの静かな寝息が遠ざかり、意識が溶けるように、また今日も、イフの夢の世界へ引きずり込まれる。
イフの声が聞こえる。
(俺の世界へようこそ、ルシエル辺境伯。
今夜は――、父親参観という趣向にしよう。お前の息子、セオドアとあそびたい)
目を開けると、そこはサタン王宮の奥深く、イフ専用の小さな森だった。
霧が立ち込める、幻想的な庭園。
少し離れた木々の向こうに、アトリウムの丸いガラス屋根が見える。
だが、ルシエルにはただの牢獄にしか見えなかった。
彼は森の端に立ち、木の幹に寄りかかるようにして立っていた。
イフの与えた役割――ただの傍観者。
手を出そうにも、ルシエルの魔力は夢の中では封じられている。
森の中央で、6歳のイフが無邪気に笑っていた。
白く乱れた髪が風に揺れ、赤い瞳が好奇心と残酷さで輝く。
小さな黒金のローブを纏った皇嗣は、手を差し伸べてセオドアを誘う。
「セオドア、戦いごっこだ。落ちぶれ家系のお前だって、もとは
お前の父は、
セオドア……ルシエルの息子は、怯えた表情で立ちつくしていた。
金髪が乱れ、まだ何もしていないうちから、紫の瞳に怯えが浮かぶ。
その体躯は華奢で、最初から逃げ腰なのは見て取れる。
セオドアは父の方をちらりと見上げ、助けを求める視線を送ったが、ルシエルは動かない。
ただ、冷静に観察するしかない。
「では、はじめよう。まずは、俺から!」
イフが手を振ると、小さな炎球がセオドアの足元を焦がした。
パチパチと音を立て、土が弾け飛ぶ。
セオドアは悲鳴を上げて飛びのき、体勢を崩してみじめに転がる。
膝を擦りむき、すぐにべそをかく。
「…………」
ルシエルは冷徹に分析した。
反応が遅い。炎球の軌道を予測できていない。魔力の感知力が不足している。
……いや、感知しようともしていない証拠だ。
俺の血を引くなら、回避の試みくらいは見せるはずなのに……。
無表情のまま、ルシエルはセオドアの弱点を一つずつ分解し、観察した。
イフはくすくす笑い、手加減しているつもりなのか、次の魔力の波を軽く放った。
セオドアの体が軽く弾き飛ばされ、木の幹にぶつかる。
擦り傷が増え、服が破れ、セオドアは泣き始めた。
「痛いよ……もういやだ……」
イフが口を尖らせる。
「なんだよ、そっちが打ち返してこいよ。俺ばっかりじゃつまらない」
ルシエルに向き直る。
「おい、辺境伯。お前は息子に何も教育していないのか?これじゃ、俺が”いじめてる”みたいだ」
爛々と楽しげに笑いながら、イフが挑発する。
「セオドア、殿下のお許しをいただいている。お前も術を繰り出せ」
ルシエルが、冷たく言い放った。
セオドアはしゃくりあげながら、小さな指先で陣を描き、涙ながらに詠唱を始める。
……小さい。そして、弱い。
ルシエルの眉根が、失望で小さく歪む。
術が完成する前に、イフの繰り出した小さな突風が、セオドアを吹き飛ばした。
「遅いよ、セオドア。そんなちっぽけな魔力しか束ねられないのに、時間がかかりすぎだ。――イライラする」
苛立ちを共有したい、というような失望の瞳を、ちらりとルシエルに向ける。
そして、同じ色がセオドアの父親の瞳にありありと浮かんでいるのを確認し、残酷な悦びを感じていた。
こいつは、生まれながらの負け犬だ……そう、貶めたくてたまらない。
しかし、口に出すのはもう少し後にしよう。
ルシエルの子は、弱い。
魔界でも指折りの魔力の持ち主として知られる、
ルシエルも明らかに、セオドアに対して失望を感じていた。
彼は、内心で冷静に計算する。
セオドアの耐久力は低い。
衝撃の吸収が不十分で、痛みに負け、感情がすぐに振り切れてしまう。
俺の子なら、せめて小さな反撃の魔力波くらいは発動できるはずだ。
この子は、
セオドアには、闘争本能がない。
その弱々しく、卑屈に怯えきった性質のために、持って生まれたはずの能力も、全く活かされていない。
それとも、この夢の設定が意図的に
いずれにせよ、ルシエルの失望の度合いは強かった。
だが、再び自問がよぎる。
セオドアに対して、ここまで冷酷に判断してしまうのは、やはり父親として、リーザとの子でないセオドアを愛す余裕がないからなのか?
俺は本物の子を守るために、この夢の産物である、”まがいもの”の息子を切り捨てようとしているだけなのか?
「来ないなら、こちらから行くぞ。セオドア、受けろ!」
イフの赤い瞳が輝き、明らかに威力を強めた攻撃が入る瞬間――小さな雷撃がセオドアの肩を狙って放たれた。
イフは手加減を忘れたわけではないが、その威力は今までより明らかに鋭く、セオドアの小さな体を焼き払う勢いだった。
その瞬間、ルシエルが動いた。
魔力が封じられていることは判っていたが、本能が勝った。
体を投げ出すようにセオドアの前に割り込み、生身で衝撃を受け止めた。
雷撃がルシエルの胸に直撃し、激痛が走る。
焼けるような熱と衝撃が体を貫き、息が詰まった。
魔力が奪われているため、防御は効かない。
だが、イフが加減していたおかげで、致命傷には至らず、強い痛みを受けるだけですんだ。
ルシエルは膝をつき、歯を食いしばって耐えた。
セオドアはルシエルの背中にしがみつき、べそべそと泣き出した。
「父上……、ここは嫌だ……もう
「セオドア、泣くな。せっかく遊んでくださるのに、殿下に失礼だろう」
イフは目を丸くして、すぐにくすくすと笑い出した。
「へえ、意外と父親らしいことをするんだな、辺境伯」
指先でぱちぱちと電流を弄び、手のひらの中心に光を吸い上げて握りつぶす。
「セオドアは、心が弱すぎる。……泣いてばかりで、まるで女の子だな。
母親が甘やかしているんだろう。わたしの宝物よ、
目の前の、辺境伯親子を見下ろすイフの眼に、あの侮蔑の光が宿っている。
「親子そろって、お前たちは負け犬だ」
ルシエルはゆっくりと体を起こし、泣きじゃくるセオドアを抱き寄せた。
胸の焼けつく痛みを無視し、冷徹な視線をイフに向ける。
この子はまがいものだ。しかし、セオドアは確かに、彼の子だった。
セオドアの小さな手がルシエルの服を握りしめ、震える声で泣き続ける。
「父上……ごめんなさい……」
ルシエルは無言で、セオドアの頭を撫でた。
痛みと失望が混じり合い、むなしさが胸を埋め尽くす。
「もういい、戦いごっこはやめだ」
イフが、気まぐれな皇嗣らしく、くるりと父子に背を向けた。
「セオドア、俺の飼っている大きな
俺のお
あっちの池にいるから、見に行こう」
振り返って、ルシエルの顔を見た。
「セオドアを連れて行って、構わないかな?――ルシエル卿」
ルシエルは、黙っていた。セオドアを抱く手に、力が入った。
「あそこにアトリウムが見えるだろう。
また俺がセオドアを連れてくるから、そこで待っていてくれればいい。
植物園になっていて静かだ。ほとんど、誰も来ない」
イフの眼が、ふしぎと柔らかく、そして試すような光を帯びていた。
「あの
母上は、花をめでるのが好きなのだ。今日も、来るかもしれないな」
ルシエルは、凍り付いた。
これは、罠だと判っていた。
それでいて、思考は一瞬でアトリウムの静かな光の中へ飛んだ。
王妃らしい黒の豪奢なドレスに身を包んだ、リーザの姿が脳裏に浮かぶ。
絹の裾が静かに揺れ、白い肌がドレスの襟元から覗く。
気高く、冷たく、しかし甘い微笑みを浮かべて花弁に指を這わせる。
――その一瞬、リーザという存在が、ルシエルの思考のすべてを支配した。
ルシエルの欲望は熱く沸騰し、その理性を暴走させるだけの十分な毒を持っていた。
イフは、小さく笑った。
すべては、彼の
辺境伯の子に、急に親しい微笑みを向けて、イフは再度、促した。
「セオドアを、向こうへ連れていっていいだろうか?――お前さえ、構わなければ」
立ち尽くすルシエルをじっと見つめて、皇嗣は冷酷に微笑んでいた。