半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
今日のセオドアは、いつもよりもさらに動作が鈍く、何を話しかけてもほとんど、うわの空だった。
道すがら、何度も転ぶ。
足元がふらつき、まともに歩けてさえいない。
夢から覚めたように時々はっと目を見開き、その時だけ卑屈に「殿下、待ってください」と繰り返した。
「なんだよ、お前。しっかりしろ、ばーか」
イフは苛立ち、その横腹を蹴り上げてやる。
セオドアはあっと声をあげて、森の斜面を転がり落ちた。
「いつも鈍なお前だが、今日は尚いっそうひどいな。俺は、おまえの父のために、わざわざお前と遊ぶ時間を取ってやっているんだぞ」
勝ち誇り、ルシエルの息子を見下す悦びに、イフの表情は輝いていた。
「お前の父親は、お前を差し出した。どうぞ、好きにいじめてくれとな。
お前のことなど愛していないからだ。
自分の"おたのしみ"の方が、お前よりずっと大事なようだ」
くっくっと、くぐもった冷酷な笑いを張り付け、土まみれで立ち上がるセオドアに、辛辣な言葉を投げた。
「上がってこい、セオドア。お前はノロくてかなわん」
セオドアは彼の父親にさえ見捨てられた、イフの遊び道具だった。
だからこそ、徹底的にいじめ抜かれた。
面白半分でイフの術に追い回され、火炎や雷撃で脅され、失禁しながら泣き叫ぶための役割を与えられていた。
「ルシエルは今ごろ、俺の母の胸に甘えて、泣きすがっているだろう。
不義密通がバレれば死罪とわかっていて、俺の母まで巻き込んだ。
なんて自分勝手な男だ」
……セオドアは、ぺっと口の中の土を吐き出して向き直った。
切り揃えた金髪は乱れ、ちぎれた木の葉が刺さったままだった。
「父はそういう男なのです、殿下」
紫の瞳に冷たい光を宿し、急におとなびた口調で、セオドアが言った。
「愛する女のためなら、すべてを捨てる。他になにも要らない。破滅すら恐れない」
にや……と笑った。
「わたしの父とは、そういう男なのです」
イフは身構えた。
鼓動が早まり、さっと冷たい汗が流れた。
「お前は……セオドアじゃない」
異変を感じた瞬間、イフの周りの空間が歪み、湧き上がる魔力が風を巻き込んだ。
警戒の針を立て、キッと睨みつける。
「真珠の子か!」
イフの声が鋭く響いた。
弟への呼び名が、確信の叫びに変わる。
冷たい汗が背筋を伝い、鼓動が早まる。
手のひらの上で、ぱりぱりと音を立てて雷撃が生まれ始める。
「真珠の子、弟よ……お前なのか?!俺の物語を乗っ取ったのか!?」
その言葉に、セオドアの顔をした存在がゆっくりと口を開いた。
「真珠の子……?訳のわからないことを言う」
その表情は、もう完全に子供のものではなかった。
セオドアもまた、片手をかざし、術陣を刻み始めた。
「イフ、今日の戦いごっこは、なかなか楽しくなりそうだ。
俺の
公爵家に伝わる、
白金の光が流れ、その指先に収束していく。
瞳に、残酷な暗い闇を浮かばせて、セオドアの顔をした魔王が微笑んでいた。
「……公爵!お前が入っているのか!」
確かに、セオドアに浮かんでいる残酷な微笑みは、ルシエル公爵その人だった。
「精神を分けるのは、俺の得意技だ。
本体でリーザを抱き、セオドアとしてこうしてお前について来た。
まぁ、俺にとっては、そう難しくもない」
彼の前に浮き上がる魔法陣の巨大さを見れば、セオドア……いや、ルシエルが束ねる魔力の強大さが一目でわかった。
馬鹿な、とイフは絶句した。
彼の
ルシエルの軟弱な息子、情けない期待外れの後継者。その役割だけを、セオドアには与えたはずだった。
そのセオドアの体を、ルシエルが乗っ取った――。
「……ただ、今日の夫婦の営みは、あまりにも良すぎたな。
快楽に果てる時には、一瞬完全に落ちてしまった」
イフの十八番を奪って、
「子供相手に、あまり下品な話をするなよ、公爵。……お里が知れる」
「なかなかに手厳しい。
では、我が
子供には少し、刺激が強いが」
陣が溶けるように収束し、烈しい稲光となって爆ぜた。
初手からまともに受けてイフの小さな身体が一瞬で痺れ、硬直した。
絡みつく電流に締め上げられて軋み、まともに立っていられない。そのまま吹き飛ばされ、大地に叩きつけられた。
「……あ…………あっ……」
ピリピリと舌まで痺れ、肺が酸素を受け入れない。
うぅッと声を振り絞って、体を縛る雷の残滓を振り払い、よろけた。
膝をつきながらも、イフは誇り高い皇嗣として声を張った
「この……無礼者め!……お前を、処断してやる」
リーザの夢の世界だけに巣食う、まぼろしの子。
その夢が、現実の母を衰弱させ、死に至らしめるのがわかっていても、彼だけの王国に固執し、しがみついている。
哀れだが、ルシエルにとっては排除すべき対象でしかなかった。
「俺は、子供のケンカに出ていくタイプの父親だろうな。
いま、自分でも良くわかった」
自嘲しながら、次の陣を切っていく。
セオドアの体から、いくらでも魔力が湧き上がり、みなぎった。
「少しも容赦しなければという感情が湧いてこない。
こんなに
あきらめるんだな、うじ虫」
ようやく立ち上がり、白い髪を逆立てている皇嗣イフを冷たく見下ろした。
「そんなはずがない……!セオドアが古代詠唱を使えるわけがない、そんなことは俺は書いてない!」
黒いローブから差し上げた手で、イフもまた、黒い叢雲を呼び寄せようとしていた。
「ずるをするな!ここは俺の世界だぞ!公爵……!!」
「お前のルール通りだ、イフ。お前は辺境伯としての俺から魔力を奪い、幼いセオドアには魔力を残した。この子をいじめ、貶めたいがために」
ぞっとするほど、冷たい瞳だった。
「お前は、俺の魔力の強大さを知って、俺を恐れた。リーザを守る防御陣に、お前は触れられなかった。
お前は、俺を畏怖した。
だからこそ、セオドアの心を弱くした。俺の血を引いているのに、軟弱で卑屈な心のせいで、宝の持ち腐れにしたかった。
そうすることで、余計に俺を失望させようとしたからだ」
イフの
そしてルシエル自身も、己の子の情けない様子に、明らかに失望して見えた……それなのに、なぜ、今――。
「お前の失敗は、俺の血脈を封じずに、この子の弱さを彼の"心のせい"にしたことだ。
そして今、俺はセオドアの心を乗っ取っている。
俺の
なにしろお前がいう通り、この俺という男は
苛立ちの声を上げ、イフが叫んだ。
「いでよ、
上空にみるみる黒い霞が立ち、無数の槍が切先をきらめかせ、鋭い軌道をルシエルに定めた。
金髪を靡かせて飛びのき、波動で全ての軌道を歪め、叩き落とした。
「この子の身体には、俺の血が流れている。その設定さえあれば、俺には充分すぎてつりが出る」
唖然とするイフを見下ろして、"まがいもの息子"は微笑んだ。
輝く金髪と、その父譲りの美しい……紫の瞳。
「俺もわずかに200と数年しか生きていない……そして、今だに自分の魔力の底が知れない。」
確信を持って、ルシエルはその事実を口にした。
「セオドアは強い。この子は俺の子だ……俺と同じ血を受けている」
古代詠唱の
押して、押して、押しまくる。
イフも必死で彼の術……その年齢にしては充分すぎる威力で攻め立てる。
しかし、ルシエルはあのサバトの晩に、彼の父であるアスモデールと苛烈で壮絶な一騎打ちを経験している。
アスモデールの命をその手で引きちぎる、その直前まで詰め寄ったルシエルからすれば、イフの術はいくら巧みでも、年相応のそれに過ぎなかった。
血に塗れ、電撃に打たれた筋を頬にいく筋もつけて、イフは肩で息をしていた。
立っているのがやっとで、望まないのに、片方の目から涙が流れる。
「諦めろ、イフ。もう夢の時間は終わりだ。
これで、終わりにするために、
転移魔法だ……イフを、またあの寂しい、虚無の、何もない世界へ送り返すための空間が、そこに口を開き始めている。
「いやだ!ここは俺の世界だ!俺がすべてを支配している!お前のものじゃない……!」
イフは怯え、血に塗れて泣き叫んだ。
哀れな子。
この世界でのリーザが、彼女の唯一の宝と呼び、愛し慈しんだ息子だった。
しかし、冷徹な魔王であり、夫であり、胎児の父となったルシエルは、イフに対する憐憫は持ち合わせなかった。
「お前は生まれてこなかった。最初からいなかったんだ、イフ。
……誰も、お前を愛する者はいない」
そう最後に、冷たく言い放った。
転送の陣が収束していく……イフの小さな体を飲み込もうと、うねり始める。
イフの赤い瞳が、自然にこちらに向いた。
額から流れる血の赤さと溶け合い、ただ
「物語を、かきかえる」
イフが呟いた、その言葉の意味を、一瞬、ルシエルは理解できなかった。
「セオドアはいなかった。
ルシエル辺境伯は、子を為さなかった。
母上を、リーザを愛していたから、まがいものの妻を抱かなかった。」
イフの筋書きが、書き直された……今、ここで。
ルシエルが、冷たい手向けとして、イフに放ったその言葉を、逆に
「だから、セオドアは生まれてこなかった。最初からいなかったんだ。
お前が、母上への愛を捨てなかったから。……ルシエル、そうだろう」
ルシエルの前から、一瞬で陣が消えた。
いや、体が消えたのだ。
セオドアが……彼の息子がこの夢の中から消え失せた。
「……馬鹿な!」
ルシエルの叫びを、誰も聞かなかった。
精神を預けていた容れ物が消え、ルシエルは、一瞬で闇に落ちた。
最後に、イフの声だけがその耳に届いた。
「少しもおかしくない。
そうだ、セオドアは生まれなかった。これでいい。
……この