半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
アトリウムでルシエルが意識を取り戻した時、すでに、無言で血まみれのイフが立っていた。
黒いローブは焼け焦げて糸を引き、頬から首までひどい火傷を負っている。
白い髪も一部は焦げて丸まっていた。
「イフ……!!」
血だらけの息子……その惨状に声を失っている王妃リーザの前に立ち、イフが声を絞り出した。
「ははうえ……もう、この男と逢うのはやめて下さい」
リーザの手を掴んで、じっとその顔を見た。
「もう父上を、裏切らないで」
小さな涙をぽろぽろと流した。
「お願いです、母上。この男とはもう逢わないと、そう言ってください。
この男は、母上を破滅させる。……わたしは母上を失いたくない」
じっと、おさない瞳で王妃にすがった。
イフの罠だ。
「リーザ、騙されるな!こいつはお前の息子じゃない、ただの幻だ!」
彼女を引き起こそうとした瞬間に、烈しく弾き飛ばされ、アトリウムのガラス壁に叩きつけられた。破片が背に喰い込む。
ルシエルは……また魔力を封じられた辺境伯に戻っていた。
リーザは、硬直していた。
彼女の犯した不義の罪を、息子は知っていた。
「わたしは……母上が望んで産まれた子ではないと、知っているのです」
「何を言うの、イフ……!」
「それでも母上は、わたしを愛してくださった。
……だから、イフは、母上にこうして裏切られるのがつらいのです」
リーザの目から、はらはらと涙が溢れた。
心身ともに傷ついた息子を抱きしめた。
「イフ、私を……母さまを許してちょうだい。
母さまが愚かだった。……わたしは、間違っていたわ」
声を震わせてリーザが泣いている。
王妃は……不義の罪を認めた。
イフは母を抱きしめ、赤く燃える瞳で間男……ルシエル辺境伯を睨んだ。
「父上には、なにも言いません。
ルシエル卿は、彼の領地へ返します。もう二度と、この地を踏むことはない。
それでいいですね、母上」
強く、念を押した。
リーザは、涙ながらに頷いた。
そして、感情を押し殺した瞳を、ルシエルに寄越した。
「聞いたでしょう、ルシエル。もう去って。……あなたとはもう二度と会わない。すべて、終わったわ」
彼女の、意志の強さを誰よりも知っているルシエルだった。
強い心を持ち、気高く、決して心を折らない……。
ルシエルとの愛を捨て、母としての責任を選んだ。
彼女らしい選択ではあった。
しかし、ここはイフの作った架空の世界であり、彼らの堕ちた不義の愛も、すべて幻だった。
このまま夢に囚われていれば、現実のリーザはいずれ、胎児と共に衰弱死する。
それがわかっていて、イフは狡猾に、母としての真心を直接、揺さぶった。
「だめだ、リーザ!奴にだまされるな!このままここにいたら、お前も腹の子も死んでしまう」
リーザは聞く耳を持たなかった。
「ルシエル、わたしにはこの子に対して責任がある。あなたへの愛よりも、それは重いわ。
私はこの子を愛している。他のなによりも、誰よりもイフが大切なの」
その言葉に、イフの目におもわず涙があふれた。
何よりも、彼が望んでいた言葉だった。
俺は、愛されている。
その確信を得て、彼は母にすがりついた。
イフが魂として生じてからの、長いさすらいの中で得た、初めての勝利だった。
「母上……!」
呼びかけると、リーザは優しく彼を見つめてくれた。彼を抱き寄せ、額にやさしく口づけた。
彼の物語の、おわりが見えてきた。
イフは、父に見守られ、母に愛されて、この王国で幸せに暮らす。
おしまい。
――母の命が、現実で燃え尽きる、その時まで。
ルシエルが、痛みに呻きながら吐き捨てた。
「イフ、お前がやっていることは、リーザを苦しめているだけだ。
……彼女が死ねばこの夢も終わる。お前はまた
「いやだ、俺は母上とここで暮らす!!」
ルシエルに言われるまでもなく、イフはその”現実”を知っていた。
母にすがりつき、見も世もなく泣き叫んだ。
「他に行くところはない!ここだけが俺の場所だ。
母上だけが、俺を愛してくださる……!夢が終わるなら、終わる時までここにいる!!
母上がいればそれだけでいい……!母上は俺のものだ……!!」
まぼろしの皇嗣の感情が爆発する。
そこから生じた凄まじい轟音が、アトリウムのガラス屋根をすべて吹き飛ばした。
いや、イフの力ではなかった。
「うるさいんだよ、イフ……!」
手のひらから放った、その凄まじい怒りの雷撃。
ぱりぱりと音を立てる、雷の残滓をその表面に弾かせて……セオドアが立っていた。
切りそろえた金髪、父ゆずりの美しい紫の瞳。
そしてその声色には、胎内でイフを拒絶した、あの冷たさを宿していた。
彼は……イフの物語から消し去られたはずの、セオドアその人だった。
*
「真珠の子……なぜ来た!ここは……俺だけの王国だ!お前に、入る権利は与えていない!!」
怒りに燃えて、イフの白い髪が逆さ立った。
「は。お前が手紙に書いて寄越したじゃないか。父について来いと」
くすっと笑った……その表情はほかの誰よりも、彼の父親に似ていた。
「俺は、おまえの書いた
その夢を操る力は、母上から継いだものだろう?ならば、俺だってできる。」
残酷な光を帯びて、彼の異父兄へその小さな指先を向けた。
「お前なんかより、ずっと俺は強い。見ればわかるだろ、ばーか」
美しく、残酷な、魔王を継ぐ者の微笑みだった。
イフの赤い瞳が、怒りと屈辱で燃え上がった。
白い髪が逆立ち、焦げた部分がぱちぱちと小さな火花を散らす。
彼はゆっくりと立ち上がり、黒いローブの裾を払う。
その小さな体から、皇嗣としての威厳が溢れ出る。
アスモデールの血を引く誇りが、傷ついた体を支えていた。
「ばか、だと?……お前如きが、俺を嘲笑うのか、真珠の子」
イフの声は低く、震えていた。
「俺は好きなように嘲笑うさ。弱い奴は大っ嫌いだ。
みじめだし、うっとおしい。
肝心な時に役に立たない父親も大っ嫌いだ。
さんざん待ったが、結局おまえひとり殺せない」
切りそろえた前髪の下に、残酷な瞳が光っている。
ルシエルをちらと横目で見て、凍り付く彼の表情をむしろ
「母上を救えるのは、俺だけだ。お前らはみんな脇役だ」
イフは……ぎゅっと唇を結んだ。
しかしそれは怯えではなく、抑えきれない決意の表れだった。
母を奪われまいとする執念が、彼の瞳を紅玉のように輝かせる。
ここは俺の王国だ。母上は俺のものだ。
お前のようなまがいものが、入る隙などない。
セオドアはくすっと笑い、金髪を靡かせて一歩近づく。
紫の瞳に残酷な光が宿り、指先で小さな陣を刻み始める。
「ばーか。お前はただのまぼろしだ。母上は俺のもの、俺は真珠の子だ」
その言葉が、イフのプライドを切り裂いた。
皇嗣として生まれるはずだった俺が……この世界でようやく手に入れた母の愛を、お前に奪われるものか。
「なにが真珠だ!お前の心は真っ黒だ。お前は黒真珠だ!」
イフの小さな手が、虚空を掴むように開く。
黒い霞が湧き上がり、無数の槍が切先をきらめかせる。
「いでよ、
槍が一斉に飛び出し、セオドアを狙う。
セオドアは軽く身を翻し、波動で軌道を歪め、槍を叩き落とす。
だが、イフは止まらない。
次の瞬間、地面から黒い棘が突き上がり、セオドアの足を絡め取ろうとする。
ギリギリの間合いでセオドアが跳びのき、反撃の炎球を放つ。
イフは黒い盾を展開し、かろうじて防ぐが、衝撃で後ろに吹き飛ばされる。
息を荒げながら、イフは立ち上がる。
母の優しい微笑み、あの温かな抱擁。
それを失うわけにはいかない。
「母上は……俺のものだ! お前なんかに……渡さない!」
イフの叫びとともに、黒い霞が渦を巻き、セオドアを包み込もうとする。
セオドアの陣が輝き、炎の渦で霞を焼き払うが、棘が再び足元から迫る。
二人は睨み合い、魔力が空気を震わせる。
ギリギリの鬩ぎあいが、火ぶたを切った。
イフの決意は、母を守るための必死の抵抗。
セオドアの目は、ただ残酷に笑うだけだった。
まるで、イフの物語の結末を……彼はすでに知っていると言わんばかりだった。
「いつまで主役のつもりだよ?……
はじめて、はっきりとイフを、兄と呼んだ。
「お前の破滅はもうはじまってた。俺の魂がうまれ、肉体をまとったその瞬間に」
より苛烈な光を放って、セオドアの掌からぱりぱりと未生の雷撃が形づくられていく。
「まがいものはいらない……俺だけが本物だから」
一閃放つだけで、凄まじい威力の電流がほとばしり、イフの肉体を大地へ叩きつけた。
額を土に付けたまま、立ち上がれなかった。
こほ…と小さく咳をしただけで、口の脇から血が流れ落ちる。
彼の
彼の父の美しい容姿。
その完全な
唇をもちあげて、にや……と笑った。
「だから、さっさと死んでろよ、ばーか」
セオドアの小さな手から次々と放たれる雷撃は、イフの小さな体を容赦なく貫き続ける。
イフは悲鳴を上げて後ろに吹き飛び、森の木々に叩きつけられた。
白い髪が泥と血にまみれ、赤い瞳が痛みで揺れる。
「やめろ…!!やめろ……!」
セオドアは一瞬も止まらない。
次の瞬間、彼の周囲に巨大な魔法陣が浮かび上がり、黒い炎の渦が巻き起こる。
胎児が知るはずもない、高位魔法の陣をやすやすと切り開き、イフを苛烈に責め立てた。
魔力をもたない辺境伯のルシエルは、ただ彼らの激しい術式合戦を見守るしかない。
ただ、この状況はあまりにも異常だった。
炎は森を焼き、湖を蒸発させ、アトリウムの残骸を溶かす勢いで広がっていく。
セオドアはすべてを焼き払い、灰燼に帰していく。
「いいものを見つけた。これがお前の父の正体か?……ただの人形だ」
その掌に、白くバサバサと長い髪の帝王、アスモデールを模った布人形が浮かんでいる。
「お前は父親なんか知らない、イフ。誰からも愛されない。まがいものの子が、人形ごっこをしていただけだ」
ふっと息を吹きかけると、少し怒り顔のアスモデールの布人形は炎に包まれ、あっという間に灰になった。
「やめろ……おれの父上だ……俺は皇嗣なんだ……」
ついに堪えきれず、イフは手の甲であふれる涙を拭った。
なにもかも全てを、真珠の子は燃やしてしまう。
「こんなのは、みんなはりぼてだ。……お前の夢なんて何もかも、まがいものだ!」
「やめろ――!やめろ!!ここは俺の世界だ!」
絶叫を無視して、セオドアは目につくものをすべて破壊する。
「あははははははは、燃えている。兄上、見てみろよ。
お前の王国は、ぜんぶグラグラだ。こんなのは最初から
あっという間に燃えてしまった」
森は炎に包まれ、王宮の塔が崩れ落ちる。
イフの「おはなし」の世界が、次々と砕け散っていく。
「やめろ……!ここは母上の
イフの叫びに、ルシエルは初めて、リーザの苦しみに気づいた。
リーザはアトリウムの残骸に膝をつき、胸を押さえて激しく苦しんでいる。
顔は青ざめ、唇から血がにじむ。
「リーザ……!しっかりしろ!!」
慌てて、彼女を抱き上げる。
しかしもうすでに、リーザの精神は激しく傷つき、肉体が耐えきれなくなっていた。
「セオドア!!止めろ!!これ以上、イフの世界を壊すな……!
ここはリーザの夢の中なんだ!……お前の母まで、壊れる!!」
ルシエルの叫びは、セオドアにはもう届かなかった。
真珠の子は、彼の血脈からとめどなく溢れ出す、どす黒い魔力に包まれていた。
……彼の眼は愉悦と破壊に染まり、理性の光はそこから完全に失われていた。