半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
イフの夢から解放され、昏睡から目覚めたリーザは、順調に快復していた。
腹の子も、また成長し始めた。
ルシエルの念話には、あいかわらず無視して答えなかった。
少し、いやかなり、あの
余計な告げ口をされても困るルシエルは、いまはただ、短い愛情表現だけを息子に送ることにしていた。
(みな、お前を待ち望んでいる)
(………………)
素直でないところは、明らかに父親に似ていた。
しかしリーザは、大きくなる腹を優しく撫でながら、熱心に童話などを読んでやる。
「この子は、本が好きな子になるかもしれないわ。物語を読んであげると、トコトコと小さい足でキックするの。きっと楽しんでくれているのね」
ルシエルの想像する息子は……童話に退屈してどんどんと足を踏み鳴らす、小さなセオドアの姿をしている。
もし。それがイフなら……
しかし勿論、そんなことは口にしなかった。
イフは、もういない。
「私は子供の頃、ずっと本だけが友達だった。一人で詩を書いたり、おはなしを自分で作って楽しんだ。
だからこの子には、私がたくさんお話を読んで、一緒に寄り添ってあげたいの」
リーザの瞳は優しく、想像のなかの子を抱き寄せている。
リーザは、あの夢のことを何も覚えていなかった。
彼女が愛した子であるイフのことも、アスモデールの王妃であったことも……。
そして辺境伯に落とされたルシエルと交わした、激しい不義密通の愛も、すべて彼女の中には存在していなかった。
イフは……完全に消え失せた。
これで良かったのだ、とルシエルは自分を納得させたかった。
ただ、こんなことは想像したくなかったが……
イフであればきっと、リーザの膝に甘え、一緒に物語を楽しみ、彼の母の読むおはなしに、うっとりと聞き惚れているだろうと思った。
「お腹の子は……俺の夢に出てきた。自分のことを、真珠の子と呼んでいた」
自分の夢の中でと、ルシエルはあえて嘘をついた。
リーザは、ハッとして夫の顔を見た。
決して明かすつもりのない秘密を暴かれた……そんな表情だった。
「そう……聞こえているのね、ちゃんと」
今になってやっと、リーザが胎児に付けた、その呼び名の意味がわかっていた。
真珠は……傷から生まれる。
長い時間をかけて、少しずつ異物を包みこみ、形成されていく宝石だった。
痛みの結晶であり、その代償となって得られる宝。
リーザは胎児を、密かにそう呼んでいた。
彼女がすべてを投げうって手に入れた、唯一の宝。
最愛の夫を傷つけることを恐れ、ただその心の中でだけ、我が子をそう呼んだのだ。
人間界から彼への愛のためだけに、全てを捨てて嫁いできたリーザ。
彼女に対して、ルシエルは真に向き合えていなかった、と今なら理解できる。
リーザを手に入れ、所有する悦びに奢り、彼女が払った犠牲について、少しも思い至らなかった。
――
彼の遠慮のない、なさすぎるほど正直な従者・ナサニエルが突きつけた言葉が、今になって思い起こされた。
リーザの美しさを自分の領地で諸侯に見せびらかし、まだサバトの傷が癒えない彼女の肉体から、"初めて"を奪おうと強引に迫った。
夢の中で……彼は欲望のままに孕った妻を犯した。
その過去は、今さら変えられない。
彼はいまもって自己中心的な夫であり、未熟な父親だった。
ただ少なくとも、そのことを自覚できる様にはなっていた。
――たぶん、少しは。
「この子は、俺たちの宝だ」
白い手を取って、一緒に彼女の腹の上に重ねた。
「俺たちで守り、ひたすらに愛してやろうと思っている」
その瞳には、いつもの冷たさは浮かんでいなかった。
リーザは、微笑んだ。そうね、とだけ答えた。
「だが……子供におまえを全部取られてしまったら、俺はさびしくて死んでしまうかもしれない」
突然、こどもが拗ねる様に、ルシエルがその黒髪ごと頭を押し付けてきた。
まぁ、と呆れて、リーザはその髪を抱き寄せた。
「あなたが一番こどもね、ルシエル。そんなことで、本当に魔王が務まるの?」
「俺の様な"こども"でも務まるんだ。魔王なんて大した
時々こんな風にこじらせ、自嘲めいて言うあたりが、この若く恐ろしい魔王のかわいいところだった。
「あなたは良い、優しいお父さんになれるわ」
「とても、そんな気がしない。……自信がない」
イフの夢でとはいえ、すでに一度、胎児である我が子に、一撃喰らわせていることは黙っていた。
「生まれる前からそんな気弱なことでは困りますわ、公爵さま。
私は、元は王女なのよ。
その夫がこんな
彼女の回転の良さ、その言葉にいつも救われる。
「そうだな……俺は、お前にわざわざご降嫁いただいた身だ。
愚痴など許されない」
「わかればよろしくてよ、ルシエル。
いえ、ルシエル公爵……リーザ姫は、接吻を所望するわ」
抱き寄せ、長い舌をからめる。
自然と、下半身が固くこわばる。そして、――困った。
「俺はかつてないほど幸せだが、……こればかりは生き地獄だ」
リーザの腹の膨らみを、どこか恨めし気に見てしまう。
が、ぎゅっ……と優しく掴まれて、若い夫であるルシエルは思わず息を漏らした。
「ばかなひとね、方法はたくさんあるわ」
彼のしらぬ間に、ひそかに成熟しはじめている若妻の声だった。
童話の本を傍らに置きなおし、リーザは彼女がいちばん愛するひとを、その寝台に招いた。
*
ルシエルは、妻の
とても、良かった。
なぜか気恥ずかしく感じて、言葉にはしなかった。
そして、夢の中でアスモデールの妻となっていたリーザに烈しく詰め寄った自分を思い出していた。
リーザの裏切りを責め、サバトで彼女を救えなかった事実を責められた。
二人で負った傷から血を流し、それを舐め合い、はげしく愛し合った。
その体験は、ルシエルにとって、必要な通過儀礼だったように思えた。
リーザをそっと抱き寄せた。
彼女に何か、優しい言葉をかけたかった。
そして今は、はじめて素直に、口に出せた。
「お前は、俺が初めて本当に愛したひとだ。
俺の初めてはお前なんだ。
それだけは、誰にも奪えない」
それ以上は、言葉にならなかったが、彼の愛する
リーザの瞳に涙が浮かんでいた。
「私の初めても、あなたよ。
ルシエル。わたしも、初めて愛したわ。
それからずっと、ずっと愛しつづけている」
ただ抱き合って、互いの温もりを感じ合った。
部屋は、再び静寂に還った。
*
月が満ちて、公爵家に新しい生命が生まれた。
ルシエルはすでに知っていたことではあるが、男の子だった。
父として、
セオドア。
それが、この世に生を受けた、ルシエルの息子の名前だった。
リーザは、その子をテオと愛称で呼んだ。
テオは、父譲りの美しい紫の瞳をしていた。
そして……意外なことに、テオはこちらも父と同じ、黒い髪だった。
まさに、彼の父の生き写しの姿を持って、テオはこの世に生まれ落ちた。
夢の中でのセオドア……美しい金髪の少年と、この子は違うのかもしれない。
そう思いながらも、ルシエルはその事実に、気がついた。
夢のセオドアが暴走したとき、ルシエルは、彼の額を押さえつけてその膨大な魔力を封じた――
その痕跡であるかのように、テオの額には、母と同じ色の……いく筋かの金髪が残っていた。
テオを抱き上げ、父親となったルシエルは、自分と同じ瞳を見つめた。
息子もまた、見えていないはずの目線をよこす。
(父も母も、お前を待ち望んでいた)
念話で語りかける。
テオはまだ黙っていたが、根負けしたのか、短く返した。
(父上、……俺はずけずけと踏み込まれることを好みません)
なんとも、可愛げのない第一声だった。
俺の子らしい、とルシエルも半ば呆れつつ、その頬にふれた。
その肌は、ふにゃふにゃと柔らかく、温かかった。
(俺は赤子ですから、常に睡眠と乳を欲しています。
……父上に抱かれていては、それが叶いません)
じっと、見えもしない眼で、その父を睨んでいる。
苦笑して、そっと母であるリーザに抱き渡した。
「可愛いわ……テオは、あなたにそっくり」
そうだな、と短く同意だけを返して、ルシエルは微笑んだ。
無垢な赤子のふりを……いや、無垢な赤子であるテオは、一心に乳を飲んでいた。
魔界の最も旧い家柄の一つ、ルシエル公爵家の嫡子として。
この赤子は、父と母の愛情を受け、幸せに……育つことを約束されていた。
テオの物語は、いま始まったばかりだった。
満ち足りて、小さくあくびをした。
ルシエルとリーザに見守られ、この美しい赤子は小さな口をぴくっと動かした。
そして、にや……と幸せそうに笑った。
【 完 】