※この作品はR-18です。

半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~   作:古弥須 凱

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エピローグ前編 「肉体」

黒い霧が立ち込める魔界のサタン王宮、東宮の奥深く。

 

真夜中の玉座の間は、蒼い月の光がわずかに差し込むだけで、闇に沈んでいた。

 

アスモデールは寝巻きのまま、黒い絹のローブを羽織っただけの姿で玉座に腰掛けていた。

 

白くバラついた髪が肩に乱れ、赤い瞳は静かに虚空を眺めている。

 

周囲の空気が震え、衛士たちの念話が彼の頭に飛び交っていた。

 

声はすでに半ば絶叫に近い。

 

(結界が破られた! 侵入したのは一体……! 東宮外縁から深部へ向かっている! )

 

(第一結界が、砕けた! 第二結界も…くそっ、奴は結界を強引に喰い破ってる! 衛士は、接触した瞬間に昏倒している!)

 

(第三結界が、喰われた! 奴は…子供のような体躯だが、こちらの攻撃魔法が入らない! まともに見た者は、みな魂を取られた!)

 

(第四結界…破られた! ただ、奴も結界に灼かれて、相当ダメージを受けている……!

半死半生のはずなのに、まだ動いている!

血を吐きながら這うように進んでくる!)

 

(殿下に一時、退避いただかなれば……避難を! 奴の目的はアスモデール殿下だ! まだ残っている衛士は殿下のもとへ…!)

 

アスモデールは、動じず、ただそれを聞いていた。

 

赤い瞳が、わずかに細まる。

 

衛士たちの念話は、次第に途切れ途切れになり、絶望の色を帯びていく。

 

(第五結界…このままでは突破される……あれはいったい何だ…!)

 

(奴は…死にかけている…しかし…止まらない…)

 

アスモデールは、ゆっくりと口を開いた。

 

低く、抑揚のない声が、念話ではなく直接響く。

 

「どんなやつだ?」

 

即座に、震える声が返ってきた。

 

(見たものは、ほとんど魂を喰われましたが…まだ幼い子供のようです。

白い髪、赤い瞳……しかし、奴にはこちらの攻撃魔法が効かない……

異常です…! 殿下、避難を!)

 

アスモデールは薄く笑った。

 

赤い唇が、わずかに弧を描く。

 

「幼い子供、か。ふん…。面白いな」

 

彼は玉座の肘掛けに指を這わせ、ゆっくりと口を動かした。

 

言葉は呟きに近く、しかしその一言で空間が震えた。

 

「結界を全て、いま解除した。奴を好きに通せ」

 

衛士たちの念話が一瞬、凍りついた。

 

(殿下…!? それは…!)

 

(通せ、と言った。連れてこなくていい。奴が勝手に俺のところに来る」

 

混乱の念話が飛び交う中、アスモデールは静かに待った。

 

東宮の廊下から、血の匂いが濃く漂ってくる。

 

足音はなく、ただ引きずるような気配だけが、近づいてくる。

 

衛士の悲鳴が、遠くから途切れ途切れに聞こえる。

 

やがて、扉がゆっくりと開いた。

 

血まみれの小さな影が、よろよろと入ってくる。

 

白い髪は血で固まり、黒金のローブは破れ、焼け焦げている。

 

赤い瞳が、かすかに輝きを宿したまま、玉座のアスモデールを見上げた。

 

イフは、膝をつき、礼に則って頭を垂れた。

 

半死半生の体で、声は震えていたが、言葉ははっきりとした。

 

「父上…アスモデール殿下。

私は…サバトの夜に、殿下とリーザの間に生まれた子です。

 イフ…と申します。殿下の後継者に相応しい、その貴い血を引く者です。

 …この身を、殿下に捧げます。…私を…お認めください」

 

アスモデールの赤い瞳が、イフの血まみれの姿をじっと見下ろす。

 

「サバトの夜の、忘れられた子か。確かに俺も、お前の存在を知らない」

 

「……僭越ながら一度、お手紙(メッセージ)を差し上げました」

 

「ちらりとは見た」

 

イフは、唇を噛む。

 

かつて、父に、アスモデールに書き送った手紙は、こんな内容だった。

 

――――――――――――

ちちうえ

 

わたしは、いふです。

ちちうえと、はは、りーざの子です。

さばとのあと、りんぼにいましたが、もどってきました。

ははと、るしえるこうしゃくを、ゆめのせかいでつかまえています。

ちちうえにみていただきたいです。

ゆめのなかでころしたら、るしえるはしにますか?

それなら、いふがおやくにたてるとおもいました。

おむかえにいきます。

はいれなかったので、よる、けっかいをはずしておいてください。

 

ちちうえの子  いふ

――――――――――――

 

悩みなやみ、一生懸命につづったイフの想いを込めた手紙。

 

その手紙を、父は確かに読んでいた。

 

その上で、完全にイフという存在を黙殺していたのだ。

 

「お前は自分のことを、俺とリーザの息子だと言ってきた。

そして、ルシエル公爵を夢で捕まえ、彼を殺せると書き寄越した。

それならなお、俺には、わからない……」

 

アスモデールは、冷たくイフに言い放った。

 

「サタン帝王の嫡子たるこのアスモデールの、真にその息子であるならば、ここに現れる時、まずはルシエルの首級を持参したはずだ。」

 

必死に結界を喰い破り、瀕死でたどり着いたイフに対しても、アスモデールは一切の斟酌をしなかった。

 

「最初から助けてくれ、結界を開けてくれなどと甘えた手紙を寄越す。

そんな者が、俺の子だと名乗るのは矛盾している」

 

イフは……耳朶から垂れる、その血の雫の音を聞いていた。

 

「リーザは人間だが、抱いてみると、なかなかに具合の良い女だった。

側室にしようと思ったが、まぁいろいろと横槍が入って果たせなかった。

結果、またしてもあの半血公爵が、俺のお下がりを手に入れ、妻とした。

 

だが、たとえサバトで邪魔が入らず、お前が産まれていたとしても同じだ。

お前は数多いる側室が産んだ、しかも半血(ハーフブラッド)の……後継者からはほど遠い、12番目の子にすぎない」

 

あまりにも冷たい、現実。

 

「俺の後継者だと言ったが……俺にはすでに11人の子がいる。

皆、魔界の名家から献上させた姫君に産ませた、純血の美しい子ばかりだ。

……気に入らないのはみな殺してしまったから、本当はもっといたはずだが」

 

冷たい大理石の床に、ぽたぽたとイフの血が垂れる音だけが響く。

 

これが、イフが夢で描いた王国と、この魔界の王宮との格差だった。

 

イフの紅玉のような赤い目が、わずかに潤みはじめる。

 

夢の中で、偉大な魔界の帝王となった父・アスモデールに見守られ、王妃である母・リーザに愛された。

 

王宮の大広間を埋め尽くす諸侯が、彼を幼い後継者として褒め称えた、あの大公叙任の儀式(セレモニー)で感じた誇らしさ……。

 

それらすべては、ただの幻だった。

 

イフは、今はっきりと現実を、突きつけられていた。

 

夢のなかに、夢を重ねていた自分の愚かさに耐えきれず、幼い悪魔であるイフは、おもわず手の甲で涙を拭った。

 

――この血まみれの幼子は、イフと名乗った。

 

アスモデールは、ふとそこに思い至った。

 

魔界の帝王となることを約束されている、王族であるアスモデールの子にしては、奇妙(おかしな)な名前だった。

 

「お前の名前は、誰がつけた。本来なら、その父親がつけるはずだ。」

 

「……じぶんで、つけました。父上のようになりたいと思って、考えた名です。

父上は偉大な方。魔界のだれもが……畏怖(いふ)する、唯一の存在だからです」

 

震える声で、イフは答えた。

 

そこには、顔も見たことのない父親に愛情を乞う、幼子の哀れな心情が確かに感じられた。

 

ただ……一方で。

 

アスモデールには、正直なところ何の関心もなかった子だった。

 

そもそも、こいつには肉体すら無い。

 

しかし、肉体がない思念だけの存在でも、高位術式結界を無理やり突破すれば、激しく魂が傷つく。

 

それでもこの幼子は、その12枚の結界のうち、4枚までもを喰い破った。

 

その結界はかつて、1枚も破られたことがなかった。

 

人間と魔族の混血であるルシエルを半血(ハーフブラッド)と嘲りながらも、アスモデールはサバトの後、密かに人間であるリーザを側室に望んだ。

 

子供を産ませてみたい、と思った。

 

それは、あのサバトの晩にルシエルが見せた、魔界の常識から突出した半血(ハーフブラッド)の能力のせいかも知らなかった。

 

奴の異常なまでに、底知れぬ魔力……。

 

そして目の前のイフも……魔界でほぼ最強であるアスモデールと、人間の母から生まれた半血(ハーフブラッド)だった。

 

そうでなければ、肉体もない彼が、魂だけで結界を喰い破ることなど考えられない。

 

……面白いかもしれん、とアスモデールは内心で呟いた。

 

「エルシーリンドは、おるか」

 

アスモデールが、声を張った。

 

「お側に……」

 

転移魔法の空間が開き、静かにアスモデールの小姓の一人が現れた。

 

若く、美しい。

 

魔界の嫡子であるアスモデールの側に、美々しくあるのが相応しい、選りすぐられた貴族の子弟の一人だった。

 

「エルシーリンド。お前は若いが、なかなか見どころのある奴だ。小姓どもの中では、お前が一番、魔力が強い」

 

「勿体無いお言葉でございます、殿下」

 

「ここにいる子供を見ろ。

こいつを殺せるか、エルシーリンド。お前は珍しく、その歳で高位魔法が使える。」

 

若者は、伏せていた瞳を横に滑らせ、主人の命令のままに、その子供……イフを見た。

 

イフも顔を上げた。

 

焼け焦げた白い髪の下から、燃えるような紅玉(ルビー)の瞳で睨み返した。

 

イフの背後から、昏くドス黒い闇のオーラが渦巻いていた。

 

エルシーリンドの表情から、笑みが消えていた。後ずさり、その口に手を当てて、声を絞り出した。

 

「いいえ……!

いいえ殿下、私ではとても……!

これは……何ですか?!……見たことがない……」

 

そうか、とアスモデールは納得した。

 

「散じよ」

 

帝王の嫡子が、みじかく命じるだけで、小姓のエルシーリンドは肉塊となってその場で弾け飛んだ。

 

どしゃっと音をたてて、イフの前にエルシーリンドだった物体(もの)が転がる。

 

「イフとか……

お前が、俺の血を受けていることまでは認めよう。

肉体もなく、幼いお前だが、たった一人で誰の助けもなく、王宮の……俺の前に現れた。それは褒めてやるべきだ」

 

父に、褒められた。

父の血を受けていると、言ってもらえた。

 

母であるリーザの夢から放逐されたあの時……。

 

またさすらう魂となって、よるべなく魔界を彷徨っていたイフの中に、はじめて喜びが生まれた瞬間だった。

 

「だが、お前はただの私生児(おとしご)だ。俺の後継者として認められた子ではない」

 

冷たく言い放った。

 

「だが、俺自身も父の9番目の子だった。

8人の兄と姉を弑殺して、この地位を掴んだ。

イフ……お前には気概がありそうだ。チャンスをやってもいい」

 

イフの目の前で、小姓の少年だった血だらけの肉塊が、ぶるぶると震え出した。

 

転がっていた目玉が赤く染まり、イフと同じ、紅玉色に変化する。

 

脳漿と一緒に飛び散っていた、エルシーリンドの長い黒髪から、みるみる色が溶け落ち、イフと同じ白髪になった。

 

「いま、組み立ててやる。お前の、新しい肉体だ。まぁ数年しか持たないだろうが、お前の働き次第では、また作ってやってもいい」

 

見る間に、無惨な肉塊が再構築され、ちぎれた臓物が再生し、あるべきところに収まっていく。

 

皮膚が再生し、爪が生じ、睫毛が濃く生えそろった。

 

16、7歳ほどの若く、美しい……少年の姿をした真裸の――肉の人形が、イフの前に現れた。

 

「これが……わたしの肉体……」

 

思わず、イフは触れようと手をのばした。

 

「そのまま入れる。試してみるがいい」

 

アスモデールには珍しく、どこか優しい声だった。

 

イフは歩み寄り、かりそめの肉体の中に小さな足を踏み入れた。

 

その瞬間、脳天をつくような、激しい肉体の快楽に包まれた。

 

「あ……あ……!!」

 

全てが白くなり、強烈に高まり、感情が爆ぜる。

 

くらくらと目の前が暗くなり、立っていられない。

 

そのままがくりと膝をついて、イフは昏倒する。

 

必要なのは、ほんの数分だった。

 

目を開けた時、イフは完全に新しい肉体と融合していた。

 

若々しい脚の間にあるイフの陰茎が、少しずつその緊張を緩めていた。

 

床の上に、彼が昏倒しながら放ったであろう、夥しい射精のその白濁が散っていた。

 

「お前の、筆おろしだな。イフ」

 

ニヤリと口の端を持ち上げて、父であるアスモデールが笑った。

 

じっと、その部分を見ているイフに声をかけた。

 

「お前の姿は、俺の若い頃と同じだな。そ(・)れ(・)の長さも、俺ゆずりだ」

 

戸惑いながらも、思春期の少年となったイフは、恭しく感謝の念を述べた。

 

「……ありがとうございます、父上」

 

「俺は、いずれ父の次の……魔界の帝王になる。どのような方法でなるかは、まだ考えている」

 

アスモデールの言葉と同時に、ふたたび12枚の巨大な魔法障壁……強固な結界が東宮宮殿に張り直された。

 

「俺は、より強く、賢い子を求めている。この際、純血だろうが半血だろうが構わん。俺に従い、俺のために尽くす子が欲しい」

 

そう言って無意識に、ふと唇に触れた。

 

「純血……そうだな。あの忌々しいルシエルの異母姉(あね)は、俺の婚約者(フィアンセ)……正妻となるはずの純血の姫だった。

 

魔界の最も旧い一族のひとつ、大公爵家の強大な地盤(バックボーン)も魅力だったが、彼女……ベアトリチェはなにより美しい女だった。

 

あれに子供を産ませたかったと、今でも思うほどだ。

それも、奴……ルシエルのせいで、まぁご破算になった……。

 

ベアトリチェは自分の……半血の異母弟(おとうと)を溺愛し、その体を与えて支配した。

 

母の愛を知らないルシエルもまた、ベアトリチェの与える、独善の愛にのめり込んだのだろう。

 

結局のところ、ルシエルという少年の持って生まれた美しさに魅入られて、ベアトリチェはみずから破滅した。

 

あれらの父、先代の公爵はベアトリチェを処断し、自ら領地を返上して隠居した。

 

俺は女を愛したことはないが…ベアトリチェが死んだと聞かされた時だけは……はじめて胸が痛んだ」

 

アスモデールの瞳が、遠くを眺めるように一瞬、さ迷った。

 

「姉を犠牲にしておいて、少年だったルシエルは父の爵位を継いだ。

 

この一件で、領地の一部を返上したことで、あいつの家門(いえ)は没落寸前だったが、いまだに有能な若い魔王気取りで、澄ました顔をして生きている。

 

そしていつも、俺が気に入ったものを横取りしていく」

 

彼の中に巣食う、ルシエルという男への根深い憎しみの、その根源を思い返していた。

 

「父上、わたしは……父に愛される息子であることを望みません。

わたしを……このイフをお試し下さい。

父上が望む皇嗣の姿とは何か――それをわたしが証明してみせます。」

 

彼の父と同じ、燃えるような紅い瞳をぎらつかせて、イフは言上した。

 

「イフ、お前をしばらくただの私生児(おとしご)、小姓の一人として、俺の傍におくことにしよう。

お前が、俺の期待に沿う働きをするのであれば、正式な息子と認め、王族の一員に列してやる」

 

「……心より、感謝申し上げます。アスモデール殿下」

 

臣下となる身をすでに弁えて、もう父とは呼ばなかった。

 

生まれて初めて、イフには若く魔力に満ちた肉体があった。

 

これは、父であるアスモデールから受けたもの。

 

そして彼の思考、知性、深い洞察力は、人間の母であるリーザから受けたものだった。

 

イフはひざまづいたまま、最後にぽつりと述べた。

 

「殿下、お許しいただけるのであれば、いただいた肉体を少しばかり……変化させて頂いて宜しいでしょうか」

 

アスモデールは、訝った。

 

わざわざ彼の幼子の容姿から、美々しい少年の肉体を与えてやったばかりだが、特にこだわる必要も無い。

 

好きにしろ、と父の許しを得て、イフは自分の頭頂に触れた。

 

その部分から、まるで水が流れ落ちるように髪色が変化し、イフの白い髪が美しい金色へと変わる。

 

彼の母であるリーザと同じ、美しい金の髪。

 

イフは一房を指で摘んで眺め、その紅い瞳を満足げに緩めた。

 

「私生児(おとしご)としてだが、お前を息子とは認めた。だから、お前に名前をやろう。」

 

玉座からの声に、はっとイフは身体を固くした。

 

平伏し、恭しく受けた。

 

「お前の瞳……俺ゆずりのその赤さは、まるで紅蓮の焔だな。

……イフリート。そう名乗るがいい」

 

少年は感極まったが、もう涙は流さなかった。

 

イフはもう、子供ではなかった。

 

イフリート……

 

それが、若い魔族の少年として生まれ変わった、彼の真の名前だった。

 

イフ、いやイフリートは、念願の肉体を得た。

 

サタン帝王の嫡子、魔界でも有数の権力者であるアスモデールに側仕える、若き小姓の一人として。

 

「……そのうちに、わたしがルシエル公爵の首級を持ち帰ります」

 

きっぱりと、言い放った。

 

「それは喜ばしい。あいつは……隙を見せず、なかなかに手強い。」

 

アスモデールは、低く笑った。

 

小姓に落とした我が子であるイフリートに向い、残酷な肉餌を投げ与えた。

 

「やつを殺せるほどの能力(ちから)をお前が証明できるなら……すぐにでも、お前を王子の末席に据えてやる。

そこから、好きなようにやればいい。

お前なら、そのうち俺の後継者になれるかもしれんな」

 

「はい、必ずや……ご期待にそって見せます。アスモデール殿下」

 

イフリートは、口をぎゅっと結んだ。

 

その表情だけには、彼の幼かったころの心情が少し、残されているようだった。

 

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