半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
黒い霧が立ち込める魔界のサタン王宮、東宮の奥深く。
真夜中の玉座の間は、蒼い月の光がわずかに差し込むだけで、闇に沈んでいた。
アスモデールは寝巻きのまま、黒い絹のローブを羽織っただけの姿で玉座に腰掛けていた。
白くバラついた髪が肩に乱れ、赤い瞳は静かに虚空を眺めている。
周囲の空気が震え、衛士たちの念話が彼の頭に飛び交っていた。
声はすでに半ば絶叫に近い。
(結界が破られた! 侵入したのは一体……! 東宮外縁から深部へ向かっている! )
(第一結界が、砕けた! 第二結界も…くそっ、奴は結界を強引に喰い破ってる! 衛士は、接触した瞬間に昏倒している!)
(第三結界が、喰われた! 奴は…子供のような体躯だが、こちらの攻撃魔法が入らない! まともに見た者は、みな魂を取られた!)
(第四結界…破られた! ただ、奴も結界に灼かれて、相当ダメージを受けている……!
半死半生のはずなのに、まだ動いている!
血を吐きながら這うように進んでくる!)
(殿下に一時、退避いただかなれば……避難を! 奴の目的はアスモデール殿下だ! まだ残っている衛士は殿下のもとへ…!)
アスモデールは、動じず、ただそれを聞いていた。
赤い瞳が、わずかに細まる。
衛士たちの念話は、次第に途切れ途切れになり、絶望の色を帯びていく。
(第五結界…このままでは突破される……あれはいったい何だ…!)
(奴は…死にかけている…しかし…止まらない…)
アスモデールは、ゆっくりと口を開いた。
低く、抑揚のない声が、念話ではなく直接響く。
「どんなやつだ?」
即座に、震える声が返ってきた。
(見たものは、ほとんど魂を喰われましたが…まだ幼い子供のようです。
白い髪、赤い瞳……しかし、奴にはこちらの攻撃魔法が効かない……
異常です…! 殿下、避難を!)
アスモデールは薄く笑った。
赤い唇が、わずかに弧を描く。
「幼い子供、か。ふん…。面白いな」
彼は玉座の肘掛けに指を這わせ、ゆっくりと口を動かした。
言葉は呟きに近く、しかしその一言で空間が震えた。
「結界を全て、いま解除した。奴を好きに通せ」
衛士たちの念話が一瞬、凍りついた。
(殿下…!? それは…!)
(通せ、と言った。連れてこなくていい。奴が勝手に俺のところに来る」
混乱の念話が飛び交う中、アスモデールは静かに待った。
東宮の廊下から、血の匂いが濃く漂ってくる。
足音はなく、ただ引きずるような気配だけが、近づいてくる。
衛士の悲鳴が、遠くから途切れ途切れに聞こえる。
やがて、扉がゆっくりと開いた。
血まみれの小さな影が、よろよろと入ってくる。
白い髪は血で固まり、黒金のローブは破れ、焼け焦げている。
赤い瞳が、かすかに輝きを宿したまま、玉座のアスモデールを見上げた。
イフは、膝をつき、礼に則って頭を垂れた。
半死半生の体で、声は震えていたが、言葉ははっきりとした。
「父上…アスモデール殿下。
私は…サバトの夜に、殿下とリーザの間に生まれた子です。
イフ…と申します。殿下の後継者に相応しい、その貴い血を引く者です。
…この身を、殿下に捧げます。…私を…お認めください」
アスモデールの赤い瞳が、イフの血まみれの姿をじっと見下ろす。
「サバトの夜の、忘れられた子か。確かに俺も、お前の存在を知らない」
「……僭越ながら一度、
「ちらりとは見た」
イフは、唇を噛む。
かつて、父に、アスモデールに書き送った手紙は、こんな内容だった。
――――――――――――
ちちうえ
わたしは、いふです。
ちちうえと、はは、りーざの子です。
さばとのあと、りんぼにいましたが、もどってきました。
ははと、るしえるこうしゃくを、ゆめのせかいでつかまえています。
ちちうえにみていただきたいです。
ゆめのなかでころしたら、るしえるはしにますか?
それなら、いふがおやくにたてるとおもいました。
おむかえにいきます。
はいれなかったので、よる、けっかいをはずしておいてください。
ちちうえの子 いふ
――――――――――――
悩みなやみ、一生懸命につづったイフの想いを込めた手紙。
その手紙を、父は確かに読んでいた。
その上で、完全にイフという存在を黙殺していたのだ。
「お前は自分のことを、俺とリーザの息子だと言ってきた。
そして、ルシエル公爵を夢で捕まえ、彼を殺せると書き寄越した。
それならなお、俺には、わからない……」
アスモデールは、冷たくイフに言い放った。
「サタン帝王の嫡子たるこのアスモデールの、真にその息子であるならば、ここに現れる時、まずはルシエルの首級を持参したはずだ。」
必死に結界を喰い破り、瀕死でたどり着いたイフに対しても、アスモデールは一切の斟酌をしなかった。
「最初から助けてくれ、結界を開けてくれなどと甘えた手紙を寄越す。
そんな者が、俺の子だと名乗るのは矛盾している」
イフは……耳朶から垂れる、その血の雫の音を聞いていた。
「リーザは人間だが、抱いてみると、なかなかに具合の良い女だった。
側室にしようと思ったが、まぁいろいろと横槍が入って果たせなかった。
結果、またしてもあの半血公爵が、俺のお下がりを手に入れ、妻とした。
だが、たとえサバトで邪魔が入らず、お前が産まれていたとしても同じだ。
お前は数多いる側室が産んだ、しかも
あまりにも冷たい、現実。
「俺の後継者だと言ったが……俺にはすでに11人の子がいる。
皆、魔界の名家から献上させた姫君に産ませた、純血の美しい子ばかりだ。
……気に入らないのはみな殺してしまったから、本当はもっといたはずだが」
冷たい大理石の床に、ぽたぽたとイフの血が垂れる音だけが響く。
これが、イフが夢で描いた王国と、この魔界の王宮との格差だった。
イフの紅玉のような赤い目が、わずかに潤みはじめる。
夢の中で、偉大な魔界の帝王となった父・アスモデールに見守られ、王妃である母・リーザに愛された。
王宮の大広間を埋め尽くす諸侯が、彼を幼い後継者として褒め称えた、あの大公叙任の
それらすべては、ただの幻だった。
イフは、今はっきりと現実を、突きつけられていた。
夢のなかに、夢を重ねていた自分の愚かさに耐えきれず、幼い悪魔であるイフは、おもわず手の甲で涙を拭った。
――この血まみれの幼子は、イフと名乗った。
アスモデールは、ふとそこに思い至った。
魔界の帝王となることを約束されている、王族であるアスモデールの子にしては、
「お前の名前は、誰がつけた。本来なら、その父親がつけるはずだ。」
「……じぶんで、つけました。父上のようになりたいと思って、考えた名です。
父上は偉大な方。魔界のだれもが……
震える声で、イフは答えた。
そこには、顔も見たことのない父親に愛情を乞う、幼子の哀れな心情が確かに感じられた。
ただ……一方で。
アスモデールには、正直なところ何の関心もなかった子だった。
そもそも、こいつには肉体すら無い。
しかし、肉体がない思念だけの存在でも、高位術式結界を無理やり突破すれば、激しく魂が傷つく。
それでもこの幼子は、その12枚の結界のうち、4枚までもを喰い破った。
その結界はかつて、1枚も破られたことがなかった。
人間と魔族の混血であるルシエルを
子供を産ませてみたい、と思った。
それは、あのサバトの晩にルシエルが見せた、魔界の常識から突出した
奴の異常なまでに、底知れぬ魔力……。
そして目の前のイフも……魔界でほぼ最強であるアスモデールと、人間の母から生まれた
そうでなければ、肉体もない彼が、魂だけで結界を喰い破ることなど考えられない。
……面白いかもしれん、とアスモデールは内心で呟いた。
「エルシーリンドは、おるか」
アスモデールが、声を張った。
「お側に……」
転移魔法の空間が開き、静かにアスモデールの小姓の一人が現れた。
若く、美しい。
魔界の嫡子であるアスモデールの側に、美々しくあるのが相応しい、選りすぐられた貴族の子弟の一人だった。
「エルシーリンド。お前は若いが、なかなか見どころのある奴だ。小姓どもの中では、お前が一番、魔力が強い」
「勿体無いお言葉でございます、殿下」
「ここにいる子供を見ろ。
こいつを殺せるか、エルシーリンド。お前は珍しく、その歳で高位魔法が使える。」
若者は、伏せていた瞳を横に滑らせ、主人の命令のままに、その子供……イフを見た。
イフも顔を上げた。
焼け焦げた白い髪の下から、燃えるような
イフの背後から、昏くドス黒い闇のオーラが渦巻いていた。
エルシーリンドの表情から、笑みが消えていた。後ずさり、その口に手を当てて、声を絞り出した。
「いいえ……!
いいえ殿下、私ではとても……!
これは……何ですか?!……見たことがない……」
そうか、とアスモデールは納得した。
「散じよ」
帝王の嫡子が、みじかく命じるだけで、小姓のエルシーリンドは肉塊となってその場で弾け飛んだ。
どしゃっと音をたてて、イフの前にエルシーリンドだった
「イフとか……
お前が、俺の血を受けていることまでは認めよう。
肉体もなく、幼いお前だが、たった一人で誰の助けもなく、王宮の……俺の前に現れた。それは褒めてやるべきだ」
父に、褒められた。
父の血を受けていると、言ってもらえた。
母であるリーザの夢から放逐されたあの時……。
またさすらう魂となって、よるべなく魔界を彷徨っていたイフの中に、はじめて喜びが生まれた瞬間だった。
「だが、お前はただの
冷たく言い放った。
「だが、俺自身も父の9番目の子だった。
8人の兄と姉を弑殺して、この地位を掴んだ。
イフ……お前には気概がありそうだ。チャンスをやってもいい」
イフの目の前で、小姓の少年だった血だらけの肉塊が、ぶるぶると震え出した。
転がっていた目玉が赤く染まり、イフと同じ、紅玉色に変化する。
脳漿と一緒に飛び散っていた、エルシーリンドの長い黒髪から、みるみる色が溶け落ち、イフと同じ白髪になった。
「いま、組み立ててやる。お前の、新しい肉体だ。まぁ数年しか持たないだろうが、お前の働き次第では、また作ってやってもいい」
見る間に、無惨な肉塊が再構築され、ちぎれた臓物が再生し、あるべきところに収まっていく。
皮膚が再生し、爪が生じ、睫毛が濃く生えそろった。
16、7歳ほどの若く、美しい……少年の姿をした真裸の――肉の人形が、イフの前に現れた。
「これが……わたしの肉体……」
思わず、イフは触れようと手をのばした。
「そのまま入れる。試してみるがいい」
アスモデールには珍しく、どこか優しい声だった。
イフは歩み寄り、かりそめの肉体の中に小さな足を踏み入れた。
その瞬間、脳天をつくような、激しい肉体の快楽に包まれた。
「あ……あ……!!」
全てが白くなり、強烈に高まり、感情が爆ぜる。
くらくらと目の前が暗くなり、立っていられない。
そのままがくりと膝をついて、イフは昏倒する。
必要なのは、ほんの数分だった。
目を開けた時、イフは完全に新しい肉体と融合していた。
若々しい脚の間にあるイフの陰茎が、少しずつその緊張を緩めていた。
床の上に、彼が昏倒しながら放ったであろう、夥しい射精のその白濁が散っていた。
「お前の、筆おろしだな。イフ」
ニヤリと口の端を持ち上げて、父であるアスモデールが笑った。
じっと、その部分を見ているイフに声をかけた。
「お前の姿は、俺の若い頃と同じだな。
戸惑いながらも、思春期の少年となったイフは、恭しく感謝の念を述べた。
「……ありがとうございます、父上」
「俺は、いずれ父の次の……魔界の帝王になる。どのような方法でなるかは、まだ考えている」
アスモデールの言葉と同時に、ふたたび12枚の巨大な魔法障壁……強固な結界が東宮宮殿に張り直された。
「俺は、より強く、賢い子を求めている。この際、純血だろうが半血だろうが構わん。俺に従い、俺のために尽くす子が欲しい」
そう言って無意識に、ふと唇に触れた。
「純血……そうだな。あの忌々しいルシエルの
魔界の最も旧い一族のひとつ、大公爵家の強大な
あれに子供を産ませたかったと、今でも思うほどだ。
それも、奴……ルシエルのせいで、まぁご破算になった……。
ベアトリチェは自分の……半血の
母の愛を知らないルシエルもまた、ベアトリチェの与える、独善の愛にのめり込んだのだろう。
結局のところ、ルシエルという少年の持って生まれた美しさに魅入られて、ベアトリチェはみずから破滅した。
あれらの父、先代の公爵はベアトリチェを処断し、自ら領地を返上して隠居した。
俺は女を愛したことはないが…ベアトリチェが死んだと聞かされた時だけは……はじめて胸が痛んだ」
アスモデールの瞳が、遠くを眺めるように一瞬、さ迷った。
「姉を犠牲にしておいて、少年だったルシエルは父の爵位を継いだ。
この一件で、領地の一部を返上したことで、あいつの
そしていつも、俺が気に入ったものを横取りしていく」
彼の中に巣食う、ルシエルという男への根深い憎しみの、その根源を思い返していた。
「父上、わたしは……父に愛される息子であることを望みません。
わたしを……このイフをお試し下さい。
父上が望む皇嗣の姿とは何か――それをわたしが証明してみせます。」
彼の父と同じ、燃えるような紅い瞳をぎらつかせて、イフは言上した。
「イフ、お前をしばらくただの
お前が、俺の期待に沿う働きをするのであれば、正式な息子と認め、王族の一員に列してやる」
「……心より、感謝申し上げます。アスモデール殿下」
臣下となる身をすでに弁えて、もう父とは呼ばなかった。
生まれて初めて、イフには若く魔力に満ちた肉体があった。
これは、父であるアスモデールから受けたもの。
そして彼の思考、知性、深い洞察力は、人間の母であるリーザから受けたものだった。
イフはひざまづいたまま、最後にぽつりと述べた。
「殿下、お許しいただけるのであれば、いただいた肉体を少しばかり……変化させて頂いて宜しいでしょうか」
アスモデールは、訝った。
わざわざ彼の幼子の容姿から、美々しい少年の肉体を与えてやったばかりだが、特にこだわる必要も無い。
好きにしろ、と父の許しを得て、イフは自分の頭頂に触れた。
その部分から、まるで水が流れ落ちるように髪色が変化し、イフの白い髪が美しい金色へと変わる。
彼の母であるリーザと同じ、美しい金の髪。
イフは一房を指で摘んで眺め、その紅い瞳を満足げに緩めた。
「
玉座からの声に、はっとイフは身体を固くした。
平伏し、恭しく受けた。
「お前の瞳……俺ゆずりのその赤さは、まるで紅蓮の焔だな。
……イフリート。そう名乗るがいい」
少年は感極まったが、もう涙は流さなかった。
イフはもう、子供ではなかった。
イフリート……
それが、若い魔族の少年として生まれ変わった、彼の真の名前だった。
イフ、いやイフリートは、念願の肉体を得た。
サタン帝王の嫡子、魔界でも有数の権力者であるアスモデールに側仕える、若き小姓の一人として。
「……そのうちに、わたしがルシエル公爵の首級を持ち帰ります」
きっぱりと、言い放った。
「それは喜ばしい。あいつは……隙を見せず、なかなかに手強い。」
アスモデールは、低く笑った。
小姓に落とした我が子であるイフリートに向い、残酷な肉餌を投げ与えた。
「やつを殺せるほどの
そこから、好きなようにやればいい。
お前なら、そのうち俺の後継者になれるかもしれんな」
「はい、必ずや……ご期待にそって見せます。アスモデール殿下」
イフリートは、口をぎゅっと結んだ。
その表情だけには、彼の幼かったころの心情が少し、残されているようだった。