半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
サタン王宮の回廊は、夜の闇に沈みながらも、常に微かなざわめきに満ちていた。
蒼い月の光が黒曜石の床を淡く照らす中、侍従や衛士、貴族の従者たちが、柱の陰や扉の隙間から、ひそひそと囁き合う。
「…見たか? あの小姓の少年、イフリートとかいうのを」
「殿下の傍らに、いつもある。あの顔立ち、赤い瞳…あまりにも殿下に似すぎている」
「殿下の私生児のひとりだろうが……誰も素性を知らないらしい」
「たしかにあの少年は、まさに殿下のお若いころを思わせる」
「…しかし、たかが落とし子に、あの殿下がそこまで特別扱いするだろうか」
「確かにそうだ。気に入らなければ、正統なお血筋のお子様たちですら、容赦なく処断してこられた方だ」
「落とし子如きを、あのようにこれ見よがしに連れ歩かれて……」
「それにしても、サタン王家の血が濃すぎる。あの美しさは、ただの小姓のものじゃない」
「そうだな…殿下は、あの少年を特別に可愛がっている。ご側室との夜伽の際にまで、伴われると聞いた」
「夜伽に伴われる…? そこまでとは……」
「どうやら、見せつけるだけではないらしい。時にはあの小姓も交えて……」
一人が、震える指で唇を押さえた。
「しっ、声が大きい。殿下の耳は、誰よりも鋭い」
回廊の奥、玉座の間へと続く長い廊下の影で、二人の侍従が息を潜めて囁き合う。
「しかし、誰も口に出せない。殿下に聞かれたら、即座に灰になる」
二人は互いに顔を見合わせ、慌てて口を閉じた。
遠くから、アスモデールの足音が近づいてくる。
美しい金髪を短く切りあげた少年・イフリートを従えた、ゆっくりとした歩み。
衛士たちが一斉に頭を下げ、息を潜める。
そして、同じサタン王宮の長い回廊で――。
ルシエル公爵は、従者のナサニエルを従え、小議会への出席のため、本宮の議事室へと向かう途中だった。
公務用の黒と紫の重厚な礼装を纏い、紫の瞳を伏せ、黒いマントを翻しながら歩く。
ナサニエルは主人の背後に控え、無言で周囲を警戒している。
突然、廊下の曲がり角から、低い笑い声が漏れた。
「あぁ、ルシエル卿。こんなところで会うとはな」
アスモデールだった。
黒と赤の威厳あるローブを纏い、白くばさばさとした髪を流し、赤い瞳を面白げに細めている。
その傍らに、小姓の少年が控えていた。
ルシエルは足を止め、静かに一礼した。
アスモデールはくすりと笑い、面白半分に近づいてくる。
「いやいや、ちょうどいい。小議会に向かう途中か?最近は、随分と忙しそうだな。…子が生まれたとか聞いたが」
ルシエルは顔を上げず、抑揚のない声で答えた。
「恐縮に存じます。先日、無事に男子を儲けました。セオドア……と名付けました」
アスモデールはさらに面白がるように、身を乗り出した。
「ほう、セオドアか。どうにも、かわいい名だ。彼の誕生を寿ごう、ルシエル卿」
いつもの嘲るような赤い瞳を光らせて、アスモデールは続けた。
「麗しのリーザ姫の乳は、良く出ているかな?あの豊かな胸乳なら、さぞたっぷりと、溢れるほど出るだろう。
…ずいぶん産み月が遅れたようだが、俺も内心、案じていたぞ。なにせ卿のことは、弟のように思っている俺だからな。」
ルシエルはいつものように内心の怒りを隠し、表情は変えず、深く頭を下げる。
「殿下のお言葉、痛み入ります」
そして初めて、アスモデールが伴う小姓の姿に気付き、ルシエルは一瞬、息を飲んだ。
美しい蜂蜜色の金髪は少し左右に散らばり、赤い瞳は静かに輝いていた。
小姓の礼装を纏った姿は、その髪色を除けば、まるでアスモデールの少年期そのままを思わせる。
疑いようもないほど、この
(イフ……!)
あの幼い悪魔の子、涙ながらにリーザにすがったイフは今、アスモデールの傍に、美しい小姓の姿で立っていた。
アスモデールは、公爵が凍りつく様子を、ただ面白がりながら眺めていた。
満足げに笑い、傍らのイフリートに視線を移した。
「イフリートという。最近、私の小姓として召し上げた子だ」
小姓の少年は、静かに一歩前に出る。礼に則って、若き魔王に会釈した。
イフリートの……美しい金髪が揺れ、赤い瞳がルシエルをまっすぐ見据える。
ルシエルも、彼を鋭く見つめ返した。
あの夢の中から姿を消した、リーザの幻の息子。
そのイフが今、若い肉体を纏って、ルシエルの目の前に立っていた。
アスモデールはくすりと笑い、ルシエルに近づいて囁くように言った。
「イフリートはいろいろと事情のある子だが、ルシエル卿の方にも、この子となにやら経緯があると見える。
……まぁ、ゆっくり思い出を語り合え」
そう言い残し、アスモデールは悠然と背を向け、歩き出した。
黒と赤のローブが翻り、足音が遠ざかる。
残された回廊に、イフリートとルシエル、そしてナサニエルだけが立っていた。
(
ルシエルの口の悪い従者、ナサニエルがいつも通り、背後から念話で毒づいた。
(ああ、生き写しだ……気味が悪いほどに)
(アスモデールの野郎、自分の若い
歩きながらシコってるようなもんすわ)
ルシエルの見ている前で、小姓の少年イフリートが、薄く口の端を持ち上げ、にや……と静かに笑った。
(ナサニエル、油断するな。
この少年は……
ルシエルの短い叱責に、若い下級悪魔にすぎないナサニエルは、ハッとして身を固くした。
主人とのプライベートな念話には、ルシエルが
ナサニエルは慌てて、せめてもと精神の
冷たい紫の瞳で、ルシエルは目の前の小姓を睨みつけた。
イフリート……それは、烈しい焔を自在に操るという魔性の名前だった。
この美しい少年は――アスモデールのナルシシズムの極みだった。
サタン帝王の嫡子たる彼の、若く美しい姿……。
その完璧な
イフリートは
ルシエルが、口火を切った。
「おい、うじ虫。お前は……なぜ
小姓の少年は、答えなかった。ただ、控えめに目を伏せている。
「アスモデールが、お前にその肉体を与えたのか……?」
答えない。
「何を企んでいる……答えろ!……イフ!」
イフは、ただ短く、念話で返した。
(俺は母上に誓ったぞ、公爵。
……いつかきっと、イフがお迎えにあがります、とな)
「おい、ふざけるな。俺も言ったはずだ。リーザは俺の妻だ。お前の母には、ならん」
(俺の
お前の子はまだ赤子だが、俺はもう既に……子供ではない。
俺は、新しい肉体を得、ひとりの魔性の男として生まれ変わった。
イフはもう、俺の前世にすぎない。
……
その赤い瞳には、もう幼さの欠片も残っていなかった。
(……俺は、お前からリーザを奪う。
そして、俺の子を孕ませる)
にや……と、美しい顔をゆがめて、薄く微笑んだ。
「イフ……!お前は……!!」
ルシエルは一瞬、息を詰まらせた。
(わかるだろう、公爵。
俺がリーザを抱くことで……本当の俺の肉体が生まれる)
「リーザは……お前の母だぞ……!」
(さっきと話が違うぞ、公爵。俺の母にはならない、とお前は言った。
そのとおりだ。もう俺の母ではない。――リーザは恋人となって俺に抱かれ、俺の子……俺自身を宿すのだから)
「おぞましい考えだ」
(お前は、異母の姉とまじわった。
――それは、おぞましくないのか?)
ルシエルは怖気立った。
まるで鏡の向こうから、彼自身の過去が語り掛けてくるようだった。
言葉が喉に詰まり、紫の瞳が一瞬揺らいだ。
イフリートという少年として、既に生まれ変わっているイフは……
怒りと衝撃に凍り付くルシエル公爵の前で、ふたたび沈黙した。
二度と心を開かず、ルシエルの念話をも受け入れなかった。
「……失礼いたします」と、小姓のイフリートは、丁寧に頭を下げた。
ルシエルは、去っていく少年の後ろ姿を、呆然とただ黙って見送った。
「
彼の忠実な従者としてナサニエルが声をかけ、若き魔王はああ、と短く答えた。
しかし、その視線は……少しも動かすことが出来なかった。
彼の父であるアスモデールに従い、イフリートは、その若々しい背を向けて、サタン王宮の奥へと歩いて行く。
リーザと同じ、美しい金の髪が輝き、最後に静かに、その暗闇に溶け落ちて消えた。
【 了 】