半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
ルシエルがこれまで暮らした別邸から、公爵家の本邸へ持ちこんだのは、数冊の古い魔導書と小さなスケッチブック、そして一匹の年老いた黒猫だけだった。
庭の片隅で弱って死にかけていた黒猫のノワを拾い、世話をした。
それ以来、彼女だけが、ルシエルの”ほんとうの家族”だった。
ノワは、ルシエルの膝に丸くなり、喉をゴロゴロ鳴らしながら眠る。
その小さな温もりが、別邸の長い夜の唯一の慰めだった。
ルシエルはノワを抱きながら、「お前は……温かいな」と呟いた。
猫の毛に顔を埋めて、静かにノワの体温を吸い込んだ。
人間の母の温もりも、父の腕も知らない少年にとって、この温かい毛玉のような生き物だけが、触れ合える「家族」の形だった。
父であるハデス公爵は、サタン帝王の有能な将軍として、長く軍征に出て帰らなかった。
ハデス公の側室として嫁いだ人間の母……プロセルピナ姫は、ルシエルを産んで間もなく亡くなっていた。
ルシエルは母の顔を知らず、ハデス公からも父親らしい愛情を受けることはなかった。
プロセルピナは美しい姫だったとされるが、公爵家には一枚の肖像画も残されていなかった。
ただ彼の母を知る、ごくわずかな者たちだけが、ルシエルの際立った美貌を「母譲りだ」と言った。
ハデス公がルシエルを顧みないのは、彼の美貌にかさなる、プロセルピナ姫の面影を見たくないからなのかも知れなかった。
——ルシエルは、鏡が嫌いだった。
そこに映る、女のような白い顔……それは、彼自身が持って生まれた、その烈しく気難しい性質とは、まるで正反対に見えた。
柔らかな白い肌、長い睫毛、紫の瞳。
彼が思い描く男らしさとはまるで真反対の、繊細すぎる容姿。
別邸の使用人たちは、成長と共にその美しさを増していくルシエルをむしろ気味悪く思うのか、ただ「半血の坊ちゃま」と呼んだ。
もし自分が嫡子であれば……彼は父の跡を継ぎ、伝統ある公爵家の当主として君臨し、勇ましい軍人としての未来があった。
しかし彼は、継承権をもたない次子であり、魔界では
いま現在のルシエルは、女公爵の地位を約束された純血の嫡子ベアトリチェの、単なる”血のスペア”でしかなかった。
「俺は……なんのために生まれたんだろうな?」
膝の上のノワに、ルシエルは話しかけた。
「おまえは俺をなぐさめてくれる。
俺にはお前が必要だが、……だれも俺を必要とする者はいない」
別邸での生活は、孤独で単調なものだった。
貴族子弟のための学舎でも、ルシエルが属する
常に優秀な成績を修め、周囲に冷たい態度を崩さない”側室の子”、ルシエルを学友たちは敬遠し、彼は常に孤立していた。
その生活が、「血醒めの儀」を終えた夜、突然終わった。
本邸の門を馬車でくぐった瞬間、ルシエルはまるで空気が変わったのを感じた。
それまでの彼は、公爵家の子と言われても自分事とは思えなかったが、いまになって初めて、自分が本当に伝統と歴史ある
側室の子、半血の子にすぎない自分が、これからこの公爵家の巨大な本邸に迎え入れられる。
あの儀式の後、彼に「お前は、大人になったのよ」といった、ベアトリチェの言葉が急に思い出された。
俺は、本当に大人になったのだろうか。
ルシエルにはまだ、その意味がわからなかった。
ただあの夜以来、魔力は彼の中でとどまることを知らず、ただひたすらに高まり続けていた。
胸がつまるように、苦しかった。
ノワをそっと彼女の寝床に寝かせてやり、ルシエルは自分に与えられた
不安を払いたくて、自然といつものように手が伸びる。
孤独な夜には、ルシエルはいつも、その行為で自分を慰めた。
そしてその行為を覚えてから、これまですべての夜で、彼はずっと孤独だった。