半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
魔界の辺境、黒い瘴気が渦巻く古戦場。
大公爵ハデス公の名代として魔獣討伐の任を負う、レディ・ベアトリチェは白銀の軽鎧に身を包み、長剣を構えていた。
彼女の周囲では、数十名の魔族兵たち——公爵家直属の重騎兵団が魔獣の群れと激しく交戦している。
「左翼第三隊、波動を集中。焼き払え」
ベアトリチェの念話が、配下全員に同時に響き渡る。
彼女は剣を一閃させ、青白い魔力の波動を放った。
波動は弧を描き、迫り来る影狼の群れを一瞬で焼き払う。
彼女の戦い方は、常に剣と自らの魔力波動による直接的な殲滅だった。
「右翼第二隊、間隔を詰めろ。中央は私が抑える」
冷静で的確な指示が、次々と配下に飛ぶ。
兵士たちは即座に動きを変え、うら若き姫将であるベアトリチェの指揮の下、次々と魔獣を制圧していく。
その時、頭の中に落ち着いた老人の声が響いた。
公爵家の家令である、アルフレッドからの念話だった。
(レディ・ベアトリチェ。急ぎのご報告です)
ベアトリチェは剣を振り下ろし、最後の影狼を波動で焼き払いながら、静かに応じた。
声は優雅で、しかし底に絶対的な冷徹さを宿している。
「続けなさい、アルフレッド」
(大変申し上げ辛いのですが、さきほど公爵家の本邸の……ルシエル様の部屋から大規模な火災が発生いたしました。
従者のクラレンスが重症を負っております。
状況はまだ不明ですが、ルシエル様は取り乱され、魔力を暴発させている状況で、現在は誰も中に近づけません)
ベアトリチェの瞳がわずかに細まる。
彼女は剣を鞘に収め、配下に念話を飛ばした。
「全隊、残敵掃討を継続。私は一時離れる。第五隊は後衛を固めろ」
配下から即座に了解の念話が返ってくる中、彼女は静かに息を吐いた。
「……私が必要であれば、屋敷に戻るわ」
(いえ、緊急ではありますが、今はまだ、私たちにお任せを。
使用人たちの流水魔法で、ひとまず消火し、延焼は防ぎました。
今はメイド長のアルマが、お部屋の外からルシエル様によびかけ、対話を試みている状況です。
彼女は、もとは別邸付きメイドで、幼いころのルシエル様をお世話していたことがあります。
彼女に任せます。信頼できる
「そのメイドは、どこまで術式を使えるの?」
(中位魔術までですが、相当な手練れです。いざとなれば、私も入ります。
クララ……いえ、クラレンスは、油断していたのか、まともに正面から受けました。
かろうじて生きてはいますが、……自業自得です。
私は……今の彼女はよくないと思います)
ベアトリチェの唇に、わずかに冷たい笑みが浮かんだ。声は優しいままだった。
「お前の主観はいらないわ、アルフレッド。でも、ありがとう。何かあれば、また教えて。
——お父様には、報告しない」
(承知いたしました、レディ・ベアトリチェ)
念話が途切れる。
ベアトリチェは剣の柄に手を置き、暗い森の奥を見つめた。
夜風がプラチナブロンドの髪を揺らし、彼女の瞳はどこまでも冷たく、優しかった。
「……ルークは、困った子ね」
彼女は配下に一言念話を送り、戦場に戻っていく。
遠くで新たな魔獣の咆哮が響く中、ベアトリチェは冷たい司令官の表情に戻り、部下を鼓舞した。
*
家令のアルフレッドが、ルシエルの部屋に足を踏み入れたのは、事件が起きてから相当な時間が過ぎた後の、真夜中だった。
ルシエルは、素裸にシャツをはおっただけの姿で、自分の寝台に眠らされていた。
メイド長のアルマが、ベッドの傍に寄り添っていた。
「やっと、落ち付きましたわ」
疲れた声だったが、安堵の感情がまず先に立っていた。
ルシエルの部屋のなかは滅茶苦茶に壊れ、本棚は吹き飛ばされていた。
窓はすべて割れ落ち、壁紙は半分以上が真っ黒に焦げている。
家具のニスまでが燃えおちた臭いが充満し、室内はとても、まともに寝られるような状態ではなかったが……それでもルシエルは、涙のあとを頬に白く残したまま、眠っていた。
「まったく、私の術を受け付けませんでした。
ずっと泣き叫んでおられて、感情とともに魔力が止まらない状態でした。
とうとう疲れはてて、私のかけた言葉に、ルシエルさまは一瞬、考え込まれました。
そこでやっと、私の”
アルマは、ルシエルの煤に汚れた髪を片手で梳いてやった。
「良くやってくれた……アルマ。お前でなければ、出来なかった。」
「お可哀そうな子です。みなで寄ってたかって、こんな風にいじめる必要があるんでしょうか」
「言葉を慎め、アルマ。私たちに出来ることをするしかない。
私からも先日、もう一度ベアトリチェ様に言上してみたが……、たかが使用人の言葉などにべもなかった」
アルフレッドが、念話で若い従僕たちを呼び集め、眠っているルシエルを客間へと運ばせた。
ただ短く、「2階の”月蝕の間”へ」と指定した。
そこは、ベアトリチェの私室から、一番遠くはなれた客間だということを、アルマは悟った。
アルマは、ベッドの脇に置かれた紙箱をそっと胸に抱え、アルフレッドに見せた。
ルシエルの飼っていた老いた黒猫のノワが、そこに冷たく、丸まったまま寝かされていた。
「クララは……ルシエルさまから、死んだ飼い猫を取り上げようとしたのです」
「それで、怒ったあの方に反撃されたのか……血まみれで、折れてない骨はないほどだった」
アルマは、少し逡巡した。
ルシエルから聞き出した事情は、アルフレッドが想像したことから大きく外れてはいないが、切っ掛けとしては少し違っていた。
「クララは高位魔術が使えました。いつものように反抗するルシエル様を魔力で拘束し、死んだ黒猫を取り上げた。
ルシエル様は、成人されたとはいえ、まだ子供です。
……家族のようにかわいがっていた猫を失い、ただ悲しむ時間が必要だったはずなのに。
クララは従者として冷徹に、スケジュール通りに行動することを強制しました」
「まさか、この猫を焼こうとしたのか?」
紙箱のなかの老いた黒猫は、艶を失った毛玉のように丸まっている。
「いいえ、家令様。
でもルシエル様の、——大切なスケッチブックを……クラレンスは、あの方の目の前で焼いたそうです。
ルシエル様が覚えていたのは、そこまででした。
——後のことは何も覚えていらっしゃらなかった」
アルフレッドは、言葉を失った。そして苦く、吐き捨てた。
「クラレンスは……使用人として相応しい子ではなかった。
高位の術者として、ベアトリチェ様の腹心としては役立つ女だったかもしれないが。
この屋敷でご家族に誠心誠意、仕える者として、私はあの娘を最初から排除すべきだった」
アルマは、そっと黒猫の遺骸に触れた。
白い指先を、猫の痩せた背に浮いている骨に押しつけ、内部にそっと冷却魔法をかけた。
「この
せめて、お目覚めになったとき、すぐお気づきになるように」
「そうして差し上げてくれ。……ベアトリチェさまがお戻りになるまで、まだ時間はあるはずだ」
一瞬、迷ったが——アルマに、思わず声をかけた。
「アルマ。ルシエル様に、なんとお声がけして止めたのだ?」
アルマの瞳が、わずかに揺れた。
まともに、老いた家令を見なかった。
「ルシエル様は、ただ同じことを何度も——誰も俺を愛さない。もう生きていたくないと、そう泣き叫んでおられました。まだ、たった130歳の少年が……」
アルマの瞳が、かすかに潤む。
「どうしてあんな事を言ったのか……自分でもわかりません。でも、こう申し上げました。
たとえ短い間でも、ノワと……ルシエル様が出会ったことには意味があったと……」
語尾は、かすかに震えていた。
「そしていつか必ず、ルシエル様も——本当に心から愛せるひとに巡りあえると、アルマは申し上げました。
私たち魔性の長すぎる命を、その日を待つ為に使いましょうと」
アルフレッドは、沈黙した。
魔族と人間の
妖しいほどに、破滅的な美貌を持って生まれた、魔王の子。
ルシエルという——この「魔界で一番美しい少年」の数奇な運命を思うほど、この心優しい女性であるアルマの言葉は——彼女の儚い望みというよりは、痛切な祈りのようにさえ思えた。
アルマは小さく会釈すると、軽い小さな紙箱を抱いて、この無惨に焼け落ちた部屋から歩き去った。
老家令アルフレッドの記憶にある、別邸に隔離された側室の子。
半血のルシエル坊ちゃま……薄幸の人間の姫君が遺した、格別に美しい男の子。
ハデス公の側室の子にすぎないルシエルが、130才の美しい少年となってこの公爵家に引き取られてから、
ルシエルは今日——怒りに我を忘れ、記憶もないままに。
高位魔術者であるクラレンスを、ほぼ半死半生の状態、その肉体を完膚なきまでに叩き潰していた。
その事実を、公爵家はまず真に受け止めるべきだった。
この屋敷で、たった130才にすぎないルシエルの魔力に勝てる者はもう、父ハデス公と異母姉であるベアトリチェしかいない。
ルシエルは、危険な存在だった。
——女公爵の地位を約束された、彼の美しい姉君、ベアトリチェ姫の妄執、支配欲、そして歪んだ愛情……。
アルフレッドが長年仕えてきた、魔界でも最も旧い一族のひとつであるハデス公爵家は明らかに——歯車が狂い始めていた。
それは何時か、この古き名門を破滅へと導く、不吉な予兆の姿をどこかに示しているのかもしれなかった。
しかしアルフレッドにはまだ、その全貌は判らなかった。