半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
黒猫のノワが死んでから、三日が経っていた。
ルシエルは自分の部屋に閉じこもり、食事もほとんど取らなかった。
目覚めたあとも、冷たくなったノワを彼は離さなかった。
しかし、優しいメイド長のアルマが、彼の家族を眠らせるにふさわしい、しずかな場所を見つけてくれた。
領地の外れにある、いつも霧雨に濡れた静かな森。
小さな東屋があるだけで、ほとんど誰も立ち寄らない。
「お小さい頃のあなた様と、この森で遊びました。
わたしの魔法術式を見たがって、見ただけで、ルシエル様はすぐに覚えてしまわれた。
とうとう裏庭で火事を起こしかけて、アルフレッド様に叱られて、こんな森の中まで来ることになりましたわ」
ノワを入れた紙箱を、ふたりで樹木の根元に埋めながら、アルマが静かに言った。
「そうだったな。別邸にいたころ、俺に優しくしてくれたのは、ノワと、お前と、アルフレッドだけだった」
別邸の執事長だったアルフレッドも、メイドだったアルマも、彼らの有能さ故に本邸での職務に移り、ルシエルには黒猫のノワだけが理解者として残されていた。
そしてもう、ノワはその寿命を終えて、静かに旅立ってしまっていた。
黒い毛並みの優しい感触は、もうどこにもない。
ただ、胸の奥にぽっかりと空いた穴だけが、夜毎に疼いた。
*
ルシエルを常に監視していた、女従者のクラレンスは、知らないうちに屋敷から姿を消していた。
彼女が生きているのかすらも、誰も教えてはくれなかった。
その場で彼女の姿を見た者は、二度とクラレンスのことを語らなかった。彼女が高位魔術の使い手であることを知っている者なら、尚更だった。
運び出された肉体は破壊しつくされ、あらかたの骨が砕けていた。
たとえ生きていたとしても、二度と立つことも歩くことも出来ないことは明らかだった。
しかし——その惨劇の結果として、少なくともルシエル付きの従者は存在しなくなり、彼は少しばかりの自由を満喫できるようになっていた。
ある夜、ルシエルはノワが眠っている森を目指し、屋敷を抜け出して、ただ一人で歩いていた。
霧雨の降る夜だった。
見上げた月は、十二夜だった。
——魔界と人間界の境が薄くなる特別な夜は、ぼんやりと霧雨に煙っていた。
ルシエルは、古い東屋の前に立っていた。
蔦の絡まる朽ちたベンチに、ひとりの少女が座っている。
白いナイトガウンを着た、金色の髪の少女。
彼女は膝を抱えて、雨音を聞いていた。
その横顔は、とても寂しそうだった。
「おい……お前。ここはうちの
非難したいわけではなく、ただ、うちの領地だ、と言ってみたかった。
ルシエルは、庶子であっても貴族の子だった。誰かが勝手に侵入したとき、彼にだってそういう権利があるはずだった。
少女が顔を上げた。
大きな瞳が、ルシエルをまっすぐ見つめる。
ルシエルは一瞬、言葉を失った。
彼女は人間の女の子だった。
なのに、この魔界の森の奥深くに、どうやって入ってきたのだろう。
「……わからないわ、気が付いたらここにいたの」
本当に、わからないといった雰囲気だった。
かわいらしい、女の子だ。
ルシエルは、思わず目をそらした。
「まぁ、別にかまわない。好きにしろ。——おれも、ただ猫を見に来ただけだ」
「猫ちゃんがいるの?見たい……見せて!」
「猫は……死んでしまった。そこの木のところに埋めたから、彼女とちょっと、何か話そうと思っただけだ」
少女は、ルシエルの後についてきた。
路傍の白い花を摘み、彼の猫のためにそっと盛り土の上に添えてくれた。
「彼女は、ノワといった。いつもごろごろ温かい毛玉みたいな黒猫だった」
「私も、子猫を飼っていたわ。
でも、意地悪な従兄弟に、橋の上から投げ落とされた。
私はそのまま飛び込んで、そのまま溺れてしまったの。
ドレスがすごく重くなって、息が出来なくなった。
見ていた衛士が私を助けてくれたけど、子猫はもう見つからなかった」
少女——リーザは、ルシエルと悲しみを共有するように、寂しい瞳を向けた。
「私には、子猫だけが友達だったのに。……また独りぼっちになったわ」
ルシエルは頷いた。
「俺も……ノワがいなくなったから、寂しい。」
誰にも言えなかった、心の内をすなおに明かしてしまうと、知らぬ間に涙がこぼれた。
リーザに見られないように、顔を背けた。
弱い、泣き虫の少年であることを、知られたくなかった。
*
ルシエルとリーザの二人は、東屋のベンチに並んで座った。
雨の音だけが、十二夜の夜に静かに降り注ぐ。
魔界の現在と、人間界の夢とをつなぐ……時間を歪め、繋ぎ合わせる不思議な空間が、公爵家の領地の外れの、このさみしい東屋を取り囲んでいた。
「ここは、貴方のおうちの
ごめんなさい、勝手にはいって。——あなたのお名前は?」
「俺は……ルークだ」
ベアトリチェが呼ぶ名前で、答えた。
「ハデス公爵の子だ。べつに、俺の身分に気後れする必要はないが、念のため言っておく」
リーザは笑い出した。
「あら、わたしは王女よ。あなたこそ、べつに気後れしなくていいわ、ルーク」
やり返されて、呆気にとられた。
しかし、この少女の明るい笑い声に、ルシエルもつられて笑い出したくなった。
リーザは、不思議な女の子だった。
あまり話し上手とは言えないルシエルの言葉を上手に読み取り、相槌を打ったり、自分でも思ってもみなかったようなことを聞いてくる。
話していると、あっという間に時間を忘れた。
誰かとこんなに、楽しく話したことはなかった。
それも、女の子と。二人きりで。
こんなに優しく話を聞いてくれる子は、初めてだった。
マルコに言ったとき、夢物語だと笑われた話をしても、リーザは真剣に聞いてくれた。
「俺は、強くなりたい。父上のような立派な男……強い武人になって、誰かを守れるようになりたい」
リーザは目を輝かせた。
「素敵ね。私も、いつか立派な王女になって、民を守れるようになりたいわ」
「お前は、女だろう。男の俺が、守ってやってもいい。もっと、年を取ってからだろうが」
おかしな言い回しになったが、それなりに恰好のつく事を言えたような気がした。
「それって、結婚の申し込みなの?ルーク」
ただ守ってやると言ったつもりだったが、急にそう言われて、ルシエルはどぎまぎした。
「そうだろうか。いや、そう取ってもらっていい」
また、何だかよくわからない言い方になってしまった。
リーザは笑った。
「そうね……もしあなたが本当に立派な殿方になったら、私にプロポーズしてくれてもいいわ。
すてきな
ルシエルの頬が、赤くなった。
プロポーズしてもいい、というリーザの言葉が、ルシエルの胸に強く響いた。
彼に、リーザは守ってもらいたがっている。
ルシエルが思い描いてきた、軍勢を率いる勇ましい武者としての自分の姿と、姫君を守る
「お前を守る、俺は男だから」
彼の姉君、ベアトリチェが狩りの場で繰り返した言葉を思い出した。
ルシエルは、姉君が言うように、生まれながらに男らしく、勇猛で、強い存在だった。
そして、そうでなければ価値がなかった。
ルシエルは、リーザの肩を掴んだ。
「リーザ……俺が守ってやる」
「え……?」
リーザが驚いた顔をする間もなく、ルシエルは彼女の唇に自分の唇を押しつけた。
柔らかくて、甘い感触。
「ん……!」
リーザの体が驚きに硬直し、震えた。