半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
ルシエルは150歳になっていた。
ベアトリチェはここ数年、彼をたびたび領地の魔獣征伐に連れていくようになっていた。
最初の年、魔界の荒野、赤黒い瘴気が低く立ち込める戦場の一角で……。
ベアトリチェは、初陣のルシエルを自らの傍に引き寄せ、優雅な指先で彼の鎧の留め具を一つ一つ確かめた。
深紅の甲冑は、魔界の伝説に語り継がれる、古の覇者の遺産を思わせるものだった。
漆黒の縁取りが血のように鮮やかな赤を際立たせ、胸当てには複雑な魔紋が刻まれ、肩当てから垂れるマントは風に煽られて重厚に揺れる。
鎧の表面は鏡のように滑らかで、陽光を浴びるたびに炎のような光沢を放ち、ルシエルの少年らしい肢体をより優美に、しかし威圧的に引き立てていた。
ベアトリチェは満足げに微笑み、ルシエルの顎を軽く持ち上げてその紫の瞳を覗き込んだ。
「ほら、立派でしょう?お前の初陣にふさわしい、美々しさだわ。
私の弟君ルシエル……今日のお前は、誰もが目を奪われる存在よ。
お前の実力で今日、武人として、男としての誉を得なさい」
ルシエルは鎧の重みにわずかに肩を沈めながらも、姉君の叱咤に心が踊った。
武人として、男としてと、ベアトリチェはそう繰り返した。
継承権を持たず、公爵となることはない立場のルシエルが、父であるハデス公に憧れ、夢見た勇ましい武人としての姿。
ベアトリチェは、すべて自分の庇護のもと、その手のひらの上で、美しい弟君の華々しい
赤い甲冑が彼の黒髪と白い肌を際立たせ、ルシエルが戦場に立つ姿はまるで血の華のように妖しく、美しかった。
配下の兵士たちが息を呑み、諸侯の視線が一斉に集まる。
かつて彼を「半血の庶子」と軽んじていた者たちも、今はただただその美貌と威容に圧倒される。
「姫将軍の弟君……なんと気高く、麗しい……」
「まるで絵画のような」
ベアトリチェは、ルシエルの肩に手を置き、耳元で甘く囁いた。
「この鎧を纏うお前は、私の誇り……私の気高い弟君」
ルシエルは静かに頷き、姉の言葉を胸に刻んだ。
姉君に贈られた、この赤い鎧に身を包むたび、「俺は姉上が誇るような、特別な存在だ」という確信が、甘く、深く、心の奥に沈み込んでいった。
「私の傍らに、こうして弟君ルシエルがある。
我らはハデス公の子。双頭の竜、赤き血の絆に固く結び付いた
諸侯や配下の前で、ベアトリチェは高らかにそう宣言した。
かつてルシエルの出自をもって、彼を側室の子、人間との半血の子と軽んじていた者たちも、今ではベアトリチェが特別扱いする美しい弟公子を、ちやほやと持ち上げ、称賛の声を上げていた。
「さすがは姫将軍と呼ばれるレディ・ベアトリチェの弟君……ご姉弟揃って、なんと美しいお姿か」
「魔力も剣技も日々目覚ましい……将来は家門の誇りとなるでしょうな」
ベアトリチェは、ひたすらにルシエルに優しかった。
彼だけを溺愛し、多忙のなかでも、弟であるルシエルのためだけに時間を取った。
この姉弟は、逢えない時もかならず、念話で他愛もない話を楽しんだ。
ルシエルが魔力を増し、剣技や弓の技量を身に着け、
必ず、彼の男らしさ、逞しさを褒めたたえ、賞賛のことばを口にした。
孤独だった少年時代の空白を埋めるかのように。
美しく優しいベアトリチェから、日々惜しみなく与えられる愛と特別扱いへの依存を、ルシエルはその心に深く、深く刻み込んでいった。
美しい姉君に飾り立てられ、周囲にもてはやされるにつれて、ルシエルという少年の内向的だった性格は、いつしか少しずつ傲慢になり、享楽的になっていった。
そしてその特別扱いは、魔界での社交の場にも及んだ。
戦場では凛々しい姫将軍と恐れられるベアトリチェも、華やかなドレスに身を包めば一転して艶やかな高位の貴族令嬢となり、場の注目を一身に集めていた。
黒い絹に銀糸の刺繍が流れる夜会服、胸元を大胆に開いたデザインは彼女の白い肌を際立たせ、プラチナブロンドの髪をゆるやかに巻き上げた姿は、まるで月光を纏った女王のようだった。
そしてルシエルを……彼女の自慢の弟公子として常に伴った。
年若い貴公子として自身をエスコートさせ、そのきらきらしい美貌を存分に周囲に見せつけた。
ルシエルはベアトリチェの指示で、深紅の礼装を纏うことが多かった。
胸元に銀のブローチを輝かせ、細身の体躯を強調する仕立ての良いコートを羽織らせた。
自らルシエルの襟を整え、耳元で甘く囁いた。
「ルーク、今日は私の傍で、誰よりも美しく立っていなさい。お前は私の誇り……私の弟君よ」
舞踏会のホールでは、ベアトリチェはルシエルの手を優しく取り、堂々と優雅に二人で踊って見せた。
ルシエルの背丈はいつしかベアトリチェを追い越しており、顔立ちのおさなさがなければ、年若い恋人と誤解する者もいたかもしれない。
音楽に合わせて二人が回転するたび、ベアトリチェのドレスが花のように広がり、ルシエルの赤い礼装が血のように鮮やかに揺れる。
周囲の貴族たちは息を呑み、囁き合う。
「ベアトリチェ嬢の弟公子……本当に美しい……」
「姉弟でこれほど調和するなんて、まるで運命の恋人のよう」
「ハデス公爵家の血は、こんなにも優美なのか……」
ルシエルは姉の指に導かれながら、周囲の視線を浴び、胸の奥で甘い疼きを感じていた。
(俺は姉上の特別な存在……姉上が俺を誇りに思ってくれている)
その確信が、夜毎の舞踏会で少しずつ深く刻まれていった。
かつての内向的な少年は、今や周囲の賞賛を当然のように受け入れていた。
鏡の中の自分の顔を見ても、何も感動が起きないように、ルシエルにとって他者から美しいと持て囃されることは、当たり前の日常だった。
だからこそ、彼を溺愛する姉君に「お前は美しい、誇らしい」と言われることを追い求めた。
彼ら姉弟は、その美しさから、とにかく魔界の衆目を引いたのは確かだった。
ルシエルは生まれながらに、多くの点に優れていたが、その素質を磨き高めることで、より一層、ベアトリチェの愛と称賛を得ることが出来ることを知った。
ルシエルは、姉の愛を得るための努力を、少しも苦とも思わなかった。
姉が自慢に思うであろう、理想の貴公子像に自分を重ね、常にそのように振る舞った。
そして、そこに完成した、——彼であって本来の繊細な少年の内面からはかけ離れた姿の——彼を、魔界の者は"黒き貴公子"、ルシエルと呼んだ。
彼らは、常に魔界の貴族たちの話題の中心になっていた。
そして、彼らがあまりにも圧倒的に美しすぎたために、周囲はただ、おとぎ話か肖像画のように彼らの関係を受け止めていた。
注意深く見ている者がいたとしても、誰も気づきはしなかった。
ベアトリチェは周囲の前でルシエルを賞賛し、自慢する一方で、弟のためだけに密かにその耳元で、甘く囁いた。
「ルーク。今夜もお前は、私の自慢の弟君よ。お前を独占していることが誇らしくてたまらない」
誰にも聞かれていないところでは、彼をルークと、特別な愛称で呼んだ。
「姉上を独占しているのも、俺だけだ。ビーチェ、貴女のその美しさを、本当に独占しているのは俺なんだ」
ルシエルは静かに微笑み、その姉の手に自分の手を重ねた。
ルシエルもまた、ベアトリチェのことを、二人だけで過ごす時は「ビーチェ」と呼んだ。
その瞳には、すでに自分が「姉上のもの」である喜びと、美しい姉君が「彼のもの」であることへの甘く危険な渇望が宿っていた。
弟君もすでに、ベアトリチェと同じく、高位魔術者の一人だった。
彼の家門に伝わる幻術を操り、必要に応じて空間を転移すれば、他の誰の目を欺くのも
ほんの一瞬、どんな場所であっても、彼ら二人が他者の眼を逃れられるその瞬間があれば、カーテンの奥、狩猟場の木陰、ワインセラーの床で口づけし、体をからめ合い、時間を忘れてはげしく愛し合った。
ベアトリチェが、最愛の弟君だけに許す愛を、ルシエルは存分に与えられ、与えられるだけまた、それをひたすらに渇望した。
彼らの愛に、もし危険水域という概念があるのであれば……この公爵家の姉弟はすでに座礁し、ふたつの肉体は暗い海底深くに沈みきっていた。
もっと早く、誰かが気が付くべきだった。
しかし誰も……彼ら以外には知る者はいなかった。