半血魔王のクロニクル ~黒き貴公子シリーズ総集編~ 作:古弥須 凱
ベアトリチェが自裁した翌日——
王宮の紅蓮の間は、いつものように静かだった。
蒼い月の光が、黒曜石の壁に埋め込まれた赤い魔力結晶を血のように染め、部屋全体を重く、冷たく照らしている。
アスモデールは、玉座に腰を下ろしたまま、動かなかった。
白くバラついた髪が肩に流れ、黒い絹のローブが静かに揺れる。
赤い瞳は虚空を眺め、唇にはいつもの薄い嘲笑が浮かんでいる——はずだった。
しかし今、その唇は、わずかに引き結ばれていた。
「……ベアトリチェ姫は、不慮の事故にて、お命を落とされたとの由にございます」
それが、ハデス公爵家が出した答えだった。
沈黙。
アスモデールは、ゆっくりと指を動かした。
長い指が玉座の肘掛けを軽く叩く音だけが、部屋に響く。
「……そうか。」
低い、感情のない声。
部屋に一人残されたアスモデールは、静かに目を閉じた。
(……お前は、結局は、弟を選んだのか)
あの紅蓮の間で、彼女の体を貫いた記憶が、ふとよみがえる。
彼女が絶頂に泣き叫びながらも、瞳の奥に消えなかった影——半血の弟である、ルシエルの影。
ハデス公爵に対し、「家庭内の問題として処理せよ」とアスモデールは言った。
その結果、ベアトリチェは死を選んだ。
アスモデールは、ゆっくりと目を開いた。
赤い瞳に、わずかに——ほんのわずかに——何かが揺れた。
それは、怒りでも、悲しみでもなかった。
女を愛さないアスモデールが、あのように業の深い女であるベアトリチェを、彼の正妃として望んだことが全ての間違いだったのかも知れなかった。
「俺は、お前の過去を赦したが……お前はそれを捨てることを拒んだ」
低い独り言が、部屋に落ちる。
彼は立ち上がり、窓辺に近づいた。
外では、蒼い月が冷たく輝いている。
「お前は、破滅をえらんだ」
ベアトリチェは、そういう運命を選ぶ女だった。
「お前には——俺の子供を産ませてみたかった。惜しい女だった」
彼は背を向け、玉座に戻った。
ただ、赤い魔力結晶が、静かに血のように輝いていた。
*
ベアトリチェが、公爵家の老家令であるアルフレッドに託した望みどおり。
彼女の亡骸は誰にも……ルシエルの目にさえ触れられることなく、ハデス公爵邸の地下、祖先の霊廟に葬られた。
ルシエルは、ただ父の前に座っていた。
「ベアトリチェは、自裁した」
物心ついてから、父であるハデス公爵と、こうして向かい合ったことすら初めてだった。
「あの子は女ではあったが、武人としての矜持を捨てず、自分で責任を取った。
私の後継者として、その役目を果たせなかったことを詫びて、立派に死んでいった」
ルシエルは……ただ座っていた。
「お前たちの過ちは、父である私の過ちでもある。
男として、七十二柱の魔王の一人として、魔界の公爵として責任を取り、家督をお前に譲り、私は隠居する。
そのことをすでにサタン帝王に申し上げ、ご裁可いただいた。
すべて決定事項だ。
お前が、私の後継者となり、この
ルシエルは、座っていた。
「若すぎると反発され、人間の血を引くお前を蔑む者が大勢いる。
私が
だが、お前がすべての責任を負い、魔界第一の旧家の当主として、お前ひとりが背負わなければならない。
それが、お前に出来る、唯一の責任の取り方だ」
ルシエルは——まだ150歳の少年にすぎなかった。
「過去、数万年もの時を、最も
お前たち
ルシエルは——。
「だが少なくとも、形だけは公爵家として残った。
帝室のお情けにすがり、お前に半分流れる血を繋ぐことで、かろうじて破滅を逃れ、生き延びることが出来た」
ルシエルは……。
「お前が継ぐ公爵家は、私が守り抜こうとしたものとは違う。
だが、もう——お前の
お前が新たな当主として、お前の子に継がせ、祖先に恥じない家格へと建て直して行くしかあるまい」
彼は……。
「お前が、私の後継者となった。
男として、武人として、サタン帝王、アスモデール殿下に忠誠を尽くせ。
ルシエル公爵として、新しい七十二柱の魔王の一人として、恥ずかしくない生き様を見せろ」
ルシエルは、顔をあげて、父を見据えた。
「俺は、半血の子です。ずっと、そう言われてきたのです」
彼の父は、冷たい——彼と同じ紫の瞳を向けた。
「だから何だと言うのだ、ルシエル。
お前はもう、魔界の公爵だ。その事が、他のなによりも優先される」
代々受け継がれてきた当主の証である指輪を外し、ルシエルの目の前に置いた。
「ベアトリチェは、死んだ。……もう終わったことだ」
「最後に何か……姉上は、俺に
すがるような気持ちで、父を見た。
「——何も、言わなかった。ただ自分の死を、黙って受け入れた。
ベアトリチェが、お前に遺したのは沈黙だけだ。
お前も、それを受け入れろ。
ベアトリチェ……あの子は、私の全てだった」
先代の公爵は——それだけを言って、静かに立ち去っていった。
領地の外れにある、遠い北の塔へ居を移した後は、書状の戻りもない状態になった。
後に、ルシエルが自身の結婚……人間であるリーザと夫婦となった事実を伝える書状を送った時だけ、ごく短い返信があった。
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婚儀の由、承った。
家門にとって良き結びとなることを願う。
ハデス
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ルシエルと、父との関係は最後まで変わらなかった。
ハデス公爵家が終焉を迎え、新たにルシエル公爵家として興っていた。
帝室が直ちに家門断絶を命じなかったのは、ただひとえにハデス公の長年の軍功ゆえであった。
ルシエル公爵家が、結果としてサタン帝室との婚約を破棄したことで、両者の関係も明らかに悪化したと言わざるを得なかった。
アスモデール王子は、若いルシエルにことさらに敵意を向けた。
人間であった側室の子に過ぎないルシエルは、魔界に何の後ろ盾を持たず、公爵家の財政的には、返上した領地の税収の多くを失っていた。
それでも
ルシエルは、今や若き魔王、魔界の公爵となっていた。
その事実が、彼の過去を上書きし、孤独な少年時代を塗り替え、ベアトリチェとの禁じられた愛を塗りつぶして見えなくした。
姉君に甘やかされ、羨望の眼差しに驕り、傲慢な態度を取る自分も、孤独に震え、愛するものの喪失に怯えて涙を流す自分も、皆、もとは同じルシエルという少年のはずだった。
今はもう、どのルシエルが、本当の自分なのかも判らなかった。
*
ルシエルが、自分の精神を分ける技術を覚えたのは、この頃からだった。
知らないうちに、自分の体に意識と魔力を残したまま、他者の体を乗っ取る事が出来るようになっていた。
魔王の自分ではない、誰かになりきることは、彼にとっての良い気晴らしだった。
それと同時に、この特別な能力は、ルシエルの魔界での地位を守る為に、常に周囲を欺き、騙し、狡猾に利用する為に使われた。
従者を信用しないルシエルは、だれかの目や耳を使って、密かに一族内部や領内の情報を収集した。
あるいは、残酷な娯楽のひとつとして、自ら他者を操り、陥れ、時には破滅させることを楽しんだ。
必要に応じて、女を誘惑して犯すことや、目障りな敵を密かに暗殺することについては、特に良く活用された。
ルシエルの周囲は、すべて敵だった。
それでいて——
自分の美しい容貌を嫌うように、ルシエルは、全てにままならない彼自身を、はげしく憎むようになっていた。
もはや彼自身が、彼の敵となっていた。