ドクターがまた倒れた。
変なものを食べて、腹痛を起こしたらしい。
青色の血を吐いたと聞いた。
報告が届いていないぞ。
ファイルにも記載はないのか?
寝不足で倒れたはずでは。
一体どれが本当なの?
知らん、私に聞くな。
お願い。
いつ倒れてもおかしくはない状態だったわ。
…………。
赤いファイル。
襲われたって、誰かが言っていた。
誰がだ。
それってさ、噂した人の事聞いてる?それとも
──襲った人の事?
伝聞による情報は、得てして根も葉もない噂となる。
今回もケルシーが内容を訂正し、事態は収束する、
はずだった。
「単刀直入に言おう」
カーテンで遮られ、廊下から向こう側が見えない部屋。
自動扉のドアサインには、『LOCK』の文字が浮かび、赤く点滅している。
「噂を広めたのは、君だな?」
机もない部屋の中心で仁王立ちするのは、ロドスの実質的なトップである、ケルシーだ。
彼女は相対するものに向けて、鋭い視線を射った。
目の前の者はうつむき、一切喋らない。
「私が訂正しても尚、一人歩きしている言葉がある」
憐憫か、侮蔑か、
彼女の下瞼が、断続的に痙攣する。
恐怖か、怒りか、
見下ろされたそれは、わずかに震えた。
「赤いファイル」
しなやかな手がフードを剥がし、相対する者の相貌を露わにする。
「願い」
ボサボサの白髮を掴み上げ、吐息交じりの言葉を鼓膜へ流し込む。
「ドクター」
相対するものは、か細い声で唸る。
椅子に縛り付けられ、芋虫のように身じろぐ彼は、ケルシーの責め立てを、ただ聞くことしか出来ない。
「君は、一体何を考えている」
消毒液の香りを纏う指が、白髮に埋もれたベルトを緩め、彼の口から猿轡を外した。
薄い舌から垂れる唾液が、轡との間に橋を立てる。
喘鳴混じりの声が、震えながら告げた。
「ケルシーは、優しい、から」
彼女の白い猫耳がピクリと揺れ、ビニル質の意匠が施された白衣が、衣擦れを鳴らす。
こめかみに青筋が走り、彼女は、細指の先が白くなるまで、右手の平に乗せたデバイスを押し込んだ。
「これでもか?」
チっ チっ チっ チチチチチチチ…… バチンッ!
「ぐぅ……っ……はっ、ゔぅ……っ!」
貼り付けられた無数の電極パッドから、断続的に電流が走り、脂汗で塗れた痩身が跳ねる。
キャスター付きの椅子は、身悶えする彼をガラガラと嘲笑い、痛みを逃すことを許さない。
チっ チっ チっ チチチチチチチ…… バチンッ!
「ぎ……ッ!はぁ、はぁ、あ゛ぁ……っ!」
ケルシーは、冷ややかな目で彼を見下ろした。
薄い喉仏からの艶めかしい喘ぎが、部屋中に響く。
分厚い鉄の壁で遮断され、誰にも聞こえない声。
細指が容赦なくダイヤルを回す。
身体が求める以上の空気は、反射で閉まりきった彼の喉仏を削り、口からひり出される鳴き声を、酷く耳障りの悪い音色に変えた。
バチッ! バチッ! ヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂッ!
「あ゛あ゛っ!が……ぁっ!はっ、はっ、ひゅぅ……っ!」
冷ややかだった目には、艶がにじみ、
下がっていた口角は、弧状に吊り上がる。
赤くマーカーされた危険域まで、残り数ミリ。
ケルシー自らが引いた線は、誰の目にも映っていない。
彼女の太ももに、一筋の軌跡が垂れた。
「ケル、シー……頼むっ!もう、やめて……くれ……っ!」
「……ッ」
涙声混じりの叫びが、部屋の空気を現実へ引き戻す。
彼女は左の二指を食い込ませ、ダイヤルを捻り戻した。
投げ捨てられたデバイスは壁に当たり、砕け散る。
椅子ごと床に落ちた彼から、電極パッドを引き剥がし、
ケルシーは、一層青白くなる顔に掌をあてた。
瞳の揺れは次第におさまり、焦点の定まらない目が、彼女をどうにか捉える。
浅くなりゆく呼吸と反比例して、彼女の鼓動は激しさを増した。
「ドクター!息を止めるな……ッ!意識を、呼吸に向けろッ!」
「──Mon3tr!」
半身に引き千切らせた縄を放り投げ、痩身を仰向ける。
顎を上げ呼吸を確認し、脈を測ろうとした瞬間、
骨張った手が、彼女の手首を握りしめた。
製図したような無機質な半円が、彼女に言い放つ。
「ほら、優しい」
その口は、嗤っていた。
◇
「……責めている訳じゃないんだ」
よろめく痩身がゆらりと立ち上がり、床にへたり込むケルシーを見下ろす。
「けど、まだ足りない」
額に滲んだ血を拭い、彼は優しげな笑みを向けた。
相対する彼女は、目の前の化生をただ、じっと睨めつけている。
誰も聞いたことのない、震えた上擦り声が、彼女の喉を通して、化生に放たれた。
「君の望み通りに、本気で痛めつけたつもりだが」
「でも、私が本気でお願いしたら、止めちゃうでしょ?」
一方は狼狽え、震え、
一方は普段通りの無機質さで返答する。
彼女の半身は、嘴をあんぐりと開け、ただオロオロと、双方の顔を心配そうに覗き込んだ。
乱れた呼吸を整えた彼女は、半身の名を淀みなく呼び、自身の脊椎へと戻す。
しんと静まり返る部屋。
彼は黙して返答を待ち、
彼女は、骨張った手が擦る顎を、まっすぐ見つめた。
「……アーミヤとの件、まだ気にしているのか?」
「考慮はしている」
彼は顎を上げ、首元の圧痕を指差す。
指輪の跡が、くっきりと刻まれた擦過傷は、彼女の視線を確認した後、慣れた手つきで襟に収められた。
「彼女達の、本来の力を以てすれば、君は──」
「怪我だけでは済まないだろうねぇ」
他人事のように話す彼は、両手を拡げ、一歩近づく。
彼女の頬に冷や汗が一筋。
パンプスが床を叩いた音を耳が捉え、自身が後ずさったことを認識する。
「はっきりと言おう、君には荷が重い」
それでも彼女は目を背けない。
彼の両の瞳が仰ぐ先に、何があるのかを見極めるために。
「私は……皆を、受け入れたいだけだよ」
端正な顔が、猜疑心で更に歪む。
彼を認識して以来、
バベルでの事件以来、
彼を石棺から救い出して以来、
テラという大地に、向き合ってほしいと告げて以来、
ドクターと呼ばれるこの男──オラクルの表情が、ここまで識別出来ない事があっただろうか。
嗤っているのか、哭いているのか。
心があるかも、今はわからない。
◇
『赤いファイルが執務室の何処かにある』
『そのファイルを見つけてドクターに見せると、
なんでも言う事を聞いてくれる、らしい』
思惑通りに流れた噂で、ドクターの予定は山積みだ。
あるものは絵本の朗読を依頼し、
又あるものは龍門での食事に誘った。
長時間の撮影会、新作の紳士服のモデル、買い物と称したデート、訓練の視察と参加、人体実験、
何れも断る事なく、何れも快諾した。
「ド、ドクターっ!あの、これ……っ!」
桃色の髪のフェリーンが、興奮した様子で彼に駆け寄る。
手には赤いファイル。
源石製の表紙は静電気を帯び、彼女のもみあげを逆立てていた。
「ヘアーモデルなら、ファイルを使わなくても……」
「そうじゃなくて、お願いが……あぁ、また駄目にしちゃった……っ!」
取り出したのは、一枚の薄い記録媒体。
彼女の発する電気により、焦げ付き、黒ずんでいる。
何が記録されていたかは、彼女の紅潮した頬が物語っていた。
「ケルシー先生と、その……っ」
革製の手袋が、彼女の唇に触れる。
瞬間、バチンと音が鳴り、手袋の指先が少し焦げた。
「平気だよ。ところで、お願いって?」
彼女の目が、妖しく光る。
朗らかに話す声と、記録媒体の叫び。
同じ喉から出たとは思えない音が、彼女の理性を狂わせてしまった。
或いは、秘めたる欲を、顕現させてしまったのか。
「ドクターに、同じ事しても、いいですか?」
彼は、コクリと頷いた。
彼女──ゴールデングローの頬は一層赤らみ、
目一杯見開かれた瞼は、キュッと結ばれ三日月型に撓む。
その眼差しは、獲物を狙う捕食者のものだった。
「ぼーっとしてるけど、大丈夫かい?」
「えっ?あっ、何でもありません……じゃ、じゃあ、行きましょうか」
ドクターの腕を引き、自室へと押し込む彼女は、口端から垂れる涎にも気づいていない。
気取られぬよう、耳をそばだてる者にも、彼女はやはり気づいていなかった。
幾つかのファイルには、同じ記録媒体が仕込まれている。
次に手にしたものが、どの様な行動に出るかは、
彼女達の理性と獣欲に委ねられた。
ドクターはやはり、快諾するだろう。
その身を文字通り焦がし、刻み、苛もうとも、彼は受け入れる。
彼もまた、望んでいるのだ。
思いついたら追加します。
ドクターのことをいじめてくれるオペレーター募集中。