充実、という言葉がある。
三十八年間の人生で、俺こと佐藤達也がこの言葉を実感したことは、片手で数えられるほどしかない。高校の文化祭で仲間と朝までセックスとは何か、童貞たちの妄想で語り合った夜。就活に苦労した最後の最後で初めて正社員の内定をもらったあの日。まだ残業が百時間を超える前の優しい先輩社員や上司たちが「君はまだ新人だからね、ゆっくり覚えていこう」と、穏やかにすぎていった最初の一ヶ月。
そして――今のこの日々。
八月の後半。夏休みの終わりが近づいている。
だが、俺はフリーターだ。夏休みなどというものは存在しない。
深夜のコンビニに、倉庫の棚卸し、日雇いの引っ越し、ウーバーにイベント設営……毎日それなりに働いて、それなりの日銭を稼ぐ。肉体労働だが、会社勤めの頃みたいに終電まで拘束されることもない。帰りはそこそこ早いし、残業代も時給という扱いで出る。
部屋に帰れば、エアコンの冷気が出迎えてくれる。
冷蔵庫には発泡酒。テーブルにはスーパーの半額惣菜。そして――
隣室には酒クズのメスきつね。上の階にはメンヘラのたぬき。近所からはメスガキの猫が入り浸ってくる。
客観的に見れば、完全に異常だ。
独身中年フリーターおっさんが、三匹の獣人の女に囲まれて暮らしている。掃除と飯と性処理とストレス発散を一手に引き受け、毎晩のように腰を酷使し、体力の限界と戦いながら日銭を稼ぐ。
やっぱり、これ……やりがい搾取されてないか?
まぁ、だが――不思議と、悪くない。
帰宅して部屋のドアを開けると、琴音が缶ビール片手に「おっかえり~♡缶ビール今3本目だけどおっさん一口いる〜?」と間延びした声で出迎えてくれる。それは俺の冷蔵庫に大切に保管していたクラフトビールだ。
瑠衣がコンビニの制服のまま「おっさん、今日のまかない菓子パンあるで。期間限定の売れ残りでまずい奴」と差し入れをくれる。同じコンビニで働いているのに明らかに店長の対応が甘く、異常な量の廃棄をもらっている。
凛がゲームのコントローラーを握りしめたまま「おそーい。おじさん遅刻ね♡」と生意気な口を利いてくる。なお、その横には逆立ちした尻尾のまま画面を睨んでいるキレ気味の琴音と、金を賭けていたのか頭をかかえて膝をついている瑠衣がいた。
これを充実と呼ぶかどうかは、人それぞれだろう。
だが、少なくとも、発泡酒を呷りながら半額のメンチカツを齧り、隣で酒クズきつねが「バイトのおばさんが今日もすっごいムカつくんだよ……ね、聞いてよ〜おっさん」と愚痴を垂れ流し、上の階からはたぬきが「おっさーん!うちのポテチ切れたー、一袋ちょーだい!お礼はフェラでええよなーはよ持ってきてー!」と叫んでいるこの生活。
うるさくて、面倒で、金がかかる。だが、これまでみたいに一人じゃない。
……なんだ、俺。充実してるじゃないか。三十八年かかったが、ようやく人生に彩りが生まれた気がする。
そんなある日のことだった。
§
「ねえ~おっさん、夏休み終わる前にみんなで海行かない?」
琴音が発泡酒を呷りながら、唐突に言い出した。
夜の九時。俺の部屋。琴音は例のごとくヨレヨレのTシャツ一枚で、俺の万年床の端にあぐらをかいて酒を飲んでいる。行儀が悪い。だが、今さら指摘する気にもならない。
「海?」
「そう、海♡瑠衣もリゾートバイトから帰ってきたし、凛ちゃんもまだ夏休みでしょ? みんなで日帰りでばーっと行って、泳いで、焼きそば食べて、花火して帰ってくるの♡」
「海って……電車で行くことになると思うが、大丈夫なのか?」
「え、おっさんレンタカーとか運転できないの〜?ざ〜こ、ざ〜こ……これ凛ちゃんの真似ね、おっさん運転免許持ってっしょ。そ・れ・に、私たちの水着見たくないの?」
「……確かに見たい」
「ひゅうっ!食いつき早くて助かるね!」
海。女。水着。
この三つの単語が脳内で結合した瞬間、俺の想像力は光速を超えて妄想を繰り広げる。
琴音の暴力的なおっぱいがビキニからこぼれ落ちる光景。瑠衣の日焼けした肌にぱつぱつの水着。凛は……紺の名前が書いてあるスクール水着か?いや、メスガキ特有の乳首が浮き出そうな白いマイクロビキニ……いや、ここは女児向けのピンクのフリフリの水着、違う、逆に考えろ。あのロリ体型を活かすのであれば競泳用のぴっちりとしたー……いずれにしろ、合法的に見ていいのか判断に迷う領域だ。俺は決してロリコンではない。本当だぞ。
「……まあ、予定が合えば」
平静を装って答えた。
だが心の中では、小さな中年男の妖精が全力で尻尾を振って狂喜乱舞していた。
海だ。美女(クソッタレな訳アリ獣人)たちと海だ。人生で初めてのやつだ。
「えーと、来週の水曜なら瑠衣もバイト休みだし、凛ちゃんもたぶん大丈夫。おっさんは?」
「水曜か。調整すれば休めるから……楽しみにしておく」
「やったぁ!じゃあ決まりね!みんなにも予定送っておくね!」
琴音が上機嫌に金色の尻尾をぱたぱた振った。
俺は心の中で、静かにガッツポーズをした。
――だが。
神は残酷だった。
いや、世界というのは、俺のような男が調子に乗るのを許してくれないのだった。
§
海に行く前日。
俺は三十八度七分の高熱で倒れた。
原因は明白だ。連日の肉体労働のバイトと、毎日の獣人たちの相手。それが積み重なり体力のキャパシティを、とっくに超えていたのだ。
特に瑠衣のやつ。リゾートバイトから帰ってきて以降、妙にアクティブになりやがった。あのアナル開発の夜以来、「おっさん、今日もあの、その……う、後ろも……」とか恥ずかしそうに言ってくるし、断ると「うちのこと嫌いになったん?やっぱりうんちする穴で気持ちよくなる変態は捨てられるんや!もう嫌や!!」とメンヘラモードに突入しかけるし。琴音は追試が終わった解放感で毎晩飲んでは絡んでくるし、凛は凛で回数券の消化にやってくる(回数券は何故か増え続けている)し。
どんな男のちんこにも、限界というものがあるのだ。
結果として。
夢にまで見た、美女たちとの海水浴はあっけなく流れた。
「おっさん大丈夫?海はまた今度にしよ?無理しないでね」
琴音が心配そうに冷えピタを貼ってくれた。
この酒クズ女狐にも、たまには優しいところがある。
「瑠衣にも凛ちゃんにも伝えとくから。おっさんは寝てなよ」
「……すまん」
「いいっていいって。あ、冷蔵庫にアクエリ入れといたからね」
「……悪いな本当に……で、それって誰の金でー」
「うん!ま、そういうのはいいじゃん!おだいじにー」
そうして、琴音は自分の部屋に戻っていった。俺の財布からは数千円飛んでいた。冷蔵庫には病人には絶対いらない缶酎ハイや発泡酒が大量に入っていた。
クソが、優しくねぇじゃねぇか!
翌日から、ことぶき荘は静かになった。
琴音は大学のゼミ合宿で二泊三日の不在。瑠衣は短期アルバイトで一泊して大企業の倉庫の棚卸しに行くらしい。凛は家族行事で親戚の家に行くとかで、珍しく連絡もない。
本来なら海の予定があった日の次の日である。みんな予定を頑張って合わせてくれていたのだと改めて感じた。
八月の終わり。
築四十年の古びた木造アパートの一室で、三十八歳の中年フリーターは、ただ一人。
高熱と戦っていた。
冷えピタを額に貼り、アクエリアスの五百ミリペットボトルを枕元に置き、万年床の上でただ唸る。
エアコンは二十四度設定。それでも体は火照って、汗が止まらない。
テレビをつける気力もない。スマホの画面すら眩しい。
ただ天井を見て、ぼんやりと意識を漂わせるだけの時間が、延々と続く。
……海、行きたかったなあ。
琴音の水着姿。瑠衣のビキニ。凛の……いろんな水着。
妄想だけは熱とともに加速する。だが、体は一ミリも動かない。
これが三十八歳の現実だ。
夢の海は遠く、現実は冷えピタの匂いと喉の奥の鈍痛だけだった。
涙と熱のせいで、天井の木目がぐにゃぐにゃと歪んで見えた。
§
何時間眠ったのか。
ガチャリ、と。
玄関のドアが開く音で、俺はぼんやりと意識を浮上させた。
琴音か。ゼミ合宿は明日までのはずだが予定が変わったのか。
それとも瑠衣か凛か。どちらでもいい、誰かが来てくれたなら水を汲んでもらおう。そして、冷えピタを変えてもらって……
いや、待て。
鍵は閉めたはずだ。なのに、開いた。
もしかして泥棒か。
だが、この体では起き上がることすらままならない。泥棒なら勝手にやってくれ。この部屋に金目のものはないはずだ。強いて言うならエアコンくらいだが、それも持ち出すには工事が必要だ。
だるい体をなんとか引きずって、上半身だけ起こす。
玄関の方から、足音が近づいてきた。
スニーカーの硬い音。琴音のぺたぺたしたスリッパとも、瑠衣のドタバタした足音とも、凛の軽い猫足とも違う。
そして、部屋の入り口に見知らぬ影が立った。
「……ここか。ふうん、ボロいな」
ハスキーで低い声だった。
女の声だが、琴音のような甘さも、瑠衣のこてこての関西弁もない。
素っ気なくて、ぶっきらぼうで、どこか少年めいた声。
俺は汗でべたべたの顔を持ち上げて、その人物を見上げた。
背が高い。
女にしてはかなり。百七十近くはあるだろうか。琴音より頭一つ分は大きい。俺の目元まではあるだろう。
銀灰色の短い髪が、無造作に跳ねている。後ろで適当に束ねているが、寝癖なのかスタイリングなのか判別がつかない。
頭の上には――ぴんと尖った、大きな三角の獣耳。
銀灰色の毛並みで、内側だけが薄いクリーム色をしている。狐でも猫でもたぬきでもない。もっと鋭くて、もっと野性的な形だ。
顔立ちは、整っている。ただし「美人」というよりは「イケメン」に近い。切れ長の琥珀色の瞳に、すっと通った鼻筋。顎のラインがシャープで、唇は薄く、表情は不機嫌そのものだ。
宝塚の男役にいそうな、中性的な美貌。
服装は、オーバーサイズの黒いタンクトップに、カーキ色のカーゴパンツ。いかにも男物で、アクセサリーの類は一切ない。
腰の後ろからは、ふさふさと大きな銀灰色の尻尾が垂れている。犬よりも太くて長く、毛足が豊かで、先端だけが白い。
おおかみだ。
おおかみの獣人。
俺が知っている獣人は、きつねとたぬきと猫だけだ。おおかみは初めて見る。
というか、そもそも。
「……誰だ、お前?」
「
ぶっきらぼうに名乗った。
大神。おおかみ、ね。そのままだな。獣人ってみんなこうなのか?
「鍵は琴音から預かってる。あと、これ」
彼女は無造作に、テーブルの上に一枚の紙を置いた。
メモ帳を破ったような紙切れ。琴音の丸っこい字で、こう書いてあった。
『おっさんへ
海の予定はまた今度ね!おっさんが一人で可哀そうだから、友達の葵に様子見てもらうことにしたよ あんまり迷惑かけないでね♡
愛しのことねちゃんより』
……なるほど。
つまり、琴音がこのおおかみ女を看病要員として寄越したわけだ。
見知らぬ侵入者ではなかった。それはいい。
だが。
俺は改めて、目の前に立つ大神葵を見上げた。
腕を組み、不機嫌そうに俺を見下ろすその姿には、「看病してあげる♡」的な慈愛の欠片もなかった。
「……で、あんたが佐藤達也?」
「そうだが」
「ふうん。……思ったよりしょぼいな」
初対面の病人にかける言葉ではない。
「琴音から聞いてる。隣に住んでる、その、えっと、あー……世話焼き?のフリーターのおっさんだって」
「世話焼き……まあ、そうだな」
「掃除とか飯とかゴミ捨てとか布団干しとか、色々やってくれてるんだって?」
「ああ」
「…………」
「何が言いたい」
「いや、うむ。やっぱりそうとしか考えられないな。いや、独り言だ」
葵は何か言いたげに俺を見つめたが、結局何も言わず、台所の方へ歩いていった。
カサカサと袋を漁る音がして、しばらくすると湯煎の音が聞こえてきた。
「……何してんだ」
「おかゆ。コンビニで買ってきたレトルトのパウチだ。あんた、飯食ったのか」
「……いや」
「だろうな。見るからに死にかけだ」
口は悪いが、やることはやってくれるらしい。
しばらくして、葵は湯煎で温めたおかゆのパウチを器に移し、スプーンを添えて俺の枕元に置いた。
「ほら。食え」
「……ああ、すまん」
おかゆを一口啜る。
温かくて、優しい味が、空っぽの胃に染み渡った。
素直にありがたい。体が弱っている時の温かい食事は、それだけで泣きそうになる。
葵はテーブルの向かいに座り、腕を組んだまま俺を観察していた。
その目つきが、どうにも刺々しい。まるで値踏みをするかのようだった。
「……なあ」
「なんだ」
「あんた、琴音とどういう関係なんだ」
来た。
予想はしていたが、直球で来た。
「……隣人だよ。部屋の掃除とか洗濯とか、頼まれてやってる」
「それだけ?」
「……それだけだ」
「嘘つくなよ」
葵の琥珀色の目が、鋭く細まった。
おおかみ特有の、獲物を見定める目だ。
「琴音はさ、あんたのことを話す時、妙にそわそわするんだよ。耳が赤くなって、尻尾がふわふわして。あいつのあの反応は、ただの隣人に見せるもんじゃない」
……ちくしょう。琴音のやつ、体が正直すぎるだろ。
「正直に言え。……どうせ、発情期に付け込んだんだろ?」
「…………」
「琴音は優しいから、断れなかったんじゃないのか。困ってる顔見せられたら、自分の体差し出すくらいのことはしかねない、あいつは。それで掃除とか恩着せがましいことをして、対価として身体を貪る……そうだろう?」
的確だった。
あまりにも的確すぎて、ぐうの音も出ない。
実際のところ、最初の関係は「タダまんの交換条件」という形だったが、きっかけは琴音の側からだった。だが、それに乗った俺が清廉潔白かと言われれば、答えはノーだ。
琴音が「準発情期」と呼んでいたあの状態に付け込んで、結局ずるずると体の関係を続けている。それは、事実だ。
「僕の大事な友達を、これ以上利用するのはやめてくれないか」
葵の声には、怒りがあった。
本気の、静かな怒り。
この女は、心の底から琴音のことを心配している。それが伝わってくるから、余計に言い返せない。
「……すまん。言い訳のしようもない」
「……ちっ!そう言う口があるのなら、琴音に謝罪しろ」
葵は舌打ちをして、顔を背けた。
銀色の獣耳がぴくぴくと苛立たしげに動いている。
気まずい沈黙が、エアコンの動く唸り声の中で満たされている。
俺はおかゆの残りを黙々と啜る。
葵は腕を組んだまま、窓の外を睨んでいる。
八月の日差しが薄いカーテン越しに差し込んで、部屋の中は明るい。
その光の中で、葵の横顔がやけにはっきりと見えた。
汗をかいている。
夏の暑さのせいもあるだろうが、この女、やけに汗っかきだ。黒い服の背中が、うっすらと汗で濡れている。首筋にも、鎖骨にも、薄っすらと汗の膜が張っている。
そして、その汗に乗って。
むわりと、甘いような野性的なような、独特の匂いが漂ってきた。
琴音のシャンプーの甘い香りとも、瑠衣の濃密な獣臭とも、凛のさっぱりした柑橘系のフェロモンとも違う。
もっと生々しくて、もっと鋭い。森の奥の湿った土と、雨上がりの草の匂いを混ぜたような。原始的で、本能に直接訴えかけてくるタイプの匂いだ。
おおかみのフェロモン。
……まずい。
俺の下半身が、病人の分際で、勝手に反応し始めていた。
空気を読め、俺のちんこ。今はそういう場面じゃない。頼むから、やめてくれ。
だが、体は正直だった。
高熱で朦朧としている分、理性のブレーキが甘くなっているのか。薄いスウェットの股間が、みるみるうちにテントを張っていく。
「…………」
葵が視線を戻した。
俺の顔を見て、俺の体を見て――そして、股間に目を留めた。
沈黙。
五秒ほどの、地獄のような沈黙。
「……あんた、今」
「い、いや、これは」
「病人のくせに、勃起してんの?」
声が氷点下だった。
「違う、これは不可抗力で……」
「不可抗力って何だよ。僕の体見て興奮したのか?ほんっとうに最低だな」
「いやそうじゃなくて、フェロモンっていうか、匂いが……」
「……は?僕の汗の匂いで勃起したって言いたいの?僕が臭いって?」
もっと最悪な回答になってしまった。
葵の目が、完全に犯罪者を見る目になっている。
「……やっぱりあんた、ただのスケベ親父じゃないか。琴音の発情期に付け込んで手を出して、逃げれない状態にしてから何度も手を出して、その上僕みたいな初対面の相手にまで勃起するとか。頭の中、精子で出来てんのか?」
反論の余地がなかった。というか、事実である。これまでの俺の行動を第三者から見たら葵の言う通りになるのだろう。
葵は心底嫌そうな顔で俺のテント状態の股間を指さし、吐き捨てるように言った。
「これ、琴音が帰ってきたらしごかせるつもり?」
「は?……いや、何を言ってるんだ」
「だから、お前のその汚いアレを、琴音が処理するのかって話」
「違う、そんな関係じゃない!」
「でも、琴音が「毎晩おっさんのせいで眠れないんだ〜もうっ、困っちゃうよね〜」って愚痴ってたの、あんたのせいだろ。毎晩お前のせいで寝られないって。つまりは、そういうことをさせているからだろう?」
……あー。
あれは、アナルにハマった瑠衣が毎晩やって来て、オホ声してしまうせいなんだが。いや、俺がアナルを攻めなければあんな声は出なかったわけで、元を辿れば俺のせいとも言える。
どっちにしろ、口に出せる類の弁明ではなかった。
(上の階のたぬきの獣人のけつの穴を毎晩弄って、その女が大きな声で喘ぐから寝れないだけだ)
うん。絶対ダメだ。なんなら、言ったら視線だけで殺されるかもしれない。
「……じゃあ、さ」
葵は立ち上がった。
銀色の尻尾が、ゆらりと揺れる。
「琴音が帰ってくる前に、これ全部抜いてやる」
「……え?なんでそうなるの?」
「そうすれば、少なくとも今夜は琴音がちゃんと眠れるだろ。僕が友人のために一肌脱ぐ!」
俺は一瞬、自分の耳を疑った。
今、この女何と言った?
「お、おい!待て。何をするんだ!」
「うるさいな。あんたのためにやるんじゃない。琴音のためだ。この不快な棒を空にしとけば、少なくとも今日はこいつが原因で寝れないって事態は起きない」
空になるのは棒ではない、袋だ。と、言いたい衝動に駆られるが、その隙すら貰えず、葵は無表情のまま俺を壁際に追いやった。
熱でフラフラの俺には抵抗する気力がない。ずるずると壁に背中をつけ、座り込む形になる。
「ちょっ、待て!……本気か?」
「本気もなにも、僕は合理的に判断してるだけだ。中身を今ここで全部出し切れば、問題は解決する。それだけの話だろ」
合理的。
……これが合理的だと思ってるなら、この女の合理性は相当ぶっ壊れている。
だが。葵はもう俺のスウェットの腰紐に手をかけていた。
「ちょ、せめて自分で」
「あんたに任せたら三時間くらいシコってそうだからな。僕がさっさと終わらせる」
ずるりと、スウェットが引き下ろされた。
トランクスの上から、テントの全容が露わになる。
葵がトランクスの上端に指をかけ、無造作に引き下げた。
ぶるんっ。
限界まで勃起した肉棒が、束縛から解放されて跳ね上がった。
「…………」
葵の動きが、止まった。
琥珀色の目がまん丸に見開かれている。銀色の獣耳が、ぴん、と直立した。
「…………は?」
「……なんだよ」
「いや……なんだよ、じゃなくて……こんなでかいのか?……男の、って」
声が、上ずっていた。
さっきまでの冷徹な態度が、一瞬で崩れている。
……そういえば、琴音も最初に見た時は似たような反応をしていた。瑠衣は「でっか……」と素直に驚いていたし、凛は「へ~♡おじさん身体はガチなんだ♡」とニヤニヤしていた。
……まあ、実測十八センチだ。初見の衝撃は理解できなくもない。
「あの、大神さん?」
「……黙れ。ちょっと、待て」
葵は赤くなった顔を逸らしながら、台所の方へ歩いていった。
何をするのかと思えば――戻ってきた時、その手には黄色いゴム手袋がはめられていた。
台所の掃除用。
……あれ、俺が皿洗いに使ってるやつだ。
「……直接触るのは、さすがに無理だ、汚い」
「いや、それ俺の食器洗い用の……」
「うるさい」
ゴム手袋をはめた手で、葵は俺の肉棒に手を伸ばした。
だが、掴む直前で手が止まる。指先が、わずかに震えている。
「…………」
「……大神さん?」
「……ちょっと待て。手順を確認する」
そう言って、葵はもう片方の手でスマホを取り出した。
画面を何度かタップして、何かを検索している。
……まさか。
俺は首を伸ばして画面を覗き込もうとした。
葵が慌ててスマホを隠す。だが、一瞬見えた。
えっち動画のサムネイルが並んだ検索結果と、「手コキ やり方」の文字列。
「……お前、まさか」
「うるさいっ!僕は男と付き合ったことないんだ!こういうのは初めてだ!だから参考動画を確認してるだけだっ!これでいいんだろう!変態めっ!」
顔が真っ赤だった。
銀色の獣耳が、恥ずかしさで後ろに倒れている。
おおかみの獣人。ボーイッシュなイケメン美人。琴音の友人。
……なお処女。
なんだ、この状況。
葵は赤面しながらスマホの動画を数秒間見て、俺の股間を見て、また動画を見て、を繰り返した。
そして意を決したように、ゴム手袋の手で俺の竿を掴んだ。
ぎゅっん!!
「ああああぁあぁあ!!!!!痛ってぇっ!!!?」
「え?」
「力強すぎる!!握り潰す気かぁっ!!」
「え……あ、すまない?……こ、こうか?」
ぎゅうぅぅぅぅぅぅぅぅ……
「まだ強い!もうちょい優しく!卵を割らないくらいの力加減で!いい感じに段差になっているところを引っ掛ける感じだ!」
「……はぁ。めんどくさいな、男の体って」
葵は不満そうにしながらも、ようやく適度な力加減を見つけたらしい。
ゴム手袋越しのぎこちない手が、おずおずと上下に動き始めた。
きゅっ、きゅっ、きゅっ
……ゴムの摩擦が、直に来る。
「いっ……あの、乾いてると擦れて痛いんだ……潤滑が必要なんだが……」
「うるさいな!なんで人間の男の性器処理にこんなに注文が多いんだ!猿でも本能で適当に出来るんだぞ!」
「いや、物理的に皮膚が擦り切れるから……」
実際にちょっと鬱血して、かわいそうなちんこになっていた。元はと言えばお前のせいなのでざまぁみろである。
葵は苛立たしげに周囲を見回した。
そして、テーブルの隅に置かれた小さなボトルに目を留める。
「……潤滑はこれ使えばいいのか?」
「あ、それ琴音のクレンジングオイル……まあいいか」
べちゃり、とゴム手袋にオイルが垂らされる。
再び竿を掴まれると、今度はぬるりとした滑りが加わって、摩擦が劇的に改善された。
ぬちゅ、ぬちゅ、ぬちゅ
「……っ」
声が漏れそうになった。
ぎこちないが、オイルのおかげで気持ちいい。ゴム手袋の滑り止めの微妙な凹凸が、逆にいい刺激になっている。
葵は赤い顔のまま、スマホの動画と交互に俺の股間を見ながら、ぎこちなく手を動かし続けた。
真剣な表情。だが、目は泳いでいる。明らかに動揺している。
ぬちゅっ、ぬちゅっ、くちゅっ
「……出せるなら、さっさと出せ」
「い、いや……その」
「何だよ」
「……すまん、あの、男ってのは……視覚的な刺激がないと、射精しにくい生き物で……」
沈黙が、降りた。
葵の手が止まった。
琥珀色の目が、ゆっくりと俺を見た。
……クズを見る目だった。
生ゴミを見る目、と言い換えてもいい。人生で見た中で、最も純度の高い軽蔑の眼差しだった。
「……あんた、本気で言ってるのか」
「す、すまん。忘れてくれ」
「…………」
葵は数秒間、無言で俺を見つめていた。
そして、長い長い溜息をついた。
「……最っ低」
呟きながら、葵は空いている方の手で、自分のタンクトップの裾を掴んだ。
そして、ゆっくりと、持ち上げた。ぱさり、と薄い布地が捲れ上がる。
白い肌が露わになった。
引き締まった腹筋。細いが芯のある体幹。
そして――ブラジャーもつけていない、剥き出しの胸。
大きくはない。
琴音の暴力的な巨乳とも、瑠衣のぷるぷるした乳房とも違う。
だが、白くて、形が綺麗だった。控えめだが均整の取れた膨らみに、薄いピンク色の乳首がぴんと尖って立っている。
……興奮してやがる。
口では軽蔑していても、体は反応しているのか。それとも、単純に緊張で硬くなっているだけか。
どちらにしても。顔を真っ赤にして、目をそらしていると言う事実はある。
その光景は、病人の俺の下腹部に確実に火をつけた。
「見たんだから、さっさと出せ。……このクズ」
葵は目を逸らしたまま、再びオイルまみれの手を動かし始めた。
今度は、さっきよりもテンポが速い。
ぬちゅっぬちゅっぬちゅっ
白い胸が目の前にある。
ピンクの乳首が、呼吸に合わせてかすかに上下する。
汗ばんだ鎖骨と、そこから漂うおおかみの生々しいフェロモン。
下半身に、圧力が溜まっていく。
「……っ、く……」
「出るのか?」
「……あと少し……」
「さっさとしろ。僕だっていつまでもこんなことしたくないんだ」
ぬちゅっぬちゅっぬちゅっぬちゅっ♡
限界だった。
白い胸、赤面している、軽蔑の眼差し、ゴム手袋のぬるぬるの手つき、ちんこに伝わってくる快楽。
その全部が混ざり合って、俺の腰がびくんと跳ねた。
「っ……出る……っ!」
「え、ちょ、ティッシュはどこに——」
どびゅるっ!!びゅっ!!びゅるるっ!!
「っ!!」
溜まりに溜まっていたのだ。
数日間、獣人の相手をしていないせいで、量が尋常じゃなかった。
白濁液が勢いよく噴き上がり、葵の胸に――そして、顔にまで飛び散った。
「…………」
時間が、止まった。
葵の白い胸の上を、どろりと精液が伝い落ちていく。
頬についた白い飛沫が、蛍光灯の明かりにてらてらと光っている。
びくっ、びくっ、と射精の余韻で竿が痙攣するのを感じながら、俺は死を覚悟した。
「…………」
葵は、無言だった。
捲り上げたタンクトップを片手で握ったまま、精液まみれの胸と顔で、微動だにしない。
銀色の獣耳が、ぴたりと頭に張り付いている。怒りなのか、ショックなのか、判別がつかない。
そして、ゆっくりと。
葵は立ち上がった。
タンクトップを無言で下ろし、精液がついたゴム手袋を無言で外し、俺を無言で見下ろした。
その目は――何も映していなかった。
怒りすら超えた、虚無の瞳だった。
「……トイレ」
それだけ言って、葵は俺の部屋の奥にある小さなトイレに入り、ドアを閉めた。
――ばたん。
あとに残されたのは、精液のにおいと、射精後の賢者モードと、人生が終わった実感だった。
……終わった。
琴音との関係も、このアパートでの生活も、全部終わった。あのおおかみ女は絶対に琴音に全部話す。そして俺は社会的に抹殺される。
俺は股間を露出したまま、壁にもたれて天井を仰いだ。
§
……と。
その時、微かに聞こえてきた。
トイレの方から。
「……っ、最悪……っ、なんで……こんな……っ」
声。
押し殺した、小さな声。
葵の声だった。
「……あのクズの……っ、精液なんか、浴びて……っ」
罵倒。
それは予想通りだ。俺への罵倒なら、むしろ当然の反応だ。
だが。
「……なのに、なんで……僕は……っ」
声のトーンが、変わった。
怒りから、別の何かに。
そして。
くちゅ
聞こえてしまった。
くちゅ……くちゅ……くちゅ……。
ことぶき荘の壁は、薄い。
それはこの半年間で骨身に染みて理解している。隣の琴音の喘ぎ声も、上の瑠衣のオホ声も、全部筒抜けだ。
そしてトイレのドアは、壁よりもさらに薄い。
くちゅっ……くちゅっ……くちゅっ……♡
水音だった。
湿った、粘着質な水音。それは間違いなく、指が粘膜を擦る音だ。
「……っ、くそ……なんで、こんな……っ」
葵の声が、微かに震えている。
「……あんな、おっさんの……精液の匂いで……っ、なんで僕が……っ」
自分への罵倒だった。
俺への軽蔑と、それに反応してしまっている自分への、怒りと困惑の独白。
くちゅ、くちゅっ、くちゅっ♡
水音が、少しずつ速くなっていく。
「……っ、ば、かみたい……っ、こんなの……っ」
俺は息を殺して、トイレのドアの前に座り込んでいた。
いつの間にか、射精したばかりの竿が、再び硬くなり始めていた。
……最低だ。
自分でもわかっている。盗み聞きしながら勃起するとか、人としての底辺だ。
だが。
くちゅっ♡くちゅっ♡ぬちゅっ♡
音が、止められない。
ことぶき荘の建付けの甘さが、残酷なまでに全てを伝えてくる。
「……っ、あ……っ、ぅ……っ……♡」
声が、変わった。
罵倒が消え、代わりに、押し殺しきれない甘い吐息が混じり始めた。
「……やだ……っ、こんな……っ、おっさんの……せいで……っ♡」
ぬちゅっ♡ぬちゅっ♡ぬちゅっ♡
俺は自分の股間に手を伸ばしていた。
賢者モードなんてとっくに終わっていた。おおかみのフェロモンと、ドア越しに聞こえてくる自慰の音と喘ぎ声が、俺の下腹部をぎんぎんに膨張させていた。
ぬちゅ、ぬちゅ、と。
俺も、手を動かし始めた。
ドア一枚隔てて、お互いに自慰をしている。
我ながら、最悪の構図だった。
「……っ、ん……っ、く……っ♡」
葵の声が高くなっていく。
水音が激しくなっていく。
俺の手も、それに合わせて速くなっていく。
「……っ、あ……っ、だめ……っ、来る……っ♡」
ぬちゅっ♡ぬちゅっ♡ぬちゅっ♡♡
「……ん゛っ……♡♡」
くぐもった絶頂の声が、ドア越しに聞こえた。
葵の体がびくびくと震える気配が、薄いドア板を通じて伝わってくる。
そして。
しばらくの沈黙の後。
かちゃり、と。
トイレのドアが、わずかに開いた。
建付けが甘いのだ。築四十年のことぶき荘。鍵なんて、とっくにぶっ壊れている。
絶頂の脱力で体重がドアにかかったのか、閉め切れていなかったドアが、するりと隙間を作った。
五センチほどの隙間。
その向こうに――葵がいた。
カーゴパンツを膝まで下ろし、黒いボクサータイプの下着も太ももの途中まで引っ張り下げた、中途半端な格好。
白い太ももの間に、右手が挟まっている。指先が、てらてらと光る愛液で濡れている。
絶頂の余韻で頬が紅潮し、琥珀色の目は焦点が合っていない。銀色の獣耳がだらんと横に倒れ、尻尾はだらしなく床に垂れている。
美しかった。
普段の凛々しさが全部剥がれ落ちた、無防備で、情けなくて、だからこそ目が離せない姿だった。
そして、葵の視線が、隙間の向こう――つまり、俺に向いた。
ドアの前に座り込み、勃起した肉棒を握りしめたおっさん。
目が合った。
世界が、凍りついた。
「…………」
「…………」
再び五秒。
前回とは違う、あらゆる感情が完結しない無量空処のような五秒。
葵の顔に、感情が戻ってきた。
恥辱。困惑。怒り。そして、今にも泣きそうな羞恥。
全部が入り混じった、複雑怪奇な表情。
だが、葵が叫ぶより先に。俺の体が、動いていた。
高熱。朦朧とした意識。ぐちゃぐちゃの判断力。
そのどれもが言い訳にならないことはわかっている。
だが、俺は――ドアを押し開け、葵に覆いかぶさった。
「っ!? なに、して……っ!おい離せ!」
葵が抵抗する。
だが、オナニーの絶頂直後で力が入りきらないのと、膝まで下りたカーゴパンツと太ももの途中で引っかかった下着が足の動きを封じていて、うまく動けていない。
俺も俺で、ろくに力が入らない。熱で頭がぐらぐらする。
だが、男の本能だけが、この体を動かしていた。
狭いトイレの入り口。後ろから覆いかぶさるような形で、葵の体に密着した。
「やめ……っ!この、クズ……っ!」
「……っ、すまん……っ、もう、止められない……っ」
勃起した肉棒が、葵の太ももの間に滑り込んだ。
そこは、先ほどのオナニーの余韻で、ぬるぬるに濡れていた。
挿れてはいない。
そんな余裕は、この体勢ではなかった。
代わりに、硬い竿が、葵の濡れたおまんこの表面をずるりと撫でた。
ずりゅっ♡
「んっ!!♡」
葵の体が、びくりと跳ねた。
「な、何して……っ♡っ、よかった、入って、ない……っ♡」
「…………っ」
俺は腰を動かした。
疑似セックス。竿を膣口に押し当てず、外側だけを滑らせる。
愛液でぬるぬるの秘裂を、勃起した肉棒がずりずりと行ったり来たりする。
ずりゅっ♡ぬりゅっ♡ずりゅっ♡
「っ、あ……っ♡ やめ……っ♡ そこ、クリに、当たって……っ♡」
先端が、ぷっくりと充血した小さな突起を擦り上げる。
葵の体が、ガクガクと震えた。
「や……っ♡だめ……っ♡さっきイッたばっかり、で……っ♡敏感に、なって……っ♡」
ぬりゅっ♡ずちゅっ♡ぬちゅっ♡
俺の腰が、勝手に速くなっていく。
愛液と先走りが混ざり合って、ぬるぬるの摩擦が秘裂全体を包み込んでいる。
葵の背中が、俺の胸板に押し付けられている。
汗ばんだ背中。タンクトップ越しに伝わる体温。おおかみのフェロモンが、零距離で鼻腔を侵食する。
「離、せ……っ!この……んっ♡へんたい……あっ♡」
「……っ、もう、出る……っ」
「は……っ♡やだ、出すな……っ♡僕の体に、これ以上……あんっ♡」
ぬちゅっ♡ぬちゅっ♡ぬちゅっ♡♡
限界だった。
俺の腰がびくんと跳ね、葵の濡れた秘裂に竿を押し当てたまま、二度目の射精が始まった。
どびゅっ♡♡ びゅるっ♡♡
「ひっ……♡♡」
白濁液が葵の太ももの間に広がり、愛液と混ざり合って、どちらから分泌されたかわからない濃い液体を作り出す。
その感触に、葵の体もびくびくと痙攣した。
「あ……っ♡ぅ……っ♡♡やだ……っ♡また……イクっ♡♡」
葵も、イッていた。
二度目の絶頂。
必死に押し殺した声が、低く、切なく、トイレの狭い空間に反響した。
「……ーー〜〜んんっ♡♡」
びくん、びくんと、二人の体が痙攣し合う。
射精の余韻と、絶頂の余韻が、重なり合って溶けていく。
数秒の、静寂。
荒い呼吸だけが、狭い空間に響いている。
ゴッ。
葵の肘が、俺の後頭部に叩き込まれた。
「……っ!?」
視界が、真っ白になった。強烈な衝撃。
そして——
§
……意識が、浮上した。
ぼんやりと。ゆっくりと。
まるで深い水の底から、水面に向かって上がっていくような感覚で。
目を開けると、見慣れた天井があった。
ことぶき荘、二〇一号室の自室の天井。黄ばんだクロスに、小さな染みがいくつか。
額に、ひんやりとした感触。
冷えピタだ。きちんと貼り直されている。
枕元にはアクエリアスのペットボトルが置かれ、万年床の布団が体にかけられている。
……夢、か。
俺は、ぼんやりとそう思った。
あのおおかみ女。大神葵。ゴム手袋の手コキ。おっぱい。トイレでのオナニー。そして、素股。
全部、高熱が見せた夢だったのか。
三十八度七分の高熱。朦朧とした意識。
それなら、あんな荒唐無稽な展開も、まあ、夢としてはありえる。
いや、ありえてほしい。あんなことが現実だったら、俺の人格はもう終わりだ。
……よかった。
夢だったんだ。
ほっと胸を撫でおろし、俺はそっと額の冷えピタに触れた。
ちゃんと冷たい。誰かが貼り替えてくれたらしい。
……誰が?
ふと、隣から気配を感じた。
首を横に向けると――
「あ、おっさん起きた? 大丈夫?」
琴音がいた。
ヨレヨレのTシャツにショートパンツ。いつもの自堕落モード。
冷蔵庫から出しだであろう缶ビールを片手に、テーブルの向こうで心配そうにこちらを見ている。
「琴音……? お前、ゼミ合宿は……」
「うん、今日帰ってきたよ。おっさん寝てたから起こさなかったけど。熱、下がった?」
「……ああ、たぶん。前よりはマシだ」
確かに、体のだるさは少し楽になっている。
数値上は同じ程度だが三十八度が三十七度くらいに下がった感じだ。完全復活には程遠いが、昨日よりは人間に近い。
「よかった~。おかゆ、食べたみたいだね。器が台所にあった」
おかゆ。
え?……おかゆ?
あれは、夢の中で葵が温めてくれた。夢のはずだ。夢の、はずなのに。
「あ、そうそう。おっさん」
琴音が、缶ビールを一口飲みながら、さらりと言った。
「あ~、なんか、葵からラインが来てたんだけどさ」
心臓が、思いっきり跳ねた。
「おっさんのこと、『変態でクズで覗き魔で犯罪者だから、琴音はもう近づかない方がいい』って書いてあった」
「…………」
「あはは〜、なにしたのおっさん。葵ってめったに怒らない子なのに、めっちゃ長文で送ってきてたよ?しかもところどころ変な変換してたし、たぶん怒りすぎてタイプミスしまくってたんだと思うよ〜」
血の気が引いた。全身から、すうっと温度が抜けていく。もしかしたら熱も下がったかもしれない。
夢じゃ、なかった。
全部、現実だった。
ゴム手袋の手コキも。おっぱいへの顔射も。トイレの盗み聞きも。無理やり押し倒して素股を強行したことも。
全部、現実で起きたことだった。
「おっさん?どうしたよ、顔色悪いよ?また熱上がった?」
「…………」
俺は恐る恐る後頭部に手を伸ばした。
ぼこり。
超でかいたんこぶがあった。
触るだけで涙が出るほど痛い。明らかに何か硬いもので——いや、おおかみの肘で——思いっきりぶん殴られた痕だ。
つまり。
あの後、葵は俺の後頭部をぶん殴り、俺は気絶した。
だが、そのまま放置せず、俺を布団に戻し、冷えピタを貼り直してくれた。……のか?
なぜ殴った相手を布団に戻す。なぜ冷えピタを貼り直す。疑問は尽きない。
意味がわからない。
だが、考える余裕はなかった。
「ねえおっさん、葵に何したの? 教えてよ~」
「……聞かないでくれ。頼むから」
「え~、気になる~」
琴音が金色の尻尾をぱたぱた振りながら詰め寄ってくる。
だが、俺はそれどころではなかった。
やるべきことが、山積みだった。
まず、土下座の練習。
次に、菓子折りの購入資金の確保、もしくはギフトカードか現金そのままか。
そして、琴音を通じての全力の謝罪。
「琴音」
「ん?」
「……お前の友達の連絡先、教えてくれ」
「え、なんで?」
「謝罪する。全力で謝罪する。土下座でも何でもする」
「ええ~……おっさん、そんなに何したの……」
「土下座って、どうやったら、いちばん誠意が伝わると思う?」
「えー意味わかんないよ〜どしたの?熱でぶっ壊れたの〜?」
琴音はきょとんとしている。
だが、もし全貌を知ったら、こいつも俺を殴るかもしれない。いや、絶対殴る。
俺は万年床の上で正座し、天井を仰いだ。
後頭部のたんこぶが、ズキズキと痛む。だが、それ以上に心が痛い。
あの時、なぜ葵は俺を布団に戻してくれたのだろう。
殴って、気絶させて、それでも布団を掛け、冷えピタを貼り直して去っていった。
怒っていたはずだ。軽蔑していたはずだ。
なのに。
……いや。今はそんなことを考えている場合じゃない。
まず、生き延びること。琴音経由で全力の謝罪を届けること。
そして二度と、おおかみ女の前に姿を見せないこと。
それが、この変態クズおじさんにできる、せめてもの誠意だった。
……なお。
謝罪のメッセージを考えているうちに、不意にあの光景を思い出してしまった。白い胸。ピンクの乳首。太ももの間の、ぬるぬるの感触。それを恥じて真っ赤に染まる、あのクールな顔。精液の匂いをクンクン嗅いで発情した、あのトロンとした目。
……勃起した。
俺は自分の股間を見下ろし、深い深い溜息をついた。
ちんこ反省の色、なし。
俺はもう人として手遅れかもしれない。