【後日談:ひまわりの咲く明日】
過酷な過去を乗り越え、女子大学を無事に卒業した由海は、かつての母校である中学校の教員としての道を歩み始めていた。
「みんな、今日の授業はここまで。忘れ物がないようにね」
教壇に立つ由海の表情は、かつての怯えた少女のものではない。生徒たちを優しく見守る、立派な大人の女性の顔だった。
心に刻まれた男性への恐怖心は、今なお完全には消え去っていなかった。同僚の男性教師と話すときも、どこか一定の距離を保ってしまう。大学時代の親友から時折届く「すごく優しい人がいるから、紹介したいな」というメッセージにも、由海はいつも申し訳なさそうに、けれどきっぱりと断りの返信を送っていた。
「ごめんね、いつも気を使ってくれてありがとう。でも……やっぱり、男の人はまだ、少し怖いんだ」
そんな由海の、臆病ながらも平穏だった日常が、ある夏の日の帰り道、突如として破られた。
「……あれ? もしかして、酒宮じゃん」
人通りの少ない交差点。背後からかけられた、あまりにも聞き覚えのある不快な粘り気を持った声。
振り返った由海の視界に飛び込んできたのは、すっかり大人になり、どこか荒んだ空気を纏った――佐々木浩介の姿だった。
「――っっっ!!!!」
その瞬間、由海の頭の中で、14歳のあの夏の激痛、更衣室の冷たい床、汚されたユニフォームの匂いが、凄まじい濁流となってフラッシュバックした。指先一つ動かせない。呼吸の仕方すら忘れたように、由海の身体は恐怖だけで完全に凍りついた。
「やっぱり酒宮だ。懐かしいな。なぁ、ちょっと来いよ」
佐々木が下卑た笑みを浮かべ、由海の華奢な手首を力任せに掴んで引っ張る。
嫌だ、と叫びたいのに声が出ない。あの日の絶望が再び彼女を支配しようとした、まさにその時だった。
「――おい。その人から手を離せよ」
低い、けれど芯の通った男の声が響いた。
次の瞬間、由海の手首を引っ張っていた強烈な力が、突然消えた。驚いて目を上げると、佐々木は地面に無様に倒れ込み、腹を押さえてうめき声を上げている。別の見知らぬ男性が、佐々木の腕をひねり上げ、鋭い眼光で彼を睨みつけていた。
「大丈夫ですか?」
呆然とする由海に、その男性はすぐに優しい声をかけ、彼女を庇うようにして前に立った。
「とりあえず、ここから離れましょう」
差し出された大きな、けれど温かい手に、由海は吸い込まれるようにして手を引かれ、その場を急ぎ足で後にした。佐々木の呪縛から、本当に逃げ出せた瞬間だった。
近くの明るいカフェの一角で、ようやく一息ついた由海。男性は由海の顔色の悪さを心配し、「怪我はありませんか? 体調は大丈夫ですか?」と、紳士的に状態を確認してくれた。その温もりと誠実さに触れ、由海の凍りついていた心が、ゆっくりと、本当にゆっくりと溶けていくのを感じた。
「あの……、本当に、ありがとうございました……っ」
「いえ。無事でよかったです。じゃあ、気をつけて帰ってくださいね」
別れ際、深く頭を下げる由海に、男性は押し付けがましく連絡先を聞くこともなく、爽やかな笑顔を浮かべて去っていった。その広い後ろ姿を、由海はいつまでも、ただ見つめ続けていた。
それから、少しの月日が流れた。
風の噂で、佐々木浩介が別の場所で再び重大な犯罪に手を染め、再逮捕されたという知らせが届いた。今度こそ、彼が表の世界に戻ってくることは二度とない。かつて由海を縛り付けていた悪魔は、完全に自業自得の因果応報によって破滅した。
そして時を同じくして、由海の元に、もう一つの「奇跡」が舞い込んだ。
あの夕暮れの帰り道、自分を救ってくれたあの男性と、職場の関係を通じて本当に偶然の再会を果たしたのだ。
過去の深い傷、男性への強い恐怖症。それを抱える由海との恋愛は、決して一筋縄ではいかなかった。何度もすれ違い、時には傷の深さに由海が自ら逃げ出そうとしたこともあった。
けれど、彼は決して由海の手を離さなかった。彼女のペースに合わせて歩み寄り、世界には、大切な人を命がけで守ろうとする優しい男性もいるのだと、時間をかけて教えてくれた。
波乱万丈な、けれどどこまでも真っ直ぐで深いお付き合いを経て、由海はついに彼とプロポーズを交わし、結婚の誓いを立てた。
純白のウェディングドレスに身を包んだ由海の隣には、世界で一番信頼できる、愛する夫の姿がある。
14歳の夏に奪われた純潔も、汚された誇りも、もう彼女を苦しめる鎖ではない。過去の傷跡さえも抱きしめてくれる最愛の伴侶と共に、由海は今、ひまわりのように眩しい、光に満ちた新しい人生の第一歩を力強く踏み出したのだった。
(第4章「牙をむく日常、奪われた純潔」・本編および後日談・完全完結)