ローマの星
真昼の太陽が天頂近くに陣取る青空のさなか、その青を切り裂くようにして、一際異彩を放つ巨大な星が光り輝いていた。
昼間の明るい光の中でもなお、隠しようもない強烈な存在感を主張するそのソレは、美しく輝く天体などという優雅なものでは断じてなかった。どこか禍々しく、どこか妖しい光を地上へと投げかけるその光芒は、見上げる者の正気を徐々に削り取り、人々の心を静かに退廃へと墜落させ、世界全体を不可逆の混沌へと突き落とすために天から降された、堕天の星そのものであるかのようだった。
ひっそりと静まり返った都市の路地裏。湿った石畳と日陰の冷気が混ざり合う暗がりの中、突如として空間が歪み、一人の男が滑り込むように姿を現した。
レフ・ライノール。
カルデアにおいて、近未来観測レンズ・シバを完成させた最高峰の魔術師であり、技術部の重鎮として誰もが尊敬の念を抱いていた男。しかしその正体は人類焼却を目論む異形の存在、魔神柱の一柱、フラウロス。人理を瓦解させるべく歴史の節目へと聖杯を打ち込んで特異点を形成、歴史の異常を固定化させる役割を担う、カルデアの宿敵ともいうべき存在であった。
長身に纏うのは、緑を基調とした奇妙な意匠の魔術礼装。癖のある長い頭髪と、どこか人間を見下すような冷徹で歪んだ笑みを浮かべている。カルデアでの善良な研究者としての仮面を脱ぎ捨てた今の彼に漂うのは、人類に対する底知れぬ冷蔑と、冷酷な使命感のみであった。
「……フン、下等な人間どもが群がる臭気が、この時代にも満ち満ちているな」
転移の衝撃を冷ややかに受け流しながら、レフは辺りを取り巻く人間の生活感―――排泄物や雑多な市場の生臭さ、生身の人間が蠢く独特の熱気に、激しい不快感を覚えて眉をひそめた。
彼らにとっては一瞬の繁栄の地であろうとも、魔神柱たる身からしてみれば、いずれ焼き尽くされるべき有象無象の塵芥に過ぎない。この地に漂う生活の空気感そのものに、吐き気を催すほどの嫌悪と反吐が出るような思いを抱きながら、レフは緑の裾を軽く翻し、暗く湿った路地裏を抜けて表通りへと足を進めた。
暗く湿った路地裏を抜けた先にあったのは、まばゆい地中海の陽光と、視界一杯に広がる都市の光景。西暦一世紀、ローマの雑然とした街並みであった。
赤く塗られた
―――だが、その熱狂の底には、あからさまな歪みが混ざり込んでいた。
人々の様子はどこか異常に浮ついており、落ち着きを欠いていた。市場で果物を売る露店商の手は落ち着きなく震え、買い物をする市民たちの会話は意味もなく興奮を帯び、どこか視線が定まらない。街の広場や日陰の物陰では、新興宗教の信者らしき男たちが人々に集まり、「終末」や「凶兆」についての奇怪な教義を支離滅裂に叫び立てている。
人々は空を見上げては不吉な呟きを漏らし、あるいは現実から逃避するように昼間から下品な酒宴に興じ、あるいは理由のない狂躁に身を任せていた。都市全体を包み込んでいるのは、ただの活気などではない。明日をも知れぬ世界に対する、ドロドロとした退廃と強烈な末世感であった。
レフは、目の前を行き交う人間たちの浅ましい蠢きを、凍てつくような冷たい瞳で見つめながら注意深く観察していた。
歴史の特異点化を進めるため、この時代の状況を確認しようと試みたつもりだったが、市民たちの見せる反応は彼の想定を越えて過剰であった。単なる社会不安や皇帝への不満といったレベルではない。人々の正気そのものが、底の方から静かに摩耗し、狂気へと傾いている。
(……この異常な様子、何かあるな)
レフは長髪の隙間から細い眼光を走らせ、思考を巡らせる。
人理焼却計画のために、この時代にあらかじめ設置された聖杯。それを与えられた現地の支配者が願望器の力を不用意に行使し、この世に決定的な悪影響を及ぼした結果なのだろうか。
「……まあいい、この目で見ればわかることだ。
さて、この時代を統べる愚かな王の顔でも、久々に見に行ってやるとしよう」
レフは冷笑を浮かべると、礼装の裾をたなびかせ、歪んだ末世感の漂う人混みを不快そうに押し分けながら、ローマ皇帝が待つはずの豪奢な宮殿―――パラティヌスの丘へと向けて足を進めていった。
その丘に聳え立つのは、皇帝の豪奢な宮殿である。宮殿の門前には、これでもかとばかりに華やかで豪勢な花飾りのアーチが設置されている。大衆を喜ばせるための大げさでけばけばしい装飾であった。
鬱陶しげにレフがそれをくぐり抜けた抜けた先に広がっていたのは、宮殿の広大な中庭であった。そこでは、常軌を散した宴が繰り広げられていた。
「ハハハ! 飲むのだ、踊るのだ! 皇帝陛下の至高の芸術に乾杯を!」
色鮮やかな布地を身に纏った貴族や客人、半裸同然の装いで妖しい舞を披露する芸者や踊り子たちが入り乱れ、ワインを浴びるように飲み干している。花々が咲き乱れる庭園には酒と香水の匂いが立ち込め、あちこちで杯が組み交わされ、若い男女が人目もはばからず肌を寄せあい、或いは唇を重ね合わせる。退廃と破廉恥を極めた宴。自称至高の芸術家たる皇帝ネロの趣味嗜好が色濃く反映されたその光景は、淫靡で、あまりにも醜悪であった。
その下品極まる騒ぎを一瞥し、レフは激しい不快感に眉をひそめる。
「……愚者どもの狂奔など、付き合っていられるか」
と言うと、己の身に魔力を纏わせると空間を軽く歪ませ、その姿が一瞬で掻き消える。
次の瞬間、彼は眩しい日差しが照りつける宮殿の高く聳える屋根の上へと、音もなく移動していた。屋根の上から見下ろせば、中庭の狂宴だけでなく、ローマの街全体が一望できた。
風が髪を揺らす中、ふとレフは天を見上げる。―――青空の中央、ギラギラと輝く太陽とは別個に、一際あざやかに瞬く、
真昼の空に浮き上がるその歪な光。街中で買い食いや酒に酔いしれていた下等な人間どもが、浮ついた会話の中で口々に怯え、あるいは囃し立てていた言葉―――その記憶の断片を魔術師としての膨大な知識と照合していくことで、レフは即座にその星の名へと辿り着いた。
(……
史実においても、西暦66年のローマの空にはハレー彗星が飛来していたという記録が残っている。当時の人々にとって、尾を引く箒星は王の死や帝国の滅亡を告げる不吉な凶兆であり、皇帝ネロ治世下の末世感を煽る不気味な天体であった。
レフは鋭い眼光をその星へと注ぎ、不審そうに目を細める。
(……おかしい。彗星の軌道ではない)
天体を横切って去っていくはずの箒星。しかし、いま頭上に鎮座しているその光は、まるで天空の一点に完全につなぎ止められ、固定されているかのように微動だにしていなかった。ただじっと、このローマの街を、そこに蠢く人間を上空から見下ろし、じろじろと無遠慮に観察しているかのように。
真昼の空に不動のまま輝くその謎の星を見上げながら、レフはどことなく得体の知れない、肌が泡立つような不気味な思いを抱かずにはいられなかった。
見るからに明らかな天変地異。天に留まり続ける異様な星の存在。にもかかわらず、地上の人間は恐れをなして祈りを捧げるでもなく、ただ退廃的な宴の肴として盛り上がっているだけだった。科学が十分に発達しておらず、宗教への信仰や天の兆しに対する畏怖が人々の心を支配しているはずのこの時代において、このような反応はあまりにも不自然。
(……いや、不自然なのは人々の態度だけではないな)
屋根の上から街を見下ろすレフは、鋭い眼光を凝らし、鼻腔を突く空気の違和感に意識を向けた。
眼下で淫らにはしゃぎ回る人間の肉体から、ごく微かに、だが確実に何らかの力の反応が立ち上っている。単なる大衆の狂騒ではない。何者かの意志によって精神の底から書き換えられ、正気を摩耗させられているかのようだ。
(……どうにも気にかかる。人間どもの正気をあらかじめ奪い、扱いやすい手駒へと作り替える。そのために聖杯の力の使うのは良い。だがそれとあの星と何の関係がある?)
レフは宮殿の屋根の上を滑るように進み、さらに宮殿の深部へと向かっていく。
やがて、宮殿の最奥に位置する広大な中庭を臨む屋根の上に到達したとき―――レフの視界に、その人物の姿が跳び込んできた。
鮮やかな金髪を頭上で華やかに結い上げ、燃えるような緋色と純白を基調とした豪奢な皇帝の正装を纏う可憐な少女。ローマ帝国第5代皇帝、ネロ・クラウディウス。しかし、その高貴であるはずの佇まいは、いまや背徳と淫靡の極致へと塗りつぶされていた。
広場の中央には
その狂乱の中心で、ネロ本人は皇帝の衣装を大きくはだけさせていた。白く滑らかな肌を惜しげもなく露わにし、まるで彫刻家が気まぐれに彫り上げた石膏の女神像のごとき美貌を、退廃的な快楽に蕩けさせている。傍らに控える浅黒い肌をした全裸の女の奴隷に大きな扇を仰がせながら、彼女は片手に持った黄金の器から、なみなみと注がれた濃密な酒を喉へと煽り立てていた。
彼女が掴むその器。輝く黄金の表面に禍々しい魔術的刻印が刻まれたその杯は、紛れもなくレフがこの時代に配置した、聖杯そのものであった。
屋根の上から狂乱の宴を一瞥したレフは、無音のまま階下の中庭へと静かに舞い降りる。
豪奢な長椅子の数歩手前。一瞬で距離を詰めたレフは、身に纏っていた気配遮断の魔術をゆっくりと解除する。突如として姿を現した長身の異人。しかし周囲の奴隷や給仕たちが息を呑む暇もなく、長椅子に横たわる皇帝ネロが真っ先にその存在へと視線を向けてる。しかしその視線には、怒りも警戒もなかった。むしろずっと待ち望んでいた客人を迎えるかのように、爛漫な笑みを浮かべて白い腕を伸びやかに差し伸べる。
「おお……久しぶりであるな、異界の呪い師よ! そなたの持って参ったこの
愉悦に濡れた瞳を輝かせ、ネロは無邪気さと官能を同居させた声でそう言い放つ。
しかし、レフは差し出された手を取ることもなく、冷淡な眼光で誘いを撥ね退ける。
「……愚かしい。私が尋ねたいのはそのような酒宴の感想ではない。貴様、その聖杯の力を周囲の愚民どもに分け与え、正気を奪ったのか?」
誘いを拒絶された無礼に対しても、ネロはただ子供が残念がるように小さく手を振ると、白く滑らかな肩をすくめる。
「何を言うかと思えば、つまらぬ邪推を……。聖杯の力など使わずとも、見よ、民どもがこれほどまでに歓喜と情熱に満ち溢れておるではないか。この熱狂、この美しさ、これぞまさに余が理想とする楽土『黄金劇場』の讃歌そのもの! 一国の皇帝たる余が、なにゆえこのような至高の宴を聖杯の力などという無粋な真似で妨げようか!」
胸を張り、堂々とそう言い切るネロの言葉に、レフは眉根を寄せて思案に暮れた。
(……こいつの言葉が真実だとすれば、聖杯の力を発動させていない。つまり、あの街の人間どもが見せる狂乱と変容は、聖杯の影響ではなく……自発的に、あるいは別の何らかの力によって引き起こされたものだというのか?)
ならば、人々をここまで歪ませ、正気を摩耗させている原因は一体どこにあるのか。
まさか、あの星か?
疑念と不審を深めるレフに対し、ネロは己の姿など露ほども意に介さず、長椅子の上で大きく身をくねらせた。着崩した豪華な衣装の隙間から、まろび出た豊かな乳房の柔らかそうな曲線と、惜しげもなく露わになった股間のいやらしい膣の割れ目が、爛漫な陽光の下で生々しく晒される。石膏の女神像のごとき可憐な美貌に淫らな女体をまとわせた彼女は、吐息を漏らしながら無邪気に微笑みかけた。
「余の言葉に驚きも惑いもせぬとは、つれない男よな。だがな、異界の呪い師よ、それよりも今宵は特別なのだ! 素晴らしい天星の宴が催されるゆえ、今度こそ共に愉しもうではないか!」
「天星……だと? 一体何のことを言っている?」
「ふふ、決まっておろう。かの二つ目の太陽……美しき尾を引く流れ星のことよ!」
レフの問いかけに、ネロは華奢な指先をすっと上げ、雲一つない真昼の天空へと差し向けた。
「なにを言うかと思えば大仰な。ようは天体観測でだろうが。そのようなつまらぬ催しに付き合う気など毛頭ない」
「待て待て、そう急くな!」
ネロは立ち去らんとする冷たい背中に鈴を転がすような声をかけ、パン、と小さく可憐に手を叩いた。
すると、周囲で半裸同然の姿で倒錯的な戯れに興じていた女たちが、一斉にレフの元へと群がり寄ってきた。透けるような薄布一枚を纏った淫らな女たちが、吐息を吹きかけ、豊満な乳房や滑らかな肌を押し付けるようにしてレフを侍らせる。
「……鬱陶しい。失せろ、下等な雌どもが」
心底からの嫌悪を剥き出しにし、レフは眉をひそめる。
しかし、そんな彼の反応を愉快そうに見つめながら、ネロは長椅子の上で足を組み替え、己の豊満な胸元を隠そうともせずにほくそ笑んだ。
「ふふ、顔に書いてあるぞ、異界の呪い師よ。そなた、あの空に浮かぶ星……あの二つ目の太陽が気になって仕方がないのであろう? あれがただの箒星ではないこと、そしてこのローマに満ちる得体の知れぬ熱気の正体……その心中に蟠る懸念を、明かしたくてたまらんといった目つきだ」
皇帝としての直感か、それとも聖杯の力を得て研ぎ澄まされた観察眼によるものか。自身の思考を正確に言い当てられ、レフの目つきは一瞬にして刃のように鋭く、剣呑なものへと跳ね上がった。
その殺気すら孕んだ視線を受け、ネロは満足そうに笑みを深くする。
「案ずるな。今宵の宴が最高潮に達すれば、そなたが気に病んでいるその答えも……自ずと見ることが叶うはずだ。余の黄金劇場は、いつだって観客の期待を裏切らんのだからな!」
そのように告げられた言葉は、レフからしてみれば何ひとつとして根拠のない世迷い言。ただの痴女の戯言に過ぎなかった。本来であれば冷たく一蹴し、即座にこの場を去るべきである。
だが、レフの理知的な思考は、真昼の空に強固に固定され瞬く、あの
それにだ。現状、世界の変異の度合いがいささか小さすぎるのも気にかかっている。オルレアンに聖杯を打ち込んだときは、聖杯の力で召喚したジル・ド・レェイの憎悪を適当に焚きつけるだけで、彼は世界すべてに対する破滅的な行動を起こした。本来ならそれこそが人理焼却の楔の一片を担う、あるべき特異点の姿なのだ。だがいま目の前で起きているのは人々の正気が摩耗し、乱心しているという現象のみ。決定的な歴史の脱線というほどではない。文明の中心に住まう人間たちが正気を弄する程度のことでは、世界の理を崩壊させるほどの巨大な歪みとは言えないのだ。
(……チッ。こいつの戯言に惑わされるつもりはないが……特異点の完全確立に支障をきたすことは避けるべきだ)
レフは鉄のごとき精神で意識を冷たく研ぎ澄まし、目の前の皇帝と再び向き合う。そして身体にしがみつく女たちへの激しい嫌悪を隠そうともせず、吐き捨てるように告げる。
「……いいだろう。せいぜいそのくだらん宴とやらに付き合ってやる」
「おお! よくぞ言った、呪い師よ! さあ皆の者、新たなる客人に喝采を! 最高の祝杯をあげるのだ!」
異邦の参加者に、煌びやかな皇帝は大いに喜んで手を叩き、周囲の者たちを囃し立てさせた。
歓声と叫びが広場に木霊する中、ネロは皿から熟した葡萄の実をつまみ上げると、それを可愛らしく口に含んで頬張った。そしてさらにもう一粒の葡萄をつまむと、それを自身の白く滑らかな乳頭へとゆっくり擦り付け、あからさまに官能的な息を漏らしてみせた。
「……付き合っていられるか」
もはや見るに耐えぬ。そう言わんばかりにレフは不快感を露わにして背を向ける。
そして、それ以上の言葉を交わすこともなく魔術を展開すると、宮殿の屋根に飛んだ時と同じように空間を歪ませ、その場から姿を消したのだった。
時は流れて薄暮。太陽が西の地平線へと沈み込み、昼の光と夜の闇とが混じり合う、逢魔が時。
宮殿の重厚な門前からは、元老院から遣わされたと思われる厳粛な衣装を纏った一人の男が、肩を落とした様子で背を向けて去っていくところであった。帝国の風紀を糺し、街を覆う異常な狂乱を鎮めるよう献言すべく赴いた男であったが、皇帝からは「至高の芸術を解さぬ無粋者」として一蹴され、門前払いを食らわされたのだ。狂っていく国を憂い、絶望に打ちひしがれる政治家の姿は、いまのローマにおいてあまりにも哀れで無力であった。
その落胆する男と入れ違いになるように、レフは再び皇帝の宮殿へと足を進めていた。身に纏うのは強力な気配遮断の魔術。夕闇に溶け込む彼の存在に気づく者は、すれ違う群衆の中に誰一人として存在しなかった。
宮殿の周辺は、まるで今日という一日で一番の狂宴を催すかのような、もはや諍いかと見紛うほどの凄まじい賑わいの声に埋め尽くされていた。露店商たちが放つ怪しげな呼び込みの声、酒に酔いしれた民の叫び、理性を失った男女の笑い声。都市全体が沸騰しているかのような熱気に対し、レフは予定調和のごとく空間跳躍の魔術を行使した。雑多な群衆と狂騒をそっくり無視して、一瞬にして宮殿の敷地内へと侵入を果たす。
宮殿の内部には、昼間の猥雑で退廃的な空気がそのまま重く澱んでいた。だが、昼間と異なるのは、その狂乱の場に到底そぐわない知性や地位を持った者たちが数多く交ざり込んでいる点であった。気品あるトガを崩した学者や哲学者風の男たち、豪勢な装飾品を身につけた裕福な商人たち。彼らは高級な葡萄酒が注がれた杯を片手に持ち、一様に正気を摩耗させた浮かれた表情を浮かべながら、ついに訪れるであろうその時を、恍惚とした眼差しで待ち望んでいた。
レフが宮殿奥の広間へと足を踏み入れると、そこには昼以上にくっきりと頽廃の泥沼が広がっていた。乱痴気騒ぎに身を投じる人々が、破廉恥な装いでお互いの肉体を貪り合い、交わり、淫らな体液の匂いが満ちて、知識人すらも等しく汚染し、乱痴気へと引きずり込む空気が充満している。
そして広間を一望できる上階のバルコニーには、皇帝ネロが鎮座していた。
彼女は極上の質感を誇る、半透明の極薄の布地をただ一枚身体に羽織っているだけであった。その下には下着の類すら身につけておらず、爛漫な陽光から朱色の夕闇へと変わる光の中で、彼女の可憐で淫らな女体が露わになっている。かろうじて肌を覆う薄布は汗と熱気で肌にぴったりと張り付き、豊かな乳頭の突起や、引き締まった小柄なウエスト、そして太腿の付け根の陰影をより生々しく浮き彫りにさせていた。
傍らでは、褐色肌の全裸の奴隷が跪き、大きな扇をゆっくりと仰ぎ続けている。
「ふふ……満ちていく……♡ ローマが、余の楽土が歓喜で満ちていくぞ……♡」
ネロはバルコニーから見下ろす乱交の光景にうっとりと目を細め、気分を高揚させながら、自身の股間へとそっと指先を滑らせていた。薄布越しに浮き上がる秘所の割れ目を、愛おしげに、そして下品にいじり回す。薄い布地が愛液でじっとりと湿り気をおび、指先が粘膜を擦る卑しい水音が、彼女の口から漏れる甘い息遣いと共に小さな響きを立てていた。
至高の芸術家を自称しながら、その実、星光に魅了されて、ただの発情した牝へと成り下がりつつある皇帝の姿。レフはその耐え難い背徳の光景を、暗闇に紛れながら冷酷な視線で見つめ続けていた。
やがて、太陽は地平線の彼方へと沈み込み、日は急速に傾いていった。
上空に鎮座する異様な彗星が青白い光芒を強めるのに呼応するかのように、ローマの空は深々と昏い蒼へと染まり上がっていく。昼の光が完全に潰え、夜の暗闇が街を覆い尽くそうとする中、上空の二つ目の太陽が放つ妖光は、地上を不気味な色彩で染め上げていった。
バルコニーに腰掛けていた皇帝ネロは、爛漫かつ妖しい笑みを浮かべながら、ゆっくりとその場に立ち上がった。極薄の布地一枚を纏っただけの彼女は、恥じらいなど微塵も見せることなく、自らのまろび出る豊満な乳房や、愛液で湿り気を帯びた股間のくびれを眼下の群衆に見せびらかすようにして、鷹揚に両腕を広げて手を振ってみせた。
その合図とともに、バルコニーの周囲や広場に控えていた兵士たちが、一斉に手にした松明へ火を点けていく。メラメラと揺らめく橙色の炎と、上空から降り注ぐ昏い青光。二つの光が混ざり合い、宮殿全体が狂乱を加速させる妖しい光景に包み込まれた。
傍らに控えていた近衛兵が、重厚な錫杖を床の石畳へ向けて力強く打ち鳴らし、ゴンゴン、と重厚な音を響かせる。その打撃音が広間に静寂を呼び込み、下で乱交や酒宴に興じていた貴族、学者、奴隷、商人といった人々が熱狂と快楽に濁った瞳をバルコニーへと向けて、声を落として彼女の言葉を待ち構えた。
ネロは胸を張り、薄布越しに露わになった美しいボディラインを堂々と誇示しながら、爛漫な笑みを広場全体へと投げかけた。
「よくぞ集まった、余の愛しき民どもよ! この至高の夜に、黄金劇場へ集いしすべて者に歓迎の言葉を贈ろう!」
少女のようでありながら、どこか甘く粘り気のある声が広間を揺らす。彼女は指先をすっと上げ、昏い蒼に染まる天頂の彗星を指し示した。
「宣告しよう! 今宵こそ、かの天星が最も美しく、最も力強く輝く歓喜の刻である!
そして……その奇跡のごとき美しさを拝むことができる場所は、他でもない! このローマ皇帝の宮殿、余の黄金劇場を置いて他に存在いないのだ!」
「おおっ! ネロ陛下! 皇帝陛下万歳!」
「至高の芸術家に祝福を! 黄金劇場に栄光あれ!」
鎮まり返っていた広場から喝采が巻き起こる。快楽の毒に侵された人々は、理性のタガが外れたように声を上げ、惜しみない祝辞の言葉を皇帝へと送り届ける。
その熱狂を全身で浴びながら、ネロは満足そうに両手を振む。
「うむ、うむ! 天の主神ユピテルも、この至高の宴を上空から見守っておられるはずだ! なればこそ、余もまた詩人として、芸術家として、この胸の熱を語らねばなるまい!」
ネロは胸元に滑らかな手を当て、うっとりと瞳を閉じながら言葉を紡ぎ出していく。
「あの日……かの箒星が初めて余の視界に飛び込んできた刻、余が何をしていたか知っておるか? 余は歌っておったのだ! このローマの美しさを、芸術の気高さを歌い上げておった! その最中、天を裂いて現れたあの星を見た瞬間、余の全霊に凄まじい衝撃が走り抜けた!」
彼女は目を開き、その恍惚とした眼差しを空へと向けた。
「あの星を見たとき、余が何を感じたか……! それは『完成』だ! 余が追い求め、夢にまで見た至高の美が、あの光の中に宿っておったのだ! 天が賜りしあの星こそ、余の美への信念そのもの!
市政の者の中には、あれを滅びの凶兆などとのたまう者いるようでが、断じてそうではない! 余の楽土を……このローマをさらなる高みへと導く、至高の聖火なのだと、余の魂が激しく叫んだのだ!」
自身の内に湧き上がる情動と美を、ネロは堂々と語り紡ぐ。その最中、通り抜けた夜風に乗って大きな暗雲が昏い空を滑り、天に留まる箒星をすっぽりと包み隠し、空も地上も光が薄れてしまう。
絶妙なタイミングで遮られた天の光景に、ネロは演技がかった動作で豊満な胸に手を作り、痛惜の面持ちで嘆いてみせた。
「……あぁ! さりとて、なんと哀しいことか! この世には未だ、美の本質を知らぬ愚者がごまんと存在する! 余がこれほどまでに魅了された至高の美を、あの哀れな民どもと分かち合えぬことの、なんと悲しく、なんと空しいことか……!」
彼女はバルコニーの淵に歩み寄り、悲劇のヒロインのごとく顔を伏せる。しかし、その声には底知れぬ狂気と自負が混ざり込んでいた。
「余は必死に考えたのだ。かのごとき美の心を知らぬ獣のような者に、いかなる手を用いれば、この至上の美を伝えることができるのかと! 叡智を知らぬ者は、己の狭い知識と偏見の中で誤った考えに囚われ、間違った道へと進んでしまう……。それは美と芸術においても全く同じこと! 美の深さと輝きを知らぬ者は、いかなる至高の芸術を見せようとも知ろうとせず、いかなる道理をも受け入れん! では、そのような頑なで愚かな者の心を変えるには、一体何が必要であるか?」
劇的な間を置き、彼女は胸を張って言い放つ。
「―――それは『権威』だ! 皇帝の権威をもって! 皇帝の美をもって! 彼らの矮小な心を変える他ないのだ!
私、皇帝ネロ・クラウディウスこそは権威であり、法であり、美であり、そして……このローマの『神』なのだからッ!」
ネロはパッと顔を上げ、広場の群衆を見下ろしながら、朗々とした声を響かせた。
彼女の宣言は、まさに狂乱の暴君のごとき全能感に満ち溢れていた。
「神の言葉をもって、彼らの知らぬ心を無理矢理にでも変えてみせよう! 観よ! この皇帝ネロが只人から……ローマの真なる神へと昇華する! 今夜、あの天の光を浴びて、皇帝は神になるのだッ!!」
正気を失った群衆からは割れんばかりの歓声と、狂乱の信仰の叫びが巻き起こった。
その熱狂の渦の中心で、ネロは自分自身の宣言に、そして全身を駆け巡る万能感に酔い痴れるように両腕を大きく広げた。その合図に、傍らに控えていた従者たちが静かに歩み寄り、彼女の身体を覆っていた唯一の薄布をそっと滑り落とす。
はらりと朱色の石畳へ落ちる極薄の布地。そこに露わになったのは、一筋の陰りもない皇帝ネロの完全なる裸体であった。
自身の口にした絶対の言葉、そして何十、百もの熱狂的な視線に全身を射抜かれたことで、彼女の女体は自慰のごとき強烈な快感に襲われていた。石膏の女神像のごとき白く滑らかな肌は朱に染まり、張りつめた両胸の先端、桃色の可憐な乳頭は興奮のあまりコリコリに勃起して硬く尖り出している。引き締まった小柄な腰つきから伸びる太腿の付け根、愛液で濡れそぼる淫らな膣口からは、滾る熱気と共にとろりと透明な愛液の糸が垂れ落ち、彼女の脚を伝っていた。
ネロは己の淫らすぎる女体を惜しげもなく晒し、股間から愛液を溢れさせながら、恍惚とした表情で雲に隠された天頂の彗星を見上げるのだった。まさに飾り立てることなき己の姿こそ、人から神へ昇華するに相応しい姿なのだと、群衆に物語るかのように。
(……浅薄な。実に見下すべき下等生物の極致だな)
それら狂態の宴を、レフは嫌悪の極みをもって庭園の片隅から眺めている。その心の中では、激しい罵倒の言葉が渦巻いていた。
いかに飾られた麗句を並べ立てようとも、結局のところ、かの女がやっていることといえば自分の肉体を見せつけ、群衆の欲望を煽り立てることのみ。あの皇帝は、己の底知れぬナルシズムと露出癖を満たすためだけに愚民どもを呼び寄したのか。そして集まった獣のごとき有象無象もまた、皇帝の言の葉と場の爛れた空気に酔い痴れている。これのどこが、神への昇華の宴だというのか。感想を欠片すら述べるのも惜しい愚行。いっそ今すぐあの女から聖杯を力任せに奪い取り、特異点の異常をいち早く強固にさせるために、目の前の群衆と変わらぬ獣のような愚物へと変えてやろうか。そしてこのローマを時代の流れと逆行する獣の国へと変えてしまおうか。―――レフの胸中に、殺意に近い感情が冷ややかに燃え上がる。
だが、この一瞬、魔神柱たるレフの意識は致命的なまでに緩んでいた。
目の前に立つ聖杯の持ち主があまりにも破天荒で、過剰な自我と魅了を解き放つ存在であったがゆえに、彼の注意は奪われた。彼はより巨大で、より決定的な事象への警戒を怠っていたのだ。ネロという天性の英雄が持つ強烈な存在感が、魔神柱という異形の警戒を逸らした瞬間。それはある意味で彼女の持つ美の勝利であり、同時に、この世界が退廃と崩壊の一途へと向かうことが宿命づけられた、文明の分岐路でもあった。
―――その時、風が吹く。
恍惚とした表情で天を仰ぐネロの視線の先で、天頂を覆っていた分厚い暗雲がさらりと晴れ渡っていく。
雲の隙間から溢れ出したのは、妖しくも神々しい、濃密な紫と蒼が混ざり合った彗星の光。その異質な光芒はローマの街全体を、そして宮殿を、まるで粘つく液体のようにじわじわと侵食し、覆い尽くしていく。正気を失った人々は、その美しくも恐ろしい輝きに完全に目を奪われ、声もなく空を見上げていた。
その光芒が、レフたちが立つ宮殿を真っ直ぐに射抜いた、まさにその瞬間であった。
―――警鐘。
レフの存在の根幹、高次元の生命体であり魔術の化身たる魔神柱としての自我に、あるはずのない生物としての原始的な本能が、激しい悲鳴を上げて鳴り響いた。
全身の皮膚がぞっと粟立ち、全神経が引き千切られるような感覚。それは彼の超然とした理性に、一瞬で不可避の事実を突きつけていた。
(……まともに受けたら殺される! いや、概念ごと『書き換えられる』ッ……!!)
思考よりも速く、レフは己の持ち得る最大の魔術を行使した。全身の回路を極限まで駆動させ、多重構造の強固極まる魔力障壁を肉体の周囲に展開する。昏い星の光が宮殿全体を完全に照らし出したのは、ほんのコンマ数秒後のことであった。
妖しい光に照らし出されたローマの都市。それまで街全体を埋め尽くしていた狂乱の喧騒は、嘘のようにピタリと絶え果てた。光に呑み込まれたその一帯は、嵐の前の不気味な静けさを湛え、ただ重苦しく底知れぬ沈黙だけが支配している。
その静寂のただ中で、レフは死に物狂いで魔力障壁を展開し続けていた。頭上から降り注ぐ昏い光は、彼が構築した多重の魔力障壁に触れた瞬間から、ジワジワと怪異な毒のごとく侵食し、それを力任せに食い破ろうと圧し掛かってくる。その圧力はまるで、深海数千メートルの暗闇に沈んだ船が、全方位からの尋常ならざる水圧によって爆縮し、一瞬で圧し潰されるかのような感覚であった。
「ぐぅッ……!? な、なんだ……この異次元の圧は……ッ!?」
レフは全身から魔力を放出して必死に抗う。人理を焼却する使命を帯びた魔神柱としての矜持を振り絞り、押し寄せる得体の知れない力に抵抗を試みる。
その歪な抗いの代償として、彼の人としての器は内側から崩壊を始めた。皮膚は禍々しい紫黒色へと変色し、みしみしと骨が軋む音と共に、人間の皮を突き破って魔神柱の本体である無数の眼球を孕んだグロテスクな肉塊が、体のあちこちから外へと露出し始める。
やがて、昏い空を再び夜風が吹き抜け、彗星を覆う光がわずかに和らいでいった。
全身を押し潰さんとしていた圧倒的な力が引いていくのを感じ、レフは限界を迎えていた魔力障壁を解いた。
「ハァ……ハァ……ッ……! くそっ……!」
荒い息を吐き出しながら、レフはその場に膝をついた。魔術師としての膨大な知識、魔神柱として積み重ねてきた数多の記憶をもってしても、今起こった現象の理解も、解読も、分析すらも一切不可能であった。ただ一つ、今の彼に理解できる確かなことは、あの妖しい星から異様な力がこの地に降り注いだという事実のみ。
現状を把握すべく、息を整えながら必死に顔を上げた瞬間―――彼の瞳はとある一点に注がれて固まった。
皇帝ネロである。彼女は全裸のまま、陶然とした面持ちで呆けたようにその場に棒立ちになっている。先ほどまで天に誇らしげに掲げられていた白く滑らかな腕はだらんと力なく垂れ下がり、焦点の合わない瞳は空を見上げたまま微動だにしない。まるで天からの不可視の雷に打たれたかのように、魂を抜き取られた木偶と化していた。
だが。静寂は長くは続かない。
不意に、ネロの白く滑らかな肉体の内側が、波打つように粟立つ。まるで皮下に無数の虫がいるかのように、その肉体が気味悪く蠢き始めた。
「……っ、……ぁ……」
狂った肉の蠢きは、瞬く間に彼女の全身へと巡っていく。
次の瞬間、ネロの女体は激しい痙攣を起こした。背筋が限界まで反り返り、白目を剥いて喉を鳴らす。
妖しい星から放たれた光が、彼女の脳髄へ、魂の最奥へと容赦なく侵食していく。ネロ自身の自我や価値観がメチャクチャに解体され、その光の意志を極上の至高と仰ぐように、強引かつ滑らかに再構築されていく―――。
そしてふと、その狂乱の動律が嘘のように静けさを取り戻した。
「……ふ……あ……」
ネロはゆっくりと瞳を開くと、まるで新しく与えられた思考の快楽を噛み締めるかのように、己の肉体をいやらしく、しかし不気味な様子で動かし始める。
指先を妖しく誇示するように蠢かせ、首をゆっくりと傾ける。胸元では立ち上がった桃色の乳頭が小刻みに震え、引き締まったウエストがしなやかにくねる。愛液で濡れていた秘所からは粘つく水音が零れ落ち、雫が太腿を伝っていく。その動きはどこまでも淫靡で官能的でありながら、同時に彼女の心が完全に狂気に侵され、何者かの意志に支配された傀儡と化してしまったことを物語る、背徳的で悍ましい違和感に満ち満ちていた。
やがて艶麗な運動をピタリと止めたネロは、胸元を大きく上下させて深く、甘やかな呼吸を一つ吐き出した。そして、ふとゆっくりと首を巡らせ、物陰に佇むレフの方へと視線を向ける。
その瞳に宿る、皇帝としての冷酷さと不健全な陶酔を孕んだ深遠な光芒に射抜かれた瞬間。レフの全身は、まるで見えない鋼の網で強固に縛り上げられたかのように、指一本動かせず凍りついた。
(……か、身体が……動かん……!?)
魔神柱としての自我、そして魔術師としての全理性が、脳裏で最大級の警鐘をけたたましく打ち鳴らす。
あれは、ただのネロ・クラウディウスではない。肉体も自我もネロ本人のままでありながら、その心はあの昏い彗星の光を直に浴びたことで完全に変わってしまった。ネロという存在の意思そのものが歪められ、人類の理解を遥かに絶する得体の知れない存在―――まさに狂乱の美を撒き散らす災厄の触媒へと変質せしめられたかのようだ。あれは、あまりにも危険すぎる状態であった。
思考を塗り替えられたネロは、元通りの可憐で高貴な声そのままに、うっとりと狂気と悦楽に満ちた唇を歪めて言葉を紡ぐ。
「ふむ……ここは未だ、浅ましい『人』の臭いが強すぎるな。人とは本来、泥に塗れ、本能のままに貪り合う『獣』として振る舞うべきなのだ。それこそが……今宵、この地に咲き誇る最大の美であろう?」
ぱん、とネロが可憐に手を一回叩く。
すると、先ほどまで呆然と空を仰いでいた眼下の群衆が一斉に動きを見せた。まるで精密な仕掛けを施されたからくり人形のごとく、首を同時に「ギギ……」と不自然に傾け、全裸の皇帝を見上げる。
ネロは両腕を広げ、全裸の肉体を惜しげもなく晒しながら、狂乱の言葉を宣告した。
「天からの洗礼の光を浴びし、我がローマの子らよ! そなた達は今や、神の祝福をその身に宿せし栄光の子である! もはやその身を虚飾と見栄、浅ましい理性などで飾る必要などどこにもなし! ただ本能に従ってあるがままに振る舞い、肉の欲得を思う存分に満たすべし!
さぁ……貪り合い、交われッ!!」
その号令が夜の空気に響き渡った瞬間、溜め込まれていた狂気が爆発した。
人々は示し合わせたかのように一斉に身に纏う服を破り捨て、身ぐるみを剥がすと、理性も矜持もかなぐり捨てて手近にいた者へと獣のように抱きつき、肉体を求め合い始めた。
雄は雌を貪り、雌は雄の肉を求めて貪欲に蠢く。貴族も、奴隷も、老いも若きも関係ない。そこかしこで理性を完全に喪失した男女が倒錯的に狂い咲き、地獄絵図のごとき乱交が巻き起こる。
「あぁぁっ! 素晴らしい、素晴らしいぞ、ネロ様!」
「獣になれる……! 私はただの雌犬になれる”ぅ”っ」
硬く反り立つ雄の陰茎が、愛液を滴らせる雌の膣穴を容赦なく穿ち、爛れた膣口が貪欲に陰茎を深く噛み締め、食らいつく。ある者は理性を無くして尻穴を突き出し、そこへ太い肉棒をねじ込まれて濁った快楽の悲鳴を上げた。
あちこちで肉と肉が激しくぶつかり合う生々しい音が響き渡り、愛液と精液、汗の混ざり合った卑しい匂いがローマ全体へドロドロと充満していく。その様はまさに、この世の終わりの狂奔。地中海の頂点に君臨していた偉大なる大帝国ローマの首都は、いまや妖星の光によって、本能のみで交わり続ける動物の都市へと完全に変貌を遂げていたのだった。
身を硬直させたまま立ち尽くすレフは、やがて自らの身体の奥底で生じた決定的な異常に気づき、底知れぬ恐怖に戦慄した。
―――魔力のラインが、途絶えている。
彼を創り出し、使役する偉大にして絶対なる存在―――魔神王ゲーティア。その方との間を繋いでいたはずの不断の魔力パス。それがどういうことか、かの彗星が放つ異次元の力によって、いとも容易く、無慈悲に断ち切られていた。
それはすなわち、彼がこの異界と化した世界に完全なる孤立を余儀なくされたことを意味している。
「そんな……バカな……! ゲーティア様とのパスが……この私が、孤立したというのか……!?」
魔術的なバックアップを失った今、彼自身がその身の内に蓄えている魔力を使い果たした瞬間、レフは魔神柱としての己の形態を維持することも、存在そのものを繋ぎ止めることもできず、ただの霞のように歴史の隙間へと消え去る定めにある。
レフは恐ろしいものを見るかのように、ゆっくりと顔を上げて天を仰いだ。昏い蒼の夜空に高貴なまでに光輝く巨大な流星は、どこかの空へと流れ去ろうともせず、ただ重々しくローマの街を見下ろし続けている。それはまるで、空の覇者たる鷲が、地上で逃げ惑う弱々しい獲物に冷酷な狙いを定め、旋回を続けているかのようであった。
「ふふ……くく……♡」
精神を歪められたネロは、首をこき」と不自然な音を立てて傾けながら、己の白く滑らかな腕を見つめて不満げに呟く。
「……あぁ、足りぬな。この身に滾る圧倒的な力に比べれば、なんとこの器の華奢なことよ……♡」
そう口にした直後のことであった。ネロのしなやかな女体の表面が、まるで沸騰した水のようにぽこぽこと気味悪く泡立ち始めた。
「んッ……ぁぁあッ……♡♡」
甘い喘ぎ声を漏らしながら、彼女の肉体が急速に膨張し、変質していく。
引き締まっていた少女の肉体は、一瞬にして妖艶極まりない熟成された大人の女体へと再構築されていった。
歪んだ存在への忠愛が高まるにつれ、それを体現するかのように豊満さを増した乳房は爆発的な質量を得て大きく膨らむ。バストサイズは巨乳を越え、爆乳の域へと至り、もはや普通の人間の規格を逸脱した超絶的な肉感へと変貌を遂げる。はち切れんばかりに張り詰めた巨大な双丘の頂点には、濡れて勃起した巨大な桃色の乳頭が主張するように突き出し、狭まったくびれから広がる太腿と尻は、男を狂わせる卑しい肉の厚みを帯びていた。生々しくもどこか神々しい、淫魔そのものの女体。
ネロは、うっとりと己の豊かな胸を揉みしだくと、ふと足元に転がっていた聖杯を細い指先で拾い上げた。
そして、茫然自失となったレフに見せびらかすように、黄金の杯を高く掲げて見せる。
「喜ぶが良い、異界の道化よ。貴様は今、特等席でこの世の至高なる変革を目の当たりにしておるのだ。人々が真なる美、獣の理に目覚め、真なる肉の喜びを得る瞬間! このローマはいずれ、天より降り注ぐ星の光を受け、偉大なる神の子を産み落とすための……至高の苗床となるのだからなぁ……♡」
ネロは爛漫な、しかし底知れぬ狂気に満ちた笑みを浮かべると、惜しげもなく極上の脚を大きく左右に開いて見せた。
露わになったのは、愛液で濡れそぼり、うっすらと赤みを帯びた大人の女の秘所。ネロはその膣口の真下に黄金の聖杯を据えると、長くて白い指先を伸ばし、己の膣口を「くぱぁ」と卑しく左右に押し広げる。
そしてなんら躊躇することなく―――聖杯の中へ向けて黄金の小水を勢いよく注ぎ始めたのである。
じょわわわわわっ……♡
「あぁ……っ♡♡♡ お”っ……ぉ”ぉ”っ……♡♡♡」
静まり返った夜の高台に、聖杯の黄金の縁を容赦なく叩く卑しい放尿の音が、あまりにも生々しく重低音となって響き渡る。
皇帝として、女としての尊厳などどこへやら、ネロは己の股ぐらを大きく広げたまま、惜しげもなく黄金の聖液を排出し続けた。尿道口から放たれる温かな水流が秘所を濡らし、黄金の縁に跳ね返るたび、その官能的な刺激が背筋をゾクゾクと駆け上がっていく。
「ふぁ……あぁんっ♡ 出て、おる……排泄の快楽が、たまらんぞ……♡」
膀胱が収縮し、溜め込まれていた熱い小水が溢れ出る感覚そのものが、狂わされた彼女の脳髄へ至上の快楽として押し寄せる。快楽に打ち震え、まるで極上の交わりを迎えているかのように、ネロは口元から溢れる透明な唾液をダラダラと垂らしながら、濁った声を漏らした。
放尿の勢いが衰えない中、欲望の火に油を注ぐように、彼女は空いた方の手で己の濡れそぼる秘所へと長い指先を這わせた。愛液と尿でドロドロに塗れた膣口を、指先で容赦なく激しく捏ね繰りまわす。
「ん”ぉ”ぉっ”っ♡♡♡♡ おっ”ほぉ”ぉぉ”♡♡♡」
指先が秘肉を擦り上げるたび、「くちゃ……じゅぷ、じゅぽ……っ」と粘りつく卑しい猥音が小水の排泄音に混じり合って鼓膜を汚していく。膣内から湧き出る濃厚で熱い愛液が、黄金の小水と混ざり合いながら、線を描いて聖杯の中へとポタポタと滴り落ちていった。
自らを生贄にし、自らの体液で聖杯を汚染する背徳の快感。ネロは熱く火照った吐息を撒き散らしながら、さらにとどめとばかりに、愛液で滑る二本の指先で、皮から露出しカチカチに硬く肥大したクリトリスをキュッと強く挟み込み、圧迫するように摘み上げた。
「ひぁっ……んお”ッ……♡♡ お”ぉ”ぉ”お”ッ……イッ”グゥゥ”ゥゥ”♡♡♡」
脳天を突き抜けるような苛烈な痺れが全身を駆け巡る。背筋が弓なりに限界まで跳ね上がり、つま先を狂ったようにピンと立ち開かせながら、ネロは身体をガクガクと激しく強張らせて絶頂へと達した。ビクビクと痙攣する女体から放たれる最後の数滴が、聖杯の波紋を微かに揺らしていた。
ビクビクと痙攣する女体から放たれた最後の数滴が聖杯に収まると、彼女は息を荒げながら、小水と粘り気のある愛液で満たされた聖杯を持ち上げた。
「ふふ……ははははッ 祝福を受け取るが良い、我が愛しき獣どもよッ!」
ネロは狂気の大笑いを上げながら、聖杯の中に溜まった自らの聖水と体液の混ざりものを、バルコニーの下で乱交に興じる群衆に向けて豪快に撒き散らした。
黄金の液体を頭から浴びた人々は、狂喜乱舞の叫びを上げる。
「うおおおッ! 神の恵みだ! 聖水だぁぁっ!」
「あぁぁっ、なんといやらしい! 皇帝陛下の小水! 金色のおしっこだぁぁっ!」
顔面や口内に直接聖水を浴びた者たちは、ドロドロに混ざり合った体液の匂いに顔を綻ばせ、喉を鳴らしてそれを貪り飲んだ。
聖水という名の劇薬を身体中に浴びたことで、人々の正気は最後の一片まで摩耗し尽くされていく。すでに理性を失っていた群衆の動物的な交わりは、さらなる拍車をかけて過熱の一途を辿っていった。
「寄こせ! 私にもその聖水を吸わせろッ!」
「あぁぁんっ! 誰のでもいい、早く私の中に突っ込んでぇぇッ!!」
男たちは己の硬直した肉棒を、目の前で尻を突き出す女たちの膣穴や尻穴へ、容赦なく根元まで力任せに打ち込み、突き上げる。
女たちは愛液と聖水を混ざり合わせた液体を太腿からダラダラと垂らしながら、快楽のあまり白目を剥いて舌を出し、ただひたすらに雄の種を求め続けて腰を振る。それだけに留まらず、地べたに這いつくばった男女が、互いの陰部や排泄口に直接顔を埋め合い、貪るように体液を舐めしゃぶり合う地獄絵図があちこちで同時に発生していた。
精液と愛液、排泄物と汗の混ざり合った汚濁の臭気が立ち込め、肉と肉がぶつかり合う「パンパン」という生々しい水音が、広場全体の空気を震わせる。
そして、その地獄のような狂乱の中心で高笑いするネロの肉体にも、さらなる異形と淫魔の変容が押し寄せていた。
「はは……あぁ、滾る……満たされていくぞ……ッ♡」
人々の放つ濃厚な性欲と狂気を吸い上げるかのように、ネロの豊かな胸元は「ドクン、ドクン」と大きく鼓動し、111センチの爆乳が自重に耐えかねてたわわに揺れ動く。
張り詰めた皮膚を押し破らんばかりに肥大化した桃色の乳頭からは、快楽による汗が滴り落ち、引き締まった腹部を伝っていく。太腿と尻の肉付きはより一層男を惑わす豊満さを増していった。
さらには、うっとりと開かれた彼女の額から、皮膚を突き破って禍々しくも美しく光る2本の短い角が、ミシミシと不自然な骨鳴りを立てて伸びていく。悪魔であり、獣であり、そしてローマそのものを支配する淫乱な獣の神としての肉体が、完成されつつあった。
レフは、目の前で繰り広げられる惨状のすべてに、そして自らの身に巻き起こった決定的な絶望に、ただただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
人理を焼却し、歴史を破滅させるはずだった己の企ては破綻した。
これからこのローマで、職務も理知も捨て、歪んだ愛と本能だけに生きるネロによって引き起こされる未曾有の崩壊と混沌を前に、魔神柱レフ・ライノールはただただ、悄然と膝を折るしかなかったのだった。
賢者メモ
今日からまたしばらくお世話になります。
あまり話を引き延ばさないように気をつけながら、あっさり濃厚に話を仕上げられるようにがんばって参ります。
余談ですが、第三特異点編のプロットは作成済みです。第二特異点編の校正が片付き次第、本編執筆も再開する予定。