いつものように、人事部のフロアにはパソコンのキーボードを叩く規則的な音だけが響いていた。
各務は他の事務職員たちに紛れ、薄い表情のまま淡々と書類に目を通していた。きっちりと着こなしたパンプス姿の彼女は、今日も社内を律する「静かな人事」そのものだった。
そこへ、営業部の若手係長が賑やかな足取りでフロアにやってきた。
「皆さん、お疲れ様です! 来週金曜の夜、空けておいてくださいね。今年の新人歓迎会、合同で盛大にやることになりましたから!」
そこそこ名の通ったこの企業。今年の採用人数は例年よりも一段と多く、新入社員の熱気も手伝って、今回は複数の部署を巻き込んだ大宴会にするのだという。
「えっ、本当ですか? 営業部の人たちも来るなら楽しそう!」
「今年の新人、可愛い子多いって噂ですよね」
「企画部のとこに入ったのはイケメンらしい」
係長の呼びかけに、周囲の事務職員たちが一気に沸き立つ。デスクワークの退屈な空気が、一瞬にして華やかなイベントの予感で満たされていく。
係長は事務所の反応に満足げに頷くと、最後にデスクの端に座る各務へと視線を向けた。
「各務さんも、もちろん来てくれますよね? 人事が顔を出してくれないと、新入社員たちも緊張しちゃいますから」
普段ならこうした騒がしい席を断りそうな彼女に、係長は少し探るような、しかし期待を込めた目を向ける。社内の「有能株」と自認するのこの係長もまた、彼女のスーツの下に隠された抜群のプロポーションに、密かに目を奪われている男の一人だった。
各務はキーボードを叩く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
相変わらず感情の読めない一重瞼の瞳が、係長をじっと見つめる。
「……そうですね。彼らの馴染み具合を見ておくのも仕事のうちです。参加させていただきます」
抑揚のない、いつも通りの事務的な声。
しかし、周囲の男性社員たちが「おぉ!」と歓声を上げる中、各務はほんの少しだけ、つまらなさそうな視線を自分のデスクの引き出しへと落とした。
昼前の、張り詰めたフロアから逃れるように、各務は一人で休憩へと席を立った。
廊下の角、自動販売機へと続く物陰に差し掛かったその時、対向から歩いてきた人影と危うく衝突しそうになる。
「あ、すみませ――」
想定外の事態に各務が、一瞬だけバランスを崩した。
床へ倒れ込もうとした彼女の身体を、咄嗟に伸びてきた逞しい腕が、鋭い反射神経でしっかりと抱きとめる。
「おっと……! 大丈夫ですか」
耳元で響いたのは、少し低めの、しかし実直さを感じさせる爽やかな声だった。
各務がゆっくりと目を開けると、すぐ目の前にあったのは、端正で誠実そうな顔立ちをした男の顔だった。今年、キャリア採用枠で入社してきた若手、
普段は物腰柔らかく、誰に対しても礼儀正しい好青年として通っている柴。しかし、こうして至近距離で身体を密着させてみると、その印象は一変した。
既製品のスーツがきつく見えるほどに、彼の肩幅は広く、胸板は驚くほどに厚い。自分を支えている腕は丸太のように太く、各務の背中に回された手のひらは、熱く、そしてひどく大きかった。
そのがっしりとした雄々しい体つきから、男としての圧倒的な質量が、スーツ越しに各務の肌へと伝わってくる。
「……すみません。ぼんやりしていました」
各務は、男の胸に抱かれた状態のまま、いつも通りの抑揚のない声で言った。
普通なら慌てて身体を離すようなシチュエーションだが、彼女の瞳には動揺の色が一切ない。むしろ、その涼しげな一重瞼で、自分を抱きかかえている柴の逞しい腕をじっと見つめている。
「いえ、僕の方こそ前をよく見ていなくて。……怪我は、ないですか?」
柴は目を少し揺らしながら、各務の顔を覗き込んだ。
彼の腕の中には今、噂の先輩OLがいる。しかも、そのスーツの上からでも伝わってくる彼女の身体の起伏、柔らかく豊かな乳房が自分の胸に押し潰されている感触に、柴の耳の裏がわずかに赤く染まっていく。
各務は、柴の心臓の鼓動がにわかに速くなったのを感じ取っていた。
「はい。柴さんが受け止めてくれたので」
各務はそう言って、ようやく柴の身体からゆっくりと離れた。乱れたブラウスの襟元を、感情の消えた指先で静かに整える。
「来週の歓迎会、柴さんも来ますよね?」
「え? あ、はい! 声をかけていただいたので参加します」
突然の質問に、柴は少し緊張したように背筋を伸ばして答えた。
「そうですか。楽しみにしています」
各務はそれだけ言うと、一礼して再び無表情のまま歩き出した。
すれ違いざま、彼女から清涼感のある香りが柴の鼻腔をくすぐる。
残された柴は、自分の手のひらに残る、各務を抱きとめた時の信じられないほど柔らかい感触と、どこか甘い香りの余韻に、しばらくその場から動けずにいた。
喧騒に包まれた昼時の社員食堂。
同じ部署の先輩社員たちに誘われた柴はテーブルを囲み、日替わり定食のボリューミーな唐揚げを口に運んでいた。
「――でさ、今年の新人歓迎会、営業の奴らも来るから相当デカい規模になるらしいぞ」
先輩の一人が、ビールを煽るようなジェスチャーを交えながら楽しげに話しかけてくる。男ばかりが集まれば、話題が自ずと社内の女性陣へと向かうのは世の常だった。
「歓迎会っていえば、今回は事務所の女性陣も結構来るんだろ? 事務職の子たち、レベル高いからなぁ。お前、誰か気になる子いないのかよ、柴」
話を振られ、柴は箸を止めた。
「いえ、僕はまだ入ったばかりで、そこまで詳しくお話ししたことは……」
「相変わらず真面目だな。まぁ、事務職の若い子たちも可愛いけどさ……」
別の先輩が、周囲に聞こえないよう少しだけ声を潜め、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「やっぱり、男なら一度は『各務さん』を意識しちゃうよな」
ドクン、と柴の心臓が小さく跳ねた。脳裏に、先ほど物陰で抱きとめた、あの冷徹な美女の姿が鮮烈に蘇る。
「各務さん、ですか……」
「そう。無表情でさ、メイクも薄くて愛想なんてこれっぽっちもないんだけど……あの身体は反則だろ。スーツの上からでも分かる、あの胸と腰のライン。営業の奴らなんか、すれ違うたびに目で追ってるぞ」
「でもさ、噂だとあの人、結構『奔放』らしいぜ?」
さらに別の先輩が、ニヤニヤしながら身を乗り出してきた。
「え……噂、ですか?」
柴は思わず、持っていた湯呑みを握る手に力を込めた。誠実な彼としては、そうした根も葉もない陰口の類は嗜めるべきだと思いつつも、男としての本能が、彼女のプライベートな情報に強く惹きつけられてしまう。
「あぁ。社内の有能な奴、何人かもう『お世話』になってるって話だ。出来の良い男を、人知れずケアしてやってる、とかさ。まあ、あの胸で迫られたら、どんな男でもイチコロだけどな」
「おいおい、柴に刺激が強すぎるだろ」
先輩たちはガハハと下品に笑い合い、次の話題へと移っていった。
しかし、柴の耳にはもうその後の会話が入ってこなかった。
――お世話、奔放、人知れずケア。
あのとき腕の中で感じた、信じられないほど柔らかく豊潤な肉体の感触。そして、自分をじっと見つめていた、あの感情の読めない涼しげな瞳。
(各務さんが、本当にそんな……?)
柴はごくりと喉を鳴らし、残りの白米を胃袋へ流し込んだ。来週の歓迎会で、彼女は一体どんな顔をして自分の前に現れるのだろうか。柴の胸の中で、不埒な期待と緊張が、静かに膨らみ始めていた。
廊下の奥、薄暗く周囲からの死角になっている給湯室。
各務が空になったマグカップを洗おうと流しに立つと、背後から音もなく人影が忍び寄ってきた。
「各務さん、さっきは冷たい態度だったじゃないですか。」
振り返る間もなく、耳元で低く粘り気のある声が囁いた。歓迎会の誘いを持ってきた、あの営業部の係長だった。
社内では「それなりに仕事の出来る男」として通っている係長だが、その目は今、卑猥な欲望でどろりと濁っている。周囲に誰もいない給湯室という密室が、彼の理性を麻痺させているようだった。
各務にとって、この男は完全に眼中になかった。自分の好みとも異なる、真に猛々しく磨けば光る原石ではない。しかし、向こうは各務を色欲の強い目で見ており「大人の遊び」の対象として、手慣れた様子で落とせると思い込んでいるらしかった。
「……何か御用ですか、係長」
各務は流しの蛇口を閉めることもせず、冷淡な声のまま尋ねる。
すると係長は、待ってましたとばかりに各務の背後へ完全に身体を密着させてきた。安っぽい男物の香水の匂いが、狭い空間に広がる。
「そんなに警戒しなくていいですよ。歓迎会の後、二人で抜けて……僕の『ケア』も、してくれるんでしょう?」
係長はそう囁きながら、各務の脇から滑り込ませるようにして、手のひらで彼女の左胸を横からぐっと一撫でした。
衣服の上からでもはっきりと分かる、信じられないほどの質量と弾力。想像以上の肉の厚みに、係長の指先が歓喜でピクリと震える。
「思った通り、すごい身体だ……。こんな服の下に、そんなもの隠してるなんて、本当に煽り上手ですね。」
臀部に押し付けられる男の熱。そして、胸を弄る下品な手つき。
普通なら悲鳴を上げるか、激昂して男の手を振り払う場面。しかし、各務は流しのタイルを見つめたまま、やはり眉一つ動かさない無表情のままでいた。
「あ、すみませーん。 さっきの件なんですけど――」
その時、廊下のすぐ近くから、よく通るハキハキとした声が響いてきた。
「……っ!?」
余裕を気取っていた係長の身体が、目に見えてビクついた。
社内での立場がある身だ。給湯室で女性を組み敷こうとしている現場を見られるわけにはいかない。
「ちっ……。また今度な、各務さん」
係長は忌々しげに舌打ちすると、各務の胸から慌てて手を引き、足早に給湯室をすり抜けて廊下へと退散していった。
一人残された給湯室で、各務は流しに視線を落としたまま、静かにブラウスの皺を伸ばした。
先ほど男に触れられた胸には、不快感すら湧いていない。彼女にとって、あの係長はただの背景の一部に過ぎなかった。
蛇口を閉め、ゆっくりと給湯室から出た各務。
すると、少し離れた曲がり角の手前で、こちらを振り返ることもなく、あえてドタドタと大きな足音を立てながら遠ざかろうとしている、がっしりとした広い背中が目に留まった。
柴だった。
彼はきっと、給湯室の中の不穏な気配に気づいたのだろう。そして、わざと近くから声をかけ、男が去ったのを見計らって、自分がその場にいたことを悟られないように気を使って立ち去ろうとしているのだ。
誠実で、少し不器用な優しさ。
各務は、遠ざかっていく柴の大きな背中を見つめながら、感情の出ないいつもの顔の裏側で、じんわりとした熱が胸に宿るのを感じていた。
(……柴君、ね)