例年以上の採用人数を象徴するように、今夜の歓迎会のために貸し切られた居酒屋の大広間は、圧倒されるほどの広さだった。
すでに会場は、熱気と酒の匂い、そして無数の話し声で満ち満ちている。良くも悪くも個性豊かな新人たちは、それぞれの配属先の先輩社員たちに半ば強引に呼び寄せられ、次々と席に据えられていった。
そんな喧騒から少し離れた、壁際の隅の席に柴の姿はあった。
仕事の覚えが早く、彼はすでに配属先でも「期待の中途」として一目置かれている。しかし、その有能さがかえって妬みを買い、気の小さな人たちに「あいつは危険」と判断されたのか、男ばかりのむさ苦しい卓に自然と追いやられ、彼の座る周辺はどこか落ち着いた空気だった。
更に、柴のすぐ隣の席は、ぽつんと不自然な空白を作っている。
「悪いな、柴。ちょっと席が偏っちゃってさ」
目の前に座る配属先の先輩社員が、ジョッキを片手に苦笑いしながらコソッとフォローを入れてきた。
「いえ、僕は隅っこの方が落ち着くので大丈夫です」
「そう言ってもらえると助かるよ。ほら、あそこの空いてる席とかさ……」
先輩が顎で示した先には、柴の隣を含め、フロアの各所にちらほらと不自然な空白席があった。
「アレ、これから少し遅れてやってくる女性陣とかを座らせるために、営業とか幹事連中が意図的に空けた席なんだよ。ほら、一つの席に固まっちゃうと、盛り上がらないだろ?」
「なるほど、そういうことですか」
柴は納得したように頷き、手元のウーロン茶に口を付けた。誰が隣に来ても失礼のないようにしようと、少しだけ背筋を伸ばす。
「すみませぇーん、遅くなりましたぁ〜〜」
その時、大広間の分厚い襖がガラガラと音を立てて開いた。
業務を終え、少し遅れて到着した事務所の華やかな一団が、室内に滑り込んでくる。おお、と一気に跳ね上がるフロアのボルテージ。男たちの視線が入り口に集中する中、柴もまた、自然とそちらへ目を向けた。
一団の少し後ろから、いつものように感情の読めない薄いメイクの顔で、静かに歩いてくる女性の姿があった。いつものスーツ姿の各務だった。
幹事達は女性陣を恭しく迎えると、空いてる席へ自然を装って促す。意図的に空けられた席に座るしか選択肢がなく、一人、また一人と着席してはその周辺で歓迎の声が上がる。
男性社員たちが「各務さん、こっち空いてますよ!」と声をかけるのを完全に無視し、彼女は迷いのない足取りで、柴のいる壁際へと歩き始めた。
迷いのない足取りで柴の隣へと滑り込んだ各務。
社内でも一際目を引く抜群のプロポーションを持つ彼女が、隅の席、それも中途新人の柴の隣を選んだことに、周囲の男たちの間で一瞬だけ静まり返るような視線の交錯があった。
しかし、宴会の最高潮に達した熱気は、すぐにその違和感を飲み込み、再び大きな喧騒へと戻っていく。
「あ、各務さん……。そっち、端っこですけど、大丈夫ですか?」
目の前に座る先輩社員が、おそるおそる声をかける。まさか噂のOLが自分たちの地味なテーブルに来るとは思わなかったのだろう。隣の柴に至ってはは、事態をまだ呑み込めておらず、完全に呆然としていた。
すぐ隣から、清涼感のある香水の匂いがふわりと漂ってくる。横目で盗み見れば、スーツのジャケット越しでも分かる豊かな胸の膨らみが、すぐ手の届くところにあった。
各務は、呆然とする柴や戸惑う先輩社員を他所に、手元のおしぼりで静かに手を拭いた。そして、相変わらず感情の読めない涼しげな瞳を柴へと向ける。
「こんばんは、柴君。ここ、空いていたので」
抑抑のない、しかしどこか鼓膜の奥を優しく震わせるような声。
各務は自分のグラスにウーロン茶を注ぐと、それを柴のグラスへと軽く近づけた。
「給湯室のときは、ありがとう。助かりました。」
周囲の喧騒にかき消されるほどの小さな声で、彼女は囁いた。
「いえ、そんな……。お役に立てたなら良かったです。」
「偉いですね。そういう気遣いができるところ、とても好感が持てます。」
無表情のまま、各務はトーンを変えずにそう言った。お世辞にも色気があるとは言えない薄メイクの横顔。だが、一度視線を下げてしまえば、起伏に富んだ彼女の身体のラインが嫌でも視線を固定させる。
「今日は無礼講です。遠慮しないで下さいね。」
たゆんと胸が重たげに揺れ、初めて柴は視線を上げることが出来た。そこにはやはり、表情の薄い各務の顔があり、こちらを確りと見つめていた。
各務の口調は相変わらず淡々としていたが、話してみると仕事への姿勢や物事の捉え方が驚くほど柴と噛み合った。実直で真面目な柴の意見を、各務は否定もせず、その冷徹に見える瞳の奥で深く肯うようにして聞いてくれる。
「柴君は、自分の頭でちゃんと考えて動ける人ですね。人事として、君を採用したのは正解でした」
「そんな、勿体無いお言葉です。でも、各務さんにそう言っていただけると自信になります」
気がつけば、柴の肩の力はすっかり抜けていた。最初の緊張はどこへやら、彼女との会話が心地よくて、自然と笑みがこぼれてしまう。
しかし、そんな二人の和やかな(そして妙に親密な)空気を、正面から恨めしそうに見つめる視線があった。
「……あー、柴。各務さんばっかりと話してないで、ほら、こっちのサラダも食えよ。各務さんも、営業のやつらと話さなくていいんですか?」
目の前の先輩社員が、あからさまに会話に割り込もうと、未練がましく声をかけてくる。各務を地味目な後輩の柴に独占されているのが、男として面白くないのだろう。
「いえ、私はここで十分です」
各務は先輩社員の顔を見ることすらせず、無表情のままぴしゃりとシャットアウトした。あまりの冷淡さに、先輩社員は「あ、そう……」とグラスを握りしめて黙り込むしかない。
(……す、すみません、先輩)
柴は心の中で平謝りした。彼としては先輩を蔑ろにするのは心苦しかったが、それ以上に、隣から伝わってくる各務の熱が、彼の理性を麻痺させつつあった。
柴がどぎまぎしながらもその熱を拒めずにいると、各務はグラスに口をつけながら、誰にも聞こえない囁き声で、柴にだけ聞こえるようにこう告げた。
「歓迎会、もうすぐ一次会が終わりますね。……柴君、二次会も付き合ってくれませんか?」
一次会が終わり、どっと流れるように移動した二次会の会場も、営業部の面々が張り切って手配しただけあって、かなりの広さを持つ居酒屋だった。
入り組んだ座敷のあちこちから、すでに威勢のいい声が上がり始めている。
各務は喧騒の隙間を縫うようにして、迷わずフロアの最も深い隅の席をキープした。そして、周囲の男たちが声をかける隙を与える間もなく、流れるような手つきで柴をすぐ隣の席へと招き入れる。
「柴君、ここへ」
「あ、はい……失礼します」
柴がそのがっしりとした身体を小さく丸めるようにして隣に腰を下ろすと、各務は「ふぅ……」と小さく、誰にも聞こえないほどの吐息を漏らして一息ついた。
きっちりと留められたブラウスの胸元が、息を吸うたびに豊かな起伏を描いて大きく上下する。一次会の座敷よりもさらに距離が近くなったその空間で、各務のスーツの下に隠された圧倒的な肉体の質量が、柴の太腿や腕へとダイレクトに押し付けられた。
「騒がしいのは、少し苦手なんです。……付き合ってくれてありがとう、柴君」
各務の一重瞼が、心なしか柔らかく柴を見つめる。薄いメイクの横顔は相変わらず冷静そのものだが、近くなったことで彼女の豊かすぎる胸は構え構えとでも言うように柴の腕にぷよんぷよんと触れていた。
柴はごくりと喉を鳴らし、自分の心臓の音が各務に聞こえてしまうのではないかと、ただただ緊張を募らせるしかなかった。
「おー、各務さんこんなところにいた! 探したよー!」
せっかくの静寂を破るように、酒が回って赤ら顔になった営業部の男たちが、ぞろぞろと隅の席へ押し寄せてきた。
彼らの目的は当然、各務だ。しかし、彼女の隣にがっしりとした体躯の柴が当然のように収まっているのを見て、男たちの目が嫉妬混じりの色に変わる。
「なんだよ柴、お前ちゃっかり各務さんの隣キープしてんじゃねえよ!」
「生意気だぞ新人!」
あからさまな先輩風を吹かせながら、男の一人がドカンとテーブルに満タンのビールジョッキを叩きつけた。
「よし、歓迎会の洗礼だ! お前がどれだけ飲めるか、俺たちと勝負しろ!」
「えっ、あ、いや……」
突然の絡みに柴が困惑していると、隣の各務の空気が一瞬で冷え切るのが分かった。しかし、彼女が口を開くより早く、男たちは「いいから飲め!」「一気! 一気!」と、悪ノリのコールを始め、柴を完全に巻き込んだ一気飲み対決の火蓋が切って落とされてしまった。
柴は、ここで場を白けさせるわけにはいかないと腹を括った。
「……分かりました。いただきます!」とジョッキを掴み、逞しい喉を大きく鳴らしながら、並々と注がれたビールを凄まじい勢いで煽っていく。がっしりとした胸板が、息を吸うたびに大きく波打つ。
「おおっ、やるじゃねえか!」
「負けるな、次だ次!」
次々と追加されるジョッキ。営業マンたちを相手に、柴は持ち前のタフさで一歩も引かずに応戦する。その男らしく猛々しい飲みっぷりに、周囲のコールはさらに加熱していく。
「う、嘘だろ……こいつ、どんだけ底なしなんだ……?」
次々に空になっていくジョッキを前に、営業部の男たちの顔から余裕が消え失せていった。
彼らの目的は、新人の柴を潰して潰し、潰れかかったところで体よく席から引き剥がし、各務の隣という「特等席」を奪い取ること。そしてその男たちの中心には、かつてオフィスの給湯室で各務に迫った、あの営業部係長の姿もあった。
係長はニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべ、柴に何杯も強い酒を強要していたが、徐々にその表情が引き攣り始める。
当の柴は、少し顔を赤くしてはいるものの、身体を微塵も揺らすことなく、差し出される酒を淡々と、かつ豪快に喉へと流し込み続けていた。まさに蟒蛇(うわばみ)。体育会系で鍛えた強靭な肝臓とタフな体躯は、営業マンたちの姑息な計算を遥かに凌駕していた。
「……ふぅ。ごちそうさまです。先輩方、次はどうしますか?」
柴が涼しい顔で空のグラスを置くと、すでに限界を迎えていた営業の男が一人、無様に畳の上へ沈没した。係長もまた、自分の企みが完全に崩れ去ったことを悟り、額に脂汗を浮かべながら「あ、いや……もう、十分だろ……」と、力なく後退りするしかなかった。
「素晴らしい飲みっぷりですね、柴君」
その様子を冷徹な目で見つめていた各務が、初めて口を開いた。彼女は完全に腰が引けた係長を一瞥すら探さず、そっと柴の背中に細い手を添える。
「皆さん、もう満足されたでしょう? 柴君をあまりいじめないでください」
口調こそ淡々としているが、その言葉には周囲を拒絶する絶対的な冷たさがあった。係長は各務の冷酷な瞳に射すくめられ、思惑を見透かされたような感覚に襲われ、這う這うの体でその場を離れていく。
「……すみません、各務さん。お見苦しいところを」
「いいえ。とても男らしくて、素敵でしたよ」
各務はそう囁くと、柴の耳元にそっと唇を近づけた。彼女の胸はひしゃげる程に柴の腕に触れていたが、周りが気付くことは無かった。
「各務さん、三次会はどうする? まだまだ行くぞ!」
生き残ったわずかな営業部の面々が、千鳥足で声をかけてくる。しかし、各務はすでに立ち上がり、自分のバッグを肩にかけていた。
「申し訳ありません。柴君が思いのほか酔っているようですので、私はここで失礼します。彼の家の方角も同じですから、私が送っていきます」
そう淡々と告げると、各務はまだしっかりと意識がある柴の横に寄り添い、華奢な肩に彼の逞しい腕を回した。
「あ、各務さん……俺、まだ大丈夫です……」
「いいえ、無理をしないで。あれだけ飲んだのですから、当然です。」
柴の言葉を遮るようにして、各務は彼の腰に手を回し、身体を引き寄せる。各務の豊かな胸の膨らみが、今度は柴の脇腹にむにゅっと押し付けられていた。
「そ、そうか……各務さんがそう言うなら、仕方ないな。柴、しっかり送ってもらうんだぞ」
自分らが仕掛けた手前、誰も各務の決定には逆らえず、先輩たちは羨ましそうにしながらも諦めて夜の街へと消えていった。
集団が遠ざかり、駅へと向かう静かな夜道。各務は柴の腕を肩に回したまま、歩調を緩めた。一重瞼の奥の瞳が、街灯の光を反射して妖しくきらめく。
「……お芝居に付き合わせてしまってごめんなさい。でも、これでやっと二人きりになれましたね」
各務は柴の顔を見上げ、いつもより一段低い、濡れた声で囁いた。得体のしれない心地良さが、柴の背筋を這った気がした。