魔法少女がZ指定なんて、聞いてないんですけど?! 〜死にぞこないの燃費戦争〜 作:nelldrip
十五年間、白い壁の中だけで生きてきた少女は、自分の心臓が止まっていく音を、天井の近くから、他人事のように聞いていた。
もう、痛くない。冷たくもない。
ただ、歩いたことのない土と、開いたことのない扉のことだけが、ぼんやりと心に残って。
そんな彼女の前に、それは現れる。
深夜アニメに出てきそうな、愛らしいマスコット。
死の現場には、あまりにも似つかわしくない姿で。
「ボクと契約して、魔法少女になってよ」
——ふざけている、と思った。
怪しすぎる、とも思った。そういう存在に裏があることくらい、病室のテレビで散々学んできた。
けれど、悩む時間は与えられなかった。
騙されて地獄に落ちるのが先か。
このまま、静かに消えるのが先か。
これは、そこから始まる物語である。
※ガチガチ医療描写でいくです。苦手な人は回れ右。
朝方の激しい発作から、およそ六時間が経過していた。
ICU(集中治療室)の張り詰めた空気の中、絶え間なく鳴り響く電子音と、人工呼吸器が送り込む機械的な空気の音だけが、生と死の境界線をかろうじて繋ぎ止めている。
ベッドに横たわっているのは、一人の少女。
生まれながらに重度の心筋症を始め、複数の心臓疾患を患い、十五年の生涯の大半を、この白い壁に囲まれた病院のなかで過ごしてきた。
彼女にとっての世界とは、窓の外に広がる切り取られた空と、白衣の大人たち、そして自らの胸の内で不規則に暴れる、出来損ないの心臓そのものだった。
すでに、三度の心停止をくぐり抜けている。
しかし、彼女の意識――いや、肉体を離れた「魂」は、天井に近い場所から静かにその光景を見下ろしていた。
二度目の心停止が起きたその瞬間、限界を迎えた肉体は魂を繋ぎ止める力を失い、彼女はふわりと浮かび上がってしまったのだ。
「……あぁ、わたし、もうダメっぽいなぁ…」
点滴の管に繋がれ、青白い顔で、裸にタオルだけかけられたような姿で眠る、自分の身体。
必死に蘇生を試みる医師たちの緊迫した表情。
それらを客観的に眺めながら、彼女の魂はきわめて冷静だった。
冷たさや辛さはもう感じない。ただ、ガラス一枚を隔てた向こう側の出来事を見ているかのような、奇妙な静けさだけがあった。
身体に残された猶予は、もうほとんどない。
次に心臓がその動きを止めれば、もう二度と、あの肉体に灯りがともることはないだろう。
医師たちの懸命な治療も、医療機器の警告音も、すべては静かに終わりを迎える。
その事実を、彼女は魂の深いところで、なんとなく、けれど確信を持って悟っていた。
十五年間、ずっと苦しめられてきた病。
いっそこのまま、どこか遠くへ消えてしまえたらどれほど楽だろう。
そんな思いが頭をよぎる一方で、心残りがないわけではなかった。
開いたことのない病院の重い扉、歩いたことのない外の土、そして、自分のために涙を流してくれる人たちのこと。
自分の心臓の限界を告げるアラームの音が、再び一段と高く響き渡る。
少女の魂は、静かに揺れながら、自らの最期の選択の時を待っていた。
「――子音(しおん)」
不意に、名前を呼ばれた気がした。
耳で拾った音ではない。
剥き出しになった魂の輪郭に、直接しんと染み込んでくるような、子どものような、妙に透き通った声だった。
(……だれ?)
子音は天井近くで浮かんだまま、振り返り、声のした方を視線で探った。
けれど、そこには誰もいない。ICUの緊迫した空気は変わらず、医師や看護師たちはベッドの上の肉体を救うことに全力を注いでいる。
彼らには、子音の魂も見えていなければ、今の声も聞こえていない。
やっぱり気のせいだったのだろうか。
そう思って視線を落とした、その時だった。
「……あ。いた」
いない、と思った。けれど、いた。
それはベッドの傍ら、医療機器のコードが複雑に這う床の上に、ちょこんと佇んでいた。
およそこの張り詰めた死の現場には、似つかわしくない姿だった。
どこかの深夜アニメにでも出てきそうな、デフォルメされた愛らしいマスコットキャラクター。
少女の警戒心を解くために、あらかじめ計算されて作られたかのような、奇妙に整った造形。
けれど、その愛嬌のある外見とは裏腹に、そこから放たれる気配には、有無を言わせない絶対的な異質さが漂っていた。
病院の白い床の上、その「なにか」は、じっと天井の子音を見上げている。
明らかに、肉体ではなく、遊離している彼女の魂のほうを正確に捉えていた。
「ボクと契約して、魔法少女になってよ」
……はい?
いきなり、何を言われたのだろう。
あまりにも唐突で、あまりにも緊迫感とかけ離れたその台詞に、子音の思考は一瞬完全にフリーズした。
いや、そもそも今の自分の肉体はとっくに限界を超えていて、心臓だっていつ完全に止まるか分からない状態だ。
そんなボロボロの脳が、死の間際に見る走馬灯のバグとして、こんなふざけた幻覚を弾き出しているのだろうか。
そんな、どうでもいい疑問が頭をよぎる。
その間にも、天井近くに浮かぶ子音の耳――いや、下のベッドで横たわる肉体の耳を通じて、医師たちの逼迫した声が途切れ途切れに届いていた。
「左心室に強度の拡張障害……」
「カルシウム過負荷による心筋の拘縮が始まってる、このままじゃ戻らないぞ!」
「くそっLADの栓塞だ!心カテ用意!急げ!」
「脳の浮腫(ふしゅ)も亢進しています、早く圧を下げないと――」
なかなかに物騒で、容赦のない医学用語が飛び交っている。
専門的な意味までは分からなくても、自分の身体が今、文字通り修復不可能なレベルで崩壊しつつあることだけは痛いほど伝わってきた。
子音は、足元でこちらを見上げているマスコットのような「なにか」へ、視線だけで問いかけた。
声帯はもう機能していないけれど、魂の意思はそのまま言葉となって空間に落ちる。
いや、わたし、多分もう助からないんだけど……?
今さら魔法少女だなんて言われても、肝心の身体がこれだ。
あと数分もすれば、ただの物言わぬ器になってしまう。
そんな現実的な諦めを込めて、子音はそう答えてみた。
「大丈夫。魔法少女になってくれれば、キミの肉体はちゃんと生存できる状態を維持できるよ」
マスコットは、こともなげにそう言った。
その声には、目の前で消えかけている命に対する感傷もなければ、奇跡を起こすことへの誇らしさもない。
ただ淡々と、当然の等価交換であるかのように事実を告げていた。
(……怪しすぎる)
肉体が助かる、という言葉は、十五年間病室に閉じ込められてきた子音にとって、本来なら何よりも求めていた救いのはずだった。
けれど、彼女の魂は歓喜するよりも先に、冷ややかな警戒の念を抱いていた。
だって、知っている。
病室の小さなテレビ。ベッドの上で見た深夜アニメで、こういう展開は履修済みだ。
愛くるしい見た目で少女人形のように近づいてきて、甘い言葉で契約を迫る存在。
そういうやつに限って、だいたいとんでもない裏がある。
優しさの裏に隠された容赦のない対価、人間の理解を超えた残酷なシステム、あるいは魂そのものを削り取るような絶望。
(だまされないぞ。わたしは知ってるんだから……)
子音は天井からマスコットをじっと睨み据えた。
肉体のタイムリミットが刻一刻と迫る緊迫したICUの中で、少女の魂と怪しいマスコットの、奇妙な心理戦が始まろうとしていた。
始まろうとしていた、その瞬間。
過酷な現実は、少女にそんな猶予さえ与えてはくれなかった。
子音の心臓が、再び致命的な発作を起こしたからだ。
―――――――――――――――――――――――
「心室細動(VF)です! デフィブ(除細動器)準備!」
「駄目だ、振幅が弱い、アドレナリン急いで!」
突如、ICUのモニターが甲高い警告音を乱打し始める。
子音の肉体が、四度目の発作から、いよいよ最期を迎えつつあった。
医師たちの叫び声は、一段と切迫し、物騒な響きを帯びていく。
「デフィブ適用! ショック後の波形次第でアミオダロン入れるぞ!」
「胸骨圧迫再開して!」
「拍出量さらに低下! まずい…これ以上はもたない!カテコラミン静注急いで!」
―――――――――――――――――――――――
階下で繰り広げられる医師たちの言葉は、いよいよ一刻を争う、極限の物騒さに達していた。
胸骨を圧迫される自分の身体が、衝撃で小さく跳ねる。
だが、心電図の波形は冷酷なほどに平坦へと近づいていく。
肉体と魂を繋ぐ、細い、本当に細い糸が、今まさにぷつりと音を立てて千切れようとしていた。
(あー……うん。これ、悩んでる時間、ないよね?)
いくら裏がありそうな怪しいマスコットだとしても、ここで突っぱねれば、あと数十秒で子音という存在はこの世から完全に消滅する。
騙されてとんでもない運命に巻き込まれるのが先か。
それとも、このまま何もしないで死ぬのが先か。
究極すぎる二択を前にして、子音は半ばやけくそ気味に、足元の「なにか」へと意識を向けた。
わ、わかった! わかったから! 魔法少女でも何でもやるから! とにかく! 死ぬのはなしで!
これ以上ないほど緊迫した空間で、子音は魂の叫びをマスコットに叩きつけた。
騙されてとんでもない裏に嵌められる恐怖よりも、今ここで終わりを迎えることへの拒絶が勝った。
だって、わたしが死んだら、絶対にママは泣き崩れてしまう。
いつも病室で優しく微笑んでくれていたあの人が、絶望に暮れる姿なんて見たくない。
それに、パパだ。
普段は真面目で静かなパパだけど、もしわたしがいなくなったら、文字通り精神的に潰れてしまうんじゃないかって、容易に想像がつく。
それに――何より、わたしだってまだ死にたくはないのだ。
十五年間、ずっと病院のベッドの上で我慢してきた。まだ知らない世界がたくさんある。まだ何も手に入れていない。こんなバグみたいな出会いであっても、生き残るための蜘蛛の糸なら、全力で掴み取ってやる。
「契約、成立だね」
マスコットの、感情の薄い声が響いた瞬間、ICUの視界が眩い光に染まった。
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主治医の今井は、自らの手のひらから伝わる絶望的な感触に、内心で歯を食いしばっていた。その時だった。
いったい、何が起きているというのか。
子音の心臓は、医学的にはもうとっくに限界を超えていた。
長時間の虚血と、それを補おうと繰り返された再灌流障害による容赦ないダメージ。
細胞内はカルシウム過負荷に陥り、心筋は石のように硬化して、拍出量はわずか15%程度にまで落ち込んでいた。
おまけに冠動脈の重度閉塞によって、心筋への灌流は著しく低下している。
四度目の心室細動(VF)は、波形の大きな『Coarse VF(粗大室細動)』ではない。
細かく弱々しく震えるだけの『Fine VF(微細室細動)』――実質、心停止(Asystole)と同義の、死の直前を告げる波形だ。
アドレナリンをどれだけ投与しても、受容すべき心臓はとうに反応を放棄している。
(……ここまで、か)
今井は、死亡確認に向けた一連の動作を頭の中でなぞっていた。
看護師にペンライトを持ってこさせ、対光反射を確認する。時計の針を目に焼き付ける。
その最期の瞬間まで、せめて医師としての責務を果たすべく、彼は子音の幼い胸部を叩きつけるように押し込み続けていた。
「蘇生中止」という、最も重く、最も敗北に満ちた言葉を口にする準備をしながら。
だが。
その心臓が、突如として跳ね上がった。
バグを起こしたかのように、心電図のモニターが今まで見たこともないほどに力強く、鋭いスパイクを描き出す。
「なっ……!?」
今井の手のひらを突き上げるような、明確で圧倒的な脈動。
医療機器の警告音が一瞬で止まり、規則正しく、かつてないほど健康的な拍動のピッチがICUの中に響き渡った。
「血圧、急速に上昇! 90……110……安定しています!」
「心電図、正常洞調律(サイナス)に復帰! 嘘でしょ、これ……」
看護師たちの悲鳴に近い困惑の声が上がる。
今井は、押し込んでいた手を離し、呆然と自らの手のひらを見つめた。
カルシウム過負荷で硬直していたはずの心筋が、まるで全てのダメージを洗い流されたかのように、完璧な収縮と拡張を再開している。
冠動脈の閉塞も、脳の浮腫も、まるで最初から存在しなかったかのように、すべてのバイタルデータが「完全な生存」を示して、美しく書き換えられていく。
医学の常識を根底からあざ笑うかのような奇跡を前に、今井をはじめとする医師団は、ただ言葉を失ってあっけにとられるしかなかった。
その喧騒の中心で。
天井近くにいた子音の魂は、強力な重力に引かれるように、一気に自分の肉体へと引きずり降ろされていた。
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「嘘、だろ……おい」
今井の口から、医師としての冷静さを完全に欠いた、掠れた声が漏れた。
先ほどまで、いくらカテコラミンを投与しても全く反応しなかった心臓が、正常な洞調律で拍動していた。
仮に心拍が再開したとて、子音の命を決定的に追い詰めていた脳の浮腫すら。CTを撮るまでもなく、瞳孔の異変から確実に進行していると確信していたそれが、まるで綺麗さっぱり消え去っている。
人工呼吸器の機械音に混じって、別の音が聞こえた。
止まっていたはずの自発呼吸が、今、劇的に再開している。
医師たちの必死の心臓マッサージによって、赤黒くあざになってしまった、幼さの残る胸部が、今は自らの力で、深く、規則正しく上下していた。
完全に血の気を失い、青白かった肌が、紫色の乳首が、血色のよい健康的な紅色に戻る。
「モニターの異常じゃないのか!? センサーを確かめろ!」
今井は叫んだ。もし心電図がフラットになったのなら、電極パッドが剥がれただけの可能性(電極外れ)を真っ先に疑う。
だが、今起きているのはその真逆だ。
死線を超えて平らになるはずの画面に、信じられないほど教科書通りの、美しい洞調律(サイナスリズム)が刻まれ続けている。
看護師が震える手で、子音の胸部に貼り付けられたセンサーを何度も確認する。
「……外れていません…すべて…正しく装着されています!」
機械の故障でも、見間違いでもない。
この掠れた呼吸も、力強い脈動も、すべてはベッドに横たわる十五歳の少女の肉体が、今まさに自力で生み出しているものだった。
今井は、ただただ目の前の光景に圧倒されていた。
医学書をいくらひっくり返しても、心筋のカルシウム過負荷や重度の虚血が一瞬で反転するメカニズムなど、どこにも載っていない。
これは回復や蘇生といった生ぬるいものではなかった。
まるで、肉体の構造そのものが、内側から全く別の「完璧な何か」へ書き換えられてしまったかのような――。
そのとき。
肉体へと強烈に引き戻された子音の意識の底で、あの感情の薄いマスコットの声が、再び静かに響いた。
『――さあ、契約は果たされた。これからはボクのために、その新しい命を使ってもらうよ、魔法少女?』
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
正直に言うと、この序章で結構、時間を使いました。
理由は単純。蘇生シーンの医学的整合性を、できる限り崩したくなかったからです。
VFの波形の呼び方ひとつ、アドレナリンの投与経路、心筋直接注射の描写——「魔法で何とかなる話」だからこそ、魔法が介入する直前までは、現実の医療現場のロジックに忠実でありたい。
奇跡が輝くためには、その手前の絶望が、嘘くさくないほうがいい。そういう考え方です。
なので、子音の症例は実際にいたらまず生存不可能です。15歳まで持ってるそれがまず奇蹟。
一方で、今井先生というキャラクターについても、少しだけ。
彼は、この物語の中で唯一、「魔法少女制度」の外側にいる大人です。子音が何を隠しているのかを知らないまま、ただ目の前の患者を救おうとし続けている。
読者の皆さんは、子音の「嘘」を知った上で今井先生の必死さを読むことになるので、そこにどうしようもない切なさが生まれてくれていたら、書いた甲斐があります。
次話では、いよいよ蘇生後の子音が出てきます。
引き続き、よろしくお願いします。