魔法少女がZ指定なんて、聞いてないんですけど?! 〜死にぞこないの燃費戦争〜 作:nelldrip
白いプリーツスカート。
十五年間、病衣以外の服を着たことがなかった少女。
ボタンの留め方に手間取って、スカートのチャックが上がっていないことにも気づかない。
魔法少女の前に、まず人間としての基本操作を覚える必要がありそうだ。
生ぬるい夏の風。草とアスファルトと排気ガスと、名前も知らない花の匂い。
窓越しに見ていた四角い空ではない、果てのない青。
足の裏に伝わる地面の硬さと熱。
歩くという、人類が数百万年前から当たり前にやってきた動作。
そして、たどり着いた「知らない家」。
二階の一番奥。
ドアの向こうには、六畳の部屋があった。
来ない主人を待ち続けた、色褪せたうさぎのぬいぐるみ。
借り物の命で、彼女は初めて、家に帰る。
退院の朝は、とても静かだった。
あんなに待ち望んでいたのに、いざその日が来ると、わたしの心臓は少し昂りつつも、変に落ち着いていた。
いや、正確に言えば、心臓は相変わらずあいつの魔力によって完璧なリズムを刻んでいるだけなので、ドキドキしているこれすら嘘なのかもしれないが。
ただ、感慨が妙に不快というか。感情と心が噛み合わない。魔法少女の不便な仕様その一、なのかもしれない。
ベッドの上に、見慣れないものが置かれていた。
母が持ってきてくれた、退院用の私服。
淡いラベンダー色のブラウスに、白いプリーツスカート。
病衣以外の服を着るのは、物心がついてから初めてのことだった。
「……これ、わたしが着るの?」
「当たり前でしょ? パジャマのまま帰る気?」
母は笑いながらそう言ったが、その目の縁がかすかに赤いのを、わたしは見逃さなかった。
十五年間。
母はずっと、娘がいつか退院する日のことを思い描きながら、服を選んでくれていたのだろうか。
この一着を買ったとき、母は笑っていたのだろうか、それとも泣いていたのだろうか。
袖を通すと、ブラウスの布地がひんやりと肌に触れた。
病衣とは違う、柔らかな繊維の肌触り。ボタンの留め方がわからなくて、少しまごついた。
情けない。十五歳にもなって、ボタンの留め方に手間取るなんて。
ずっと病衣の紐を結ぶか、看護師さんに着替えさせてもらうかしかしてこなかったのだから、無理もないといえば無理もないのだけれど。
「子音、スカートの後ろ、チャック上がってないよ」
「えっ……あ、ほんとだ」
日常生活のリテラシーが壊滅的に低い。
こんなことで、果たして外の世界でやっていけるのだろうか。
魔法少女になる前に、まず人間としての基本動作を習得する必要がありそうである。
着替え終えた自分の姿を、洗面台の小さな鏡で見た。
病衣ではない服を着た「わたし」が、そこにいた。
(……誰だろう、この子)
そんな感想が、最初に浮かんだ。
十五年間、鏡の中の自分は常に病衣姿で、頬はこけ、顔色は青白く、目の下にはいつも深い隈があった。
点滴のチューブを引きずって、車椅子か、ベッドの上。
それが「わたし」だった。
けれど今、鏡の中にいるのは、少し痩せてはいるけれど、肌に血色があり、目に光のある少女だった。
淡いラベンダーのブラウスが、病室の白に慣れた目には驚くほど鮮やかに映る。
右耳に、小さなピアスが光っている。命の値札。
「子音、似合ってるよ。すごく可愛い」
母が背後から肩に手を置いた。その声がわずかに震えていた。
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退院の手続きは、驚くほどあっさりと終わった。
今井先生は、まだどこか釈然としない表情を浮かべながらも、最後の診察を丁寧に行い、退院後の通院スケジュールを組んでくれた。
「二週間に一度、必ず精密検査を受けてください。何か異変を感じたら、曜日も時間も関係なく、すぐに連絡を。いいね?」
「はい。……先生、十五年間、ありがとうございました」
わたしがそう言うと、今井先生は一瞬だけ目を細めて、それからいつもの無愛想な顔に戻った。
「礼を言うのはまだ早いよ。経過観察はこれからなんだから」
不器用な人だ。でも、その不器用さの裏に、どれほどの感情が渦巻いているのか、わたしは知っている。
蘇生中止という言葉を口にしかけた時の先生の絶望、その両方を天井から見ていたのだから。
看護師の鈴木さんが、病棟の出口まで見送ってくれた。
あの五分間の夜、わたしが突然倒れた時に隣にいてくれた人だ。
「子音ちゃん、元気でね。外の世界、楽しんで」
鈴木さんはそう言って、ぎゅっとわたしの手を握った。
その手が震えているのが伝わってきた。
わたしが白目を剥いて崩れ落ちた夜のことを、きっとまだ引きずっているのだろう。
あの夜、病室にいたのが鈴木さんでなかったら、コードブルーの要請はもっと遅れていたかもしれない。
(あの時は本当にごめんなさい。いや、まぁあれはわたしのせいじゃなくて、あの腹黒マスコットのせいなので……)
もちろん、そんなことは口が裂けても言えない。
「鈴木さんも、お身体に気をつけてくださいね」
精一杯の笑顔でそう返すのが、わたしにできるせめてもの誠意だった。
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病棟のエレベーターを降り、一階の長い廊下を歩く。
歩く。
自分の足で、歩いている。
車椅子でもなく、ストレッチャーでもなく、誰かに押されるでもなく、わたしの二本の脚が、交互に前へ出ている。
たった、それだけのことだ。
人類が二足歩行を始めて数百万年、ほとんどの人間にとって、歩くことはあまりにも当たり前で、意識すらしない動作のはず。
けれどわたしにとって、それは生まれて初めての体験だった。
足の裏が床を踏む感触。体重が片足からもう片足へ移る時の、身体の重心の小さな揺れ。
脚を前に出すたびに、スカートの裾がふわりと揺れる。ぺたん、ぺたん、と素足に近い薄いサンダルが立てる、間の抜けた足音。
全部、初めて。
ベッドの上では想像もできなかった、この地面と自分が繋がっている感覚。
地球の重力を、全身で、縦に受け止めている。
それだけで、泣きそうになるくらい嬉しい。
「子音、大丈夫か? 疲れたら言っていいんだぞ」
父が横で、すぐに支えられるようにと両手を少し広げた姿勢で歩いている。
まるで、よちよち歩きの幼児を見守る親のようだ。
実際、歩行経験という点では、わたしは幼児以下なのだから、その警戒は正しい。
「大丈夫。全然平気」
平気どころか、身体はあきれるほど軽い。
魔力回路のおかげで、心臓は微塵も乱れず、呼吸も一切上がらない。
十五年間の寝たきり生活で当然ながら筋肉はほとんど落ちているはずなのに、不思議なほどふらつきもしなかった。
おそらく、筋力の不足すら魔力が補正しているのだろう。
つくづく、この身体はわたしのものではなく、あいつの魔力が操る精巧な人形だ。
やがて、見えてきた。
正面玄関の、ガラスの自動ドア。
その向こうに、圧倒的な「外」が広がっている。
わたしは歩みを止めた。
ここから先は、十五年間、窓の向こうの額縁に嵌められた風景画としてしか知らなかった世界だ。
ガラス越しに見える駐車場のアスファルト。
その上に落ちる木の影。風に揺れる植え込みの緑。
頭上に広がる、途方もなく大きな空。
窓から見るのと、自分の足でそこに立つのとでは、きっとまったく違うのだろう。
自動ドアのセンサーが、わたしの接近を感知して、ガラスの扉が左右に開いた。
風が、来た。
「っ――」
一歩、踏み出した瞬間。
全身を包み込むように、生ぬるい夏の風が吹き抜けた。
病院の空調とは何もかもが違う。
温度も、湿度も、匂いも、そこに含まれている情報の量が、桁違いに多い。
空調で管理された無菌の空気には何も入っていなかった。
けれど、この風には、草の匂いと、アスファルトが太陽に焼かれた匂いと、遠くから流れてくる排気ガスと、名前も知らない花の甘さと、そういう無数の「生きている世界の欠片」が、ぜんぶ混ざり合って詰め込まれていた。
太陽の光が、直接、肌を刺す。
窓越しに感じるあのぼんやりとした温もりではなかった。
まるで世界そのものが、わたしの存在を認識して触れてきたかのような、具体的で容赦のない熱。
じりじりと腕が焼ける感覚。まぶしさに目を細める。この世界の解像度の高さに、目が追いつかない。
足の裏に、アスファルトの硬さと熱が伝わってきた。
(あ、これが……「地面」なんだ)
病室のリノリウムとは全く違う、ごつごつとした、無骨で、温かい感触。
数百万年前、どこかの類人猿が初めて二本足で大地を踏みしめた時も、こんな気持ちだったのだろうか。
大袈裟だと思うけれど、わたしにとっては本当にそれくらいの出来事だった。
空を見上げた。
遮るもののない、本物の空。
病室の窓から切り取られた四角い空ではなく、どこまでもどこまでも広がる、果てのない青。
視界いっぱいに空が広がるということが、こんなにも圧倒的で、こんなにも怖くて、こんなにも美しいものだとは思わなかった。
世界は、こんなにも広かったのか。
「……っ」
不意に、涙がこみ上げてきた。理由なんてない。
ただ、あまりにも世界が広くて、あまりにも風が優しくて、あまりにも空が青くて。それだけで、感情の容量が一瞬で溢れてしまった。
「子音……?」
母が心配そうにわたしの顔を覗き込む。
「ううん、なんでもない。……風が目に入っただけ」
嘘だ。
でも、ここで泣いたら、何分でも何十分でも止まらなくなりそうだったから、唇を噛んで、無理やり笑顔を作った。
駐車場に止められた父の車へ向かう、たった数十メートルの道のりが、今までの人生で一番長い旅路だった。
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車の後部座席に乗り込む。それすらも初めての体験だった。
シートベルトの締め方がわからなくて、父に教えてもらった。
金具をカチャンとはめ込む感触が妙に新鮮で、何度かカチカチと着脱を繰り返していたら、父がバックミラー越しに苦笑した。
「子音、おもちゃじゃないんだから」
「……あ、ごめん」
そんな様子すら、父は愛おしそうに笑ってくれた。
車が動き出すと、エンジンの振動が、シートを通じてお尻と背中に伝わってくる。
病院のベッドには存在しなかった、機械的で力強い揺れ。
窓の外の景色が、ゆっくりと流れ始める。
そして、わたしは言葉を失った。
病院の敷地を出た瞬間から、窓の外に次々と現れる風景の情報量に、脳の処理が追いつかなかった。
住宅街の、ごく普通の家並み。
道路を歩く人々。信号機。コンビニ。電柱に絡まる電線。公園の滑り台。自転車に乗った子どもたち。洗濯物がはためくベランダ。小さな花壇に咲くひまわり。
ぜんぶ、テレビや、ベッドの上のタブレットの画面では何度も見たことがある。
知識としては知っている。
でも、それらが三次元の空間の中に、実際の大きさで、実際の距離感で、実際の色彩で存在しているということが、画面越しの印象とはまるで別物だった。
画面で見る世界は、すべてが平面に圧縮された標本だ。
けれど、窓の外に流れていく世界は、奥行きがあり、匂いがあり、温度があり、音がある。
交差点で停まるたびに聞こえてくる、歩行者信号のカッコウの声。踏切の遮断機の甲高い警報音。
窓の隙間、どこかの家から漂ってくる味噌汁の匂い。
それらが一度に押し寄せてきて、目と耳と鼻が悲鳴を上げそうだった。
「子音、酔わない? 窓、もう少し開けようか?」
母が助手席から振り返る。
「開けて……! 全部!お願い!」
母が窓を開けてくれた瞬間、走行中の風が車内に流れ込んできた。
髪がばさばさと乱れる。それすらも初体験だ。風で髪が乱れるという、ただそれだけの物理現象が、心臓を鷲掴みにするほど感動的だなんて、誰が信じるだろう。
わたしは後部座席でシートベルトに拘束されたまま、窓の外に釘付けになっていた。
何を見ても、何を聞いても、何を嗅いでも、すべてが初めてで、すべてが眩しくて、すべてが愛おしい。
こんな世界が、生まれた時からずっと、病院のすぐ外側に存在していたのだ。
ずっと、ガラス一枚の向こうに。
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車は二十分ほどで、住宅街の奥にある一軒の家の前に停まった。
ごく普通の、二階建ての一軒家。クリーム色の外壁に、小さな庭。
玄関先に置かれたプランターに、赤いゼラニウムが咲いている。
「……ここが、うち?」
「そうだよ。子音の家だよ」
母がそう言って、先に車を降りた。
わたしは車の中から、しばらくその家を見つめていた。
わたしの「家」。
生まれてすぐ。入院してからずっと、わたしの住所はこの家だったはずだ。
保険証にも、学校の書類にも、ここの住所が書いてある。
けれど、わたしはこの家の匂いも、玄関の鍵の音も、階段のきしみも、何一つ知らない。
知らない家に「帰る」という矛盾。
「おいで、子音」
父が、車のドアを開けて手を差し伸べてくれた。
その手を取って降りると、門扉までの短いアプローチに、母が丁寧に手入れした小さな花壇があった。
ゼラニウムの他に、ペチュニア、マリーゴールド、そして名前の分からない青い小花がいくつか。
どれも、よく日の当たる場所に、丁寧に植えられている。
「ママ、お花好きだったんだ」
「……病院に持っていけないから、せめてお家でね」
母は軽く笑ってそう言ったけれど、その声の奥に、十五年分の寂しさが滲んでいた。
娘のいない家で、一人で花に水をやる母の背中を想像して、胸が詰まった。
玄関のドアが開く。
靴を脱いで、上がり框に足を乗せる。
一歩。
廊下のフローリングが、素足にひんやりと触れた。
木の温もりと、冷たさが同居する、不思議な感触。病院のどこにもなかった質感だ。
「お邪魔します」とか「ただいま」とか、何と言えばいいのかわからなかった。
初めて来る場所に「ただいま」は変だし、自分の家に「お邪魔します」も変だ。
結局、何も言えないまま、わたしは黙って廊下を歩いた。
リビングに通される。
テレビ、ソファ、ダイニングテーブル。冷蔵庫に貼られた古い絵の切り抜き。壁に掛けられた時計。
生活の匂いがした。
人が暮らしている空間の、有機的で複雑な匂い。
布と木材と、かすかな料理の残り香と、洗剤の清潔な甘さ。無菌室の対極にある、人間の営みの匂い。
テレビの横の棚に、写真立てが何枚も並んでいた。
保育器の中で眠る、チューブだらけの赤ん坊。
ベッドの上でぎこちなく笑う、幼い日のわたし。
車椅子に座って、病院の窓辺で桜を眺めるわたし。
全部、病院で撮られた写真だった。
普通の家族なら、ここには入学式や運動会や家族旅行の写真が飾られているはずだ。
けれど、わたしの家の写真立てには、背景がすべて白い壁と病室のベッドしかない。
それでも、両親はこれらの写真を大切に、リビングの一番目につく場所に飾っていた。
「……二階、見せてもらっていい?」
「もちろん。子音の部屋、見る?」
母がそう言った時、その声に含まれていたものを、わたしは正確に読み取れなかった。
期待? 不安? それとも。
十五年間ずっと胸の奥に仕舞い込んでいた何かを、ようやく解放する瞬間が来たことへの、怖いような嬉しいような、名前のつけられない感情?
階段を一段ずつ上がる。
手すりを握りながら、ゆっくりと。
十五年分の運動不足は魔力が補正してくれるとはいえ、階段を上がるという行為自体が初めてなので、身体がその動きの手順をまだ記憶していない。
一段上がるごとに、太ももの筋肉が不慣れな角度で動く感覚があった。
二階の廊下に、三つのドアが並んでいた。
一番奥の部屋の前で、母が足を止めた。
「ここが、子音の部屋」
母がドアノブに手をかけ、静かに押し開いた。
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六畳ほどの部屋だった。
南向きの窓から、午後の柔らかな日差しが差し込んでいる。
白いレースのカーテンが風に揺れ、光の粒子が部屋の中で静かに踊っていた。
壁紙は、優しいクリーム色。
小さな木の机と椅子。本棚には、年齢に合わせて少しずつ買い足されたであろう絵本や児童書が、下の段から順に並んでいた。
一番下の段に、赤ちゃんが触っても安全な布絵本。
真ん中に、小学校低学年向けの童話や図鑑。
上の段には、中学生くらいが読みそうなライトノベルや少女漫画が何冊か。
十五年分の、娘の成長に合わせた本が揃えられている。
ベッドには、真新しいシーツが敷かれていた。枕元に、小さなぬいぐるみが一つ、ちょこんと座っている。
くたびれた耳の長いうさぎ。
これだけは新品ではなく、長い年月を経て色褪せ、毛並みがすっかりへたっている。
「それね、子音が生まれた時に買ったの。保育器に入れてあげられなかったから、ずっとこの部屋で番をしていてもらったんだ」
母がそう言った。
十五年間、主人を待ち続けた番兵。
主人が来ない部屋で、ただ枕の上に座って、窓の外が明るくなっては暗くなるのを、何千回も何千回も見届けてきたのだろう。
カーテンレールに手を伸ばすと、レースの下に、遮光カーテンがあった。
星座の柄。少し幼い子供向けのデザインが、それを選んだ時の両親の気持ちを思うと、思わず涙が零れそうになる。
机の引き出しを開けると、中に文房具一式が入っていた。
鉛筆、消しゴム、定規、色鉛筆の十二色セット。ノート。使われた形跡は、一切なかった。
(……ずっと、準備してくれてたんだ)
本棚の本も、文房具も、ベッドのシーツも、窓辺のレースカーテンも。
娘がいつか退院して、この部屋で暮らす日が来ることを信じて、両親はずっと用意してくれていたのだ。
赤ちゃんだった娘が幼児になる頃に、それに合った絵本を買い足し。
小学生になる年齢になれば、ランドセルの代わりに児童書を棚に加え。
中学生になれば、少女漫画やライトノベルを。
使われることのなかった机の天板を、定期的に拭いて。
誰も眠らないベッドのシーツを、季節ごとに替えて。
娘が帰ってこない部屋に、毎日のように風を通して。
でも、主治医からは何度も、何度も告げられていたはずだ。
「正直に申し上げて、退院の見込みは極めて厳しいです」と。
それでも、この部屋を閉じなかった。
物置にしなかった。
諦めなかった。
一年。
三年。
五年。
十年。
十五年。
この部屋はずっと、わたしが来るのを待っていた。
「子音……?」
母の声が、遠くで聞こえた。
目の前が滲んで、何も見えなくなっていた。
涙が、頬を伝って、顎先から床に落ちた。ぽたぽたと、フローリングに小さな染みを作る。
止まらなかった。
堰を切ったように、嗚咽が喉の奥からせり上がってきて、声を上げて泣いた。
しゃくり上げるように、子供のように、みっともなく。
立っていられなくて、膝から崩れ落ちた。
「ごめんなさ……ごめん、なさ……っ」
自分でも、何に対して謝っているのか分からなかった。
十五年間使えなかったこの部屋に対してなのか。
十五年間待ち続けてくれた両親に対してなのか。
それとも、こうして帰ってくることができたのが自分の力ではなく、怪しいマスコットとの契約のおかげであるという、この胸に抱えた巨大な嘘に対してなのか。
たぶん、全部だ。
母がわたしの隣にしゃがみ込んで、強く抱きしめた。
父が、少し遅れて部屋に入ってきて、わたしの頭にそっと手を置いた。
三人で。
十五年間、三人で過ごすことのなかったこの部屋で。
わたしたちは、しばらくの間、誰も何も言わないまま、ただ泣いていた。
---
泣き疲れて、用意されていたベッドに横になった。
病院のベッドとは違う、柔らかなスプリングの感触。枕元のくたびれたうさぎのぬいぐるみを、なんとなく胸に抱いた。
窓から、夕方の橙色の光が差し込んでいる。
住宅街の屋根の向こうに沈んでいく夕日が、部屋を琥珀色に染めていた。
病室では見ることのできなかった角度の夕焼け。
屋根と屋根の隙間から、電線のシルエットの向こうに、空が燃えている。
(綺麗だな……)
右耳のピアスに、指先でそっと触れた。
冷たく、硬い感触が指先に返ってくる。
この命は、わたしのものではない。
この心臓を動かしているのは、わたしの生命力ではなく、あいつの魔力だ。
両親が泣いて喜んでくれた「奇跡の回復」の正体は、魔法によって動かされている精巧な死体のシミュレーションに過ぎない。
けれど。
窓から入ってくる風は本物だ。母の涙の温度も、父の手のひらの重さも。本物だ。
たとえこの命が借り物であっても、今この瞬間に感じている幸福は、嘘じゃない。
うさぎのぬいぐるみを抱きしめたまま、わたしは静かに目を閉じた。
明日からは、あいつが用意した「魔法少女の務め」が始まるのかもしれない。
けれど今夜だけは、十五年間ずっとわたしを待っていてくれた、この小さな部屋の温もりの中で、ただの女の子として眠りたかった。
階下から、母が夕飯の支度を始める音が聞こえてくる。
まな板の上で包丁がとんとんと刻むリズム。
ずっと画面の向こうの出来事だった「日常」が、今、この家の壁と天井の内側で、確かに鳴っている。
それは生まれて初めて聴く、家族の音だった。
第二話をお読みいただきありがとうございます。
第一話が「医学が敗北する話」だったのに対して、第二話は「世界に初めて触れる話」です。
この二つは対になっていて、前者では現代医学の全力を書くほど魔力の異物感が際立ち、後者では世界の当たり前を書くほど子音の欠落が際立つ、設計です。
歩くこと、風に当たること、シートベルトを留めること
——普通の物語なら一行も割かない動作に、あえて紙幅を注ぎました。
読者にとって透明な日常が、子音にとってだけ解像度を持って立ち上がる。
その落差こそが、彼女の十五年間の説明になると考えたからです。
一番書きたかったのは、あの部屋です。
本棚の下段に布絵本、中段に児童書、上段にライトノベル。
十五年分の「今年こそ帰ってくるかもしれない」の地層。
医師から無理だと言われながら。
両親は毎年、その年の娘に似合う本を買い、机を拭き、シーツを替え、風を通し続けた。
あの部屋を物置にしなかったという事実一つで、この夫婦の十五年を説明できたと思います。
うさぎのぬいぐるみを「番兵」と呼んだのも同じ理由です。あれは十五年間、一度も交代しなかった見張りです。
そして残酷なのは、子音がそこで泣き崩れながら、自分が何に謝っているのか分からないという点です。
部屋にか、両親にか、それとも——この帰宅が自分の生命力ではなく契約の産物であるという、抱えた嘘に対してか。
全部です。
第一話の「先生、ごめんなさい」が、今度は両親に向けて、より重い形で反復されています。
とはいえ、この話は不幸自慢にするつもりはありません。
彼女は借り物の心臓を抱えていますが、同時に、十五歳らしくみっともなく浮かれてもいる。
ラストの一行——「たとえ命が借り物でも、今感じている幸福は嘘じゃない」
これは、嘘じゃないのです。
次話から、ようやく戦場の話になります。多分。
静かなのはここまでです。
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