第1話 双葉の並び立つ庭
昭和52年(1977年)5月に産声を上げた京極宮家の若宮は、「陸仁(みちひと)」と名付けられた。
かつて京極宮慶仁の胸の内で十七年間鳴り止まなかった雨音を消し去った澄子。彼女が産んだその若宮は、父である慶仁の高身長と精悍な顔つき、そして母である澄子のどこか大胆なまでの行動力を、そのまま血肉として受け継いでいた。そして三年後の昭和55年(西暦1980年)6月には長女の「寛代子」が誕生する。
若宮の誕生から3カ月後、宮家の家令である六条雅武の元にも、長男の「雅忠」、そして三年後の12月には長女の「誓子」が誕生する。
身分という名の、決して越えてはならない一線は厳然として存在していた。京極宮家の若宮と、男爵相当の臣下の子。だが、同じ年齢の子供がすぐ近くにいるという環境は、若宮の情操にとってこれ以上ない最高の庭となった。
「雅忠。誓子といっしょにいらっしゃい。若宮様と寛代子女王様がお待ちですよ」
澄子が二人を呼び、一緒に御所へ参内する準備をさせる。そんな光景は、京極宮邸における日常の一コマとなった。
幼い頃の誓子は、いつも若宮である陸仁の後ろを、小動物のようにちょこちょことついて回っていた。陸仁が振り返れば、そこにはいつも、父親譲りの誠実そうな丸い瞳で自分を見つめる少女がいた。陸仁にとって彼女は、己の影のようになじんだ、愛らしい「妹分」に過ぎなかった。
しかし、時間は残酷なほど美しく、少年と少女の肉体を創り変えていく。
十代の半ばを迎える頃から、陸仁は慶仁と澄子の長所を受け継ぎ、高身長で引き締まった体躯、そして人を射すくめるような精悍な顔つきの若者に成長していた。
一方の誓子もまた、母親似の息を呑むような容姿の良さを備え、立ち振る舞いには父親の誠実さが静かに滲む、一人の美しい娘となっていた。
それは、陸仁の十七の誕生日を過ぎ、誓子が十四歳の誕生日を数ヶ月後に控えたある初夏の午後のことだった。
その日は中等科四年の課程にあった誓子が、雅忠への届け物で久しぶりに宮邸を訪れていた。
家扶の白石の計らいで東底への立入許可をもらった誓子は、降り注ぐ木漏れ日の中、東屋でうつらうつらとうたた寝をしていた。
そこに陸仁が通りがかった。
「あれは……誓子か? この宮邸で見かけるのは私と雅忠の卒業式以来だな。最近は臣下ですから遠慮いたします、などとませた事を言い、中々こちらに顔を出さん。……そうだ」
その誓子の姿を久しぶりに見かけた陸仁が、ふと悪戯心を起こし、そっと近づいていった。
後少しというところで、誓子が目を覚まし顔を上げた。
それが運命の瞬間だった。
まどろんでいた誓子の睫毛がふるりと震え、ゆっくりと瞼が上がる。
その瞬間、陸仁は息を呑んだ。
寝起きの誓子と視線が絡んだ刹那、陸仁の中で何かが軋んだ。
いつもならすぐに気安く声をかけていたはずだった。だが今、言葉が喉の奥で凍りついている。
目の前にいるのは、己の背をちょこちょこと追いかけてきた、あの小さな妹分ではなかった。
仄かに色づいた頬、閉じていた瞼がゆっくりと開いていくその所作、そして視線が絡んだ瞬間に見せた小さな驚き──そのひとつひとつが、幼い頃の面影を残しながらも、陸仁の知らない「女」を映し出していた。
微睡みから覚めたばかりの潤んだ瞳が、驚きに丸くなって陸仁を見つめている。
彼女の小さな唇から漏れた、かすかな吐息が届きそうなほど近い。
陸仁の胸が、今までにないほど激しく、警鐘のような音を立てて跳ねた。あまりに急激に突きつけられた彼女の女としての存在感に、喉の奥が乾き、言葉を失ってしまった。
(いつの間に。久しく会わぬうちに随分臈長けたものだ)
自分が見ていなかった歳月の分だけ、誓子は確かに大人になっていた。その事実が、不意打ちのように陸仁の胸を突いた。
一方の誓子もまた、目覚めた瞬間に視界を覆ったその影が、幼い頃から慕っていた陸仁だと気づいた瞬間、身体中の血が逆流するような衝撃を覚えていた。
すぐ目の前に、精悍な輪郭と、人を射すくめるような漆黒の瞳がある。
これまで幾度となく見上げてきた、大好きな「お兄様」の顔だった。
だがこの日、至近距離で自分を見つめる陸仁の姿は、見慣れたはずのものと決定的に違って見えた。その精悍な佇まいから放たれる、これまで意識したこともなかった「男」としての圧倒的な気配に包まれ、誓子は本能的な戸惑いと、胸の奥が嵐の海のように激しく騒ぎ立てるのを覚えた。
いけない、と誓子は思った。
これは自分が抱いていい感情ではない。六条の娘として、将来は宮家にお仕えする身として、若宮に対してこのような、名前もつけられない不遜な胸の高鳴りを覚えることそのものが、許されざる罪のように思えた。
そう己に言い聞かせるほどに、陸仁の真っ直ぐな眼差しから逃れられない自分がいた。
誓子はとっさに視線を伏せ、居住まいを正した。
胸が、痛いほど鳴っている。
陸仁の顔など、子供の頃には無邪気にその背を追いかけ、見慣れているはずだった。なのに今、伏せた睫毛の裏に、自分を見つめていた眼差しが焼き付いて離れない。
(私は、若宮様を……このような目で……?)
十四歳の誓子の心は、初めて自覚した「思慕」という名の、あまりにも巨大で不遜な情熱に激しく千々に乱れた。これまでのように無邪気な子供のままではいられない。耳たぶまで真っ赤に染め上げ、言葉にならない戸惑いを浮かべる誓子は、必死に視線を泳がせた。
陸仁は、そんな彼女の狼狽と、瞳の奥に走った微かな戦慄を見逃さなかった。誓子が自分に対して抱き始めた、隠しきれない小さな想いに、彼は直感的に気がついていた。
だが誓子は、その胸の火をけっして表に出してはならないものとして、すぐにきつく唇を噛み締め、そっと心の奥底に秘め続けようとするのだった。
誓子は胸の熱を押し隠すことに、必死に挑み、そして次第に慣れていった。
十四歳の夏には、陸仁が不意に声をかけるたびに乱れていた息が、中等科五年、六年と歳月を重ねるうちに表情に出なくなった。視線を合わせるときの一瞬の強張りも、義務教育を修了する頃には、誰の目にも留まらぬほど小さくなっていた。
自分の感情を、六条の娘らしい静かな所作の奥に、丁寧に、完璧に、仕仕舞い込むこと──それだけが、若宮の側にい続けるための唯一の許しだと信じていた。
だからこそ、中等科六年の課程を終えた誓子が正式に宮家の女官として宮邸に上がり始めたときには、その防壁はすでに完璧なものとして完成していた。
昼は家令の娘として一分の隙もない奉公に励み、夜は自らの資質を研鑽するため夜学へと通う二足の草鞋を履く。健気に、生真面目に、そして冷徹なまでの自己規律を以て己の義務を果たそうとする彼女の姿は、宮邸の人々の慈しみの視線を集めていた。
だが陸仁には、分かっていた。
完璧な「女官」の仮面を被った誓子が、己の名を呼ぶとき、一拍だけ遅れる呼吸のこと。廊下ですれ違いざまに、あまりにも滑らかに伏せられる睫毛のこと。自分が他の女官と言葉を交わすとき、近くにいる誓子の指先がほんの僅かに強張ることを──おそらく誓子自身は気づいていない。
そして、昼の奉公と夜の学びの中で、完全に少女の殻を破り、見違えるほど豊かに、しなやかに変わっていく彼女の肉体の輪郭のすべてを、陸仁は出会いからの数年間、気づいていないふりをしながら、静かに、飽くることなく見続けた。完璧に自分を拒絶し、遠ざけようとする彼女の防壁を凝視しながら、同時に、夜学という「己の目の届かぬ時間」が彼女を大人に変えていくことへの、昏い焦燥を胸の奥に燻らせていた。
陸仁を焦立たせたのは、女官となった誓子の瞳の奥に、年々深く重くなっていくその「拒絶の壁」だった。
朝には昨日より少し上手に視線を逸らし、夕には昨日より少し完璧に声を整える。その積み重ねが、陸仁には歯痒くてならなかった。出仕してからの二年間、誓子がその胸の熱を完璧に「なかったもの」として処理し終えようとするたびに、陸仁の胸の奥の飢餓感は音を立てて膨れ上がっていった。
兄である雅忠が誓子に気安く声をかけるのを見たとき、その焦燥は決定的な色を帯びた。
誰にも渡したくない。誓子が誰かのために微笑むとき、その笑顔の意味を解する者が自分以外にいるという事実が、ひどく不快だった。誓子の一日の動きを、無意識に目で追っている自分がいた。朝どこにいるか。誰と話しているか。どんな顔をしているか。
冬の夜、一人になるたびに思うのは、あの伏せられた睫毛のことだった。自分の前でだけ、僅かに乱れる誓子の呼吸のことだった。
あれは、自分だけが知っている。
だというのに誓子は今日も、その熱を誰にも悟られまいと、静かに、完璧に、押し殺し続けている。
しかし慶仁の熱情と澄子の行動力を引く陸仁が、その綺麗な防壁をおとなしく見過ごすはずがなかった。
誓子が引いた一線の前に立ち、逃げ場のないほど真っ直ぐに、その漆黒の瞳で彼女の視線をとらえ続けていた。
「誓子。なぜ私と話すとき、そのように背筋を強張らせる」
「……滅相もございません、若宮様。宮家にお仕えする者として、当然の礼儀にございます」
「昔のように話せ」
六条の血を引き、宮家の家令の娘として育った誓子は、いつしか己の胸に宿ってしまったその「身分違いの思慕」の重さを、誰よりも深く理解していた。
(私は臣下であり、宮家に仕える女官。京極宮の若宮様に対して、このような不遜な想いを抱いてはならない)
だからこそ、彼女は父親譲りの生真面目さで己の感情を完璧に律した。一歩引き、徹底して「忠実な臣下」として振る舞おうと、自らに冷徹な境界線を引いていた。
互いに己の立場を弁え、誠実であろうとすればするほど、かえって二人の間に流れる視線や沈黙が雄弁になってしまう。その張り詰めた空気感を、誰よりも近くで見つめてきた存在がいた。陸仁の妹、寛代子である。
ある日、宮内省から回ってきた書類を必死に見つめ、陸仁の前で彫像のように固まっている誓子を見て、寛代子は優雅に扇を広げてクスリと笑った。
「ねえ、誓子。お兄様のことになると、どうしてそんなに急に『男爵家の娘』の顔をして一歩引いてしまうの? 兄上がどのような目であなたを見ているか、あなた自身が一番よく知っているでしょう?」
「寛代子殿下……っ」
誓子が顔を赤らめて俯くと、寛代子はさらに距離を詰め、その耳元で囁いた。
「私の前でくらい、ただの女の子に戻ればいいのに」
寛代子は、兄の不器用なほどの執着も、幼い頃から一緒に育ってきた親友である誓子の痛いほどの健気さも、すべてを知っていた。だからこそ、このもどかしい二人の行く末を、少しのからかいと、深い慈しみを持って見守っていた。
──だが、その慈しみの視線すら届かない檻の奥へ、時計の針は容赦なく進んでいく。
十四歳のあの初夏に始まった陸仁の飢餓感は、誓子が十六歳で完璧な防壁を築いて出仕し、さらに夜学という「己の目の届かぬ空白」へ身を置いたことで、二年間、昏く濁った煤のように積もり続けていた。
そして運命の歯車は、あの「山小屋の一夜」へと、彼らを誘うことになる。
それが、すべての境界線を狂わせる惨劇の幕開けだった。