宮邸の敷地内にある女性内舎人用の狭い個室で、誓子は一人、暗闇の中に膝を抱えていた。
彼女を支配していたのは、身体に残る痛みや唇に残る陸仁の熱い呼気の生々しさだけではなかった。
目を閉じれば、あの物置の暗闇が鮮明に蘇る。理性を焼き切られた猛禽そのものの目で、自らの細い腰を強引に抱きすくめ、容赦なく肉体を貪り尽くした陸仁の、恐ろしいほどの熱量。普段の怜悧な若宮の自制などひとかけらもなく、ただ本能のままに己の最奥へと、容赦なく、生々しく注ぎ込まれたあの男の証──。
(もし……もし、あの時のもので、身籠ってしまっていたら、どうなってしまうのだろう)
下腹部に残る違和感が、消えない熱が、十八歳に届かぬ瑞々しい肉体を持つ女性として、あまりにもリアルで巨大な生物学的恐怖となって今、誓子に襲いかかっていた。
危険な時期ではなかったはずだ、と必死に自分に言い聞かせる。だが、もし、万が一にも自分の胎内に、京極宮の血が宿ってしまっていたら──。
それは男爵家である六条家の破滅を意味する。宮内省の大人たちが「皇族をたぶらかし種を身籠った不貞の小娘」として自分を冷酷に裁き、六条家を社会的に抹殺する凄惨な未来が、容易に想像できた。
毎月のものが、予定通りに訪れるかどうか。言わば、それが今の彼女の生死を分ける絶対的な境界線だった。
一歩、足音が廊下に響くたびに、誓子の身体は激しく強張る。今や、異性の気配そのものが彼女の肉体に無条件の戦慄をもたらしていた。
──山から下りて三日が経った頃。
体調不良を理由に籠もっていた誓子だったが、どうしても本人でなければ滞る公務のため、青白い顔のまま、震える手で書類を陸仁の前に差し出さねばならなかった。
身にまとっているのは、宮内省から支給された女性内舎人の制服だ。十九世紀から二十世紀初頭のヨーロッパ宮廷における乗馬服を彷彿とさせる、タイトなシルエットのテーラードジャケット。深みのある高貴な濃紺のウール地には、金色の格式高い宮紋が刻まれた金属ボタンが、胸元から腹部にかけて一列に整然と並んでいる。
気品あるロングスカートとともに身体を包むその仕立ては、宮廷の秩序と忠義の象徴であり、本来なら彼女の誇りであるはずだった。
ジャケットの浅いVラインの襟元からは、清潔な白いスタンドカラーのブラウスが覗いている。その端正な襟元は、常に彼女の凛とした忠誠心を象徴しているはずだったが、今の誓子にとっては、冷たい鎧のように身体を締め付ける代物でしかなかった。
「若宮様、こちらが……本日の、宮内省からの伝達事項でございます」
いつものように端正で冷徹な、しかしどこか物憂げな瞳で自分を見つめてくる二十一歳の主君。
陸仁は、あの夜、誓子が歯を立てた己の親指の付け根──そこにかすかに残る、衣服では隠しきれない小さな赤紫の傷跡を、わざとらしく誓子の目の前で弄んでみせた。
そして、あの朝に雅忠が手を伸ばしかけた彼女の首元のあたりへと、酷薄なまでの独占欲を孕んだ視線をゆっくりと這わせる。
「……無理をさせたな、誓子。顔色が悪い。あの嵐の夜から、よく眠れていないのではないか?」
「は、はい……。ご配慮いただきありがたき幸せに存じます」
その漆黒の瞳の奥に宿る、隠されもしない酷薄なまでの支配欲と、すべてを見透かしたような笑み。
「お前の秘密も、お前の実家の運命も、すべては私の掌の上にある」
──その無言の脅迫に圧し潰された誓子は、これを最後に完全に限界を迎え、ふたたび実邸の暗闇へと引きこもり、実の兄ですら拒絶するようになった。
六条家の私邸は、主である雅武の不在も相まって、ひっそりと静まり返っていた。防災国際会議に出席する京極宮夫妻に随行し、雅武が国外へ旅立ってからおよそ10日が経っていたが、帰国まではあと数週間かかる予定だった。
その重苦しい静寂を破るように、内舎人の制服に身を包んだ雅忠が、母・聡子の部屋の扉を叩いた。
「母上、お耳に入れたいことがございます。……誓子のことです」
部屋に招き入れられ、対面した母親の顔を見た瞬間、雅忠の生真面目な輪郭に苦渋の色が滲んだ。
聡子は、毅然さを保ちつつも、我が子の異様な緊張感に息を呑んだ。
すでに私邸の奥からは、誓子が時折あげる、何かに怯えるような、あるいは過呼吸に陥ったような悲鳴が漏れ聞こえていた。
「雅忠、誓子の様子はどうなのです。山から帰ってから部屋に引きこもったきりで……。女官たちが様子を見に行っても、まともに顔を合わせようともしないとか」
「……深刻です。先ほど、私が部屋の様子を見に行き、声をかけ、近づいたのですが……」
雅忠は自らの大きな掌を見つめ、悔しげに拳を握りしめた。
「私の手を、激しく振り払ったのです。実の兄であるこの私を、恐怖に引き攣った眼で見つめながら、ガタガタと震えて……。あれは、単なる気分の塞ぎ込みなどではありません」
聡子は痛ましそうに胸元を押さえた。雅忠は、小屋の入り口で護衛から固く口止めされながら告げられた「真実」を、絞り出すように母親と共有した。
「護衛の話では、誓子は凄まじい雷鳴に完全に錯乱し、様子を見に来られた若宮殿下を母上と見間違えて抱きつき、強くしがみついて離さなかったそうです。殿下は誓子の名誉のために、これ以上はいかんと力づくでお引き剥がしになろうとしたそうですが、それで却って誓子が錯乱してしまった。殿下は誓子が舌を噛み切らぬよう咄嗟に指を挟み、殿下の親指に赤紫の痕が残るほどだったとか。殿下は掴まれた上着を脱ぎ捨てて、ようやく逃げ出されたのだと……」
「なんということ……。あの生真面目な子が、若宮殿下にそれほどのご不敬を……」
聡子はみるみるうちに血の気を失わせ、慄然として両手で顔を覆った。娘が主君にそのような「見境のない縋り付きと、身体を傷つける暴挙」を働いたという事実だけでも、身のすくむような大不祥事である。
「殿下は、ご自身の力づくの拒絶が誓子をかえって錯乱させ、ここまで追い詰めてしまったと、護衛の前でも深くボヤいておいでだったそうです。ですが誓子は、殿下に激しく突き放されたショックで心を壊してしまった。誓子の目には、異性という存在そのものが、あの夜自分を安心できる場所から力づくで引き剝がした恐怖の象徴として映っているのでしょう。実の兄である私にすらこれですから、他の者が近づけば、それこそどんなパニックを起こすか分かりません」
雅忠の言葉に、聡子は涙を浮かべながらも深く頷くしかなかった。若宮様が誓子の純潔と名誉を守るために手を尽くしてくださったという護衛の生々しい証言がある以上、六条家に疑う余地などない。悪いのは、恐怖に負けて我を失い、主君を傷つけた娘の側なのだ。
「……分かりました。このことは、すぐに私から国外の父上に連絡を入れます。家の長として、帰国後に若宮様へどのように謝罪し、誓子の身をどう処すべきか、判断を仰がねばなりません。父上が戻るまでは、私たちが誓子を他の者たちの目に触れぬよう、静かに守るのです」
「よろしくお願いいたします、母上。私も……若宮様にこれ以上の御心配とご迷惑をおかけするわけにはいきません。これ以上、妹が怯える姿を見ていられないのも事実ですが……」
母と息子の間で交わされた、痛ましいほどの「忠義と納得」。
国外の夫へ連絡を入れようと受話器に手を伸ばす聡子の背中を見つめながら、雅忠は表情を引き締めていった。
数日後、陸仁の執務室。
雅忠は、直立不動の姿勢のまま、主君である陸仁の顔を直視できずにいた。あの暴風雨の後、護衛から聞いた「殿下が上着を脱ぎ捨て、錯乱した誓子を突き放した」という生々しい事実が、今も胸を突き刺しているからだ。
「……殿下。ご多忙の折、私的な不始末の件でお時間を頂戴し、誠に申し訳ございません」
雅忠は深々と頭を下げた。陸仁は書類からゆっくりと目を上げ、まるで慈愛に満ちた聖人のような、穏やかな笑みを浮かべた。
「頭を上げてくれ、雅忠。誓子の件か。……あれから、容態はどうだ?」
「……相変わらず、異性の気配に過敏に反応し、激しく震えております。兄の私ですら、近づくだけで獣に追われるかのように叫び声を上げて……。これでは、宮邸で務めを果たすことは叶いません。謹んで、妹の休職を願い出たく存じます」
雅忠が絞り出すような声でそう告げると、陸仁はわずかに眉を寄せ、深い憂慮を湛えた瞳で窓の外を眺めた。
「休職、か。その後はどうするのだ?」
「はい。療養のため、然るべき施設に入れようかと」
「そうか……雅忠、お前の考えは分からぬでもない。だが、ここで誓子を外に出すのは得策ではないと思う」
「……と、仰いますと?」
「誓子の錯乱が、あの嵐の夜の『私との一件』にあると噂が立てば、誓子の名誉はどうなる。施設に入所させたと知れ渡れば、社交界は面白いように邪推を重ねるだろう。それに、癒されたとしてもその後の縁談にも差し障りが出よう」
陸仁は小さく息を吐き、情け深げに言葉を繋いだ。
「幼きころからともに過ごし、長じてからもあれほど健気に仕えてくれた誓子を、このような形で追い出すことなど、私にはできぬ」
その言葉に、雅忠は息を呑んだ。陸仁はまるで、自分の妹のことよりも誓子の将来を案じているかのように、胸を痛めて見せている。
「ならば、どうすれば……」
「わが宮家で匿う。事情をある程度知っているこの邸内であれば、誓子の名誉を傷つけることなく、静かに静養させることができる。父上たちも納得されよう。……もちろん配置は変える。異性が立ち入りにくい奥向きの部署……そうだな、御連枝資料室付にしよう。資料室の隣室はそこそこ広い仮眠室だったはずだ。あそこに誓子の部屋を移せば資料室との移動は最低限になる。誓子も落ち着けるだろう」
雅忠は主君のあまりの寛大さに、目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。
しかし、陸仁の声がわずかに低く、それでいて慈しむような響きを帯びた。
「ただし、雅忠。私と寛代子の内舎人としての任だけは、そのままにしてはくれまいか」
「……え?」
「誓子は、幼い頃から寛代子と姉妹のように育ってきた。今のあの子には、寛代子のそばにいることこそが、最も薬になるはずだ。それに……」
陸仁は一呼吸置き、寂しげに微笑んだ。
「寛代子も、いつもの側仕えがいないと寂しがってな。あやつの気まぐれに付き合えるのは、誓子だけなのだ。……私のそばで、静かに回復を待たせてやりたい。それが、私のせいで心を壊してしまった誓子への、唯一の贖罪なのだ」
その言葉は、雅忠にとって「命令」ではなかった。若宮殿下が自らの不徳を悔い、生涯をかけて妹を保護しようとしてくださるという、絶対的な「慈愛の証明」にしか聞こえなかったのだ。
「……殿下。我が妹……誓子を、そこまで思ってくださるとは。その温情、六条家として一生涯かけてお返しいたします」
雅忠は今、自分が若宮への忠誠を新たに誓ったその瞬間こそが、誓子が一生涯、陸仁の手の届く場所から逃れられない「合法的な監禁」の始まりであることを、知る由もなかった。