六条家の私邸は、東京の夕暮れ時にふさわしい静謐な空気に包まれていた。
主である雅武が、防災国際会議に出席する慶仁王殿下と澄子妃殿下に随行して国外へ旅立ってから十日余り。その留守を預かる聡子は、私邸の重厚な書斎で、国際電話の受話器を握りしめたまま静かに涙を流していた。
『……そうか。若宮様が、そこまで誓子のことを』
遠く海の向こうから響く夫・雅武の声には、深い安堵と、主家への恐縮の念が滲んでいた。
聡子はハンカチで目元を拭い、何度も深く頷く。
「はい、あなた。雅忠から報告を受け、私もにわかには信じられぬほどでございました。畏れ多くも若宮様のお身体を傷つけるという大不祥事を起こしながら、若宮様は『嵐の夜の錯乱であり、誓子に悪意はなかった』と、宮内省の大人たちにも内々に口止めをしてくださったのです。そればかりか、社交界の邪推から守るために、宮邸の奥向きにある御連枝資料室で、静かに静養させるようお取り計らいくださったとか……」
受話器の向こうで、雅武が小さく息を吐く気配がした。
『あそこか。ありがたい……。六条家にとって、京極宮家がどれほど大きな恩人であるか、改めて身に沁みるな』
聡子は、壁に飾られた若き日の肖像画に目を向けた。
彼女は中院伯爵家の五女という身分であり、かつては慶仁の婚約者候補の一人であった。しかし、慶仁が身に纏う雰囲気に慄き、泣き出してしまった過去がある。その時、側近として誠実に寄り添い、優しく慰めてくれたのが当時まだ若かった雅武だった。その縁を慶仁は盛大に祝福してくれたのだ。
伯爵家の令嬢としてのプライドを傷つけることなく、最良の夫と結ばせてくれた主家の底知れぬ慈悲。その血を引く若宮である陸仁が、今また、我が家の娘の不祥事を大慈悲によって覆い隠そうとしてくれている──。
「本当に、畏れ多いことでございます。帰国されましたら、真っ先に若宮様へ謝罪と、御礼を申し上げねばなりませんね」
『ああ、当然だ。それまでは雅忠ともども、誓子がこれ以上若宮様の手を煩わせぬよう、静かに見守るのだぞ』
「はい、あなた……」
母と父の間で交わされた、純粋で、それゆえに強固な恩義と納得。
自らの実家が、主君への絶対的な忠誠心ゆえに「完璧な味方」から「完璧な檻の番人」へと反転したことを、誓子はまだ知る由もなかった。
宮邸の北翼にある「御連枝資料室」は、昼なお薄暗い静寂に支配されていた。古びた手記や行政文書が天井まで届く書棚に並び、紙の匂いが漂っている。表向きは「殿下のご配慮」による静養の場。しかしそれは、裏を返せば、誰の目も届かない完璧に孤立した空間に他ならなかった。
陸仁の「精神的な療養のため、異性を近づけるな」という命令により、実の兄である雅忠さえもこの区画への立ち入りを厳しく制限されていた。時折、内舎人としての事務書類を届けにくる女官たちも、陸仁から「心を病んだ誓子を刺激してはならない」と言い含められているため、憐れみと腫れ物に触るような視線を向けるだけで、用が済めば逃げるように去っていく。
誓子に与えられた仕事は、かつての皇族が遺した古い日記や書簡の年代順の整理だった。
それは決して、時間潰しのための意味のない作業ではなかったが、崩し字や古い宮廷特有の慣用表現が多用された古文書の山は、解読に専門的な知識を要する極めて難解な公務である。
本来ならば、彼女が二足の草鞋を履いて通っていた夜学で、これから時間をかけて修めるはずの学問だった。だが、今の誓子はあの夜学へ戻ることはできない。講義室という密閉された空間で、講義の合間や移動の際に異性の学生と肩が触れ合う──ただそれだけの想像をするだけで、喉がせり上がり、激しい恐慌状態に陥ってしまうからだ。
学業の継続を諦め、休学届けを出すことは自ら納得して選んだ道だった。しかし、天井まで届く書棚を見上げるたび、自らの手で未来を閉ざしてしまったという忸怩たる思いと、難解な文字列を前にした無力感が、誓子の心をじわじわと摩滅させていく。
誓子は資料室の隅に座り、未だ消えない肉体の記憶と戦っていた。
カサリと木の葉が擦れ合う音がするだけで、彼女の細い背中は強張る。遠くの廊下を渡る足音が聞こえれば、喉の奥が引き攣るほどの恐怖が襲った。
(私は本当に、あの夜、錯乱していたの……?)
目を閉じれば、暗闇の物置で陸仁に組み伏せられ、蹂躙された悍ましい感触が蘇る。
しかし、雅忠も聡子も、涙を浮かべながらこう告げたのだ。
『お前は凄まじい雷鳴に完全に我を失い、若宮様を母上と見間違えてしがみついた。若宮様はお前の名誉を守るために力づくでお引き剥がしになろうとしたが、お前が暴れて舌を噛み切ろうとしたから、咄嗟に指を挟んで守ってくださった。そして、掴まれた上着を脱ぎ捨ててようやく逃げ出されたのだ』
周囲の語るその「真実」は、あまりにも理路整然としており、主君の慈悲深さを証明していた。
六条家の全員が、陸仁への申し訳なさと感謝で身を震わせている。その歪んだ外堀に嵌め込まれるたび、誓子は深い底なし沼へと沈んでいくような錯覚に陥った。
(あの凄惨な記憶は……すべて、私が恐怖のあまりに見た『幻覚』だったというの? 私は若宮様に牙を剥き、あろうことかそのお身体を傷つけて、上着まで捨てさせて逃げ出させるほど暴れたの……?)
仄かな思慕を抱いていた主君を傷つけたという大罪。
胸を刺すような激しい罪悪感が誓子の正常な思考を狂わせていく。自分の記憶が正しいのか、それとも周囲の言う通り自分が完全に狂ってしまったのか、その区別すらもうつかなくなっていた。