※この作品はR-18です。

陸仁王物語―異伝―   作:fire-cat

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第6話

 ある日の午後、資料室の古びた扉が静かに開いた。

 

「誓子、加減はどう?」

 

 入ってきたのは、陸仁の妹であり、誓子にとっては幼馴染でもある寛代子女王だった。

 寛代子は、いつもと変わらない無邪気で可憐な笑みを浮かべ、誓子の手元にある古い書類立てに視線を落とした。

 

「寛代子様……」

「お兄様から、ここで静養していると聞いたの。お兄様、あなたのことを本当に心配なさっていたのよ。六条の家を責めるようなこともしないって、宮内省の大人たちにもわざわざ釘を刺してくださったの」

 

 寛代子は誓子の隣に腰掛け、その細い手を労わるように包み込んだ。しかし、その善意に満ちた言葉のすべてが、誓子の胸を容赦なく抉っていく。

 

「本当に、お兄様はお優しいわ。……だって、お兄様の親指の付け根に、あなたが噛みついた傷が、今も生々しく残っているのよ? とても痛そうなのに、お兄様は『誓子は悪くない、雷に怯えていただけだ』って、ずっと庇うように仰るの。誓子、あなたやっぱりお兄様に愛されているわね」

 

 ドクン、と誓子の心臓が大きく跳ねた。

 陸仁の指に、本当に傷が残っている。その動かぬ事実を突きつけられた瞬間、誓子の脳裏で「被害の記憶」がガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。

 

(本当に……本当に私が噛んだんだ。私が、若宮様を傷つけた……。あの物置でのことは、全部私の狂った頭が見せた妄想だったんだ──)

 

「誓子? どうしたの、そんなに息を荒くして……」

「あ……う、くっ……」

 

 決定的な証拠を突きつけられ、脳内は、自分が主君を傷つけたという偽りの記憶に塗りつぶされていく。凄絶な自己嫌悪とパニックが彼女を震わせた。

 

「大変、やっぱりまだ体調が戻っていないのね。ごめんなさい、無理に話に付き合わせてしまって。すぐに休んで頂戴。誰か! 誰か来て!」

 

 寛代子は慌てて誓子の背中をさすり、女官たちを呼ぶために足早に資料室を後にした。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 女官たちが去り、再び訪れる、耳が痛くなるほどの静寂。

 夕暮れの冷たい斜光が、資料室の床に長い影を落とし始める。誓子は机に突っ伏し、涙に濡れた顔を両手で覆いながら、ただひたすらに己の「不敬」を呪い、咽び泣いていた。

 

 ──カチリ。

 

 内側から鍵が掛けられる音が響く。長い影を引いて歩み寄ってくる長身の影が、床に映し出されていた。

 

「寛代子が騒がせてすまなかったな、誓子」

 

 陸仁の声を聞いた瞬間、肉体が無条件の戦慄に支配された。

 

「わ、若宮、様……っ」

 

 誓子は机から転げ落ちるようにして床に跪いた。

 

「お身体は……その後、お加減は如何でございますか。私の不敬極まる暴挙のせいで……」

 

 陸仁は無言のまま視線を下げると、その大きな手で誓子の顎をすくい上げた。

 

「ひ……っ」

 

 強制的に上向かされた視界に、陸仁の親指が飛び込んできた。そこには、痛々しい赤紫の歯型がくっきりと残っていた。

 

「……傷なら、この通りまだ残っている。これを見るたびに、あの夜のお前の熱い締め付けを思い出してな」

 

 聖人のような微笑みの奥に、酷薄な愛欲の炎が揺らめく。

 

「え……?」

 

 お前の熱い締め付け。

 主君の口から出たあまりにも淫らなその単語に、誓子の思考が停止した。

 陸仁は、身じろぎもできない誓子の耳元にその薄い唇を寄せると、周囲の誰もが知るはずのない「真実」を、楽しげに低く囁いた。

 

「──というわけだ。雅忠も、六条夫人も、実に熱心に私の言葉を信じてくれたぞ。お前が雷鳴に錯乱し、私に暴行を働いたのだと涙を流して恐縮していた。私がわざわざ、お前の名誉のために『宮家で静静に匿うのが得策だ』と持ちかけてやると、額を擦り付けんばかりに感謝していたな。……おかげで、お前は合法的に、この誰の目も届かない私だけの檻へ囲い込まれたわけだ」

 

 ──すべては、この御方の仕組んだ狂気だった。

 自分が狂ったのではなかった。あの凄惨な陵辱も、激しい快楽も、すべては現実だったのだ。

 突きつけられたあまりにも悪辣な真実に、誓子は驚愕に目を見開いた。しかし、同時に時すでに遅しという絶望が、彼女の全身の血の気を引かせた。

 外の世界では、すでに「誓子が錯乱して不敬を働いた」という嘘が、総意として既成事実化している。今更自分がどれだけ真実を叫んだところで、主君に縋り付いた狂人の妄言として処理されるだけだ。

 

「な、何故……そこまで、酷いことを……」

「何故、だと?」

 

 陸仁は鼻で笑うと、顎を掴んでいた手をそのまま誓子の細い首筋へと滑らせ、制服の第1ボタン、第2ボタンを指先だけで器用に外した。そして、端正な上着の襟を左右に静かに開く。

 露わになった白い首筋には、あの日、陸仁が飢えた獣のように貪り、痣になるほどの強さで刻みつけた赤紫の痕が、いまだ生々しく残っている。

 

「これほど甘い果実を、他の男の目に触れる場所に置いておけるか。お前は私のものだ、誓子。髪の一本、その肌の傷一つに至るまで、全てな」

 

 酷薄なまでの独占欲を隠そうともせず、陸仁の指先が誓子の鎖骨を冷酷に、しかし愛おしげに愛撫する。誓子は恐怖に身を竦めながらも、その指先がもたらす熱に、あの日植え付けられた肉体の記憶が疼き出すのを自覚し、絶望に唇を噛んだ。

 

「お前がここで私を拒めば、どうなるか分かるな? 六条家は主君への大不敬の罪で、ただでは済まぬ。お前の大好きな兄も、父も、一瞬で破滅だ」

 

 実家の命運を人質に取られた誓子の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。

 

「……それとも。私のせいで心を壊してしまった、可哀想な内舎人として──ここで私に、甘んじて『贖罪』をさせてくれるか?」

 

 逃げ場など、最初からどこにもなかった。

 夕闇が完全に資料室を包み込み、常闇の密室が完成する。

 誰にも助けを求められない静寂の中で、誓子は実家の運命と、すでに抗えなくなりつつある自らの肉体の歓びに屈するように、ゆっくりと陸仁の強固な腕の中へと沈んでいくのだった──。

 資料室を包む闇は、まるで誓子の絶望をそのまま具現化したかのように、深く、冷たく重苦しかった。

 カサリ、と書類が畳の上に擦れる音が響く。陸仁に襟元を引き下げられ、床に押し伏せられた誓子は、もはや涙を拭うことすらできなかった。

 

「若宮、様……お願い、いたします……六条の家だけは……」

「お前の態度次第だ、誓子」

 

 陸仁は、床に散らばった古い資料の紙片を避けながら、誓子の細い腰を外套の上から強引に引き寄せた。男の硬質な体温が、容赦なく彼女の冷え切った身体に伝わってくる。

 

「私はお前を救ってやったのだ。あの暴風雨の夜、見境なく狂ったお前を、この傷と引き換えに守ってやった『慈悲深き主君』のままでいさせてくれ」

 

 耳元で囁かれる言葉は、どこまでも優しく、そしてどこまでも酷薄だった。

 陸仁の手が、誓子の内舎人としての制服のボタンを一つ、また一つと、手慣れた手つきで外していく。

 この格式高い制服の構造は、陸仁の前では致命的な欠陥でしかなかった。浅いVラインを描くジャケットの襟元は、ボタンを外せば生地を傷めることも型崩れさせることもなく、左右へと直線的に、あまりにも容易に開いてしまう。

 それはまるで、主君がいつでも自らの手で中身を剥ぎ取れるよう、最初から誂えられていた「包装紙」のようだった。

 衣服が衣服の形を保ったまま滑り落ちるように剥ぎ取られ、資料室の冷気が肌に触れるたび、誓子は屈辱と恐怖に身震いした。しかし、彼女の肉体は、その冷たさの後に訪れるであろう「あの夜の苛烈な熱量」をすでに知ってしまっていた。

 

(だめ……嫌、なのに……身体が、あつい……)

 

 下腹部の奥深く、数日前の蹂躙によって刻み込まれた消えない違和感が、陸仁の指先が触れるたびにズキズキと疼き出す。脳がどれだけ拒絶を叫ぼうとも、瑞々しい肉体は、主君の強引な愛撫に対してあまりにも素直に、淫らな熱を帯び始めていた。

 

「──っ、ん、……ぁ」

 

 誓子は、自らの口から漏れ出たあまりにも情けない甘い息に、ハッと目を見開いた。慌てて自らの唇を噛み締め、声を殺そうとする。実家の命運を握られているという恐怖と、主君に身体を開かされているという背徳感が、彼女の喉を硬く締め付けた。

 しかし、陸仁はその様子さえも楽しむかのように、薄い唇を吊り上げた。

 

「声を殺す必要はない。ここは誰も来ぬ、私とお前だけの場所だ。いくら泣き叫ぼうとも、お前の声を聞き届ける者など、この宮邸には一人もいないのだからな」

 

 その言葉とともに、陸仁は己の親指の付け根──誓子が刻みつけた赤紫の傷痕を、わざと誓子の唇に強く押し当てた。布越しではなく、ダイレクトに触れる皮膚の硬さと、微かに残る痛みの記憶。

 

「……さあ、あの夜の続きを始めよう」

 

 有無を言わさぬ質量が、誓子の最も柔らかな聖域へと容赦なく迫る。

 逃げ場のない常闇の資料室で、六条家という巨大な枷を嵌められた内舎人は、ただ主君の独占欲という名の深淵に、どこまでも深く、溺れていくしかなかった──。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 誓子にとって宮邸の北翼最奥にある「御連枝資料室」の日常は外界から完全に遮断された静かな刑罰に変わった。

 誰も訪れることのない、朝から夕暮れまで、ただ古い紙の匂いに包まれながら孤立する日々。

 だが何より、彼女の細い身体を二十四時間、真綿で首を絞めるように苦しめていたのは、極めて現実的で、生々しい「生物学的な恐怖」だった。

 

(まだ……来ない)

 

 衣服の上から自らの下腹部にそっと手を当て、誓子は青白い顔で小さく震えていた。

 毎月のものが、予定の周期を過ぎても訪れる気配がない。

 危険な時期ではなかったはずだ、と何度も自分に言い聞かせる。だが、あの夜に始まり、この資料室で重ねられた陸仁の苛烈な蹂躙が、十八歳に届かぬ彼女の未成熟な身体のバランスを狂わせているのは明白だった。

 もし、万が一にも、この胎内に京極宮の血が宿ってしまったら──。その最悪の想像が頭をもたげるたび、誓子は過呼吸になりそうなほどの眩暈を覚えた。

 

 ──カチリ。

 

 夕闇が部屋の隅々を侵食し始めた頃、静寂を破って、その音が響く。

 内側から鍵が掛けられる、明瞭な金属音。

 

 誓子の身体は、その音だけで条件反射のように強硬に強張り、床の上に蹲った。心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗が噴き出す。

 

「熱心だな、誓子。少しは心が落ち着いたか?」

 

 静かな足音とともに現れた陸仁は、机の前に立つと、怯えの極みに達している誓子の黒髪を、まるでお気に入りの愛玩動物を慈しむように冷たく、優しく撫で上げた。

 

「若宮、様……っ」

「顔色が悪いな。……そうか、月のものが、まだ来ないのだな?」

 

 ドクン、と誓子の心臓が跳ね上がった。なぜこの御方は、誰にも言えない自らの身体の秘密までをも見透かしているのか。恐怖に怯える瞳を向けた誓子を、陸仁は昏い愛欲を湛えた怜悧な瞳で見下ろし、その薄い唇を吊り上げた。

 

「お前が何を最も恐れているかなど、私に分からぬとでも思ったか? 何日遅れている? ……もし万が一、その腹の中に私の血が宿っていたら、どうなるか」

 

 陸仁の長い指先が、誓子の顎から、細い首筋、そして濃紺の制服の上から下腹部へと、ゆっくりと滑り降りていく。冷たい蛇が這うような感触に、誓子は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えた。

 

「案ずるな。もしそうなれば、お前が『錯乱して不敬を働いた、可哀想な内舎人』のまま、宮内省の手で誰の目にも触れぬ場所へ移され、処理されるよう私がすべて手配してやろう。お前がここで、大人しく私の贖罪を受け入れ、従順に仕え続ける限り……六条の家だけは、無傷のままでいさせてやる」

「あ、う……あ、……っ」

 

 陸仁の手が、下腹部を愛おしげに、しかし確実な脅迫を込めて強く圧迫する。

 陸仁が告げたその「言葉」こそが、誓子にとって、彼がいない昼間の時間でさえも自らの肉体を呪わせる、完璧な精神の首輪だった。毎月のものが遅れる一日一日の恐怖が、そのまま陸仁への依存と絶望へと変換されていく。

 

「お前の実家の運命も、お前自身の身体も、すべては私の掌の上にあるのだ、誓子」

 

 陸仁はそう囁くと、型崩れひとつさせないスマートな手つきで、誓子が身にまとう濃紺のテーラードジャケットの金ボタンに手をかけた。胸元から下へと、一つ、また一つ。

 指先が滑るたびに、仕立ての良いウール地が静かに左右へと割れていく。あの日、鎧の代わりとして自分の身を固く守ってくれると信じていたはずの制服は、いまや陸仁の滑らかな指使いを一切妨げることなく、その従順な構造のすべてを主君の欲望の前に明け渡していた。

 

 衣服が衣服の形を保ったまま滑り落ち、資料室の冷気が肌に触れる。誓子は屈辱と恐怖に身震いしながらも、いつ訪れるか分からない懐妊の恐怖と、すでに抗えなくなりつつある主君の苛烈な熱量の中に、ふたたび深く、絶望とともに沈んでいくのだった──。

 

 

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