御連枝資料室付になった誓子に与えられた部屋は、資料室と隣接した、宮邸の北翼最奥の空間である。それは若宮・陸仁の特別の計らいによるものだった。
『誓子が男の気配に怯えずに済むよう、資料室の隣にある仮眠室を専用の部屋に宛てがった。女官たちの居所からも遠いゆえ、誰の目も気にせず静かに休めるはずだ。あの部屋は洗面、手水まで揃っておる。元が仮眠室ゆえ湯船はなくシャワーのみだが、一面の鏡とプラスチックの壁で整えられた機能的な造りだ。暫く閉鎖されておった故、入念に洗わせた。あの部屋であれば何一つ不自由はさせぬ』
兄・雅忠や周囲の女官たちは、主君のその細やかな慈悲にまたも涙した。だが、誓子にとっては違った。そこは、表向きの優しさに偽装された、完璧な「私的監禁室」に他ならない。
夜の帳が宮邸を完全に包み込むと、静寂のなかで、決まってその音が響く。
カチリ、と掛けられたはずの錠が、陸仁の持つ合鍵によって滑らかに開く、微かな金属音。
その音が聞こえた瞬間から、誓子の一日は「内舎人」としての公務から、一人の男の「所有物」としての時間へと強制的に反転させられるのだった。
陸仁は、宮邸の主としての端正な佇まいを崩さぬまま、躊躇いなく彼女の部屋へと足を踏み入れてくる。
昼間の彼がまとう聖人のような優雅さは消え失せ、そこにあるのは、執拗で、容赦のない酷薄な独占欲だけだった。
異性を恐れる誓子が夜学も辞め、この部屋で夜を迎えるにあたり、かつてのような令嬢らしいネグリジェを身に着けることなど、到底できなかった。彼女が夜の「鎧」として身を包んでいたのは、首元まで隙間なくボタンの並んだ、極めて保守的で厚手の木綿の部屋着だった。少しでも肌の露出を無くし、男の視線と指先から自らを守ろうとする、切実でささやかな抵抗。
しかし、その頑なな防壁さえも、陸仁の前では無力な紙細工に等しかった。
陸仁はベッドの上で怯える誓子を静かに組み伏せると、誰の目にも不審を抱かせぬよう、その洗練された長い指先で、首元を締め付ける寝衣のボタンを一つずつ、音もなく滑らかに外していった。
毟り取ることも、生地を傷めることもなく、ただ事務的な手際で寝衣の合わせを左右へと割り、そこに隠された白い下着へと、澱みのない手つきで指先を滑り込ませていく。
どれほど強固に身を隠そうとも、己の抵抗など主君の冷徹な指先ひとつの前には何の意味も成さず、衣服はただ無力にその役目を解かれるのだという絶望が、誓子の身体を硬直させた。
「声を出しても構わないと言ったはずだ、誓子。お前がどれほど私の名を呼ぼうと、その口から淫らな声を上げようと、この最奥の部屋からその鳴き声が外に漏れ出ることはないのだからな」
逆らえば実家が破滅するという恐怖。そして、拒絶を叫びながらも、その苛烈な熱量にどこか飼い慣らされつつある自らの肉体への嫌悪。身じろぎもできぬまま彼を受け入れるたび、誓子の魂は少しずつ、確実に磨り潰されていった。
主君がその欲望を満たし、何事もなかったかのように夜闇の向こうへ去った後、誓子は命じられた通り、備え付けのユニットバスへと向かう。
白く無機質な空間に響き渡るシャワーの音。
晩秋の夜の冷気が満ちる浴室で、誓子はタイルの上に力なく膝をつき、蛇口を一杯にひねって溢れ出る熱い湯を自らの身体へと浴びせ続けた。
陸仁が残していった強烈な体温、肌にこびりついた男の匂い、そして下腹部の奥深くに注ぎ込まれた「不浄の証」。それらをすべて削ぎ落とそうと、皮膚が赤く腫れ上がるほどの熱湯を容赦なく頭から被る。
しかし、どれほど熱い湯で全身を激しく洗い流そうとも、恐怖に支配された身体の芯は凍りついたように冷え切ったままであり、胎内の奥底に染み込んでいく京極宮の血の重みまでは決して洗い流せなかった。
シャワーの飛沫に混じる、誰にも聞かれることのない咽び泣き。
この白く狭い浴室での絶望的な儀式こそが、彼女が「まだ生きている」こと、さらに「陸仁の檻から決して逃れられない」ことを自覚させる、最も残酷な反復の棘であった。
何より誓子の精神を磨り潰していたのは、予定日を1週間以上過ぎても、なお訪れる気配のない「毎月のもの」だった。衣服の上から下腹部に触れるたび、陸仁に植え付けられた消えない違和感と、受胎という生物学的恐怖が、18歳に届かぬ彼女の細い背中を絶え間なく震わせていた。
(まだ来ない……。もし、本当に宿ってしまっていたら……)
眠れぬ夜を明かし、翌朝、重い足取りで向かった資料室の卓上に、寛代子からの「至急」のメモがあるのが目に入った。そこには、どうしても今日中に宮内省の事務方へ提出せねばならない書類の整理について記されていた。幼馴染であり、自分を心配し続けてくれている寛代子のための用件だった。
「誰にも会いませんように。……神様、どうか、誰にも」
誓子は祈るような心地で、久しぶりに資料室の扉を開け、静まり返った廊下へと足を踏み出した。
だが、その祈りは残酷に打ち砕かれる。
タッタッタ、と廊下の向こうから響く、急ぎ足の硬い足音。
「おっと──っ!」
廊下の曲がり角。出合い頭だった。資料の束を抱えた若手の男性家従と、身体がぶつかるように激しく接触してしまった。
ほんの数センチの距離に、見知らぬ男性の肉体がある。その男の体温、制服の生地が擦れ合う音、男特有の無骨な存在感。
「これは失礼……!」
異性の硬い肉体。驚いた男性の声。
その瞬間、誓子の脳裏に、あの暴風雨の夜の物置の暗闇が鮮烈にフラッシュバックした。服を剥ぎ取られ、理性を焼き切られた猛禽のような目で己を蹂躙した、あの「男」の暴力的な質量。
「──あ」
ヒュッと喉の奥で呼吸が止まる。みるみるうちに血の気が引き、視界がぐにゃりと歪んだ。男性がすぐ近くにいる。それだけの事実で、誓子の全細胞が「殺される」と絶叫し始めた。
床に落ちた資料を拾おうと、男性家従が反射的に手を伸ばした。その大きな手のひらが、誓子の視界を塞ぐ。
「嫌、嫌ァ! 来ないで、触らないで……っ!」
「ろ、六条殿!? 申し訳ありません、私はただ──」
「触るなァーッ!」
過呼吸を伴う激しい恐慌状態。涙と鼻水で顔を濡らし、狂ったように床を掻きむしりながら後退りする誓子の姿に、若手の家従は完全に困惑し、ただ立ちすくむことしかできなかった。
その時、廊下の向こうから疾風のごとく駆けつける影があった。
「誓子!」
騒ぎを察知し、凄まじい速度で現れたのは、二十一歳の若宮・陸仁だった。
陸仁は躊躇うことなく床に膝をつくと、錯乱して爪を立てて暴れる誓子の身体を、男性家従から引き離すように、自らの強固な腕で強く抱きすくめた。
「ひぐっ、あ、嫌、離して……っ!」
「落ち着け、誓子! 私だ、陸仁だ。もう大丈夫だ!」
暴れる誓子は、自分を拘束する腕に逆らい、狂ったように陸仁の右手に前歯を突き立てた。暴風雨の夜に刻みつけた、あの赤紫の傷痕のすぐ隣。肉が裂け、生々しい鮮血が陸仁の白い肌を伝って床に滴り落ちる。
しかし、陸仁は眉一つ動かさず、むしろその痛みを愛おしむように誓子を抱きしめ続けた。
そして、抱きすくめた誓子の頭越しに、立ちすくむ男性家従へ向けて、冷徹な一瞥をくれた。陸仁は無言のまま、顎を小さくしゃくり、「速やかに立ち去れ」と合図を送った。家従は顔を真っ青にさせ、こけつまろびつ、その場から逃げ去っていった。
「すまない、誓子……。怖かったな。私がここにいる」
耳元で囁かれる甘やかな声。その声の主こそが、自分をこの地獄に叩き落とした張本人であるというのに、異性への恐怖に狂った誓子の肉体は、不思議とその「馴染み深い体温」に抱かれることで、次第に過呼吸を鎮めていくのだった。
──その一部始終を、角の物陰からじっと見つめている男がいた。
妹を心配し様子を見に来ていた兄・雅忠だった。
雅忠は、物陰で自らの拳を血が滲むほど強く握りしめ、溢れ出そうとする涙を必死に堪えていた。
妹のあまりにも異常なパニックぶり。本当に、誓子はあの夜のショックで心を完全に病んでしまっている。その動かぬ確信。
そして、それをおのれの身体を挺して──再びその手を血に染めてまで、実の兄である自分以上に必死に鎮めてくれた、陸仁の慈悲深さ。
(若宮様……。そこまで、そこまで我が六条家のために……っ)
主家の仕掛けた歪んだ欺瞞の上に、一片の疑いもなく築き上げられていく、盲目的とも言える絶対の忠誠。雅忠は陸仁への深い感謝と、妹への痛ましさのあまり、その場に跪きそうになるのを必死に堪えていた。
数日後、宮邸の若手の間では、ある「人事」が大きな話題となっていた。
廊下で六条誓子をパニックに陥らせてしまった男性家従が別の格式高い部署へと転属──それも、事実上の「栄転」を言い渡されたのだ。
当の家従は、荷物をまとめながら、周囲の同僚たちに涙を流して語った。
「あそこまで六条殿が怯えられるとは思わなかった。私の不注意で、心を病まれている彼女に凄まじい恐怖を与えてしまったというのに……。若宮様は私をお咎めなしにしてくださったばかりか、私の将来を案じて、このような過分な栄転の場を与えてくださった。若宮様の御器量の大きさには、一生をかけて御恩返しをせねばならない」
陸仁の狙いは、完璧だった。
もしここで家従を罰すれば、「若宮様が不当に怒った」と勘ぐられる。だが、あえて「栄転」という形をとることで、家従の口を完全に封じつつ、彼自身の口から「六条誓子のパニック障害は紛れもない本物である」ということ、そして「若宮様はそれを極秘裏に、命がけで慈悲深く守ろうとされている」という噂を、絶対的な美徳として宮邸内に広めさせたのだ。
これにより、宮邸内における「六条の娘は可哀想に心を病んでしまった。若宮様はそれを必死に守ろうとされておられる」という歪んだ既成事実は、何一つ疑う余地のない絶対の真実として定着していった。
しかし、どれほど陸仁が宮邸内を統制しようとも、誓子の異性に対するあの凄まじい拒絶反応は、仕える者たちの目を通して、ジワジワと外部の「華族社会」へと漏れ出していった。
閉鎖的で、退屈で、他人の不幸と醜聞を何よりの娯楽とする社交界の住人たちが、この奇妙な噂を見逃すはずがなかった。
ある華族の夜会、豪奢な扇の陰で、不穏な囁きが交わされる。
「小耳に挟みましたの。六条家のご令嬢……あの暴風雨のハイキング以来、宮邸の奥に籠もりきりで、時折り、狂ったように泣き叫ばれるそうですわ」
「いくら雷が怖かったとはいえ、あそこまで錯乱されるなど、普通ではございませんわね」
「まあ……。そういえばあの夜、彼女は若宮殿下と同じ山小屋へ避難したのでしょう?」
「ええ、それがどうかされまして? ……ああ、なるほど。そう言う事もあり得ますわね」
「ええ。殿下はお優しい方ですが、まだお若い盛りの男子。あの閉ざされた暴風雨の夜、もしや若宮殿下の……その、『御乱行』があったのではないかしら? でなければ、あそこまで娘の気が触れるはずがありませんもの」
クスクスと下品な笑い声が響く。だが、悪意ある邪推は、そこで止まらなかった。
「お待ちなさい。……それならば、もう一人おいででしょう」
一人の夫人のおぞましい一言に、周囲の空気が凍りついた。
「同じくあの夜、焦燥から小屋を飛び出し、負傷されて夜明けまで登山道から外れた岩陰で……六条殿と二人きりで過ごされたという、寛代子女王殿下は、一体どうなんですの? 六条殿が負傷した殿下の看病をされていたと聞いておりますけれど、あちらも若い盛りの男と女。事によると……」
「まさか……。あの二人も?」
火のない所に煙は立たぬ。
噂は瞬く間に増幅され、陸仁の品格だけでなく、六条家、そして何より京極宮家の高貴な血を引く寛代子女王の「純潔」にまで飛び火した。宮家から「傷物の女王」が出るなど、皇室および社交界にとって、文字通り天地を揺るがす国家的醜聞であった。
事態を重く見たのは、宮内省の厳格な大人たちだった。
国外の防災国際会議から、まもなく慶仁王殿下と澄子妃殿下が帰国される。その耳に、このおぞましい醜聞を入れさせるわけにはいかない。
京極宮家の品格と聖域を守るためには、この悪質な噂を根本から「叩き潰す」必要があった。
噂を根絶やしにし、宮家の潔白を世間に証明するための、唯一の、そして冷酷極まりない解決策。
──それは、「二人の娘の身体が、清廉潔白であるという医学的証明」を示すこと。
数日後の朝。資料室の隣にある「専用の待機部屋」に、宮内省の冷徹な役人と、年配の女官長が姿を現した。
怯える誓子の前に、一枚の厳格な書面が差し出される。
「六条誓子殿。宮内省からの通達でございます。京極宮家、および貴女様の名誉にかけられた根も葉もない醜聞を打破するため、これより寛代子女王殿下、および貴女様の二名に対し、しかるべき医官による『純潔検査』を執り行います」
その宣告を聴いた瞬間、誓子は頭を殴られたような衝撃とともに、その場に崩れ落ちた。
純潔検査。
それが意味することを、18歳に届かぬ彼女も理解していた。
もしその検査を受ければ、陸仁との度重なる蹂躙によってすでに「純潔」を失っている自らの身体の真実が、すべて明るみに出てしまう。それは六条家の確実な破滅を意味していた。自らの喉を締め付けるような恐怖と、逃げ場のない絶望に、誓子は窒息しそうになっていた。
しかし、宮内省の役人の目は、冷酷なまでに事務的だった。
「これは、帰国される慶仁王殿下、そして宮家を守るための絶対的な決定でございます。拒否は許されません」
逃げ場のない常闇の檻に、ついに外側から「国家」という名の容赦のない光が差し込もうとしていた。
自らの破滅へのカウントダウンを前に、誓子はただ、息もできぬほどの絶望の淵へと突き落とされるのだった。