予定日を1週間以上過ぎても来ない毎月のもの。下腹部の奥深くに残る生々しい違和感。陸仁によって心身を蹂躙されたという決定的な「不貞の痕跡」が白日の下に晒されれば、六条家は一瞬にして破滅する。自らの喉を締め付けるような恐怖と、逃げ場のない絶望に、誓子は窒息しそうになっていた。
しかし、当事者である誓子の過酷な恐慌とは裏腹に、重臣たちが集う宮廷の控え室を支配していたのは、まったく異なる種類の熱量だった。
それは、醜聞を揉み消すためだけに、一人のうら若き令嬢にこのような悪趣味極まる検査を強行した、宮内省の冷徹な方針に対する激しい反発の空気である。
「馬鹿馬鹿しい。彼女は幼少期から寛代子殿下と共に過ごされているのだぞ? 寛代子殿下と同じように乗馬、西洋舞踏、水泳、庭球と、普段から並の令嬢とは比べ物にならんほど激しく身体を動かしてきたのだ。検査でどのような結果が出ようとも、妊娠の有無以外で純潔の有無などわかるわけなかろう」
髭を蓄えた年配の華族が、呆れたように首を振って吐き捨てた。隣にいた別の華族も、深く同意するように頷き、眉根を寄せる。
「傷心の六条殿に純潔検査などと無体な仕打ち、あまりにも非道い……。そもそも若宮殿下の御品格を疑うなど、不敬にも程がある。宮家の乳兄弟たる方の令嬢を、組織の体面のために辱めるとは」
宮家の名誉を優先するあまり、問答無用で検査を決定した宮内省の無体なやり方は、宮廷内の良識派や保守的な華族たちの強い反感を買う結果となっていた。
事態を苦々しく思う華族たちの間からは、一様に傷心の誓子への深い同情と、令嬢の尊厳を省みない非情な沙汰への激しい憤りの声が上がり、幼少期から彼女たちの活発な気性をよく知る年配の華族たちの間では、今回の検査の医学的無意味さを冷笑する会話さえ交わされていた。
宮邸の奥に設けられた臨時の診察室には、人目を忍ぶように数日前から機材が運び込まれていた。その部屋の前で怯える誓子に対し、傍らに控える女官が優しく寄り添い、静かに声をかけながら励ましていた。どれほど時が流れただろうか、ついに扉の向こうから誓子の名が呼ばれた。
「六条様、どうぞこちらへ」
低い、感情の起伏を持たない声が誓子を促す。
白幕の奥で待っていたのは、宮廷がこの検査のために特別に招いた熟練の女医であった。いくら厳格な検査とはいえ、未婚の華族令嬢の身体に触れることが許されるのは、厳選された女医のみである。
誓子は絶望の波に呑まれながら、操られる人形のように検診台へと横たわった。天井の冷たい光が視界を焼き、女医の手袋が擦れる不快な音が耳腔に響く。誓子は固く目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
(お願い、神様、止めて、見ないで──)
心臓が破裂しそうなほどの緊張の中、厳秘の検診が淡々と執り行われた。
いくら同性の熟練医とはいえ、その指先が、下腹部や、自らの肉体に刻まれた「真実」の近くに触れるたび、誓子の全細胞は恐怖で悲鳴を上げた。
「……六条様、少し力を抜いてください。息を吸って」
女医が静かに声をかけ、検分のために衣服をさらに押し広げようとした、その瞬間だった。
触れられる肉体的な圧迫感と、衣服が擦れ合う音が、誓子の脳裏であの嵐の夜の物置の記憶を完全に呼び覚ましてしまった。
「いや……っ、来ないで、触らないで……!」
誓子の口から悲鳴が漏れた。
みるみるうちに血の気が引き、過呼吸の激しい喘ぎが診察室に響き渡る。誓子は検診台の上で、まるでこれから殺害される囚人のように全身を硬直させ、涙と脂汗を流しながら、触れられる指先から逃れるように狂ったように身をよじった。
白衣の女医の手を、まるで汚物か凶器であるかのように怯え、拒絶するその尋常でない怯えよう。
単なる「検査の羞恥」や、華族の噂にある「雷の恐怖」などでは到底説明のつかない、肉体そのものが接触に対して強烈な拒絶反応を起こしているのが明白だった。
女医はそれ以上無理に触ることを止め、痛ましさと驚きが混ざり合った目で、過呼吸に悶える誓子を見つめた。
綿密な触診と、その恐慌状態の観察を終えた女医の表情は、意外なほどに沈着なものだったが、その手元のカルテには、医学的な事実が淡々と書き込まれていった。
【公式報告:六条誓子 身体検査結果】
解剖医学的見地に基づき、幼少期からの激しい身体活動による肉体的変形が顕著であり、純潔の確定的な有無は判定不明。ただし、現時点において懐妊の可能性は完全に無しと認む。
なお、検診時における被検者の顕著な恐慌状態、および接触に対する過度の拒絶反応を鑑みるに、極めて深刻な心的外傷後ストレス障害の兆候を呈しているものと診断する。
「そら見たことか!」
報告書が公開された瞬間、宮廷の良識派からは歓声に近い声が上がった。
純潔不明──しかしそれは、上流階級の令嬢においても快活な気性であれば何ら珍しくないものであり、何より「懐妊の可能性は完全に無し」という一文が、若宮による密通の証拠を完全に否定していた。
検査を強行し、一人のうら若き華族令嬢を辱めた宮内省の役人たちは、青ざめた表情で立ち尽くすほかなかった。
「結果として一人の令嬢の心と尊厳をさらに壊したのみでなく、若宮の体面をも傷つけただけではないか! 皇室の藩屏たる華族の娘を根拠なき疑念で辱め、若宮殿下の清廉な御名に泥を塗ろうとした宮内省の罪、極めて重いぞ!」
「若宮様を信じよ! 殿下があの夜、どれほど高邁な精神をもって令嬢を守り抜かれたか、これではっきりと証明されたではないか!」
「この無礼極まる不祥事、どのように責任を取るつもりか!」
猛烈な批判の嵐が吹き荒れる中、当事者である陸仁は、騒然とする宮廷の片隅でただ静かに佇んでいた。その表情には驕りも怒りもなく、ただただ深い悲しみと、身を切られるような痛みに耐える聖者のような静けさだけが湛えられている。
自らの手を噛まれてまで誓子の尊厳を守ろうとした「悲劇の若宮」としての彼の地位と名声は、この愚かな検査のおかげで、皮肉にも以前より遥かに強固なものへと昇華されたのだ。
一方、救われたはずの誓子は、肉体的な「懐妊」という最悪の破滅だけは免れたものの、別の深い絶望に直面していた。
宮廷全体が彼女を「哀れな被害者」として扱い、「優しい同情」を向けてくる。
(違う……私は、若宮様に……)
そう叫びたくとも、その温かい同情の視線こそが、彼女にとっては陸仁の犯行を永遠に闇に葬り去る、新たな逃れられない檻となった。真実を叫ぶことはもう誰にも許されない。彼女の心は、その優しき同情の重みによって、さらに深く暗い深淵へと閉じ込められることとなった。
同じく疑惑の目を向けられていた京極宮家の姫宮──寛代子女王に対する周囲の評価は、最初からまったく異なる様相を呈していた。
彼女が纏う絶対的な高貴さと、六条雅武が京極宮慶仁に捧げてきた忠義という難攻不落の盾が、醜悪な噂を最初から寄せ付けなかったのである。
「寛代子殿下もまた、乗馬や庭球に熱心であらせられた。結果など最初から分かりきっていることだ。あの方の気高さに疑いを挟んで何とする」
「そもそも、あの暴風雨の夜、山中の岩陰で殿下と共にとどまっていたのは、あの生真面目実直で忠義一徹な六条雅武の倅だぞ。余人はともかくあの倅が、宮家の姫に不敬な真似を働くはずがない」
「左様。……だが、不届きな噂は完全に叩き潰しておくに限る」
そして、寛代子の検査もまた、何一つ波乱を起こすことなく終了した。
「……殿下の御身体には、何一つ不審な点はございません。御足の負傷に伴ういくつかの微細な皮下出血が見られますが、これらはすべて、暴風雨の夜、山中での滑落において生じた擦り傷の痕に相違ございませぬ。また、その……女子としての、いわゆる純潔の証の件につきましても、殿下は幼少期より乗馬や西洋舞踏に深く親しまれておいでですから、医学的にも、解剖学的にも、何らおかしな点などは──」
「もうよい。下がりなさい」
女医の恐怖に満ちた細々とした釈明を、寛代子の背後に控えていた女官が、冷徹極まる声で遮り、これ以上、至高たる女王の前で卑俗な肉体の話をさせるわけにはいかないと退室させた。
「分かりきっていたことでございませぬか」
「殿下と六条家の名誉を不当に損なっただけでございました」
「殿下。私どももこれにて退室させていただきます。隣室に控えておりますれば、何かございましたら」
「わかっております。大儀でした」
寛代子の言葉に恭しく女官たちが頭を下げ、退室していく。部屋の重々しい二重の木製扉が静かに閉め切られ、広大な室内に、たった一人寛代子だけが残された。
静寂が戻った室内で、寛代子はそれまでの張り詰めた顔をふっと緩めた。そして、ゆっくりとした足取りで、部屋の隅に置かれた姿見の大きな鏡の前へと歩み寄った。
鏡の中に映し出されているのは、一分の隙もない完璧な気品を湛えた、京極宮家の若き姫宮の姿である。宮廷の厳しい目も、女医の鋭い視線も、すべてを欺き通した完璧な衣服の佇まい。
寛代子は、その首元へとそっと、自らの細く白い指先を滑らせた。
指先が触れたのは、高価な絹の襟元──その衣服の内側にある、最高級のレースの肌着だった。
脳裏に蘇るのは、あの嵐の夜の、本当の記憶。
激しい雷鳴の中、岩陰で雅忠によって狂おしく穿たれた、熱い痛みの記憶。それは今なお彼女の肉体に生々しく残っている。彼が自分を蹂躙し、自分が彼を狂おしいほどに受け入れたという、絶対的な不敬の刻印。
夜明けの凍える岩陰。荒い息遣いの中で、雅忠の大きく、無骨で、しかしこの上なく愛おしい掌に包まれながら、硬質な金属音を立てて施錠された、下着のフロントホックの留め具。
宮廷の古臭い医学も、特別に差し向けられた女医の鋭い目も、大人たちの醜悪で貪欲な政治的疑念も、その美しい秘密の痕跡を何一つ暴くことはできなかった。
──雅忠が施したあの錠は、誰にも破れなかったのだ。
「……ねえ、雅忠。本当に、私たちの夜は『何も無かった』ことになったわ」
鏡の向こうに映る女王は、周囲の誰も──父親である慶仁すらも見たことのない、悪戯めいた、そして酷く妖艶な微笑みを、静かに、深く浮かべていた。
無事に検査を終え、女官たちに付き添われて静かに自室へと戻っていく寛代子の背中を、雅忠は廊下の陰から息を殺して見つめていた。
(……終わった、のか)
乗馬や舞踏による影響──そう判断され、寛代子の潔白が証明されたという報せを受けた瞬間、雅忠の膝から一気に力が抜けかけた。
暴風雨の夜、一線を越えてしまったあの過ち。もしもあの夜の出来事が露見していれば、寛代子の尊厳は踏みにじられ、自分は京極宮家を裏切った大逆の徒として排斥されていたはずだった。
奇跡的に手に入れた安堵。しかし、その安堵が大きければ大きいほど、雅忠の胸を苛むのはあまりにも深い罪悪感であった。
(俺は……お救いできたのではない。ただ運良く、偽りの理由によって守られただけだ)
主君である慶仁や、家令として生涯を捧げてきた父・雅武が不在の宮邸で、自らは陸仁の側近として滞りなく職務を果たしている。だがその手は、既に宮家の姫宮の肌を知り、その純潔を奪い去っているのだ。
寛代子を想う情熱は、一度溢れ出してしまえば二度と止めることのできない猛毒だった。もしもこの関係を重ね、次に一線を越えてしまえば──その時はもう、どのような弁明も通用しない。京極宮家と六条家が長年築き上げてきた絶対的な信頼関係を、自らの手で根底から破滅させることになる。
遠ざかっていく寛代子を見つめながら、雅忠は強く拳を握りしめ、爪が皮膚に食い込む痛みに耐えていた。
忠義を尽くすべき若宮の側近としての冷徹な仮面と、ただ一人の男として寛代子を乞い願う泥沼のような情熱。その二つに引き裂かれながら、雅忠は深く暗い息を吐き出した。