二ヶ月という時間は、一人の少女を崩壊させるには十分すぎるほど長かった。
かつて幼い頃、庭で転んで泣いていた自分にそっと手渡された、ガラスのおはじきのひんやりとした感触。14歳の夏、眩しい木漏れ日の中で陸仁の横顔を仰ぎ見た瞬間に覚えた、胸を突くような不遜な高鳴り。
誓子は宮家に仕える「女官」であり、この想いは決して表に出してはならぬものとして、どれほど心を乱されようと硬い仮面の下に押し殺し続けてきた。
だが、慶仁夫妻が不在の二ヶ月間、御連枝資料室と隣の誓子の部屋で繰り返された陸仁からの執拗な凌辱と与えられる甘く歪んだ慰めは、誓子が纏っていた「完璧な女官」の防壁を跡形もなく打ち砕いていった。
絶望的な恐怖の渦中で心の奥底に眠っていたあの無垢な思慕が剥き出しにされ、恐怖と混ざり合うことで、誓子の精神は奇妙な変容を遂げていく。壊された防壁に代わり、陸仁の狂おしい執着を全身で受け止める「受容者」としての第二の自己を静かに形成させていたのだ。
誓子は陸仁を自身を破壊する存在であると同時に、唯一自分を縛り、守ってくれる「庇護者」として受容しはじめていた。
静まり返った誓子の部屋。情事の余韻が残る寝台の上で、二人は肌を寄せ合って横たわっていた。
誓子は陸仁の逞しい腕に頭を預け、腕枕をされながら、その温かな胸元へと吸い寄せられるように深く体を寄り添わせている。細い指先が、彼の肌の熱を確かめるようにかすかに震えていた。
「まもなく父上たちが戻られるな」
静寂を割って落ちてきた陸仁の低く落ち着いた声に、誓子は胸元で小さく息を呑み、静かに視線を上げた。
「そうなのですね」
微かな寂しさを孕んだ声音で応じる誓子の顔を、陸仁が覗き込む。
「安心したであろう? 私とこのようなことをせずともよくなるのだからな」
陸仁は意地悪く囁くと、誓子の胸を弄びつつ、その額へと優しく、だが逃げ場を塞ぐように深く口づけを落とした。唇から伝わる感触は、かつて与えられた暴力的な熱気と、恐ろしいほどの愛おしさを同時に含んでいた。
「意地悪。私をあれほど好き放題に抱いて、執拗に私の心を暴き続けたではありませんか」
誓子が顔を背け、どこか拗ねたような、だが甘やかな声を上げて陸仁の胸を抓る。
「痛い。そこを抓るな」
「私がどのような思いを抱いていたか、疾うにご存じの若……陸仁様があまりにも意地悪をなさるからです。もはや私が身も心も頼れるお方は、殿下ご夫妻と六条の身内、そして……陸仁様だけでございますのに」
誓子は情愛の混ざり合った瞳で陸仁を見つめ返した。絶望の底にあった二か月前の姿はすでになく、一見すると昨年初秋の嵐の夜の出来事すら幻だったのではないか、この二人は元々そのような関係だったのではないかと思われるほどに、その距離は近くなっていた。
「二か月前と比べると随分素直になったな。そなたから陸仁と呼ばれることは嬉しいが、それはここでだけだ」
自らの名を呼ぶ誓子の口元を愛でるように指先で撫でながら、陸仁は静かに一線を画した。
「存じております、若宮様。わずかな隙から破滅が訪れることは承知しておりますもの。ですが、今だけは……」
そう言って頬を寄せ、自分の指先をうっとりと目を細めて見つめる誓子。
(私が望んでいた誓子はこの姿だったのだろうか)
微かな痛みを覚えた陸仁だったが、心の内で頭を振り、「今はこれで良いのだ」と、人形ではない、『心を取り戻してきた誓子』を手に入れた喜びに打ち震えていた。
ジュネーブでの国際会議および外遊から二カ月ぶりに京極宮邸へ帰国した慶仁夫妻と雅武。
長旅の旅情も冷めやらぬ中、家令である雅武の胸を占めていたのは、主君の長男・陸仁によって傷つけられた娘・誓子のことだった。
誓子の極端な異性恐怖症と激しいPTSDは未だ完治していない。
宮邸の外周・玄関口に誓子が姿を現すことは絶対にあり得なかった。それはたとえ宮邸の内部であっても同様であり、男性の気配を極力避ける生活が徹底されていた。
慶仁、澄子、そして雅武の三名が誓子と面会するために向かったのは、宮邸の北翼最奥にある喧騒から完全に遮断された「奥向きの部屋」であった。
この面会に立ち会うことが許されたのは、慶仁夫妻と雅武の三人のみ。厳重な人払いがなされ、重々しい静寂が部屋を包んでいた。
扉が開き、姿を見せた誓子は、依然として男性の肉体的接触を受け入れることはできない状態であったものの、立ち振る舞いは驚くほど落ち着いていた。二カ月前の怯えきった様子からは一変し、どこか浮世離れした静けさと凛とした品格すら漂わせていた。
「——殿下、妃殿下。お健やかにお帰りあそばされ、畏き極みに存じます」
深々と、寸分の狂いもない滑らかな所作で頭を垂れる誓子。慶仁と澄子はその姿を静かに見つめ、雅武もまた、後ろで無言のまま深く目を伏せていた。
父である雅武に対しても私情を交えず、あくまで「宮家の女官」としての完璧な礼節を崩さない。
「誓子、身体の具合はどうだ。不都合なことはないか」
慶仁の静かな問いかけに、誓子は伏せられた睫毛をゆっくりと上げ、淀みのない瞳で応じた。
「滅相もございません。お心遣いを賜り、恐縮に存じます。静かに過ごさせていただいております」
「そうですか。……焦る必要はありません。身体を十分に休ませなさい」
澄子の言葉にも、誓子は「勿体ないお言葉にございます」と過不足なく、完璧な礼節をもって深々と辞儀を返した。
その完璧すぎる佇まいを前に、雅武の胸には重苦しい沈黙が横たわっていた。
陸仁に与えられた傷と侵犯。それが無かったことになっていないことなど、ここにいる全員が知っている。この二ヶ月、自分たちが宮邸を離れている間も、陸仁の手がこの北翼の最奥にまで伸びていなかったはずがないのだ。大人たちは「陸仁の毒から誓子が守られていた」などという甘い幻想は抱いていない。すでに侵され、取り返しのつかない痕跡を刻まれながらも、誓子がこうして凛とした顔で破綻を見せずに立っているという「事実」だけを、覚悟をもって受け止めていた。
(……若宮様の侵犯をその身に抱えたまま、この子は強さを手に入れたというのか)
面会を終えた後、慶仁夫妻と雅武は、彼女を自室へ戻し、日頃から彼女の業務を補佐している女官を呼び出して状況の確認を行った。
女官からの報告は意外なものであった。誓子がリハビリを兼ねて取り組んでいる「御連枝資料室」での古文書整理・解読業務は、二カ月前の渡航前と比べても滞るどころか、むしろ格段に高い成果を上げているという。淡々と、しかし完璧に職務をこなす彼女の様子に、周囲も安堵している様子であった。
自宅に戻った雅武は、密かに宮邸の家丁に忍ばせていた自らの部下からの定期報告書を取り出し、目を通した。
慶仁夫妻と共に向かった北翼最奥の部屋で、二ヶ月ぶりに面会した娘・誓子の姿。そして自室に戻った後に検分した部下からの極秘報告書。
二つの事実を机上に並べた雅武の胸を支配していたのは、安堵などではなく、背筋を凍らせるような不気味な不調和──「論理的矛盾」に対する強い戦慄であった。
雅武が不在にしていた二ヶ月間、宮邸の改修工事という間隙を突き、陸仁が動くことは織り込み済みであった。しかし、報告書に刻まれた数字と記録は、雅武の想定を遥かに上回る惨状を示していた。
平日は隔日で深夜に陸仁が誓子の部屋を訪れ、朝まで出てこない。休日に至っては、丸一日、あるいは土曜の夜から月曜の朝まで部屋に籠もりきる執拗さ。それほどまでに執拗かつ異常な頻度で陸仁の蹂躙を受け続けていたという悲惨な事実。
これほど高頻度の被害は、誓子の精神を完膚なまでに破壊し、廃人へと追いやるのに十分すぎる拷問であるはずだった。
だが、実際に雅武の前に現れた誓子の状態は、報告書から予想される姿とは正反対であった。
精神の崩壊どころか、その立ち振る舞いは驚くほど穏やかで、品格すら漂わせていた。面会時の受け答えも静かであり、何より「御連枝資料室」での古文書解読・整理業務の成果は、渡航前よりも格段に向上しているという女官の報告もあった。
(なぜだ……? これほどの蹂躙を受け続けながら、なぜあの子の精神は保たれている?)
雅武は冷や汗の流れる額に手を当て、暗い自室で思考を巡らせた。
長年、冷徹な家令として、また宮邸の裏の動きを監視する者として培ってきた観察眼が、恐ろしい仮説を導き出していく。
第一に考えられるのは、過剰な苦痛から精神を守るため、誓子の心が解離を起こしている可能性であった。
現実の苦痛を感じないよう、感情を完全に死滅させ、機械のように冷たく業務をこなす「殻」を作り上げているのではないか。もしそうであれば、表面上の落ち着きは精神の回復などではなく、自我が不可逆的に壊れつつある末期症状に他ならない。
第二の、そして雅武にとって最も恐ろしい危惧──それは、誓子が陸仁という「絶対的な侵入者」に対して、肉体と精神の双方で順応を始めてしまっているのではないかという疑念であった。
圧倒的な力で支配され、逃げ場のない閉鎖空間に置かれたとき、人間の心は自らを守るために加害者の意志を受け入れ、従属することに「安らぎ」を見出し始めることがある。
誓子の落ち着きは、拒絶を諦め、陸仁の庇護と愛撫を受け入れることで得られた「歪んだ平穏」なのではないか。
あるいは、陸仁の追求を交わし、これ以上の暴力を防ぐために、誓子が完璧な「恭順の仮面」を被る術を覚えてしまったのか。
陸仁が求める「素直で庇護される存在」を演じきることで、暴力を最小限に抑え込んでいるとすれば──それは一見巧みな防衛策に見えて、その内側では膨大なストレスと屈辱が破裂寸前まで溜め込まれていることを意味する。
(……いずれにせよ、正常な回復などでは断じてない。あの子は今、崖っぷちの岩の上に立ち、危うい均衡の上にいるだけだ)
雅武は拳を強く握りしめた。
雅武が報告書の裏に隠された不気味な真実と、誓子の精神状態の変容を冷徹に精査しようとした、まさにその矢先──。
1999年6月29日、未明。
中国地方を襲った局地的な烈しい雷雨は、黎明とともに山陰・山陽の各地に猛威を振るい始めていた。テレビの報道番組が、広島県の山間部で相次ぐ土砂崩れと、途絶された集落の悲痛な映像を映し出す。
京極宮邸の応接間には、重々しい沈黙と張り詰めた緊張感が漂っていた。
「……また、このような災害が……」
ニュース映像に目を向けたまま、陸仁は痛ましそうに拳を固く握りしめた。
生来、民の苦難に人一倍心を痛める誠実な気質を持つ陸仁にとって、相次ぐ猛威は耐えがたいものであった。その横顔には、密室で誓子に向けられる狂おしい執着や昏い熱は微塵もなく、『治水の宮』の若宮としての品格と哀痛が広がっていた。
「陸仁。状況の把握が先決だ。感情に流されては差配を誤る」
慶仁が静かに、しかし毅然とした声で息子を嗜めた。慶仁の側らに控える家令・雅武が、携えてきた数枚の公文書を恭しく掲げる。
「殿下、総理府の緊急事態管理本部より第一報が入ってございます。現在、気象庁大気海洋局より大雨特別警報が発令されており、広島県内の複数箇所で大規模な土石流が発生。死者こそ報告されておりませぬが、主要道が押し寄せた土砂で遮断され、多数の集落が途絶状態にございます」
「あの地域は地盤が悪すぎます。せめてもと擁壁の再強化を行っている最中でしたのに……間に合わなかったのですね」
澄子が悲し気に目を伏せた。
「……救援の手は届いているのか、雅武」
慶仁が真摯な眼差しで雅武に問いかけた。
「は。陸軍局中部方面隊および工兵隊司令部の施設部隊に対し、防衛省の統合幕僚監部を通じて県知事からの災害派遣要請がすでに出されております。また、国家公安委員会を通じ国家消防本部および国家地方警察本部が即応態勢に入り、孤立集落への救助活動を開始しております」
「さすがに迅速な動きをする。だが、孤立集落となれば医療と物流の支援が焦眉の急となろう」
慶仁王の指摘に、陸仁が即座に応答した。
「父上、厚生省の地方厚生局ならびに国立病院機構へ連絡を取り、緊急医療チームの現地派遣を打診すべきかと存じます。また、孤立地域の状況把握には、ヤタガラスの観測データの活用を内閣官房へ申し入れるべきではありませんか」
陸仁の的確かつ論理的な提言に、慶仁王は満足そうに頷いた。
「よく学び、状況が見えているな、陸仁。まさにその通りだ。我々がなすべきは、単なる見舞いにとどまらぬ。行政と現場の滞りを円滑に繋ぐ『潤滑油』となることだ」
澄子も静かに微笑み、夫と息子を見つめる。
「他の宮家からも日本赤十字社ならびに児童家庭省の支援局を通じ、被災した幼い子供たちや避難所への物資の手配を、と要請が出ています。……ですが、殿下。現地の混乱が完全に収まる前に我々が動いては、かえって救援の足枷となりますわ」
「うむ。澄子の言う通りだ。今は現地対策本部の立ち上げを待たねばならん。雅武、我々の動向はどうなっている」
問われた雅武は、背筋を正して答えた。
「は。政府ならびに宮内省の侍従職と協議を進めております。現地の混乱が一定の収束を見せ、受入態勢が整い次第──おおむね今週末から来週頭にかけて、殿下と妃殿下による現地視察と被災者慰問を挙行する方向で調整しております」
「よし。現地自治体との調整が整い次第、直ちに赴く。雅武、お前も物資輸送と宮内省・政府各省庁との最終調整のため、現地対策の差配役として全権を振るってもらうぞ。二週間ほど宮邸を不在にすることになるが、差支えはないな」
「……謹んで、拝命いたします」
雅武は深く頭を下げた。
その脳裏を一瞬、宮邸の北翼最奥に伏せる娘・誓子の顔が過る。自分が宮邸を空ける二週間──それは、陸仁という脅威に対して防壁が再び解かれることを意味していた。
「陸仁。お前は今回は宮邸に残り、留守を預かれ。我々が出立するまでの数日間、現地情報の精査を怠るなよ」
「……は。承知いたしました、父上」
陸仁は恭しく一礼した。
国民の苦難に胸を痛める高潔な若宮としての表情の裏で、慶仁夫妻と雅武が出立した後の「誰もいなくなる宮邸」という現実が、静かに彼の胸中で鎌首を持ち上げようとしていた。
「では雅武、すぐに宮内省と内務省の地方行政局へ連絡を取り、現地受入の細部を詰めよ。被災された者たちに、一刻も早く安心を届けねばならん」
「ははっ。直ちに取り計らいます」
重厚な応接室に、雨音だけが虚しく響き続けていた。
公的な責任と私的な歪みが交錯する中、京極宮家は豪雨災害という大きな事態の渦中へと足を踏み入れていくのだった。
慶仁夫妻と雅武達が災害現場へ出かけたその日の夜、北翼最奥の静寂は、陸仁の抑圧されていた情動を静かに解き放っていった。
豪雨災害の報を受けて以来、陸仁が自らに課していた過酷な自制と倫理のタガは、慶仁達の不在という物理的な空白によって、静かに、しかし決定的に外れかけていた。両親と雅武の存在という重圧から解放された陸仁は、迷いなく誓子の自室へと足を向けた。その腕には、慶仁夫妻が赴く予定である広島県の過去の豪雨・土砂災害に関する資料と、自らの几帳面な研究ノートが抱えられていた。
自室の机の前で、誓子は一人、暗闇に目を凝らしていた。
危険期を外れているという安堵感は、彼女の心にささやかな落ち着きを与えていたはずだった。だが、重い扉が開かれ、足音もなく陸仁の影が滑り込んできた瞬間、背筋を駆け上がったのは、二ヶ月間かけて肉体に刻み込まれた逃れようのない予感であった。
「……若宮様」
瞳に走ったのは、かつてのような激しい拒絶ではない。自室の文机の前に座っていた誓子は、陸仁の姿を認めるやいなや、引き寄せられるように立ち上がり、自ら彼の元へと歩み寄った。かつて「気高き女官」として凛と一線を引いていた面影は影を潜め、陸仁の手が腰に回されると、彼女は吸い寄せられるようにその胸元へ身を寄せた。
「若宮様……現地へのお手配で、お疲れでしょうに」
「其方の顔を見れば、疲れなど吹き飛ぶ。……広島の救援差配に向け、過去の災害史をこの場で確認する。其方への教育も兼ねてな」
陸仁は誓子の華奢な身体を容易く抱え上げると、机の前の椅子へと腰を下ろした。
誓子の身体は、自然と陸仁の膝の間にすっぽりと収まり、後ろから抱きすくめられる形となる。陸仁の膝の温もりと、背中から伝わる力強い鼓動。数日間の空白が生み出した彼の情動は、容赦なく誓子の寝衣を解いていく。彼女の四肢は拒絶の意を示さず、陸仁の強い腕の中に自然と収まってしまう。
(拒んではいけない……拒む理由がない……)
陸仁の手先が、胸元から腰のラインへとなだらかになぞり下りていく。隙間から滑り込み、胸元や下腹部へと届く熱い指先。その指先が机の上に広げられた資料の行間を正確に指し示すたび、誓子の身体は小さな身震いを起こした。
「これは近世の安芸国、今の広島県だな。そこにおける太田川および山間部の氾濫記録だ。この独特の崩し字……『土砂』の『砂』の字の崩し方に、当時の著者の動揺が現れているのは判るな?」
「あっ……はい……『砂』の、字……。崩しが、大きく……」
「そうだ、良い子だ。……この時代、ここでの豪雨の際に避難が遅れたのは『前例がない』という心理が働いたためだ」
耳元で囁かれる低く甘い声と、胸の突起を愛おしむように捏ね上げる熱い指先の感触に、誓子の脳裏には強烈な「屈辱」が込み上げた。
──なぜ、自分はこの男の与える熱に拒絶反応を示さないのか。
あれほど完璧だったはずの「女官の仮面」を叩き割られ、尊厳を泥に塗まみれにされたというのに、いまや自分を抱きすくめ、高貴な知識を与えてくれるこの強靭な腕の中に、皮肉にも最大の「安全」を見出してしまう。
父である雅武や慶仁夫妻の厳しい眼差し、宮邸の複雑な人間関係から自分を遮断し、匿ってくれる唯一の存在が、自分を狂わせた張本人である陸仁なのだという残酷な現実。
肉体が陸仁の愛撫の順番を記憶しており、それに対して無意識に感度を高めてしまうという事実は、淑女として育った誓子の理性を絶望的なまでに苛んだ。自分の意志とは無関係に熱を帯び、男の欲望に順応していく肉体。それは、心の底から湧き上がる依存と、それに対する激しい自己嫌悪という名の屈辱であった。
陸仁が彼女の肢体を滑らかに割り開き、背面座位のまま深い結合を果たした瞬間、誓子は短い息を呑み、自ら後ろへ首を傾げて彼の背中に細い腕を回した。
「あ……っ、若宮、様……っ……もっと、教えてくださいませ……安芸の、人々が……っ」
「そうか。私だけを見ろ……私のものだと、その身体で示せ。そうすれば朝までこの場で教え込んでやる……じっくりとな」
陸仁の動きは狂おしく、かつてないほどに力強かった。
国民の苦難に胸を痛める高潔な若宮としての顔を脱ぎ捨て、一人の男として、自らが手に入れた愛しい「所有物」を存分に確かめ、満たしていく時間。
(私は……もう、このお方なしでは……)
耳元で奏でられる深い甘美な喘ぎと、広島県の災害史を紐解く資料の上で叩きつけられる激しい熱のうねりの中で、誓子は涙を散らせた。与えられる快楽の深みに沈んでいく自分自身と、この歪んだ密室の庇護から二度と逃れられないという甘やかな諦念。
しかし──
誓子の首筋に顔を埋め、その柔らかな身体を激しく抱きすくめながら、陸仁の胸の奥底には、冷ややかな空虚と「失望」の影が静かに広がっていた。
(……違う。私が求めているのは、このようなものではない)
陸仁の脳裏に過るのは、かつて自分に対して誇り高く一線を引き、毅然とした眼差しで自らと対峙していた、あの凛とした女官としての誓子の姿であった。
陸仁が彼女を手籠めにし、手中に収めたのは、彼女の「気高さ」を叩き潰したかったからではない。「それほどまでに高潔で気高い彼女が、密かに自分へ寄せていた情愛を自覚し、自らの意志でそれを吐露し、対等な愛のパートナーとして自分の傍らに立つ瞬間」を望んでいたからだ。
しかし、目の前にいる誓子はどうか。
過酷な蹂躙と庇護の繰り返しによって「気高い自我」は削り取られ、いまや陸仁の膝の上でしか呼吸のできない、哀れで従順な「愛玩物」へと変貌してしまっている。
「……誓子」
「はい……っ、陸仁様……」
名を呼ぶと、誓子はうっとりと目を細め、陸仁の手のひらに濡れた頬を寄せてくる。
その瞳に宿っているのは、真実の愛でも、自覚された情愛でもなく、ただ歪んだ環境に適応して生み出された「諦念と依存」でしかなかった。
(私を拒まなくなったのではない。拒むための『自分』を失ってしまったのだ……)
陸仁は不意に動きを緩め、胸を突くような切なさと焦躁に苛まれた。
自分が手に入れたかったのは、自分を拒絶しつつも秘めた想いを抱え、葛藤の末に自分を選んでくれる「本物の誓子」だった。だが、彼女を追い詰めれば追い詰めるほど、彼女の「気高さ」は失われ、自分が本当に欲しかったものから遠ざかっていくという皮肉。
情動の果てに深い結合を解くと、陸仁は静かに抱擁を緩め、誓子の身体を寝台の上へと戻した。
不意に引き剥がされた熱と温もりに、誓子は不安そうな、捨てられた子犬のような瞳で陸仁を見上げる。
「陸仁様……? 私、何か不手際を……」
「そうではない。……疲れたのだろう。ゆっくり休みなさい」
取り繕った優しい笑顔を向けながら、陸仁は乱れた衣装を整え、立ち上がった。
膝の上に残る彼女の体温と、胸の中に残る消し去れない虚無感。
自らが作り出した「従順な誓子」を置き去りにしたまま、陸仁は二度と戻らないかもしれない「気高かった頃の彼女」の幻影を追い求め、雨音だけが響く真夜中の廊下へと静かに渡っていった。