7月下旬、集中豪雨の被災地視察を終え、慶仁夫妻と雅武が宮邸へと帰任した。
8月上旬に入ると、宮邸は例年通り、台風襲来に向けた防災施設の視察と秋季講演に向けた準備期間に入り、お盆休みの独特な静寂と合わせ平穏が邸内を包み込んでいた。大人たちが慌ただしく資料整理や日程調整に追われる中、北翼の最奥だけは外界から遮断された時間が流れている。
しかし、その静寂は誓子にとって、どんな苦痛よりも恐ろしい「拷問」へと変わっていた。
慶仁らが帰任して以来、陸仁の態度は一変していた。
あの日、雨音の密室で広島の災害史を膝の上で教え込み、誓子の肌を熱く貪っていた男は、まるで何事もなかったかのように冷ややかな距離を置き始めたのである。
自室を訪れることもなく、夜の密着も、耳元で奏でられる甘い講義も、すべてが嘘のように途絶えた。
(……なぜ? 若宮様は私をお見捨てになるとでもいうの……?)
自室の鏡の前で、誓子は青ざめた唇を震わせていた。
かつては「手籠めにされること」「尊厳を奪われること」に怯えていたはずだった。だが、この数か月、密室で陸仁を受け入れ続け、彼の指示通りに従順な愛玩物としての役割を果たした途端に突き放されたことは、誓子の精神に壊滅的な衝撃を与えた。
「私は……お言いつけ通りにいたしました。大人しく、言われるがままに……それなのになぜ」
自室のベッドに横たわっても、眠りは訪れなかった。
腕を抱きしめても、肌に残っていたはずの陸仁の強烈な体温はとうに冷め切っている。耳奥を震わせていた低く甘い声の残響も、今や不気味な静寂に塗りつぶされていた。
日中の執務中、目の前に広げられた『安芸国災害史』の写しを目にするたび、指先が微かに震えた。
和紙に躍る『砂』の崩し字。それを見つめるだけで、耳元で奏でられていたあの低く甘い声と、衣服を押し開いて下腹部を撫でまわしていた指先の熱が、生々しく蘇ってくる。
講義と快楽が不可分に焼き付けられた脳は、文字を追うことすら陸仁の愛撫への渇望へと変換してしまう。知識を得るたびに彼を思い出し、その彼が今はこの部屋にいないという現実が、誓子の正気を内側から侵食していった。
(声が……若宮様の声が、聞こえない……)
拒絶され、踏みにじられていたはずの肌が、皮肉にもあの男の指先の熱を求めて疼く。かつては逃げ出したい一心だった密室の時間が、今や喉の渇きのように誓子の身を焦がしていた。
密室で与えられていた過剰なまでの熱と、突然訪れた絶対的な虚無。その落差が、誓子の正気を内側から侵食していく。
胸の奥から湧き上がるのは、強烈な見捨てられることへの不安であった。
男性の気配を恐れ、宮邸の奥深くに引き籠もる自分。陸仁の庇護がなければ仕事も満足にこなせない無力な自分。
──男性との会話すらまともにできない出来損ないだから、足手まといとして捨てられたのではないか。
その恐怖が、誓子の理性を容赦なく苛み、脳裏を塗りつぶしていく。
陸仁の「放置」は、冷酷な計算に基づくものであった。
雨音の密室で見せた誓子の姿──恐怖に震えながらも安寧を得ようとし、自ら思考を捨てて従順な人形へと成り下がった姿に、陸仁は激しい失望と苛立ちを覚えていた。
自ら手籠めにし、追い詰めた結果とはいえ、彼女から気高き自我が失われ、ただの庇護を貪る置物と化してしまっては意味がない。陸仁が欲しているのは、手なずけられた愛玩物ではなく、自尊心を持った一人の女が自らの足で立ち、葛藤の末に自分を選ぶ瞬間なのだ。
だからこそ、陸仁は与えていた温もりと庇護を容赦なく引き剥がした。
「従順にしていれば守られる」という甘い幻想を打ち砕き、自分に使い捨ての玩具として捨てられたという強烈な屈辱を与えること。死んだように眠っている彼女の自尊心と自立思考を、絶望という劇薬によって無理やり叩き起こすための、冷酷な揺さぶりであった。
お盆休みの昼時。
普段誓子が立ち入ることのない、北翼と宮邸の表との境にある書庫。
その影で、誓子は偶然にも陸仁が兄の雅忠とは違う男性側近と公務の打ち合わせをしている場面に行き当たった。
本来であれば、見知らぬ男性の姿と声を感じた瞬間、誓子の足はすくみ、激しい異性恐怖症を発症して逃げ出すはずであった。
だが、その男性のすぐ傍らに立つ陸仁の姿を目にした瞬間、誓子の胸を突き上げたのは、安堵などではなかった。
──悔しさと、身を焼くような屈辱。
(私は……言われるがままに若宮様を受け入れ、自ら屈服した……。それなのに、若宮様にとって私は、飽きれば路傍に捨てる程度の存在だったというの……?)
言われるがまま従順な愛玩物を演じ、尊厳を差し出した挙句に失ったという事実。死んでいたはずの「女官・六条誓子」としての矜持が、激しい自己嫌悪と共に、皮肉にも陸仁への怒りと屈辱によって猛烈に再起動していた。
(私は玩具ではない……。私はまだ、若宮様のお役に立てる内舎人なのだ……!)
「使い捨ての置物」に成り下がった自分を否定し、己の価値と自尊心を証明したいという痛切な悪あがき。
怯える指先を固く握りしめ、誓子は自身の恐怖を押し殺した。陸仁の視線を自分に向けるため、そして己の自尊心を繋ぎ止めるため──意を決し、誓子は歪んだ爪痕を頼りに、男性側近の立つ書庫の廊下へとおののく足を踏み出した。
異性の気配に心臓が早鐘を打ち、喉が干上がるような恐怖が押し寄せる。それでも──陸仁の視線さえ自分に向き、己の存在を認めさせることができれば、この屈辱に耐える意味があるはずだった。
その娘の痛々しい姿を遠くの廊下から見かけた雅武は、胸の奥に冷たいものを覚えた。
陸仁が誓子に近づかなくなったことは、雅武も確認できていた。しかし、それによって娘の怯えが和らぐどころか、その瞳からは生気が失われ、まるで魂の抜け殻のように宮邸の影を彷徨っている。
(……若宮様の手から逃れられ始めているのに、なぜこれほどまでに追い詰めた表情をしているのだ)
雅武には分からなかった。娘が感じている恐怖の対象が、「陸仁からの凌辱」から「陸仁に玩具として捨てられたという屈辱と自己の存在価値の喪失」へとすり替わっているという恐ろしい真相には。
「……若宮、様……」
消え入りそうな、しかし己の存在を問う必死の声で呼びかける。
側近の男性が驚いたように振り返り、誓子の姿に息を呑んだ。
「ろ、六条様……。で、殿下、六条様が」
顔を青ざめさせて陸仁を振り返る側近。
だが陸仁は手にしていた書類から目を離すことすらせず、誓子の声など聞こえなかったかのように、淡々とした声で側近に指示を続けた。
「次の日程だが、10日の午前中に変更する。……行くぞ」
視線すら合わせず、誓子のすぐ脇をかすめて歩み去る陸仁。
「え!? 殿下!? 若宮様!? 六条様は……!? ……し、失礼します!」
誓子との接触を避けるように大回りで立ち去る側近。
完璧なまでの「無関心」だった。自分が振り絞った最後の矜持すら、陸仁にとっては一瞥の価値もない塵に過ぎないという絶望が、誓子の胸を打ち抜いた。
「あ……っ」
陸仁の背中が遠ざかった瞬間、今まで彼を意識することでかろうじて抑え込まれていた「男性への恐怖」と、「存在そのものを否定された」という致命的な屈辱が一気に溢れ出した。
誓子は膝から崩れ落ち、喉を詰まらせながら、その場に蹲った。
「……若宮、様……どうか……私を……お見捨てに、ならないで……っ」
荒い呼吸の中、床にぽろぽろと涙をこぼしながら、誓子は擦り切れた声で乞うた。
(なぜ……? なぜ私は、私を痛めつけ、尊厳を踏みにじったあの男に縋っているの……!?)
陸仁の手を拒めない愚かしさ。自分を凌辱し、踏みにじった男に向かって「捨てないでくれ」と縋りつく惨めさ。
僅かに残されていた、かつての気高き女官としての自我が激しく警鐘を鳴らし、己の醜態を罵倒していた。
男の膝の上で安寧を得ようとした愚かさ、そして今また捨てられたことに怯え、地を舐めて男の名を呼ぶ自らの惨めさ。
その猛烈な「自己嫌悪」と「屈辱」によって、死んでいたはずの自尊心が確かに目を覚ましていた。
だが──残されていた自我が、目覚めた自尊心が、どれほど叫ぼうとも、二ヶ月かけて身に刻み込まれた肉体の疼きと、あの強烈な支配の熱への飢えを止めることはできない。
あれほど忌み嫌っていたはずの過酷な密室での凌辱、耳元で奏でられる冷徹で甘美な教導、身を灼くような屈辱の体験──そのすべてが、いまや自分の存在理由を繋ぎ止める唯一の命綱になってしまっているという残酷な事実。
拒絶したいのに、許せないのに、あの男の指先に触れられなければ、息をすることすらできない。
自尊心を証明しようと足掻いた挙句に叩き潰され、残されたのは、己を泥に塗まみれにした男の気配と執着を乞うことしかできない無力な自身への絶望であった。
陸仁の狙い通り、彼女の「従順な安寧」は完全に粉砕され、覚醒した自我は、拒絶と執着が激しく衝突する暗闇の中で、狂おしく渦を巻き始めていた。