1999年8月17日未明、トルコ北西部を巨大な震災──イズミット地震が襲った。
死傷者数万人におよぶ未未曾有の大惨事に、日本政府も即座に対応へ追われることとなった。
国際協力本部より派遣される海外協力隊や海外に派遣される工兵部隊を中心とした緊急援助隊への慰労および親善訪問のため、現地が落ち着きを取り戻し次第、慶仁と澄子が渡航することが急遽決定。その現地での調整と警護体制の指揮のため、家令である雅武もまた随行してトルコへ赴くこととなった。
9月上旬、慶仁夫妻と雅武をはじめとする宮邸の主要な側近たちを乗せた特別機が羽田から飛び立つと、京極宮邸には重々しい静寂が訪れた。
当主夫妻と家令を含む主だった側近達の不在。それは、宮邸を統率する重鎮たちが一斉に消え去ったことを意味していた。
宮邸で、誓子を守り、あるいは遮る壁は完全に消失した。
誓子にとって、それは庇護の喪失であると同時に、陸仁という絶対的な支配者と遮るもののない密室で完全に向き合わされることを意味していた。
だが──陸仁は、誓子の前に姿を現そうとはしなかった。
公務の取り仕切りと被災地支援の事務作業に忙殺されているという表向きの理由の陰で、陸仁の冷ややかな「放置」は継続していた。
かつてのように無理やり扉を開け身体を貪ってくることもない。あの尊厳と身体を弄ぶ振る舞いも、低く熱い吐息と共に耳元で奏でられ感情を揺さぶられる講義と称する囁きもそこにはなかった。
だが、その事実は誓子になんの救いももたらさなかった。
いまや彼女を真に監禁しているのは、彼女自身の内部で目覚めてしまった恐ろしい「自認」だったからである。
陸仁から完璧なまでの無関心を叩きつけられ、地を舐めて縋りついたあの惨めな落涙から数週間。
誓子の精神を苛んでいたのは、単なる失意や恐怖ではなかった。屈辱によって強引に叩き起こされた「六条誓子」としての自尊心と、二ヶ月に及ぶ密室の教導によって肉体と脳髄に刻み込まれた「陸仁への絶対的依存」——その二つの相反する感情が、彼女の胸中で目まぐるしく刃を交えていた。
(……なぜ、おいでにならない……?)
薄暗い自室の机の前で、誓子は一人、自らの両腕を抱きしめて震えていた。
書庫の廊下で一瞥もくれずに立ち去られたあの日の屈辱。自尊心を叩き潰され、地に伏して「見捨てないで」と泣き叫んだあの醜態の記憶が、黒い毒のように胸の底で渦巻いている。
(なぜ、私はあのお方を追いかけてしまったのか……? なぜ、自分を踏みにじった男に『見捨てないでくれ』などと乞うたのか……?)
自室の机に向かい、ペンを握る誓子の指先が、激しく震える。
かつての気高き女官としての自我が、地を這うような自らの醜態を冷酷に弾劾する。男の膝の上で安寧を得ようとした愚かさ。冷たく去っていく背中に向けて涙を流した惨めさ。それらはすべて、誇りをもった一人の女として、到底許されざる屈辱だった。
あの時、確かに自分の死んでいた自我は目を覚ましたのだ。自分を凌辱し、踏みにじった男に縋り付く惨めさに対する激しい自己嫌悪。内舎人としての誇りを泥に塗まみれにされたことへの猛烈な怒り。
だが──その目覚めたはずの自尊心が、どれほど頭の中で「あの男を拒絶しろ」「屈するな」と警鐘を鳴らそうとも、彼女の身体と精神は、もはやその警告に従うことができなくなっていた。
「……くっ……っ」
夜、目を閉じると、暗闇の中に蘇るのは陸仁の指先の触感だった。
崩し字を指し示されながら胸元や下腹部を弄ばれたあの甘美で凄惨な時間。
屈辱であるはずの愛撫の記憶が、いまや耐えがたい「渇き」となって身体の奥底を焼き焦がす。
(私は……狂ってしまった……)
大人たちが一人もいなくなったこの暗い宮邸で、一人孤立する時間が増えれば増えるほど、誓子は逃げ場のない冷徹さで自分自身を解剖せざるを得なくなった。
かつて自分を守ってくれていた「気高き女官」という完璧な仮面は、すでに陸仁の手によって木端微塵に叩き割られている。
男の気配を恐れ、宮邸の影に引き籠もるだけの哀れな被害者。……いや、それすらも違う。
自分はただ被害者として傷ついているのではない。自分を傷つけ、尊厳を奪った加害者である陸仁の熱がなければ、もはや呼吸することすらできなくなっているのだ。
(私は試されていたのだ。あの冷徹な若宮様に……。私が安易に思考を捨て、ただの愛玩物として膝の上に丸まったことを、あのお方は酷く軽蔑された……。だからこそ、使い捨ての玩具のように私を捨て置かれたのだ)
陸仁の狙い通り、誓子の知性は絶望の渦中で正しく機能し始めていた。
陸仁が自分に何を求めていたのか。なぜ突然、あの灼熱の温もりを引き剥がしたのか。その冷酷な意図を、誓子は己の自尊心の再生と共に理解してしまった。
陸仁は、従順なだけの愛玩物を求めてなどいない。自分という一人の独立した女が、自尊心と葛藤を抱えたまま、自らの意思で彼を選択する瞬間を待っているのだと。
理解してしまったからこそ、猛烈な自己嫌悪が誓子を苛んだ。
陸仁の意図が「屈辱による自我の再起動」だと分かっていながら、自分はその計算通りの掌の上で、まんまと目を覚まし、身をもだえさせている。あのお方の手のひらの上で躍らされているに過ぎないという事実が、激しい屈辱となって皮膚を灼く。
(拒絶しなければならない……。あのお方の思う通りになってはならない。私は六条家の娘であり、京極宮家にお仕えする内舎人なのだから……)
そう己に言い聞かせ、自尊心を再び鎧のように纏おうと試みる。
しかし、その固い決意は、宮邸の静寂が深まる夜を迎えるたびに、脆くも崩れ去った。
夜になれば、北翼の廊下を通る足音ひとつ、風が揺らす障子の音ひとつに、誓子の心臓は跳ね上がった。
あのお方が来るのではないか。あの冷たい手で扉が開かれ、再びあの熱い手指で肌を割かれ凌辱が始まるのではないか―——。
期待している自分に気づくたび、誓子は吐き気覚えるほどの自己嫌悪に襲われた。
(嫌だ……来ないでほしい……。あのような恐ろしい凌辱は、二度と受けたくない……)
そう思考が拒絶を叫ぶ一方で、自室のベッドに横たわる誓子の肌は、恐ろしいほどの飢餓感に疼いていた。
思い出されるのは自分を背後から抱きすくめ一晩中抱きしめ耳朶を愛撫し続ける陸仁の体温であり、衣服の隙間から下腹部を撫でまわしていた長い指の感触だった。
どんなに理性が「あのお方は私を痛めつける支配者だ」と警鐘を鳴らしても、一度陸仁によって書き換えられた誓子の身体は、彼以外の刺激では満たされない絶対的な空腹状態に陥っていた。
(声が……聞こえない……。あのお方の声が……あの熱が……)
夜、暗闇の中で自分自身の腕を強く抱きしめても、冷え切った肌が温まることはない。
陸仁に拒絶され、放置されているという事実が、胸の奥を鋭い刃物で削り取るような痛みをもたらす。
それは、かつての恐怖とは決定的に異なっていた。
今の誓子が真に恐れているのは、陸仁という唯一の支配者から、永遠に価値のないものとして切り捨てられること―——ただそれだけだった。
(……ああ、なんということだ)
暗闇の中、誓子は小さく絶望の息を漏らした。
冷徹な自省が、彼女の逃げ道を完全に塞いでいく。
自分はもう、引き返せない場所まで来てしまっている。
陸仁の手によって尊厳を破壊され、泥に塗まみれにされたというのに。自分をその泥の中に叩き落とした当の本人にしか、この渇きを癒やすすべがない。
自分は「男からの庇護」を求めているのではない。ただひたすらに、「陸仁」という男の所有物であり続けること、あの恐ろしくも甘美な熱の下に戻ることだけを欲している。
「私は……もう、あのお方がいなければ、息をすることすらできない……」
自室の冷たい床に膝をつき、誓子はかすれた声で呟いた。その言葉は、誰に聴かせるためでもない、己の破滅に対する降伏の宣言だった。
自分を泥の中に引きずり落とした男の毒によってしか生きられないという恐怖。
かつては手籠めにされることを何よりの恐怖としていた。
しかし今や、彼女にとって最大の拷問は、手籠めにされないこと、陸仁の視線から外されることだった。
拒絶したいという死にかけた誇りと、あの男の指先に触れられたいという欲望が、体内で激しく衝突し、自傷のように彼女の心を削り取っていく。
己の誇りを自覚しながら、その誇りをすべて差し出してでもあの男の指先に触れたいと願っている自分。その決定的な異常性と惨めさが、誓子の心を内側から引き裂いていった。
自尊心が戻ってきたからこそ、その自認はより鮮明に、より酷薄に誓子の正気を苛む。
自らの意志で陸仁という沼に沈んでいく自分を、覚醒した自我が冷ややかに見下ろしている──その逃げ場のない葛藤こそが、彼女に与えられた最も苛酷な拷問であった。
(若宮様……。私を……私をどうなさるおつもりなのですか……)
膝を抱え、床の上にポロポロと涙を落としながら、誓子は一人、終わりのない暗闇の底で震え続けていた。
静寂という名の拷問は、毎日、誓子の自我を確実に削り取り、同時に陸仁への歪んだ執着だけを純化させていく。
もはや彼女の拒絶は形骸に過ぎず、残されているのは、いつ訪れるとも知れぬ支配者の再来を、身を焦がすような正気と狂気の狭間で待ち続けることだけであった。