1999年9月21日未明、台湾島中部、台中県新高郡集集町付近をマグニチュード7を超える巨大な地震が襲った。
1975年の日本復帰以降、沖縄台湾開発庁の管轄下で本土と同等の極めて高い建築基準への改修が進められていたこともあり、壊滅的な全壊被害は大幅に免れたものの、震源地付近での急な揺れによる山崩れや一部の古い木造建物の損壊により死傷者は数十名を記録した。
日本の極めて高い防災力をもってしても生じたこの被害に対し、日本政府および宮中は即座に対応へ追われることとなった。
トルコから地震発生の前日に帰国したばかりの慶仁と澄子、そして家令の雅武は、日本政府の要請により、地震発生直後から対応に追われることとなった。
総理府緊急事態管理本部や国土省、防衛省統合幕僚監部、さらには沖縄台湾開発庁との連絡調整のため、京極宮邸は連日連夜の対応体制へと突入した。
現地での支援物資の手配や宮内省を通じての見舞い金の下賜など、慶仁達の公務は山積みとなり、雅武もまた京極宮家の家令として執務室に詰め切りとなっていた。
陸仁もまた、宮内省や内務省、防衛省等の各省庁との連絡調整役として、不眠不休の多忙に飲み込まれていた。
宮邸全体が緊張感に包まれる中、北翼の最奥にある資料室だけは、時間の流れから取り残されたように静まり返っていた。
誓子は、書類の整理を続けていた。
お盆休みの書庫での拒絶、そして8月下旬のトルコ地震の際における放置を経て、彼女の心は極限まで削り取られていた。
目覚めてしまった自尊心が、陸仁に囚われ、彼の拒絶に悶え苦しむ自分自身を絶え間なく糾弾している。しかし、その自尊心をもってしても、身体と脳に深く刻み込まれた陸仁の熱への狂おしい渇望を消し去ることはできなかった。
(若宮様は……もう、私を振り返ってくださらない……)
冷たい床に膝を折り、書類を抱え込みながら、誓子は乾いた息を吐いた。
二人は幼い頃から共に宮邸で育ってきた。陸仁は、かつては頼もしい兄のような、そして誓子が仄かな慕情を抱きつつも畏れるべき若宮であり、陸仁もまた自分を見守っていてくれた。幼少期の二人の間には温かな絆が確かに存在していた。それが今や、密室で自分の尊厳を踏みにじり、絶対的な快楽と恐怖で精神を支配する冷徹な存在へと変貌してしまっている。
自分を凌辱し、精神を破砕した男。しかし、その男の無視と無関心によって、自分という存在の価値が完全に消滅してしまっている。拒絶したいのに、縋りたい。怒りと屈辱と依存が交錯し、誓子の精神は破滅の淵に立たされていた。
それは深夜、日付が変わる頃であった。
表に通じる廊下から響く足音は疾うの昔に途絶え、宮邸全体が静寂に包まれた刻限。
資料室の扉が微かな音を立てて開いた。
誓子はびくりと肩を跳ね上げ入口へと視線を向けた。
そこに立っていたのは、公務の書類を手にした陸仁であった。
「若宮……様……」
喉がかすれ、声にならない呼気が漏れた。
一ヶ月以上もの間、一瞥すら与えられず、存在を否定され続けていた男が、いま自分の目の前に立っている。
一瞬にして誓子の全身の血が激しく波打ち、下腹部が熱く疼いた。同時に、かつての記憶が鮮明に蘇り、激しい恐怖と屈辱が脳裏を駆け巡る。
だが陸仁は、誓子に近づこうとはしなかった。
部屋の入口に立ったまま、冷ややかに澄んだ瞳で、最敬礼を行う誓子を見下ろしている。その視線には、かつて密室で見せていた熱も、執着の欠片もなかった。ただの事務的な冷酷さだけが存在していた。
「仕事の合間だ。長居はできん」
陸仁の低い声が、静まり返った資料室に響いた。
その声を聞くだけで、誓子の耳奥が歓喜に震えた。どれほど拒絶しようと叫んでも、彼女の肉体は陸仁の声を求めて渇き切っていたのだ。
「台湾の震災対応で、父上も雅武も手が塞がっている。現地への支援体制が軌道に乗るまで、宮邸の混乱は続くだろう」
陸仁は淡々と事実を口にし、手元にある書類に目を落としながら続けた。
「……だが、この大規模な災害対応が落ち着き次第、私は雅武と話し合うつもりだ。其方の処遇についてな」
「処遇……?」
誓子は息を呑んだ。
陸仁の言葉の意味が理解できず、青ざめた顔を上げる。
陸仁は書類から視線を外し、初めて誓子の瞳を正視した。しかし、そこには一片の情すら混ざっていなかった。
「其方はもう、男性の気配に怯えて錯乱することもなく、会話を交わせるまでに回復した。もはや、この北翼の奥深くに引き籠もり、資料室での資料整理などという仕事で庇護される必要はあるまい」
冷徹な宣告が、誓子の鼓膜を刺した。
「災害対応の収束後、其方を元の内舎人としての職務へ戻す。雅武も、娘がいつまでも宮邸の隅で燻っているよりは、本来の職務へ復職することを望むはずだ。……男性と会話もできる様になった其方を、これ以上北翼の資料室勤務とし、私が守る必要はないだろう」
「あ……」
誓子の思考が、真っ白に停止した。
元の職場へ戻す。
異性が大勢いる元の職場へ──追い出す。
幼い頃から自分を見守り、守ってくれていたはずの男が、いまや「治ったのだから追い出す」と冷酷に切り捨てている。
「これからは自分の足で立ち、本来の内舎人としての役割を果たせ。以上だ」
陸仁はそれだけを告げると、素気なく身を翻し、部屋を立ち去ろうとした。
「ま、待ってください……! 若宮様、待ってください……っ!」
誓子は悲鳴のような声を上げ陸仁に近づき手を伸ばした。だが、その手は、しかし空を切り、陸仁に届くことはなかった。
陸仁は足を止めず、振り返りもせず、闇の中に消えていった。
扉が閉まり、再び完全な静寂が資料室を支配する。
「嫌……嫌……っ! あそこへ戻るなんて……そんなの……っ!」
誓子は床に両手を突き、激しい過呼吸を起こしながら縮こまった。
脳裏に激しい混乱が沸き立った。
表の内舎人執務室──男性職員たちの詰める空間。
あの陸仁に犯された嵐の夜以来、誓子を苛み続けてきた男性への恐怖が、濁流となって襲いかかってきた。
廊下ですれ違う男たちの視線。自分の頭上から言葉をかけてくる男たち。その男たちと触れあう皮膚感覚。
それらを想像しただけで誓子は恐怖で心臓が破裂しそうだった。
(嫌だ……! 男たちの視線に晒されるのは嫌だ! 見られたくない、触れられたくない! 考えただけで息ができない……っ!)
全身から冷や汗が噴き出し、視界が明暗を繰り返す。
陸仁の庇護があるからこそ、この北翼の隔離された密室に匿われていたからこそ、彼女は外界から守られていたのだ。その命綱を、陸仁自身の手で容赦なく切り捨てられた。
「会話ができる様になった」
「守る必要はない」
陸仁の言葉が、脳内で呪いのように繰り返される。
(私は……治ってなどいない! 異性の前に出れば、また足がすくんで息ができなくなる……! なぜ……なぜ私を追い出すのですか……!?)
誓子は叫びを噛み殺した。
表の職場へ戻されれば、自分は再び異性への恐怖に怯え、精神をすり減らさなければならない。あの地獄のような恐怖に、再び放り込まれる。
──だが。
荒い息を吐きながら、涙をこぼしていた誓子の思考の奥底で、ふと異質な問いが立ち込め始めた。
(……待って?)
誓子は、激しい混乱の中で、己の胸を刺し穿つ真の痛みの正体に気づき始めていた。
確かに、男たちの視線は恐ろしい。元の職場へ戻されることは、耐え難い恐怖だ。
しかし──いま、自分の心を完膚なまでに打ち砕き、正気を失わせるほどに苛んでいるこの絶望は、本当に男たちへの恐怖なのだろうか?
「会話もできる様になった其方を、北翼での資料室勤務とする必要はないだろう」
陸仁のあの冷ややかな言葉。
あの言葉が意味しているのは、単なる職務の変更ではない。その意味は──誓子はもう、陸仁の特別ではない。
「あ……あぁ……っ」
誓子の口から、血を吐くような呻きが漏れた。
全身の毛穴が逆立つような、致命的な衝撃が彼女の魂を撃ち抜いた。
見知らぬ男性たちの視線に晒されること。表の職場でパニックに陥ること。
そんなものは──ここから追い出されることの恐怖に比べれば、あまりにも小さかった。
(私が恐れているのは……他の男たちなどではない……!)
誓子は、震える両手で己の顔を覆った。
溢れ出る涙が、指の間を伝って床にこぼれ落ちていく。
自分が心底恐れていたもの。
夜も眠れず怯えていたものの正体がはっきり分かった。
「陸仁の熱を、陸仁の執着を、完全に失ってしまうこと」
それこそがその正体であった。
自分を痛めつけ、人生を狂わせた悪魔。
その悪魔から解放されることこそが、かつての誓子にとっての救いであったはずだった。
それなのに、いま誓子の心を完膚なまでに粉砕しているのは、その悪魔から「もう庇護する必要はない」と突き放され、完全な無関係へと戻されることへの、致命的なまでの拒絶の恐怖であった。
(なぜ……? なぜ私は、私を壊した若宮様の熱を失うことを、これほどまでに恐れているの……!?)
覚醒した自尊心が、絶叫を上げて己の狂気を糾弾する。
自分を踏みにじり、手籠めにした男に執着し、その男から追い出されることに恐慌をきたす己の姿。これ以上に惨めで、屈辱的な状態があるだろうか。
しかし、どれほど自尊心が叫ぼうとも、肉体と魂が叩き出す結論を覆すことはできなかった。
自分にとって最大の恐怖は外界にあるのではなく、己の全存在がすでに陸仁という男の指先に握られており、その男の熱を失う絶望だったのだ。
外の男性たちへの恐怖など、もはやどうでもよかった。自分が恐れているのは、男たちの視線に晒されることではなく、陸仁の執着と支配から切り離されることなのだ。
誓子は、冷たい床の上で身を丸め、声を押し殺して泣き続けた。
台湾の大地震に伴う混乱の陰で、陸仁が仕掛けた「庇護の撤回」は、誓子の精神に眠っていた最後の足掻きを打ち砕いた。
彼女の内にあった最後の言い訳──「自分は恐怖によって従わされているだけの被害者である」という脆い庇護の幻影は完全に潰え、陸仁という絶対的な存在への凶暴なまでの執着が、彼女の精神の底で覚醒しようとしていた。
暗闇の中、誓子はただひたすらに、己の内に渦巻く歪んだ執着と屈辱に身を灼かれながら、自分を追放しようとする男の名を、狂おしく呼び続けていた。