1999年10月上旬。海外での大規模な災害支援任務を終えた京極宮夫妻や雅武らが、無事に帰国を果たした。宮邸には再び平穏な日常が戻り、慌ただしさが去ったことで張り詰めていた空気が緩やかに沈静化していく。
しかし、その静寂の裏で、宮邸の奥深くにある誓子の自室では、不可逆的な変容が完了していた。
誓子は静かに鏡の前に座り、自らの髪を梳かしていた。
かつて陸仁の暴力的な侵犯を受け、ただ絶望の涙を流して震えていた「被害者」としての誓子は、すでにそこにはいなかった。この数ヶ月間、陸仁によって与えられた絶望、屈辱、そしてあの抗いがたい肉体の熱。最初は、恐怖による服従に過ぎないと思い込もうとしていた。だが、慶仁らが不在の静寂の中で己の胸の奥底と向き合ったとき、誓子は自らの内に潜む、最もおそろしい真実に辿り着いていた。
──自分は、逃げたかったのではない。
あの嵐の日以来、陸仁の手で抱かれ、暴かれ、完膚なきまでに壊されたことで、誓子の中に眠っていた「陸仁という男」への狂おしいほどの情愛と執着が完全に覚醒してしまっていた。
陸仁から与えられた屈辱と狂おしい肉体の交わりの中で、誓子を支配していたのは単なる恐怖や逃避ではなかった。幼少期より重ねてきた関わり、冷徹な仮面の下で抑え込んでいた情愛──自分自身が、すでに「陸仁」という歪んだ一人の男に不可逆なほど深く執着し、狂おしく愛してしまっているという残酷な自覚。
陸仁の手によって暴かれ、解体されたはずの心の中に残っていたのは、惨めな敗北感ではなく、「この男の破滅も孤独も、すべてを自らのものとして抱え込む」という恐ろしいほどの覚悟であった。
自分はすでに、傷つけられる被害者ではない。陸仁という暗い深淵の毒に侵され、自ら進んでその毒を渇望する「共犯者」なのだという自覚。その観念が胸を貫いた瞬間、誓子の瞳から怯えの影が消え去り、かつて陸仁と距離を置き続けた完璧な女官としての、冷徹なまでに凛とした気高さが戻ってきた。
秋の冷気が廊下を吹き抜ける10月中旬の夕刻、陸仁が誓子の部屋を訪れた。
ドアが開かれ、陸仁が室内へと足を踏み入れる。
かつてなら、彼の気配を感じただけで誓子の肩は微かに震え、絶望に満ちた涙を浮かべるか、息を潜めて従順な笑みを見せていたはずだった。
しかし、そこにいた誓子は違っていた。
その瞳には、陸仁の手で打ち砕いたはずの「気高さ」が、より深く、鋭い光を宿して蘇っていた。
「……何だ、その目は」
自分を前にしても微動だにせず、ただ真っ直ぐに己の瞳を見返してくる誓子の態度に、わずかな困惑が混じる。
「……若宮様。御用の趣きは? 私に引導を渡しに来られたのですか」
誓子はゆっくりと立ち上がると、すっと背筋を伸ばし、かつて陸仁に見せていた「完璧な女官」の気高さと品格をその身に再び纏った。
(ほう。少しは変わったと見える。だが……)
陸仁は足を止め、氷のように冷ややかな、しかし底知れぬ熱を孕んだ瞳で彼女を見下ろす。試すような、あるいは最後の引き金を引くような鋭い視線。それに対し、誓子は一切の動揺を見せず、その視線を真っ正面から見つめ返した。
「……だとしたら何とする? 私にすがりつき、命乞いでもするか?」
陸仁の唇に酷薄な嘲笑が浮かぶ。
拒絶し、怯え、涙を浮かべる姿を期待するかのように。あるいは、宮邸から逃げ出すよう宣告するかのように。
だが、誓子は逃げなかった。
「いいえ。すがりも、命乞いもいたしません。若宮様のお好きな様になさってくださいませ。……ただし、私はどこへも参りません、若宮様」
陸仁の眉が微かに動く。
「……ほう。怯えぬのか、誓子」
「ええ。もう怯える理由はございません」
陸仁の低い問いかけに対し、誓子は静かに、しかし一音一音を噛み締めるように言葉を紡ぎ出した。
その瞳に宿っているのは冷淡な拒絶の光ではない。陸仁という男の深淵をすべて見通し、その暗闇ごと呑み込むことを決意した、揺るぎない「女」の眼差しであった。
陸仁に、誓子はまっすぐな視線で対峙する。かつて聡子が保とうとして打ち砕かれた「指導者の矜持」とは異なり、誓子のそれは自らの選択によって再構築された強靱な意志であった。
「私はどこへも参りません。たとえ若宮様が私を疎み、この宮邸から私を追い出そうとされようと、私は貴方の傍らを離れません」
誓子の口から出た静かな誓い。陸仁の眉が小さく跳ねる。
「……私の恐怖に耐えかねて、逃げ出すのではないのか。私に全てを暴かれ、玩具にされたというのに」
「いいえ。これは恐怖からではございません。……私自身が、若宮様から離れられぬと悟ったからにございます」
澄んだ声が密室に響き渡る。
誓子は自らの足で一歩、陸仁へと歩み寄った。怯えも躊躇もなく、彼の歪んだ執着と凶暴な全能感を正面から受け止めるように。
「若宮様に引き裂かれ、暴かれ、作り変えられ、私は若宮様のものとしてしか生きられぬ心と身体になりました。私を狂わせたのは若宮様ですが、その狂気の中で貴方を選ぶのは、他ならぬ私自身の意志にございます。貴方が私を暴き、その全てを欲されたように……私もまた、貴方というお方を、誰一人として触れられぬ深みに至るまで所有したい。……私をこのように歪ませたのは、他ならぬ若宮様、貴方にございます」
言葉の終わりとともに、誓子は自ら膝を折り、陸仁の前で美しく完璧な礼を取った。
それは、陸仁の支配を受け入れた屈服、或いは降伏するなどというものではなかった。自分を解体した男の罪も狂気も、そのすべてを自らの内に抱え込み、自らの意思で「陸仁の毒」を呑み、共に地獄へ落ちることを自ら選択したという自己決定の表明であった。
「私を破滅へと誘うというのであれば、どうぞどこまでも連れて行ってくださいませ。……ですが、私を単なる哀れな犠牲者として扱うことだけは、断じて許しませぬ」
伏せられた誓子の頭頂を見下ろしながら、陸仁は全身の血が激しく逆流するような強烈な衝撃に打たれていた。
(──聡子殿とは、違うか)
陸仁の脳裏を過ったのは、この部屋で、己の激しい猛りの前に屈服し、指導者としての矜持も妻としての尊厳もすべて叩き割られて涙に沈んだ聡子の姿だった。
だが、目の前の誓子は違っていた。
聡子の血を引き、同じ部屋でその肉体を暴かれ、完膚なきまでに壊されたはずの娘は、怯えと屈辱の果てに自らの足で立ち上がり、その気高き仮面を脱ぎ捨てるどころか、より一層研ぎ澄まされた美しさを纏って己を見つめ返している。
逃げるのではなく、屈服するのでもなく、陸仁という毒を自ら呑み干し、対等な闇として立ち塞がっているのだ。
かつて陸仁が暴き立てようとした、「女官」の仮面の下に隠されていた「女」としての誓子。
だが、その「女」は自らの「気高さ」を蘇らせ、自分の暴虐な所有欲を、その狂気を、完璧に理解した上で──逃げることも、哀願することもなく、陸仁という闇を、陸仁という男を自らの意志で選択した。
今、目の前に立つ誓子は、単なる被害者でも屈服した者でもない。陸仁の手で仮面を砕かれ、身体と精神を暴かれ続かれながらも、自発的に陸仁の手を取り、共に地獄へ落ちることを選択した「真の共犯者」へと変貌を遂げていた。
それは陸仁が渇望してやまなかったもの──気高さを保ったまま、自らの意思で自分を選択し、その暗い欲望のすべてを抱えて共に堕ちることを受け入れた、完成された誓子だった。
「……く、ふ……ハハッ」
陸仁の喉から、震えるような乾いた笑いが漏れた。
(ついに手に入れた! 自らの手で仮面を割られながらもなお気高さを失わずに私を見つめ返す誓子を! そして──諦めていた理想の女すら同時に手に入れられたとは!)
陸仁が真に渇望していたのは、玩具ではなかった。
自分に屈服して泣き叫ぶ女ではなく。
恐怖に屈して従属する惨めな存在でもなく。
自らの気高さと尊厳を保ったまま、自らの意思で陸仁という暗雲を選択し、共に果てることを受け入れる女──それこそが、陸仁が長年追い求め、飢え続けていた唯一無二の存在であった。
「……私の傍らは、光の当たる場所ではないぞ。永久に歪んだ闇の中に繋がれることになる」
誓子は一切の躊躇なく、言葉を続けた。
「承知しております。その闇こそが、私の辿り着いた場所でございます」
微笑みすら交えず、ただ揺るぎない覚悟を瞳に宿して言い切る誓子。
「……後悔することになるぞ、誓子。私を選んだことを、生涯な」
「後悔など、最初から捨てております……我が主」
「我が主」──そのかつての女官としての恭順の言葉に込められたのは、従属の服従ではなく、己の意思で狂気に加担するという冷徹なまでの誓いだった。
陸仁の背筋を、かつて感じたことのない戦慄が駆け抜ける。自らが暴き、解体したはずの女は、壊れるどころか、自らの狂気すら呑み込んで対等に並び立つ「怪物」へと昇華していたのだ。
陸仁の内に渦巻いていた暗い占有欲は、ここに至って完全な充足へと達した。
陸仁の唇に、これまでの酷薄な嘲笑とは異なる、真に満たされた静かな笑みが浮かびあがる。
陸仁はゆっくりと手を伸ばすと、誓子の気品に満ちた頬を、愛おしむように滑らかに撫で上げた。誓子もまた、その手に自らの頬をそっと寄せ、温もりを受け止める。
陸仁の手が誓子の髪に滑り込み、引き寄せるようにしてその唇を強く塞いだ。
それはかつてのような奪うだけの凌辱ではなく、互いの存在と狂気を呑み込み合う、凄絶な誓いの口づけであった。
支配する者と支配される者という関係は消滅した。そこに誕生したのは、互いの罪と執着を共有し、二度と引き返せぬ深淵へと互いを繋ぎ止め、互いの存在なしには生きられない、気高くも狂おしい「真の共犯者」たちであった。
同じ頃、宮邸の東翼にある執務室。
帰国を果たした家令・六条雅武は、部下から提出された無機質な記録──陸仁の北翼侵入日時と滞在時間を記した報告書を静かに閉じ、机の上に置いた。
その横に座る慶仁の瞳には、一切の動揺も、無駄な感傷も浮かんでいなかった。
「……誓子の様子はどうだ、雅武」
「恐ろしいほどに落ち着いております。かつての過呼吸やパニックは消え去り……まるで、己の中に何か重大な決意を秘めたかのように」
雅武の報告に、慶仁はゆっくりと頷いた。
大人たちは密室の中で行われた凄絶なやり取りや、二人が交わした「共犯の誓い」の具体的な言葉など知る由もない。しかし、陸仁が「誓子を完全に手中に収めた」と思い込み、その全能感の絶頂にいること、そして誓子が逃げることをやめ、陸仁の運命と不可逆につながったことだけは、その佇まいから正確に察知していた。
「陸仁は、己がすべてを支配し、勝利したと高をくくっているのだろうな」
「はい。……我が網の目の中にいることすら気づかぬまま」
大人たちが冷徹な観察の目を向けていることなど、密室の二人はまだ知る由もなかった。