※この作品はR-18です。

陸仁王物語―異伝―   作:fire-cat

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第17話

 とある秋の昼下がり。

 雅忠は寛代子の呼び出しを受け、その私室に向かって足早に歩を進めていた。

 

 来たる宮中行事に備え、宮家に伝わる古文書や儀礼図録の検分・選別を行う──それが、雅忠が寛代子に呼び出された理由だった。

 

「──失礼いたします」

 

 内舎人の制服を乱れなく着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばしたその佇まいには、幼少より寛代子に仕え、宮中でも「碧血丹心」と称えられる生真面目さと誠実さが溢れていた。

 

「よく来てくれました、雅忠。保管庫からの資料の運び出しをして欲しいの。なにぶん古い絵巻や重い桐箱が多くて、女手だけでは持て余していたのです」

 

 差し込む秋の昼下がりの陽光が、重厚な木パネルの壁面とドレープカーテンの隙間から滑り込み、寛代子の私室に柔らかな光と影のコントラストを描き出していた。

 寛代子が優雅な笑みを湛えて言葉をかけると、雅忠は深く頭を垂れた。

 

「滅相もないことでございます。殿下のお役に立てますれば、内舎人としてこれに勝る光栄はございません」

 

 最初は付き添いの女官たちの手を借り、比較的軽い小箱や巻物から私室の卓上へと運び入れられていく。整然と作業が進む中、ある程度の資料が室内に運び込まれたところで、寛代子は手元を止め、側に控えていたお付きの女官たちへ向けて静かに声をかけた。

 

「ご苦労様でした。この後の重い桐箱の運搬と整理は、すべて雅忠に任せます。あなたたちは今のうちに、西翼の衣裳部屋にある、公式行事で私が着用する衣装の点検を済ませてください。あなた方が着用する衣装の点検も忘れてはなりませんよ」

「かしこまりました。では私どもは別棟にて衣装の確認と調整を済ませてまいります。六条様、殿下を宜しくお願い致します」

「……六条様が側に控えられているのでしたら私どもも安心して席を外せます。六条様、殿下が何か無体なことを仰りましたら、その時は遠慮なくお叱り下さいますようお願いいたします」

「ちょっと! ……雅忠に余計なことを言わないでくださらないかしら?」

「大変失礼いたしました。それでは私たちは失礼いたします」

 

 幼少期から姫宮に寄り添い、その忠誠心に一片の疑いもない雅忠が部屋にいるのであれば不都合など何一つない──そう判断した女官たちは、深々と恭礼を捧げると、静かに部屋を辞していった。

 重々しい二重の木扉が静かに閉まり、カチリとラッチの落ちる硬質な音が室内に響く。

 回廊を遠ざかっていく女官たちの規則正しい足音が完全に途絶え、完全な静寂が訪れると、室内に漂っていた緊張の気配が緩やかに溶け出していった。

 完璧な「京極宮の姫宮」として凛と張られていた寛代子の背筋から、すっと力が抜ける。彼女は小さく息を吐き出し、腰を降ろした。

 一方の雅忠は、女官たちが去った後も臣下としての矜持を崩さず、目線を低く保ったまま一礼した。

 

「……では殿下、残りの資料の整理と運搬を進めさせていただきます」

 

 生真面目に作業へ移ろうとする雅忠に対し、寛代子は微かに目を細めると、短く溜息をついた。

 

「いいのよ、雅忠。そんな堅苦しいお仕着せの態度は、もうやめなさい」

 

 寛代子は、紅茶を注ぐと、ソファーの座面を優雅な手つきで軽く叩き、静かに命じた。

 

「こちらへ来なさい。少し……私の話し相手になりなさいな」

「しかし……」

「いいから来なさい。これは命令です」

 

 強い口調の寛代子だったが、雅忠が無言でいるとたちまち不安げな表情を浮かべた。

 

「……これしきの事で叱るなどとは言わないわよね」

 

 不安げに上目遣いで自分を見上げる寛代子に対し、溜息を一つつくと、雅忠は寛代子の隣に静かに腰を下ろした。

 

「これでよろしいでしょうか、殿下」

「ん。いいわ」

 

 窓から差し込む昼の光を見つめながら、寛代子はポツリポツリと溢し始める。

 

「……父上や母上がお戻りになって、宮邸の空気は元通りになったはずなのに……なぜかしらね、雅忠。私、この邸にいると時々息が詰まりそうになるの。誰もが『京極宮の姫』としてしか私を見ない。周囲の重苦しい空気も、お兄様の影で美しく飾られた人形のように生きるのも……全部、私の逃れられない定めなのかしらね」

 

 普段は気高く振る舞う寛代子が、雅忠の胸にそっと額を押し当てながら、ぽつりと漏らす弱音。

 宮家の中での孤立感と不安、そして不穏な空気への愚痴。寛代子がそんな素の自分を見せられるのは、この世界でただひとり、雅忠の前だけであった。

 

「寛代子様……」

 

 雅忠は切なさに胸を締め付けられながら、寛代子の華奢な身体をそっと腕の中に抱き寄せた。

 雅忠の手が寛代子の背を優しく撫で、そのまま二人は吸い寄せられるように唇を重ねた。しっとりと濡れた吐息が混ざり合い、互いの衣服に手が伸び乱しはじめる。

 

「ここでは駄目よね。……雅忠、あそこまで運んでください」

 

 そう言う視線の先には、寛代子の寝台がおかれていた。

 

「寛代子様……かしこまりました」

 

 雅忠は静かに頷くと、彼女の膝裏と背中に腕を回し、羽毛のように軽いその体をそっと抱き上げた。寛代子は素直に雅忠の首へ腕を回し、胸元に顔をうずめる。一歩一歩、確実な足取りで寝台へと歩みを進める雅忠の胸の鼓動が寛代子へと伝わっていた。

 

 雅忠は抱き上げた寛代子の体を、シーツの上へと静かに横たえた。そのまま身をかがめると、二人は吸い寄せられるように深く唇を重ねながら、静かに寝台へと横たわっていく。

 重なり合う体温と荒い吐息が交差する中、二人は衣服の乱れた隙間からそっと手を滑り込ませた。届く範囲で直接肌に触れ、指先で優しく愛撫を交わし合うと、しっとりとした熱気が衣類の中に広がっていく。

 熱い欲望に衝き動かされるまま、二人は互いの服のボタンへと手を伸ばした。寛代子は震える指先で雅忠の制服のボタンを外し、雅忠もまた慎重かつ手早く寛代子のブラウスのボタンを解いていき、互いの上着を肩から滑り落とさせて脱がしていった。

 雅忠は手探りで寛代子のレースのキャミソールとブラジャーをそっと外し、露わになった白皙の肌を優しく撫でた。続けてスラックスのファスナーを静かに引き下げ、ショーツとともに細い脚先から丁寧に脱がし去っていく。寛代子もまた、残された雅忠のシャツを脱がせ、彼の逞しい胸元や肩から衣類を押し開いていった。互いを遮る布地が完全に払われ、二人の素肌が露わになる。

 直接触れ合う肌と肌から密かな熱を分け合うように、二人は深く身体を重ね合わせた。熱い体温を優しく擦り合わせながら、指先や掌で互いの体を包み込むように撫で上げ、愛撫を深めていく。

 そうして肌を重ねて愛撫を交わし、密着したまま寛代子の体をしっかりと腕の中に抱き留めながら、彼女がぽつりぽつりと吐露する愚痴や不安の言葉を、雅忠はひとつひとつ噛み締めるように深く受け止めていった。

 

「……みんな、私に何ひとつ本当のことを教えてくれないの。お兄様は笑っているけれど、その瞳の奥はまるで凍りついているみたいで……。誓子も……表面上はあんなに落ち着いているのに、どこか遠くへ行ってしまったみたい。私、何が起きているのか怖くてたまらないのよ、雅忠……」

 

 寛代子は雅忠の胸元に顔を埋め、幼子のようにつぶやいた。

 

「私はただの飾り物……。お兄様の引き引き立て役として美しく微笑んでいればそれで良いと思われているのね。けれど、この美しい牢獄の中で、私だけが何も知らされずに置いていかれる……。気が付いた時には、雅忠、貴方まで私の前から消えてしまっているのではないかと……それが何より恐ろしいの」

 

 内に溜め込んでいた恐れや虚無感を一気に吐き出し、乱れた息を整えようと肩を震わせる寛代子。雅忠から伝わる脈打つ鼓動と確かな体温だけが、冷え切った彼女の心を繋ぎとめる唯一の救いだった。縋りつく指先にぐっと力を込め、震える唇を雅忠の胸元に押し当てる。

 

「雅忠、貴方はどこにも行かないわよね? 私の前から消えてしまわないわよね。……居なくなっては嫌よ、雅忠」

 

 寛代子は雅忠の胸にしがみつき、彼の体温にすべてを委ねるように身を寄せてくる。雅忠の内に宿る男としての情動が跳ね上がり、彼女をこのまま完全に己のものとして奪い去りたいという熾烈な欲望が灼けつくように脳裏を支配しかけた。

 過去の密接な関係や過激な触れ合いの記憶が互いの脳裏をよぎる。

 寛代子は心のどこかで「このままあの夜のように私を奪ってほしい」と願っていた。

 

 ──だが、雅忠はそこで踏みとどまった。

 

 荒い息を吐きながら、寛代子の肩を抱く手に力を込め、雅忠は自らの内から湧き上がる激しい衝動を寸前で押し留めた。

 

「……雅忠……?」

 

 熱を帯びた瞳で自分を見上げてくる寛代子に対し、雅忠は苦しげに目を開き、愛おしさと切なさに満ちた声で囁いた。

 

「……これ以上は、叶いません」

「……なぜ? あの夜の私との事を、なかったことにしたいの?」

 

 潤んだ瞳で問い詰める寛代子に対し、雅忠は絞り出すような声で応える。

 

「滅相もない……。今でも、私は貴女様を狂おしいほどお慕いしております。……ですが、これ以上の一線を越えれば、貴女様の未来とご尊厳を完全に打ち砕いてしまう。……私の一身はどうなろうと構いませんが、殿下、貴女を傷つけることだけは……どうしても出来ぬのです」

 

 臣下としての境界線。そして何より、これ以上彼女の肉体を奪うことで、自分たちの関係を泥沼の罪へと突き落とし、寛代子を傷つけたくないという雅忠の強い意志と誠実さ。己を苛む罪悪感と戦いながら、雅忠は固く唇を噛み締め、最後の一線を自ら拒んだのだった。

 完璧な臣下としての自制心と、どこまでも自分を大切に思ってくれる雅忠の誠実な苦悩。自分を心から慈しみ、守ろうとする雅忠のどこまでも真面目で切ない眼差しに、寛代子は微かな呆れと、それを遥かに上回る愛おしさが混ざり合った深い溜息を吐いた。

 

「……本当に、貴方はずるいわ、雅忠。そんな風に優しく拒まれたら、私……余計に貴方から離れられなくなってしまうじゃない」

 

 寛代子はクスリと小さく微笑むと、それ以上をねだるのをやめ、ただ雅忠の胸元に心地よさそうに顔を埋めた。

 雅忠の誠実な理性に守られているという安らぎを感じながら、寛代子は静かに彼に身を預け、雅忠もまた、彼女の温もりにすがりつくようにして、静寂を分け合った。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 やがて女官たちが戻る刻限が近づく。

 

「そろそろ女官たちが戻ってくるわね。幸い今日は湯浴みをする必要はないわ」

「左様にございますね、殿下」

「その殿下という言葉、嫌です。昔の様に寛代子と呼びなさい」

「滅相もない、殿下。お名前を呼び捨てるなど致しかねます」

「……」

 

 頬を膨らませ、あらぬ方を向く寛代子に、ため息をつく雅忠。

 

「お許しください、殿下」

 

 そう言うと額に口づけを落とし、髪をかき分け、寛代子の耳に囁く。

 

「寛代子様」

「きゃっ」

 

 驚く寛代子の唇を塞ぐ雅忠。軽く胸をたたく寛代子の腕を握り、唇を離した雅忠が寛代子を見つめる。

 

「殿下。これ以上雅忠を困らせてくださいますな」

 

 顔を赤らめ頷く寛代子。

 

 寝台の端から静かに脚を下ろした雅忠は、シーツの乱れに背を向けたまま、手早く自らの制服のボタンを留め直していった。胸元までしっかりと襟を合わせ、シワを完璧に伸ばしていく。手慣れた仕草ではあったが、先ほどまで彼女の肌に触れていた指先には、まだ微かな緊張が残っていた。

 

「寛代子様、失礼いたします」

 

 雅忠は背を向けたまま、床の上に散らばっていた寛代子の衣服や髪飾りを手際よく拾い上げ、彼女の手元へとそっと差し出した。寛代子は小さく息をつき、雅忠の背中に視線を注ぎながら、しなやかな身ごなしで衣類を身につけていく。

 留め具を止める金属の微かな音と、衣類の擦れ合う音が静かな室内に響く。寛代子は鏡の前に立つと、指先で後毛を払って髪の乱れを整え、紅を付け直して完璧な「姫宮」の仮面を被り直した。

 

「……雅忠。もう振り返ってもよろしくてよ」

 

 そう言われて雅忠が振り返った時には、寝台の上にはもう乱れた影もなく、その傍らに凛とした佇まいの寛代子が立っていた。雅忠もまた、一点の隙もない内舎人としての顔に戻り、深々と頭を垂れる。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「殿下。この資料はどう致しましょう」

「それはこちらに並べてください。年中行事絵巻の御斎会はどこに置きましたか」

「……探します」

 

 女官たちが戻ったころには、再び完璧な「姫宮」と「内舎人」の仮面を被り直し資料の整理を行っている二人の姿があった。

 

(あら……これは。お茶を楽しんだだけですか……。殿下もお可哀想に)

(艶めいたものは何も無かった様ですね。流石は六条様)

(殿下のお部屋に六条様をお招きして、私達が部屋を空けても、このご様子なら問題は無さそうですね)

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「それではこれにて失礼いたします」

 

 雅忠が部屋を辞すると女官の一人が、飲み干されていたカップを見遣り寛代子に楽しげな声をかけた。

 

「寛代子様。御顔の色が変わられましたね。……御心の澱をしっかりと吐き出されたようで」

「……不敬にしますよ。余計なことは言わない様に」

 

 赤くなる頬を隠すようにそっぽを向く寛代子の背中を、女官はどこか温かい眼差しで見つめていた。

 完璧な姫宮としての重圧と、宮邸を覆う不穏な空気。そのすべてから解放され、ほんのひとときでも素の自分に戻れる時間が、今の寛代子にとってどれほど救いになっているか──古くから仕える女官には、言わずとも伝わっていた。

 廊下に響く雅忠の規則正しい足音は、すでに遠ざかり、静寂の中に消えていた。

 胸元に残る彼の温もりと、額に残る微かな口づけの感覚を愛おしむように指先で触れながら、寛代子は静かに紅茶のカップを傾ける。

 最後の一線は越えずとも、あの嵐の夜より深く、確かに結ばれた絆。

 仮面を被り直した二人の胸中には、二人だけの密かな熱と誠実な誓いが、静かに、そして揺るぎなく灯り続けていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 10月下旬。

 宮邸に穏やかな日常が戻りつつあった頃、陸仁が慶仁の書斎を訪れていた。

 

「父上。六条の家についてでございます。雅武は今回の海外公務でも父上を陰から支え、治安の途絶えた現地で見事な働きを見せました。長年にわたる宮家への忠誠も疑うべくもありません」

 

 陸仁は静かで澱みのない、理知的な声を書斎に響かせた。

 

「これほどの功績がありながら、なぜ未だ男爵のままなのですか? 宗秩寮へ陞爵を願い出るべきではありませんか」

 

 慶仁は書類から目を離し、静かに陸仁を見やった。

 

「其方は知らぬのか。二十年前にも私が六条家の陞爵を申し出ようとしたのだ」

「……では、なぜ止められたのです」

「雅武自身が反対してな。其方から説明してやってくれ」

 

 慶仁に促され、側で控えていた雅武が静かに頭を下げた。

 

「若宮様。本家の兄は子爵でございます。長幼の序を鑑みれば、弟である私が兄と並ぶわけには参りませぬ」

「しかし、宮中序列においては宮家令たる其方が上にあるではないか」

「だからこそでございます。私の序列は京極宮家令という重責によるもの。爵位において兄の下にあるからこそ、本家との波風も立たずに済んでおります」

「父上、二十年前とは状況が異なります」

 

 陸仁は一切の動揺を見せず、言葉を重ねた。

 

「いまや雅武の功績は本家をも助けております。本家も宗秩寮も異論は挟みますまい」

 

(──誓子を手に入れる際、実家が男爵のままでは手間がかかる。子爵ならばやりようは幾らでもある……)

 

 陸仁の内面に何某かの、おそらく誓子に関するであろう計算が渦巻いている事を察しながらも、慶仁は顎に手を当て、深く頷いて見せた。

 

(──将来的に誓子を迎え入れるのに公爵家ないし侯爵家の養女とするにしても、実家の六条家が子爵家となっていれば不都合はあるまい。陸仁自らその退路を断ち、条件を整えに来たか)

 

「其方の言も一理あるか。……雅武、其方の本家の意向を確かめてみよ」

「……畏まりました」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 陸仁の申し出を受け、六条本家へ、雅武の昇爵について意向を確認する使者が立てられた。

 

「京極宮家からの使者とは何事かございましたか」

 

 使者を出迎える本家一同に慶仁の書状を渡す使者。

 当主が書状を押し戴き、中身を確認する。

 

「何と雅武の陞爵の話とは!」

「寛子様亡きあとも殿下を支え続けて来た叔父上の功が、やっと認められたのですね……」

「遅きに失した感もありますが」

 

 雅武の懸念に反し本家の反応は拍子抜けするほどに好意的なものであった。

 本家の親族たちは、長年宮家に尽くしてきた雅武の功績が正当に評価されることを諸手を挙げて歓迎した。

 集まった親族らが口々に喜びを語る中、宮家からの使者が「本家の爵位を越える可能性もあるが、反対はないか」と問うと、一同は即座に首を振った。

 

「当然賛成である。雅武が陞爵によって本家の爵位を越えようとも、一切の異論はない。あやつの功績は我ら本家の誇りでもあるのだから」

「叔父上の子息、我らの従兄弟殿も確と後を継がれる働きを示しておいでのようです。我等も異論はありませぬ」

 

 本家側の快諾を得て、六条雅武の陞爵手続は極めて円滑に動き始めた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 一方、華族社会や宮中官僚たちの間でも、この突然の昇爵劇は大きな波紋を呼んでいた。

 

「京極宮家の宮家令、ようやく陞爵らしいぞ」

「やっとか。そもそも京極宮家の宮家令たる者が、今まで男爵であったこと自体が誤りだったのだ」

「本来の功績で言えば二十年前、遅くとも十年前には子爵になっていなければおかしかった。それを宮内省の事なかれ主義者どもが叙勲だけで誤魔化し続けおって」

「これで令夫人の生家である中院伯爵家も、ようやく溜飲を下げよう」

「宮内省の怠慢もようやく解消されたか。これで後に閊えていた家の陞爵もはかどるな。あれだけの功を上げながら陞爵が無いのであれば、他家はあれ以上の功を上げねばならなかったからな」

「叙勲もそうだ。あれだけの功を上げながらあの勲章ではな」

「まったくだ」

 

 そうした妥当な評価が聞こえる一方で、一部の事情通たちの間では別の「裏の意図」が囁かれていた。

 

「……しかし、なぜこのタイミングで急に決まったのだ?」

「詫びだろう。昨年の純潔事件のな」

「……ああ、あの件か。それにしては遅すぎはしないか? もしあの件の罪滅ぼしだというのなら、単なる子爵への陞爵程度で済むはずがなかろう」

「いや、子爵への昇爵だけと聞いているぞ」

「馬鹿な! 奴ら、京極宮家の宮家令という重責を馬鹿にしているのか? それとも殿下の乳兄弟である六条殿を愚弄しているのか? あのように令嬢を辱めておきながら」

「落ち着け。我らがとやかく言うことではない。表沙汰にはできぬ以上、いずれ裏で相応の埋め合わせがあるはずだ」

「なら良いがな。もはやありきたりな、子爵家次代当主の婚姻の斡旋程度では、六条殿も中院家も納得すまい」

「それは無かろう。あの一件、表沙汰にはなっておらぬが、穏健的な宮内官僚たちが非常に気にしているらしいからな」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 とある日の夜。

 京極宮邸の奥の執務室に、慶仁、澄子、そして雅武の三人だけが顔を揃えていた。

 

「陸仁は自ら動いてくれたな」

 

 慶仁は冷ややかな笑みを浮かべた。

 

「皆が六条家の陞爵を当然の帰結として受け止めている。これで下地は整った」

「ええ。陸仁が自分から言い出したことですもの」

 

 澄子もまた、静かな声で言葉を継ぐ。

 

「身分違いの女を弄ぶつもりだったのでしょうけれど……六条家が子爵家となれば、公爵家あるいは侯爵家の養女として誓子を立てるにあたって何の不足もなくなります。陸仁には、自らが掘った穴へ入ってもらいましょう」

 

 雅武は深く一礼した。

 

「すべては殿下と妃殿下のお心しだいにございます」

 

 陸仁に自らの仕出かした罪の決定的な「責任」を取らせる。そのため、誓子を公爵家あるいは侯爵家の養女とした上で、しかるべき身分を整え、正式に陸仁の妃として娶らせる──。

 

 一見すれば陸仁の望み通り誓子をその手の中に与えるかのような処遇。しかしそれは、陸仁という狂気に対し、生涯決して逃れることのできない身分と責任という「正妻の枷」を永遠に嵌め込むことを意味していた。

 

 





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